ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

幻の梨「稲城」を買う小規模な冒険

大阪の実家を出てから梨をほとんど食べなくなってしまった。高校生のころまでは、わたしは自分のことを梨大好きマンだと思っていたのだが、ふりかえってみると、皮を剥かれて八等分されて楊枝が添えられた梨が秋の始まりとともに食後に自動的に出てくるのが好きなのであって、単に王様のように振る舞いたかったというだけではないか。自分の稼いだお金で梨を買い、皮を剥いて八等分して楊枝を添えてまで梨が食べたいとは思わず、ごく稀に人から梨をもらったときだけ皮をピーラーで剥いてそのままかじりついて、梨もいいよねと思うのは、「梨大好き」とはいえないので、上京して早々に梨大好きマンの看板を下ろしたのだった。

 

そのままわたしは数年に1回、人に与えられた梨のみで暮らし続けるのかと思っていたのだが、先日よみうりランドの近くに梨の園―「梨園」と書くと別の意味になるかもと思ってこう書くのだが、むしろ別の意味の方が後なのだから、別の意味の方が遠慮して「梨の園」というべきではないのかと思わなくもないが―があって、ひっそりと生育している梨を見て、食べたいという気持ちが芽生えてきた。

 

しかし「稲城 梨 販売」で検索してみると、予約販売のページにたどりつき、今年は6月の異常な高温により梨の生育がよくないので予約を締め切らせていただきますという記述があって自分の認識の甘さを思い知った。そして、「稲城」という品種の梨があることも知った。わたしの認識では、二十世紀などのブランドを栽培していると思っていたが、稲城では梨を300年前から栽培していたらしく、当然ながら品種改良が重ねられて、稲城ならではの味がするに違いない。市場には出回らず、「幻の梨」と呼ばれているらしい。どの程度の幻なのは不明だが、「幻の手羽先」を食べたとき、幻と言いたくなる気持ちはわかると思ったので、わたしの幻の感度は非常に鋭敏であり、幻の梨もぜひ食べてみたい。食べたくなる情報と容易に食べられないという情報を同時に得て引き裂かれてしまったのだった。

 

当初は、散歩がてらにふと梨販売所を見かけて、もう秋だねぇ、いくつか買っていくかなと思って買うようなイメージだったが、少なくとも、家を出るときに「今日は梨を買うのです」という決意をもっていなければ梨にありつけないと悟って、作戦実行の日を9月3日(土)と定めた。「稲城」が売られるタイミングは9月上旬までなのでギリギリである。


事前に地図で稲城近辺を「梨 販売所」で調べてみたのだが、営業時間が不明瞭だったり、店先の写真でシャッターが下ろされていたりしてよくわからなかった。


ほかにインターネットで見つけた情報を総合すると

 

・車で買いに来る人が多い
・午前中に売り切れることが多い
・大きな通り沿いの店→奥まったところの店の順に売り切れる

 

で、具体的にどのお店で売られているのかなどの詳細は行ってみないとわからないと思って、ひとまず稲城駅に向かった。

 

稲城駅を降りたのは13時すぎ。午前中に行ければよかったのだが、詰め物が取れて歯医者に行ったらついでに歯石を取りましょうと言われて取ってもらっていたらいい時間になってしまった。

いつもの稲城駅の風景で、梨シーズンならではの看板や幟などはない。この風景から梨が結びつかない。なお、後述する稲城長沼駅はなかなかの梨感である。

 

駅を降りてから東に進んだところが最も販売所が多いようだったが、行ってみて成果が得られなかった場合、住宅街しかなく、そのまま虚しく来た道を戻るほかない。販売所がありそうで、かつ、梨が買えなかった場合も楽しい散歩をしたことになりそうな、稲城長沼駅~多摩川まで歩いて、そのルート上の梨販売所で買うというのがバランスがよいと思ったのだった。

 

稲城駅を出て稲城長沼駅方面に少し歩くと、稲城商店街にさしかかる。

風でよく見えなかったりぐるぐる巻きになっていたりもするが、梨のキャラクターと「ペアリーロード」とあるので、梨販売所が並んでいるはず……と思ったのだが、見当たらないし、そもそも商店も少なめである。

 

不安になっていると明治・大正・昭和の忠魂碑が並ぶ公園があった。

公園といっても忠魂碑で面積を使いきっている。

 

稲城長沼駅にかなり近づいたところで梨の園を発見。

順調に生育しているようだが、販売所は閉まっていて、川村あや先生の連絡所を兼ねている風味だった。
梨販売所と政治家の連絡所の関係について、わたしはよく把握していないのだが、以前、多摩ニュータウン通り沿いにあった梨販売所が、いつの間にか政治家の事務所に変わっていた。廃業した梨の販売所は政治家の事務所として利用されがちだと思っていたのだが、廃業していなくても、梨のシーズン以外に使い道がないので政治家の連絡所として使われているという仮説が生まれた。


そして稲城長沼駅が見えてきた。ここまで収穫ゼロである。

駅のデザインは梨と関係あるような、ないようなデザインである。砂漠の中でこの駅が見えたら「梨……」と思うかもしれない。

 

そして有名なスコープドッグ。

わたしの中で『装甲騎兵ボトムズ』と『太陽の牙 ダグラム』の記憶が混じりあっていて、「地味だけど面白いロボットアニメ」という印象である。

 

そしてガンダムとザクもいる。

 

しかし、今回はなんといっても梨のキャラクターに注目してしまう。

小学生のころ、大興奮してガンダムを見ていたときに、いきなり梨のキャラクターが登場したら激怒したと思うのだが、今となっては「えーい、もっと梨を映せ!」と思う。
稲城長沼駅を降りるとこの人化した梨が迎えてくれるのだが、稲城駅ではここまで手厚くはしてくれなかった。

 

そして、稲城市観光協会が運営している「いなぎ発信基地 ペアテラス」で、梨を扱っているといういいニュースと、今日はもう買えないという悪いニュースを同時に得、またしても引き裂かれた。

 

この町では消防団のシャッターまで梨だというのに、わたしは梨を手にしていない。

それはともかく、火を消してくれそうなキャラクターなのは素晴らしいよね……。

 

今日はもう買えないかも……でもまあ多摩川でも見たら気分がスッキリするだろうと思って多摩川方面に向かったのだが、ものの数分もしないうちに、梨の販売所を発見した。まだ売っている風味だったので3個入りのをお願いしたら600円だった。1個600円ではなくて3個で600円……なぜかと尋ねると、ちょっと小さいからということだった。主観的にはじゅうぶんな大きさだった。

 

少なくともこれで手ぶらで帰ることはなくなったが、せっかく多摩川の近くまで来たので、多摩川を見ながら梨を食べたい……と思って歩いていたら、梨販売所が次々と姿を表した。

ここは無人販売をしているようだが、すでになし……絵が可愛い。

 

ここも丁重に梨がなしであることをお知らせ。

 

やはりこういうところから取水しているのかしら。東京じゃないみたいでいいね……。

 

「いちょう並木通り」なる、大きめの通りに出たらさらに状況は好転した。意味ありげに路上駐車されているところがある。もしかして……と思ったら、まだ売っていた。いちばん高いと思われる3個で1500円のパックが残り3つで、迷わず購入。

慌てて店に入って買ったので、店を出てから写真を撮ったのだが、押ナントカ園……読めない。Golgle Map上では「押園」と書いてあって、読めない字は飛ばすのがいちばんよね……と思ったが、ラベルを見たら「ヤマキ園」とあった。つまり「押ナントカ園」は「押ヤマキ園」だったのだが、今度は「押」がわからず、検索してみたら「矢ヤマキ園」も出てきて、謎が解けた気がした。「押ヤマキ園」は、「稲城市押立のヤマキ園」で、「矢ヤマキ園」は、「稲城市矢野口のヤマキ園」で、ヤマキ園同士で区別をつけているのだろう。そして、どちらも発音上では「ヤマキエン」であり、つまりこの文脈において「押」「矢」は、knifeやknightやknitやknockにおける「k」と同じ、サイレントなのかもしれないしそうでもないのかもしれない。

 

お店の名前に拘泥してしまったが、梨の旅は、多摩川沿いのどこかで座って多摩川を見ながら梨をいただくだけば終わりである。

合計梨6個をリュックに詰めて多摩川沿いに来てみたのだが、ただ草がぼうぼうに生えているだけで、川を見ながら食べている感じにはなりそうもなかった。

多摩川の向こうに変電所が見えた。nuclearは全然関係ないはずなのにすごいnuclear感……。

 

シーズンオフにつき閉鎖中のプールの前のベンチに座ることにした。とくに風景がよいというわけではない。

 

こちらが本日の収穫。

薄い本などだと「本日の収穫」と言いやすいが、作物だと、言葉本来の意味の「収穫」がちらついて、「収穫したわけではなくて単に買っただけだろうが……」ともう一人の自分が言ってくる。

最初に買った3個600円(左)は、お店の人の言うほど小さくはなかった。ひとまずこちらを食べてみようと思って、ベンチでいただいたが、甘くてジューシーだった。手がベトベトになるのは想定していたが、ズボンも濡れた。梨の中心に迫るにつれて甘くなくなってきたのだが、3個600円という価格を考えれば破格の味である。来年も普段遣いの梨として入手しておきたいと思う。

 

帰宅して、急いで冷やして、3個1500円のオフィシャル感のある方もいただいたのだが、これは徹頭徹尾甘くてジューシーで、価格の差について理解した。


「稲城 梨 特徴」で検索してもジューシーである旨の記述くらいしかないが、誰もが先日凶弾に倒れた元総理大臣と同じ感想を抱くということであり、わたしもそうだった。ほかの梨で感じられるささやかな酸味も皆無で、ただひたすらにジューシーなのである。


わたしは彼がこの世を去ったあと、彼のジューシー発言集を見ながら、殺めることなんてなかったけれども、それはそれとしてジューシー以外に言い方はあるんじゃないのと思っていたのだが、ジューシーな果物を口にしたら、人は「ジューシー」としか言えないのだ。彼に供された果物は常に一級のものばかりだから「ジューシー」としか言えないようなものばかりに違いなく、少なくとも彼のジューシー発言に限っては正当なものであったと実感したのだった。これからもジューシーなフルーツに出会っていきたいし、来年は少なくとも2回は「稲城」を味わいたい。

 

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性格が暗いので咲き終わったひまわりを鑑賞した

日に日に秋の気配が濃くなりつつあるというのに今さらひまわりの話なんて意味あるのと思われた方もいらっしゃるかもしれないが、少なくともスーパーの肉についているパセリの写真のフィルム程度の意味は有していると確信している。ひまわりは咲き終わってからがいいという話。

 

「ひまわりガーデン武蔵村山」が今年の8月14日をもって閉園になるとわたしが知ったのは、8月10日の夜のことである。あわてて確認してみると、開園したのは7月の最後の週。以前、同じ場所で春に開催されていた菜の花ガーデンに行ったことがあり、夏になったら行くぞと思ったまま存在を忘れていて、7月は町田市・小山田の蓮に夢中だった。

蓮は個体によって咲くタイミングにばらつきがあるがゆえに、咲いた花の影で出番を待つ蕾などが鑑賞できて非常によい。たしかに陰気なオッサンからしてみたら蓮>>>ひまわりなのだから仕方ない。蓮のことは漢字で書くが、ひまわりのことを「向日葵」と書くことには強い抵抗がある。当て字は好きではないし、当ててある字もキラキラしていて見るだけで胃がもたれる。しかし、ひまわりガーデン武蔵村山が今年で最後なら絶対行かないと絶対後悔するだろうと思ったので、仕事を終えて寝て起きて11日の朝に行ってきたのだった。

 

ひまわりガーデン武蔵村山は、多摩モノレールの上北台駅から徒歩15分程度のところにある。この場所はもともとは団地を取り壊したあとの空き地で、空き地を空き地のままにしておくと不法投棄があったりしてよろしくないという理由で、ひまわりや菜の花を植えはじめたのだった。

病弱な子のために土地を持っていた親が元気になるよう願いを込めてひまわりの種を植え……などという感動的なお話ではないが、よく考えてみたらこれを書いている時点ですでにない施設なので、ひまわりの話に集中したい。

 

以前、ひまわり園のようなものを見たのは、立川の昭和記念公園で、咲き誇るひまわりの姿に圧倒され、ひまわり園はnot for meかもしれないと思っていたのだが、この日見たひまわりはあのときと違った。端的に言って、わたしが情報をキャッチするのが遅かったため、多くのひまわりが咲き終わっていたのだった。

昭和記念公園のひまわり園の10倍の規模のひまわりのほとんどが頭を垂れている。期待していたものとはまったく違ったのだが、むしろこの風景の方が好ましいと思ったし、うなだれがちなわたしは共感してしまう。花ひとつが人ひとりだとしたらこんなに多くの援軍が……と思った。何の軍か知らんけど。


そして、まだ咲いている花たちも、頭が下がっているので覗きこむようにして見ることになる。

無数のひまわりを覗きこんでいるうちに過去の記憶が脳裏をよぎった。難しい感じの人と難しい関係になると、往来に人目もはばからず立ちつくす難しい人を覗きこんで宥めたりすることになるが、まさに同じ動作であって、咲き終わったひまわりを鑑賞するとき、一般的な花を鑑賞しているときの気持ちとまったく異なるところにあると感じた。

 

まだ咲き誇っているひまわりも2割ほどあった。



1.5~2メートルのところに人間の頭くらいの大きさの花をつけるので、人間に見立てずにはいられない。

「ひまわりのような人」というと、アグネス・ラム先生を想起してしまう。おそらく平成生まれにとっても同じような「ひまわりのような人」がいるはずだが、それは誰だろう……綾瀬はるか先生だろうか?そうでもないのだろうか?綾瀬はるか先生もああ見えて、ひとり旅に出て、東尋坊の電話ボックスに入って張り紙やビラを見るなどしているのだろうか。

 

風にそよぐ花びらは髪のように見え、風吹ジュン先生を想起する。

 

突然変異的に2.5メートルくらいの高さに育っているものもいる。背は高いのにつけている花は小さい。はじめて大谷翔平先生を見たときの感動を思い出した。

 

そして、筒状花が思わせぶりに失われている個体もあり、ここまでくると人との相違点を挙げることが難しい。

 

会場内には幸せいっぱいのファミリーがいて、さらに咲いているひまわりがセレブリティに見えてしまって気持ちに余裕がなくなってきたので、咲き終わったひまわりたちのコーナーに逃避しよう。

 

咲き終わったひまわりのコーナーを歩いていると、「もう終わってるね、もっと早くくればよかったね」という声が聞こえてきた。たしかに平均的な感受性の持ち主からすると、ひまわりの本質は花にあり、その花びらが枯れて花が垂れていると「終わっている」のかもしれないが、ひまわりの立場からすると、首尾よく受粉を終えて、種が順調に育っているから花が垂れているのである。もしこれが人間ならどうだろう。この状態にある人間に対して「もう終わってるね」などと表現するものがいたら、1万RTされて、その1万RTのうちの8割超がコメントつきのRTになるに違いない。花が咲き終わっていることが植物そのものの終わりと考えるのは一面的なものの見方なのかもしれない。

 

……などと思考を巡らせながら写真を撮っていると、いつのまにか10時になっていた。10時とは、村山ホープ軒の開店時間である。

10時10分に行ったらすでに満席で少し並んだのだが、開店前から並ぶ猛者たちは食べるスピードも素晴らしいので、5分も並ばずにニンニクチャーシュー麺にありつけた。

豚骨の強烈なスープにもちもちした麺……無数のラーメン屋がひしめきあう現代にあっても印象深いラーメンだが、1975年の創業当時の衝撃は絶大だっただろうと思う。

 

かくして「東村山ひまわりガーデン」は公開を終了したのだが、同じ場所の「東村山菜の花ガーデン」は来年の春に最後の公開があるようなので、菜の花が咲き乱れて、好きとも嫌いともいえない独特の臭気を放っているのを体験したい方はぜひ行ってみてほしい。

 

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茶畑をそんな目で見たことがなかったがwokeになったので東京狭山茶の茶畑を見に行った

われわれにとって煎茶は水に準ずるあたりまえの存在であって、好き嫌いの対象ではない。

 

もしあなたが港町を歩いている途中でウニの養殖場を見かけたりしたら、キャベツをもりもり食べているウニをうっとりと眺め、「これを割ったら橙色の濃厚なおいしいやつがびっしり詰まっているに違いない」などと想像することだろう。なお、「キャベツをもりもり」というのは、最近インターネットから仕入れた知識で、駆除対象でおいしさ控えめのムラサキウニに、同じく廃棄対象のキャベツを食べさせたら、海藻を与えたときより臭みがなくて味がよくなるとの話だった。わたしはそのニュースを見て、窓際族であるところの自分が他の窓際族の構成員とコラボレーションしたら業績が劇的にアップする企画を思いついたりするのだろうか、いや、ない……などと思ったのだが、それはともかく、ウニが養殖されているところを見たならば、何らかの感慨のようなものが少なからずあるはずである。

 

いっぽう、煎茶はどうだろう。茶畑を見て、「この先端をつまんで取って、蒸して乾かして……」などと想像して涎が止まらなくなったりしたら変質者とまではいえないにしても、かなりの少数派ではある。まだ、みっしりと栗が詰まったおまんじゅうが和菓子屋に陳列してあったら「煎茶といっしょにこれを食べたら……」と想像して涎が止まらなくなる程度であればまだ理解が得られやすい。煎茶が脇役であるなら、ノーマルな感性の持ち主の理解が得られるが、残念ながら主役たり得ない。わたしもつい最近までは、煎茶はあたりまえの存在であったから、旅先で茶畑を見たとしても、茶畑があるなとしか思わなかったし、チャノキ(Camellia sinensis)とそうでない木の区別があまりついておらず、単なる植えこみのツバキの若葉が「実はお茶なんです」と自己紹介されたら、ツバキみたいなお茶だな、まあツバキ科だからあり得るかと思ってしまう。

 

そんな平均的な煎茶ライフをおくっていたわたしだったが、紅茶や、より煎茶に近い龍井茶などと比べても、すばらしい点がたくさんあるということに今さらながら気づいた。まず、抽出時間が圧倒的に短い。紅茶を1杯抽出する間に煎茶なら3杯抽出できる。抽出したあとの鮮やかな緑色はどんなお茶よりも美しい。また、日本があらゆる視点から見て没落してきているため、今や中国のお茶と比較してもリーズナブルに感じられる値段であって、いろんなお茶を飲んできたが、素敵なお茶が身近にあったということに今さらながら気づいた次第である。

 

そうなってくると、今まで適当に通り過ぎることが多かった茶畑に積極的に行きたいという気持ちになってきた。おいしい煎茶が育成されている様子をじっくり見て、煎茶を飲むときに思い出す。また楽しからずや……。「煎茶≒水」と考えているあなたにとっては実感がわいてこないと思うのでわかりやすいたとえにすると、どこかの回転するお寿司屋さんでウニの軍艦巻きを食べるときに、ウニがキャベツを食べているところや、海苔が海中に刺してある竹にまとわりついて大きくなっているところを想像したら、まるで回転していないお寿司屋さんの軍艦巻きのように感じられる……ということである。

 

そして、わたしの住む多摩ニュータウンから最も近い茶どころといえば東京狭山茶でおなじみの瑞穂町。狭山茶の算出量がもっとも多いのは埼玉県入間市だが、なるべく自分の家に近い茶畑を見てお茶を買って、「うちの近所でこんなにおいしいお茶が……」と感動したいと思って、新茶が売られはじめたころ、八王子から八高線に乗って箱根ヶ崎駅で降りたのだった。

 

駅を降りてしばらくしたらこの看板があった。たしかにお茶はおいしいのに飲んで咎められることがなくて本当に最高だよね……。

 

坂をのぼっていくと狭山神社がある。

長い階段を登った先には拝殿だけでなく、摂社やら記念碑が配置してあり、周辺の歴史を知るには登るべき階段なのである。

 

こぎれいな拝殿。

「機神社」は、メカニカルな名前に心惹かれるが、この地域の名産の村山大島紬の神社。


そして、ひとことでいうと狭山茶foreverというような意味の文言を記した記念碑がある。

この地域でのお茶の栽培が本格化したのは江戸時代に入ってからで、この記念碑も明治11年と記してあった。

 

狭山には「色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす」という茶摘み歌があるらしい。もし、京都大学の校歌に「官僚は東大、ノーベル賞は京大」のような歌詞があったら東大のことをそこまで意識しなくても……と思うに違いない。

さらに東京狭山茶への想いをたしかにするため、瑞穂町郷土資料館を訪問した。

ここでは煎茶の製造工程について実際に使われた道具を展示して説明しているのだが、最初に目に飛びこんできたのは、そこらへんのふるさと館みたいなところの端っこにわりと邪魔そうな感じで置いてあることでおなじみの唐箕。

米を作るときの専門ツールかと思っていたが煎茶を作るときにも使われていたとは……冬季オリンピック、スピードスケートのメダリストである橋本聖子選手が自転車で夏のオリンピックに出たのを見たときと同じくらいの驚きと感動である。

 

そしてこの箱の上で茶葉を撚っていたようなのだが、箱に貼ってある紙に書いてある文字が気になった。工事現場のクレーンに「積み荷の下に入るな!」と書いてあるが、茶葉を撚るにあたって必要な態度などについて書いてあるのかもしれないが、鏡文字がだいぶ苦手なので早々に解釈を諦めてしまった。

 

神社にも行って、資料も見て、準備万端となったので、いよいよ茶畑を見て、お茶を買う。

 

先述のとおり、わたしはチャノキを正確に見分けられる自信がない。

たとえばここに来るまでの間にあった墓地に盛大に植えてあったものたちは「墓地でお茶を栽培することはない」という文脈からこれがチャノキではないとわかるのだが、文脈なしでただ生えていたら野生のチャノキと思ってしまいそうで、だから、ここにチャノキ以外のものが生えているはずがないという文脈がほしくて、瑞穂町まで来たのである。

わたしが見たかったのはまさにこの風景。

お茶屋さんの前に明らかに栽培しているふうの植物たちがあるなら、これは2万パーセント茶畑なので、安心して観察できる。

思っていたよりも樹高が低くて驚いたが、これは、有名人を間近で見たら思ったよりも小さかったという問題、個人的には多摩センターに演説に来ていた生稲晃子先生に感じたものが最新なのだが、お茶への思い入れが強すぎて、心の中のチャノキの樹高が高くなりすぎたことによるに違いない。

 

新茶を摘みおわったあと、さっそく柔らかい若葉が生えてきている。
わたしがこのあと買って飲むお茶はこういう感じの葉からできているのかと思うと愛おしくてたまらない……。

 

お茶屋さんはいろいろあるが、茶畑と店が合体している感じのお店なら「あそこの茶葉がこのお茶に入っている」と思い出しながら飲めるので最高。

なお、今回寄ったのは「藤本園」というお店。作るところと売るところが一体化していて約束の地である。

新茶と、せっかくだから紅茶も買った。シンプルなパッケージよりも、このようにシールが貼ってあるほうがいい気分。

 

なお、周辺を歩くと他にも茶畑があるので見て回りたい。

特殊な扇風機のようなものがあって不思議に思ったのだが、これは地表からちょっと高いところにある暖かい空気を茶畑に送りこむための機械らしい。

こんな小さな扇風機で地表の温度を変えることができるなんてすばらしい……そして、江戸時代にはそのような仕組みはなかったから、おそらく今飲んでいるお茶の方が昔飲まれていたお茶よりもおいしいのだろうなと思う。

 

収穫されすぎた茶畑を見かけたのだが、機械で収穫しているのだなというのがわかってかえって安心した。茶葉を見てからだと、これを手作業で摘むなんて、茶摘み体験ならいいけど茶畑の端から端まで手で摘んでいたら申し訳ない気持ちになってしまう。

id:sociologiaさんからのご指摘で、茶畑の若返りをはかる「台切り更新」であることを知りました。ありがとうございます~!)

茶畑の地面は枯れた茶葉に覆われていた。

烏龍茶にビジュアルが似ているから、もしかして成分は近いのかなと思って嗅いでみたら、ただの枯葉だった。

 

そして、茶畑のむこうにはショッピングモール、しかも名前が「MALL」で申し分ない。東京じゃないみたいな感じが最高潮に達している。

なお、お店自体は2月末で閉店したらしい。

 

帰宅してさっそく新茶をいただいた。

実際に栽培されるところを見たから茶葉がいとおしく感じられる……これにお湯をかけてもいいの?

わたしは渋いお茶が好きではないので、やや低め、70度で抽出する。いつも色が薄いかなと思うのだが、すばらしい旨味である。桜の花が案外白いのと同じで、記憶している煎茶の色は実際の色と異なるのかもしれない。これとごはんだけでお茶漬けとして食べられるのではないかとすら思う。

 

一番高いのを買ったが、すぐ飲んでしまったので、来年の新茶の季節にはたくさん買って半年くらい持たせるようにしたいと思っている。まる1年分用意することも消費期限的には問題ないが、年じゅう新茶を飲むと堕落してしまいそうだから最長でも半年だろう。

 

wokeなみなさまにおかれましても、お近くの茶畑に行って興奮していただきたいと思う。

 

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自分の椅子が低いことに40年近く気づかなかったという話

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きょうは椅子が低すぎたことに気づいた話をしたいが、特筆すべきドラマなどは特になくて申し訳ない。
 

椅子が低すぎたことが発覚したのはキーボードの傾斜問題が発端だった

先日、「キーボードの傾斜は実は意味がない」という趣旨の記事を見かけた。そんなはずはなかろう、わたしはキーボードを使い始めて40年近く経つが、キーボードに傾斜をつけることの意義をよく知っている。初めて使ったパソコン、シャープのX1 turboのキーボードにもチルトスタンドがついていて、わたしはそれをビンッビンに立ててディズニーランドとは似ても似つかない世界を冒険する『デゼニランド』などのゲームを満喫していた。80年代前半のパソコンは入力機器としてマウスが使われていないこともあり、ゲームも英語で直接コマンドを打ちこんで進めるものが多かった。しかも開発する者も遊ぶ者も英語ネイティブではないから、プレイヤーは正しい英語ではなく製作者の頭の中にある英語を推測しながら打ち込むという高度なゲームプレイを強いられており、解かねばならない謎は何重にもなっていたのである。有名な事例では、棺桶の穴に十字架をはめるときに「ATTACH CROSS」と入力しなければ次に進めない……などというものもあり、そうでなくてもゲームで遊ぶにも打鍵は避けられなかったのだが、苦しい打鍵生活の支えになっていたのがチルトスタンドで、なんだか打ちにくいと思って確認したらチルトスタンドが寝ていたということもあったくらいだから、キーボードに傾斜は絶対必要だと認識していたのである。チルトスタンドが上がっている状態が本来の状態で、持ち運びのときにチルトスタンドを収納すると認識していた。「キーボードに傾斜をつけることには意味がない」とは、ほとんど「人間が生きることには意味がない」と同じではないのか、といった虚しい反論が脳裏をよぎったのだが、人間工学から見ても優位性はなくて、むしろ手首に負担がかかるるなどと書いてあった。この40年近く、キーボードに角度をつけることによって感じてきた打ちやすさが気のせいなはずなかろう……と思ったのだが、記事は、角度をつけないと打ちにくいと思っている人は椅子が低すぎる可能性がありますという趣旨の言葉で締めくくられていて、まさか……しかし念のため、と思って椅子を上げてみたら、キーボードの傾斜には意味がないことを即座に理解したのだった。キーボードに傾斜をつけなくても、qやpやdeleteなどの辺境系のキーにも難なくアクセスができた。そしてキーボードの打ちやすさだけでなく、作業に集中できる姿勢になっていた。わたしは40年近く何をしていたのだ……。
 

自転車のサドルは上げるのに椅子を下げるのは変態である

かくして、わたしは椅子の高さを間違い続けていたことを瞬時に体で理解したのだが、頭でも理解したいと思い、「椅子 高さ 計算」で検索した。わたしはずっと、椅子の適正な高さは、使う人の身長に反比例するのではないかと想定していた。計算式で表現するなら「4000/身長(cm)」のようなイメージだったが、実際の数値は「身長(cm)÷4+1(cm)」などだった。1を足すものとないものがあったりの違いはあったが、身長の高さに反比例しているものはなかった。高さが変えられない机とペアで使っていたとしても、椅子の高さを最低にするのはさすがにバランスが悪い。
よく考えてみたら、レンタサイクルなどで自転車に乗るとき、当たり前のようにサドルを上げていた。中学生のときに遊びでサドルを最低にしたことがあったが、足腰にかかる負荷が尋常でなく、トレーニングになるのではないかと思ったほどだ。また、証明写真を撮るときも船を急速旋回させるように椅子を回して上げていた。なぜ腰掛けるもののなかで椅子だけが例外になると思ったのだろうか……。
 

椅子を低くしたいという心理は、寝たいという気持ちの現れである

人(突然の主語の巨大化)が椅子を低くしてしまうのはなぜか。それはずばり寝たいからである。
椅子を低くし、姿勢を低くして背もたれに最大限もたれると、座っていながらにして限りなく寝ている状態に近づく。たとえオフィスで失敗が絶対に許されない仕事をしていたとしても姿勢だけは寝ているに等しくなる。これは「仕事をせず寝ていたい」という気持ちと、「そうはいっても仕事はせねばならない」という相矛盾したふたつの気持ちが壮絶な争いを繰り広げたのち、かりそめの休戦協定を結んだ形なのである。


ただしそれは義務を遂行している瞬間にのみ当てはまる話であって、義務から解き放たれたあとに起きていることを積極的に選択して椅子に座る者が、あえて椅子を低くしたりソファなどの座面の低い椅子を選ぶ意味はないはずである。ソファで映画を見ながらいつの間にか寝ているといった生活も悪くはないように思えるが、実際そうしてしまったとき、起きてからどこまで見ていたのか探りつつ映画を少しずつ逆再生したりしているうちに映画への興味が失われてしまったりして、睡眠を経て澄みわたった意識の中で、これはほんとうに自分がしたかったことなのか……と自問するのが関の山。眠いのであれば謎の折衷案など用意せずにそのまま寝ればよいし、睡眠以外の何かをしたいのに眠いというのであれば、寝てからにすればいいはずだ。

読書も同じで、本を斜めに立てかける書見台というものを買ってみたが、椅子を低くしたときに見やすくなる仕組みで、やはり「読書したくないし寝たい」という欲望と「読書をやめてしまったら単に小汚いオッサンになってしまう*1」という強迫観念の間に出現した謎の器具が書見台なのである。本当に読書をしたいのであれば両手で本を持って書籍に対峙すべきだろう。


寝るのか起きるのか。その二者択一の中のわずかでも迷いが生じると椅子が低くなってしまい、その結果として生活が乱れてしまうので、われわれは鉄の意思で椅子を高くせねばならないのである。

 
 

*1:読書しすぎると、いっそう小汚いオッサンになってしまう……という説もあります

「白身魚のフライ」という変態性満載のごちそうを見つめなおす

いまから白身魚のフライが好きという話をしたいし、エビやアジのフライにしか興味がない方はこっち(どっち?)に来てほしい。ただ白身魚のフライについての意外な情報のようなものはこれを読み進めたところでどこにも書いていないので申し訳ない……。
 

「白身魚」という名の魚はいない

「雑草という草はありません」。昭和天皇のお言葉である。ナマズの研究でおなじみの秋篠宮皇嗣殿下におかせられましては「白身魚という名の魚はありません」と仰せられたかどうかは把握していないが、秋篠宮皇嗣殿下は白身魚と名付けられた料理を召しあがったことはないに違いなく(念のため検索はしてみた)、そもそも白身魚という概念をご存じないかもしれない。ナマズは白身でおいしいのだが、白身魚のフライはスケトウダラ・ナイルパーチ・ホキ・パンガシウス(名前が怖くない順に書いたら受け入れてもらいやすいと思って……)などといろいろである。お弁当屋さんでは100円台で売られていることから推測して、少なくともフグやヒラメが使われていないことはたしかである。たとえば鮭のフライを「赤身魚のフライ」とは言わないし、アジのフライを「青魚のフライ」と言うこともない。出自を隠したいと思ったときに「白身魚」というふんわりした呼び方が使われるのである。たしかに、味のよしあしは別として、「パンガシウスフライのタルタルソース」などという料理が供されるようなことがあれば、ムムッ……もしかして帰れという意味なのか……などと考えこんでしまうことだろう。
 

正体不明の魚の身を紡錘形にするセンスがすばらしい

一様に香ばしい衣に包まれた謎の魚たちは食べ物であると同時に工業製品のようでもある(注:おいしくないとかダメだとかそういうニュアンスは特にない)が、単純に生産効率だけを考えれば、四角形や二等辺三角形にすれば輸送用のダンボールを白身魚のフライで満たすことができるはずで、実際、マクドナルドのフィレオフィッシュの白身魚のフライは正方形。ケンタッキーフライドチキンでときどき姿を現して姿を消す幻の魚ことフィッシュフライも、長方形もしくは台形で、それがかつて魚であったことを彷彿とさせる要素は何もない。
いっぽう、海の幸が得意ではない定食屋や弁当屋で扱っている「白身魚のフライ」と呼ばれるフライの多くは紡錘形である。白身魚は任意の形に加工できるし、単価が安いので運送コストは少しでも安くしたいはずだ。それなのにあえて魚を思わせる紡錘形にしてある。たとえばこれがホキだとしたら1匹あたり何個も作れるはずで、あえて謎の小魚を作っていることになる。経済的合理性をあえて捨てて、想像上の魚を作るという夢を選んだのだとわたしは考える。
 

紡錘形の白身魚フライの素晴らしいたたずまい

ここからはわたしが通り過ぎていった白身魚の紡錘形のフライの思い出の写真たちのコーナー。
 

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これは団地の中にあるそば屋の定食の一部として供された白身魚のフライ。そばがメインの店だし850円のランチなので、お店でさばいたアジのフライなどは期待していないし、むしろこれ目当てでよく頼んでいる。

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ひとり席がないから早い時間に行ってさっと食べて帰っているが、本当は毎日ここで食べたいくらいだ。
 

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こちらはお弁当屋さんでオプションになっている白身魚。1つ120円である。安いので2個お願いすることが多い。このお弁当屋さんはすごいボリュームでたとえばサイコロステーキ定食を頼んだらザ・工業製品みたいなのの焼いたんが出てくるけれど、そんなところも含めて好きな店で、いつも感謝している。
 
全国規模の店だとCoCo壱番屋でフィッシュカレーを頼むと出てくる。

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大きいのがひとつくるとイメージしていたがふたつ。ふたつ並んでいるだけで兄弟かなと思ってしまうが同じ魚の別の部位である可能性の方がはるかに高い。いままで紹介したものと比べるとボリュームがかなり小さい。その分かわいらしくもあり、手作りのような雰囲気さえ漂わせているが、工業製品のような感じにしてほしい人にとっては物足りないかもしれない。
 

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上記のお弁当屋で買ったものを食べながらふと見たら生前の姿がちらりと見えた。想像より原型をとどめていて驚いた。キミはどこの海から来たのかな……。すごい深海からお越しくださっている可能性もあって多少申し訳ない気分もある。
 

白身魚のフライは、「究極フレンドリーな魚状のごちそう」である

正体不明の一匹の魚が分割され、新しい魚の形になる。死してもなお、生前の姿とは異なる形で魚を表現しているというかさせられている白身魚のフライ……これは新しい魚の姿であり、人類にとっては新種の生き物のような存在。人類にとっては邪魔者でしかなかったうろこや骨はなく、油で揚げられて豚も裸足で逃げだす(蹄があるから靴を履いているようなものかもしれないが)カロリーを身につけている。この紡錘形の仮想生物を愛さずにはおれない……。
 
などと気持ち悪いことを考えながら、今日も白身魚のフライをありがたくいただくのだった。
 

東京・稲城の「ありがた山」 その驚くべき光景

「ありがた山」と呼ばれている山がある。そのスピリッチャルな響きで、舌の奥に苦いものが走るかもしれないが、今から書く文および写真がそれ以上の驚きをもたらすことを保証する。その山の名前は、豊島区駒込にあった大量の無縁仏が昭和10年代に運びこまれたことに由来する。石仏を運ぶときに「ありがたや、ありがたや」と唱えたようである。
 
無縁仏が結集している地はそこまで珍しい光景ではない。よく知られた事例だと、当尾や高野山などにあり、山奥の風景にふさわしい佇まいなのだが、同じ風景が東京の、しかもさほど山奥でもないところにあった。当尾や高野山は鉄道の最寄り駅からバスでけっこうな時間がかけてずんずん登っていくが、ありがた山は京王読売ランド駅から徒歩10分のところ。最初に訪れたとき、新宿駅からだと30分少々でこんなところがあるとは信じられなかった。
 
ありがた山の存在を知ったのは、京王相模原線に乗っていて見えていた、若葉台~よみうりランド間に謎の丘からである。

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通勤電車でここにさしかかるにつけ、「この山を超えたら何があるのだろう」と思っていたのだが、その気持ちは週末を迎えるとどこかに飛んでいってしまって海沿いの地域や博物館に赴いていた。つまりその気持ちは、好奇心を装った現実逃避の感情に過ぎなかったのである。
 
 
この、「解消するほどには関心が持てなかったあの丘の向こう」問題であるが、不要不急の外出が制限され、通勤電車でしか移動しなくなってしまい、無意識下でゆっくり熟成されてきた疑問が一挙にガスを放出し、わたしの好奇心が爆発に至(り、周囲に異様な臭気のガスを放っ)たのであった。
実際に行ってみると想像以上だったのでこの報告に至る。
 
京王よみうりランド駅を降り、北側、つまりよみうりランドと同じ方面に出て、妙覚寺に向かって坂を登っていく。
妙覚寺の脇の道を登っていくとありがた山に着くのだが、途中の空き地が開発中なのが見える。

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石塔を避けて開発をするようで、仕上がったらどうなるのだろうかと好奇心に駆られる。
 
住宅地の奥に社があり、チラ見しているだけでも満足感がある。

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あっという間にありがた山の麓らしき場所に到着。

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麓には有縁なる仏様たちがいて、登っていくうちに無縁になってくるようなのであるが、もしかするとありがた山の麓と思っている場所は、山に含まれていないのかもしれない。そいて有縁仏のいるところもcoming soonになっているところが目立つ。開発の関係で、新規の仏様は募集していないのかもしれない。
 
 
まだ頂上からはほど遠いが、若葉台方面がよく見えるし電車も見える。

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古墳は見晴らしのよい場所につくられることが多いが、豪な族でなかったとしても、見晴らしのよい場所で眠れるに越したことはない。
ここから京王線が見えるということは、京王線からもここが見えていることを意味していて、たしかに記憶を辿ってみると、何度かお墓のようなものを見ていたのかもしれない。
 

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有縁ゾーンを抜けると、またしばらくcoming soonになって、さらに登っていくと、無縁仏4000柱のあるところに着く。
 

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映画の撮影などでも使われていたらしいのだが、都心近くにこんなに不思議な場所があったとは知らなかった。
 

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地蔵堂兼手水舎のようなところがある。
 

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カップがあるところを見ると、飲める水だったのかもしれないが、今は濁っている。

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これは開発の影響なのか、単純に天候の問題で水が少なめで滞留しているのかはわからない……と思いながら、リュックに入れていた南アルプスの天然水を飲んだ。
 
 
ありがた山の頂上へは、無縁仏のある斜面の真ん中を歩けば最短距離なのだが、なんとなく失礼な気がして、脇道から登ってみることにした。
 
しかし脇道は蜘蛛の巣だらけで、あまり人が来ていないことを物語っている。わたしのあとからきたもう一組は、下から見て満足して帰って行ったようだった。
 

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途中に朽ちかけのお堂を発見。物置なのかもしれないがいい感じである。
 
蜘蛛の巣をかきわけて頂上らしき場所についた。
きたところを振り返ってみると、壮観である。
 
京王線から中央線の東京西部がさらによく見える。遠くに見えるのはおそらく小金井あたりで、やはり中央線沿線は西の方に来てもけっこうな都会だな……。

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そして眼下に見える無縁仏たちの圧迫感……。あたりまえだけれど、これだけの方がそれぞれ亡くなって、親族や親しい人が魂の平安を祈って墓石を作ってきたという事実に圧倒される。

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「武蔵国五字ヶ峯 一丁」とあった。これがこの山のかつての名前だったのかもしれない。

考えなしにここにきてしまったのだが、驚いたことに、この山の向こうでは大規模な開発がされていたのだった。

 

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しかも、ありがた山で聖域とされている場所だけは(少なくとも今は)丁寧に除かれている。

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結界のように置かれた板碑を超えたら、土と重機の世界。コントラストに圧倒された。通勤中に、呑気に「あの丘の向こうはなんじゃろか」と思っていたが、ここまで大規模に山が削られていようとはまったく想像が及ばなかった。
下から見て満足して帰った人はこの風景を見ずに帰ってしまったのか、仁和寺にある法師のような話だなと思った。この風景は本尊というわけでもないし、見たら後悔したのかもしれないけれど……。
 
 

帰宅して、風景を見返していると、「開発している側からはどう見えているんだろうか(注:物理的な意味で)」という気持ちが日に日に強まり、2ヶ月後、隣駅の稲城側からありがた山方面に向かった。

住宅街を奥に進んでいくと、行き止まりになっていて、削られた山が見える。

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住宅街のすぐそばで開発、という風景は、人によっては殺伐としていると思うのかもしれないが、わたしの育ったところも同じ感じだったので、むしろ、ふるさとを感じるほどである。

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工事の囲いに沿ってさらに登って振り返ると、ありがた山が見えた。

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板碑が結界のように見えるのは変わらず。

 

開発が終わったら、それなりに自然な感じに仕上がるのだろうけれど、このときの写真と見比べてみたいと思う。

 

ありがた山の風景も、ここまで驚きに満ちた風景をたたえているのは、わずかな間かもしれない。現に、この近くに洞窟があったのだが、危険なのでCLOSEDになってしまっている。

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これからは、ちょっと気になる場所があったら、すぐに行ってみようと思ったのだった。
 
 
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近所でいちばん高いところに行ってみると楽しい

ここ2ヶ月程度、外出といえば近所への散歩しか選択肢はなかったはずである。
この間に近所の気になるところはすべて網羅して、緊急事態の終わりにあたっては、「遠出できない暮らしも悪くなかったな……」と感慨に耽っていたはずである……が、わたしは行き残した場所があって悶々としていたのだった。自分の家の半径3キロメートルの中で未知の領域がいまだ残されていることを遺憾と言わずして何と言おうか。京都の東寺には毎年のように行っているが、住んでいる多摩市で未踏の地がいくつもあるという矛盾……。
行かずとも、苦労して訪れるほどの価値はないと高をくくっていたが、安倍晋三先生や小池百合子先生から「無理して近場で済ませなくてもいいよ、好きなところに行くといい」などと言われたら、かえって気になってしまう。
 
今回のターゲットは「自分の住む市内の最高地点」である。読んでくださっているみなさまの市区の最高地点はさまざまだと思うが、それが高いかどうかは楽しさとは別で、たとえば東京都港区の最高地点はたかだか25.7mにすぎないが、その最高地点の風景や意味について考えると、日本有数の最高地点だといえるだろうし、「○○市 最高地点」で検索して、唯一解が得られないところもあり、これはこれで冒険のしがいがあるので、もし自分の住んでいるところの最高地点について考えたことがないという方はこの機会にぜひ調べて行ってみてほしい。
 
そしてわたしの住んでいる多摩市の最高地点だが、調べる前に想像していたところとは違った。多摩センターと永山の間のどこかで、すでに何度も行っている場所に違いないと思って地形図を見たら、それよりも高いところがあったのだった。本丸は聖蹟桜ヶ丘と永山の間、多摩市のページに「天王森公園」との記述があったが、地図上で検索しても東村山市の天王森公園しか出てこない。さらに検索してみると、八坂神社の近くにあるという。また汎用性の鬼みたいな神社名……とりあえずこれを目印にして行ってみればわかると思って行ってきたのだった。
 
市内なので徒歩で行ったのだが、いきなり核心に触れてしまうと感動しすぎて号泣してしまう恐れがあったため、東に進んでから、以前、SUUMOタウンでも紹介した、稲城市の最高地点を経由して行くことにした。
 
稲城市の最高地点は、多摩市の最高地点から10分もしないところにあるのだが、見晴らしがいいなと思うだけで、そこが稲城市の最高地点であると明示しているわけではない。

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このゆるい木陰の休憩所のようなところが最高地点で、ここで休憩している人は皆、ここが最高地点だと気づいていないふうである。いや、もしかすると、最高地点であると知っていながら、恥ずかしがり屋なため、その感動が外に漏れないよう、唇を噛んでいるのかもしれない。
 
この地点から少し降りると見晴らしのよいゾーンがある。

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並んでいるのは若葉台パークヒルズ。見ていると住みたくなるのだが、わたしはいつもここで若葉台パークヒルズの物件情報を検索して眺めて満足し、まあでも今の賃貸暮らしもいいじゃないなどと思いつつ、若葉台方面に向かっていたのだった。
 
この先にわが故郷(まだ5年ほどしか住んでいないが)の最高地点が待ち受けていようとは……。
 

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みはらし緑地を降りた道の向こう側は多摩市。このふたつの給水塔が多摩市にあってくれてうれしいと思っている。稲城にはかっこいいトンネルがあるので十分でしょうと思うのである。
 
尾根幹線道路の上を通る橋から見ると、多摩市の守護神のような風格が感じられる。

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……というか、多摩市、改めて見ると緑が多すぎてちょっと驚いた。港区の人が見たら卒倒するのかもしれない。
 
橋を渡って少し歩くと右手に八坂神社。

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さほど高くなかったとしても、最高地点はやはり神社とmixされていてほしいよね……。
 

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神社だけではなく、多摩市天然記念物のスダジイも鎮座していて、大した高さでもないのに神様がいてくれてありがとう……と思う。
 

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天王森公園の名前に若干のインパクトありと思っていたが、やはり明治天皇が訪れた場所らしい。このあたり一帯は御狩場だったことは有名な話。明治天皇が来ただけで「聖蹟」と呼ばれる感覚は、そのよしあしはさておき、今からすると理解不能である。
 

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社殿は簡素だが、左手にブランコがある。

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ブランコ側から社殿を眺める。
神社とセットのブランコは最高だが、大人が乗っていいブランコには見えなかったので見るだけである。
 
 

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また、湿り気の多い中、ワカメ状のものが土の上でよく育っていて、「多摩市の頂点には何もかもがある!」と思ったのだった。
 

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最高地点の標識があり、三角点まで用意されていて感動した。なお、三角点なのに四角い理由は「三角点 なぜ四角」で検索すると得られる。
富士山の3776mなどからすると比べ物にもならない161mだが、最高地点を盛りたててくれるさまざまなアイテムがあり、もっと早く来ておけばよかったと思った。
 
なお、モサモサ感重視のため、見晴らしはさほどよろしくないのだが、失望するには及ばない。すぐ近くに「てっぺん坂」という、少年向けの漫画に出てきそうな名前を冠した坂があり、その坂の上から見ると、それなりの満足感が得られた。

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お住まいの地域の最高地点のよしあしは運次第だけれど、もし、あなたが、自分の住んでいる市区の最高地点がどこか即答できない状態なのであれば、ぜひ調べて行ってみてほしい。ワカメみたいなのが盛大に生えているかもしれないから……。