ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

自分の椅子が低いことに40年近く気づかなかったという話

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きょうは椅子が低すぎたことに気づいた話をしたいが、特筆すべきドラマなどは特になくて申し訳ない。
 

椅子が低すぎたことが発覚したのはキーボードの傾斜問題が発端だった

先日、「キーボードの傾斜は実は意味がない」という趣旨の記事を見かけた。そんなはずはなかろう、わたしはキーボードを使い始めて40年近く経つが、キーボードに傾斜をつけることの意義をよく知っている。初めて使ったパソコン、シャープのX1 turboのキーボードにもチルトスタンドがついていて、わたしはそれをビンッビンに立ててディズニーランドとは似ても似つかない世界を冒険する『デゼニランド』などのゲームを満喫していた。80年代前半のパソコンは入力機器としてマウスが使われていないこともあり、ゲームも英語で直接コマンドを打ちこんで進めるものが多かった。しかも開発する者も遊ぶ者も英語ネイティブではないから、プレイヤーは正しい英語ではなく製作者の頭の中にある英語を推測しながら打ち込むという高度なゲームプレイを強いられており、解かねばならない謎は何重にもなっていたのである。有名な事例では、棺桶の穴に十字架をはめるときに「ATTACH CROSS」と入力しなければ次に進めない……などというものもあり、そうでなくてもゲームで遊ぶにも打鍵は避けられなかったのだが、苦しい打鍵生活の支えになっていたのがチルトスタンドで、なんだか打ちにくいと思って確認したらチルトスタンドが寝ていたということもあったくらいだから、キーボードに傾斜は絶対必要だと認識していたのである。チルトスタンドが上がっている状態が本来の状態で、持ち運びのときにチルトスタンドを収納すると認識していた。「キーボードに傾斜をつけることには意味がない」とは、ほとんど「人間が生きることには意味がない」と同じではないのか、といった虚しい反論が脳裏をよぎったのだが、人間工学から見ても優位性はなくて、むしろ手首に負担がかかるるなどと書いてあった。この40年近く、キーボードに角度をつけることによって感じてきた打ちやすさが気のせいなはずなかろう……と思ったのだが、記事は、角度をつけないと打ちにくいと思っている人は椅子が低すぎる可能性がありますという趣旨の言葉で締めくくられていて、まさか……しかし念のため、と思って椅子を上げてみたら、キーボードの傾斜には意味がないことを即座に理解したのだった。キーボードに傾斜をつけなくても、qやpやdeleteなどの辺境系のキーにも難なくアクセスができた。そしてキーボードの打ちやすさだけでなく、作業に集中できる姿勢になっていた。わたしは40年近く何をしていたのだ……。
 

自転車のサドルは上げるのに椅子を下げるのは変態である

かくして、わたしは椅子の高さを間違い続けていたことを瞬時に体で理解したのだが、頭でも理解したいと思い、「椅子 高さ 計算」で検索した。わたしはずっと、椅子の適正な高さは、使う人の身長に反比例するのではないかと想定していた。計算式で表現するなら「4000/身長(cm)」のようなイメージだったが、実際の数値は「身長(cm)÷4+1(cm)」などだった。1を足すものとないものがあったりの違いはあったが、身長の高さに反比例しているものはなかった。高さが変えられない机とペアで使っていたとしても、椅子の高さを最低にするのはさすがにバランスが悪い。
よく考えてみたら、レンタサイクルなどで自転車に乗るとき、当たり前のようにサドルを上げていた。中学生のときに遊びでサドルを最低にしたことがあったが、足腰にかかる負荷が尋常でなく、トレーニングになるのではないかと思ったほどだ。また、証明写真を撮るときも船を急速旋回させるように椅子を回して上げていた。なぜ腰掛けるもののなかで椅子だけが例外になると思ったのだろうか……。
 

椅子を低くしたいという心理は、寝たいという気持ちの現れである

人(突然の主語の巨大化)が椅子を低くしてしまうのはなぜか。それはずばり寝たいからである。
椅子を低くし、姿勢を低くして背もたれに最大限もたれると、座っていながらにして限りなく寝ている状態に近づく。たとえオフィスで失敗が絶対に許されない仕事をしていたとしても姿勢だけは寝ているに等しくなる。これは「仕事をせず寝ていたい」という気持ちと、「そうはいっても仕事はせねばならない」という相矛盾したふたつの気持ちが壮絶な争いを繰り広げたのち、かりそめの休戦協定を結んだ形なのである。


ただしそれは義務を遂行している瞬間にのみ当てはまる話であって、義務から解き放たれたあとに起きていることを積極的に選択して椅子に座る者が、あえて椅子を低くしたりソファなどの座面の低い椅子を選ぶ意味はないはずである。ソファで映画を見ながらいつの間にか寝ているといった生活も悪くはないように思えるが、実際そうしてしまったとき、起きてからどこまで見ていたのか探りつつ映画を少しずつ逆再生したりしているうちに映画への興味が失われてしまったりして、睡眠を経て澄みわたった意識の中で、これはほんとうに自分がしたかったことなのか……と自問するのが関の山。眠いのであれば謎の折衷案など用意せずにそのまま寝ればよいし、睡眠以外の何かをしたいのに眠いというのであれば、寝てからにすればいいはずだ。

読書も同じで、本を斜めに立てかける書見台というものを買ってみたが、椅子を低くしたときに見やすくなる仕組みで、やはり「読書したくないし寝たい」という欲望と「読書をやめてしまったら単に小汚いオッサンになってしまう*1」という強迫観念の間に出現した謎の器具が書見台なのである。本当に読書をしたいのであれば両手で本を持って書籍に対峙すべきだろう。


寝るのか起きるのか。その二者択一の中のわずかでも迷いが生じると椅子が低くなってしまい、その結果として生活が乱れてしまうので、われわれは鉄の意思で椅子を高くせねばならないのである。

 
 

*1:読書しすぎると、いっそう小汚いオッサンになってしまう……という説もあります

「白身魚のフライ」という変態性満載のごちそうを見つめなおす

いまから白身魚のフライが好きという話をしたいし、エビやアジのフライにしか興味がない方はこっち(どっち?)に来てほしい。ただ白身魚のフライについての意外な情報のようなものはこれを読み進めたところでどこにも書いていないので申し訳ない……。
 

「白身魚」という名の魚はいない

「雑草という草はありません」。昭和天皇のお言葉である。ナマズの研究でおなじみの秋篠宮皇嗣殿下におかせられましては「白身魚という名の魚はありません」と仰せられたかどうかは把握していないが、秋篠宮皇嗣殿下は白身魚と名付けられた料理を召しあがったことはないに違いなく(念のため検索はしてみた)、そもそも白身魚という概念をご存じないかもしれない。ナマズは白身でおいしいのだが、白身魚のフライはスケトウダラ・ナイルパーチ・ホキ・パンガシウス(名前が怖くない順に書いたら受け入れてもらいやすいと思って……)などといろいろである。お弁当屋さんでは100円台で売られていることから推測して、少なくともフグやヒラメが使われていないことはたしかである。たとえば鮭のフライを「赤身魚のフライ」とは言わないし、アジのフライを「青魚のフライ」と言うこともない。出自を隠したいと思ったときに「白身魚」というふんわりした呼び方が使われるのである。たしかに、味のよしあしは別として、「パンガシウスフライのタルタルソース」などという料理が供されるようなことがあれば、ムムッ……もしかして帰れという意味なのか……などと考えこんでしまうことだろう。
 

正体不明の魚の身を紡錘形にするセンスがすばらしい

一様に香ばしい衣に包まれた謎の魚たちは食べ物であると同時に工業製品のようでもある(注:おいしくないとかダメだとかそういうニュアンスは特にない)が、単純に生産効率だけを考えれば、四角形や二等辺三角形にすれば輸送用のダンボールを白身魚のフライで満たすことができるはずで、実際、マクドナルドのフィレオフィッシュの白身魚のフライは正方形。ケンタッキーフライドチキンでときどき姿を現して姿を消す幻の魚ことフィッシュフライも、長方形もしくは台形で、それがかつて魚であったことを彷彿とさせる要素は何もない。
いっぽう、海の幸が得意ではない定食屋や弁当屋で扱っている「白身魚のフライ」と呼ばれるフライの多くは紡錘形である。白身魚は任意の形に加工できるし、単価が安いので運送コストは少しでも安くしたいはずだ。それなのにあえて魚を思わせる紡錘形にしてある。たとえばこれがホキだとしたら1匹あたり何個も作れるはずで、あえて謎の小魚を作っていることになる。経済的合理性をあえて捨てて、想像上の魚を作るという夢を選んだのだとわたしは考える。
 

紡錘形の白身魚フライの素晴らしいたたずまい

ここからはわたしが通り過ぎていった白身魚の紡錘形のフライの思い出の写真たちのコーナー。
 

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これは団地の中にあるそば屋の定食の一部として供された白身魚のフライ。そばがメインの店だし850円のランチなので、お店でさばいたアジのフライなどは期待していないし、むしろこれ目当てでよく頼んでいる。

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ひとり席がないから早い時間に行ってさっと食べて帰っているが、本当は毎日ここで食べたいくらいだ。
 

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こちらはお弁当屋さんでオプションになっている白身魚。1つ120円である。安いので2個お願いすることが多い。このお弁当屋さんはすごいボリュームでたとえばサイコロステーキ定食を頼んだらザ・工業製品みたいなのの焼いたんが出てくるけれど、そんなところも含めて好きな店で、いつも感謝している。
 
全国規模の店だとCoCo壱番屋でフィッシュカレーを頼むと出てくる。

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大きいのがひとつくるとイメージしていたがふたつ。ふたつ並んでいるだけで兄弟かなと思ってしまうが同じ魚の別の部位である可能性の方がはるかに高い。いままで紹介したものと比べるとボリュームがかなり小さい。その分かわいらしくもあり、手作りのような雰囲気さえ漂わせているが、工業製品のような感じにしてほしい人にとっては物足りないかもしれない。
 

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上記のお弁当屋で買ったものを食べながらふと見たら生前の姿がちらりと見えた。想像より原型をとどめていて驚いた。キミはどこの海から来たのかな……。すごい深海からお越しくださっている可能性もあって多少申し訳ない気分もある。
 

白身魚のフライは、「究極フレンドリーな魚状のごちそう」である

正体不明の一匹の魚が分割され、新しい魚の形になる。死してもなお、生前の姿とは異なる形で魚を表現しているというかさせられている白身魚のフライ……これは新しい魚の姿であり、人類にとっては新種の生き物のような存在。人類にとっては邪魔者でしかなかったうろこや骨はなく、油で揚げられて豚も裸足で逃げだす(蹄があるから靴を履いているようなものかもしれないが)カロリーを身につけている。この紡錘形の仮想生物を愛さずにはおれない……。
 
などと気持ち悪いことを考えながら、今日も白身魚のフライをありがたくいただくのだった。
 

東京・稲城の「ありがた山」 その驚くべき光景

「ありがた山」と呼ばれている山がある。そのスピリッチャルな響きで、舌の奥に苦いものが走るかもしれないが、今から書く文および写真がそれ以上の驚きをもたらすことを保証する。その山の名前は、豊島区駒込にあった大量の無縁仏が昭和10年代に運びこまれたことに由来する。石仏を運ぶときに「ありがたや、ありがたや」と唱えたようである。
 
無縁仏が結集している地はそこまで珍しい光景ではない。よく知られた事例だと、当尾や高野山などにあり、山奥の風景にふさわしい佇まいなのだが、同じ風景が東京の、しかもさほど山奥でもないところにあった。当尾や高野山は鉄道の最寄り駅からバスでけっこうな時間がかけてずんずん登っていくが、ありがた山は京王読売ランド駅から徒歩10分のところ。最初に訪れたとき、新宿駅からだと30分少々でこんなところがあるとは信じられなかった。
 
ありがた山の存在を知ったのは、京王相模原線に乗っていて見えていた、若葉台~よみうりランド間に謎の丘からである。

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通勤電車でここにさしかかるにつけ、「この山を超えたら何があるのだろう」と思っていたのだが、その気持ちは週末を迎えるとどこかに飛んでいってしまって海沿いの地域や博物館に赴いていた。つまりその気持ちは、好奇心を装った現実逃避の感情に過ぎなかったのである。
 
 
この、「解消するほどには関心が持てなかったあの丘の向こう」問題であるが、不要不急の外出が制限され、通勤電車でしか移動しなくなってしまい、無意識下でゆっくり熟成されてきた疑問が一挙にガスを放出し、わたしの好奇心が爆発に至(り、周囲に異様な臭気のガスを放っ)たのであった。
実際に行ってみると想像以上だったのでこの報告に至る。
 
京王よみうりランド駅を降り、北側、つまりよみうりランドと同じ方面に出て、妙覚寺に向かって坂を登っていく。
妙覚寺の脇の道を登っていくとありがた山に着くのだが、途中の空き地が開発中なのが見える。

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石塔を避けて開発をするようで、仕上がったらどうなるのだろうかと好奇心に駆られる。
 
住宅地の奥に社があり、チラ見しているだけでも満足感がある。

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あっという間にありがた山の麓らしき場所に到着。

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麓には有縁なる仏様たちがいて、登っていくうちに無縁になってくるようなのであるが、もしかするとありがた山の麓と思っている場所は、山に含まれていないのかもしれない。そいて有縁仏のいるところもcoming soonになっているところが目立つ。開発の関係で、新規の仏様は募集していないのかもしれない。
 
 
まだ頂上からはほど遠いが、若葉台方面がよく見えるし電車も見える。

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古墳は見晴らしのよい場所につくられることが多いが、豪な族でなかったとしても、見晴らしのよい場所で眠れるに越したことはない。
ここから京王線が見えるということは、京王線からもここが見えていることを意味していて、たしかに記憶を辿ってみると、何度かお墓のようなものを見ていたのかもしれない。
 

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有縁ゾーンを抜けると、またしばらくcoming soonになって、さらに登っていくと、無縁仏4000柱のあるところに着く。
 

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映画の撮影などでも使われていたらしいのだが、都心近くにこんなに不思議な場所があったとは知らなかった。
 

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地蔵堂兼手水舎のようなところがある。
 

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カップがあるところを見ると、飲める水だったのかもしれないが、今は濁っている。

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これは開発の影響なのか、単純に天候の問題で水が少なめで滞留しているのかはわからない……と思いながら、リュックに入れていた南アルプスの天然水を飲んだ。
 
 
ありがた山の頂上へは、無縁仏のある斜面の真ん中を歩けば最短距離なのだが、なんとなく失礼な気がして、脇道から登ってみることにした。
 
しかし脇道は蜘蛛の巣だらけで、あまり人が来ていないことを物語っている。わたしのあとからきたもう一組は、下から見て満足して帰って行ったようだった。
 

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途中に朽ちかけのお堂を発見。物置なのかもしれないがいい感じである。
 
蜘蛛の巣をかきわけて頂上らしき場所についた。
きたところを振り返ってみると、壮観である。
 
京王線から中央線の東京西部がさらによく見える。遠くに見えるのはおそらく小金井あたりで、やはり中央線沿線は西の方に来てもけっこうな都会だな……。

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そして眼下に見える無縁仏たちの圧迫感……。あたりまえだけれど、これだけの方がそれぞれ亡くなって、親族や親しい人が魂の平安を祈って墓石を作ってきたという事実に圧倒される。

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「武蔵国五字ヶ峯 一丁」とあった。これがこの山のかつての名前だったのかもしれない。

考えなしにここにきてしまったのだが、驚いたことに、この山の向こうでは大規模な開発がされていたのだった。

 

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しかも、ありがた山で聖域とされている場所だけは(少なくとも今は)丁寧に除かれている。

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結界のように置かれた板碑を超えたら、土と重機の世界。コントラストに圧倒された。通勤中に、呑気に「あの丘の向こうはなんじゃろか」と思っていたが、ここまで大規模に山が削られていようとはまったく想像が及ばなかった。
下から見て満足して帰った人はこの風景を見ずに帰ってしまったのか、仁和寺にある法師のような話だなと思った。この風景は本尊というわけでもないし、見たら後悔したのかもしれないけれど……。
 
 

帰宅して、風景を見返していると、「開発している側からはどう見えているんだろうか(注:物理的な意味で)」という気持ちが日に日に強まり、2ヶ月後、隣駅の稲城側からありがた山方面に向かった。

住宅街を奥に進んでいくと、行き止まりになっていて、削られた山が見える。

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住宅街のすぐそばで開発、という風景は、人によっては殺伐としていると思うのかもしれないが、わたしの育ったところも同じ感じだったので、むしろ、ふるさとを感じるほどである。

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工事の囲いに沿ってさらに登って振り返ると、ありがた山が見えた。

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板碑が結界のように見えるのは変わらず。

 

開発が終わったら、それなりに自然な感じに仕上がるのだろうけれど、このときの写真と見比べてみたいと思う。

 

ありがた山の風景も、ここまで驚きに満ちた風景をたたえているのは、わずかな間かもしれない。現に、この近くに洞窟があったのだが、危険なのでCLOSEDになってしまっている。

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これからは、ちょっと気になる場所があったら、すぐに行ってみようと思ったのだった。
 
 
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近所でいちばん高いところに行ってみると楽しい

ここ2ヶ月程度、外出といえば近所への散歩しか選択肢はなかったはずである。
この間に近所の気になるところはすべて網羅して、緊急事態の終わりにあたっては、「遠出できない暮らしも悪くなかったな……」と感慨に耽っていたはずである……が、わたしは行き残した場所があって悶々としていたのだった。自分の家の半径3キロメートルの中で未知の領域がいまだ残されていることを遺憾と言わずして何と言おうか。京都の東寺には毎年のように行っているが、住んでいる多摩市で未踏の地がいくつもあるという矛盾……。
行かずとも、苦労して訪れるほどの価値はないと高をくくっていたが、安倍晋三先生や小池百合子先生から「無理して近場で済ませなくてもいいよ、好きなところに行くといい」などと言われたら、かえって気になってしまう。
 
今回のターゲットは「自分の住む市内の最高地点」である。読んでくださっているみなさまの市区の最高地点はさまざまだと思うが、それが高いかどうかは楽しさとは別で、たとえば東京都港区の最高地点はたかだか25.7mにすぎないが、その最高地点の風景や意味について考えると、日本有数の最高地点だといえるだろうし、「○○市 最高地点」で検索して、唯一解が得られないところもあり、これはこれで冒険のしがいがあるので、もし自分の住んでいるところの最高地点について考えたことがないという方はこの機会にぜひ調べて行ってみてほしい。
 
そしてわたしの住んでいる多摩市の最高地点だが、調べる前に想像していたところとは違った。多摩センターと永山の間のどこかで、すでに何度も行っている場所に違いないと思って地形図を見たら、それよりも高いところがあったのだった。本丸は聖蹟桜ヶ丘と永山の間、多摩市のページに「天王森公園」との記述があったが、地図上で検索しても東村山市の天王森公園しか出てこない。さらに検索してみると、八坂神社の近くにあるという。また汎用性の鬼みたいな神社名……とりあえずこれを目印にして行ってみればわかると思って行ってきたのだった。
 
市内なので徒歩で行ったのだが、いきなり核心に触れてしまうと感動しすぎて号泣してしまう恐れがあったため、東に進んでから、以前、SUUMOタウンでも紹介した、稲城市の最高地点を経由して行くことにした。
 
稲城市の最高地点は、多摩市の最高地点から10分もしないところにあるのだが、見晴らしがいいなと思うだけで、そこが稲城市の最高地点であると明示しているわけではない。

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このゆるい木陰の休憩所のようなところが最高地点で、ここで休憩している人は皆、ここが最高地点だと気づいていないふうである。いや、もしかすると、最高地点であると知っていながら、恥ずかしがり屋なため、その感動が外に漏れないよう、唇を噛んでいるのかもしれない。
 
この地点から少し降りると見晴らしのよいゾーンがある。

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並んでいるのは若葉台パークヒルズ。見ていると住みたくなるのだが、わたしはいつもここで若葉台パークヒルズの物件情報を検索して眺めて満足し、まあでも今の賃貸暮らしもいいじゃないなどと思いつつ、若葉台方面に向かっていたのだった。
 
この先にわが故郷(まだ5年ほどしか住んでいないが)の最高地点が待ち受けていようとは……。
 

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みはらし緑地を降りた道の向こう側は多摩市。このふたつの給水塔が多摩市にあってくれてうれしいと思っている。稲城にはかっこいいトンネルがあるので十分でしょうと思うのである。
 
尾根幹線道路の上を通る橋から見ると、多摩市の守護神のような風格が感じられる。

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……というか、多摩市、改めて見ると緑が多すぎてちょっと驚いた。港区の人が見たら卒倒するのかもしれない。
 
橋を渡って少し歩くと右手に八坂神社。

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さほど高くなかったとしても、最高地点はやはり神社とmixされていてほしいよね……。
 

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神社だけではなく、多摩市天然記念物のスダジイも鎮座していて、大した高さでもないのに神様がいてくれてありがとう……と思う。
 

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天王森公園の名前に若干のインパクトありと思っていたが、やはり明治天皇が訪れた場所らしい。このあたり一帯は御狩場だったことは有名な話。明治天皇が来ただけで「聖蹟」と呼ばれる感覚は、そのよしあしはさておき、今からすると理解不能である。
 

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社殿は簡素だが、左手にブランコがある。

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ブランコ側から社殿を眺める。
神社とセットのブランコは最高だが、大人が乗っていいブランコには見えなかったので見るだけである。
 
 

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また、湿り気の多い中、ワカメ状のものが土の上でよく育っていて、「多摩市の頂点には何もかもがある!」と思ったのだった。
 

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最高地点の標識があり、三角点まで用意されていて感動した。なお、三角点なのに四角い理由は「三角点 なぜ四角」で検索すると得られる。
富士山の3776mなどからすると比べ物にもならない161mだが、最高地点を盛りたててくれるさまざまなアイテムがあり、もっと早く来ておけばよかったと思った。
 
なお、モサモサ感重視のため、見晴らしはさほどよろしくないのだが、失望するには及ばない。すぐ近くに「てっぺん坂」という、少年向けの漫画に出てきそうな名前を冠した坂があり、その坂の上から見ると、それなりの満足感が得られた。

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お住まいの地域の最高地点のよしあしは運次第だけれど、もし、あなたが、自分の住んでいる市区の最高地点がどこか即答できない状態なのであれば、ぜひ調べて行ってみてほしい。ワカメみたいなのが盛大に生えているかもしれないから……。
 

近所の適当な川の始まりから終わりまでをたしかめると楽しい

旅行やお出かけができないときは、近所の散歩の範疇でエンジョイすることになる。すぐ思いつくのは公園だけれど、公園もそれなりに人がいて、social distance的にどうなのと思うこともあるし、そもそも、人が少ないことが公園のよさでもあるので、人の多い時期に行ってもあんまり楽しくない。
 
ではどこに行けばよいのか、せっかくだから、今までしてこなかった散歩をしたい、置かれた場所で咲きたい……と思って思いついたのが、近所の適当な川の最初から最後までをたしかめる散歩である。多摩ニュータウンを横断するように流れている乞田川という川を、わたしは毎日のように見ているが、この川がどこから来てどこへ行くのかを見たことがない。川の名前にいくぶん不思議な響きがあるが、この地域はかつて飢餓が多く発生し、領主に田んぼの耕作をさせてほしいと乞うたという説もあるが、モニュメントのようなものはとくにない。
もしかしたら乞田川の終わりは大きな滝のようになっていて、そこが世界の端かもしれない。乞田川の始まりと終わりをたしかめずに、よく今まで生きてこられたな……などと気持ちが高まってきてしまった。
 
以下はあくまで一例で、乞田川のことをまったく知らない人が見ても面白くないはずである。いまから紹介する風景が、自分の近所だったらどこになるだろうと思いながら参考にしていただけると大変ありがたい。
 
乞田川は、唐木田を源流として、多摩センター、永山と流れ、聖蹟桜ヶ丘近くで大栗川に合流し、その大栗川も多摩川に合流する。多摩ニュータウンに住んでいるなら、なんとか散歩でおさまる距離である。
多摩センターと永山の間は桜並木があり、地域のお花見の名所にもなっている。
 

近所の川の源流は概ね源流らしくないものである

そんな乞田川の源流は、唐木田の給水所近辺と言われているが、流れを確認できるのは、唐木田駅近くの鶴巻西公園からである。

 

鶴巻西公園内では小川が横断しており、小川の始まりのような場所もある。

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なるほど、ここが源流なのかぁ~という気分にもなってしまうが、それは気のせいで、この水はさらに上のRPGのセーブポイントのような場所からポンプで送水されている。

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この公園に大自然を求めていくとがっかりするが、多摩ニュータウンならではの公園を見たいのであれば、オススメ度は非常に高い。
 

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これが湧水風小川を生成中のポンプの勇姿。
 
話がそれたが、本当の源流は公園から外に出る殺風景な溝みたいなところから始まる。

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まあ「家から近いから」という理由で選んだ川の始まりなんてこの程度だろう。ここから多摩川に向かって歩いていこう。
 

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上流だと水量が少ないが、このように、近くの雨水を集めて少しずつ流れが太くなってくる。
 
10分ほど歩くと、暗渠になっている中沢川と合流する。
下の写真の手前が中沢川で、右がわれらの乞田川。奥に向かって流れている。

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近くに「落合」という地名があるが、この合流地点を指していたらしい。今の落合は多摩センター駅の近くで、この落ち合っている場所は鶴巻になっているが、そのへんの詳しい経緯までは調べきれなかった。
 
その合流地点から遊歩道が始まる。

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合流地点にはベンチがあり、ここに座って「合流してるなぁ~」と感慨にふけるのもよい。
 
ふと周囲の建物に目を遣ると、きぬた歯科。
マンションにダイレクトに書いてあるのは珍しいのではないだろうか。

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乞田川の鳥は、鴨と鳩とカラスくらいしかいないのだが、no鳥でもいいやと思っているので、鴨が寝ているところなどを撮れてラッキーと思った。

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夢いっぱいのくつろげるゾーンに突入

多摩センターに近づいてくると、桜並木ゾーンに入る。

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そして、より川に近いところを歩くこともでき、何箇所かで川岸に出ることもできる。
 
とくに、多摩センター駅のすぐ北あたりは、蔦が成長しすぎていて壁のようになっていておすすめ。

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このあたりでお弁当などを食べることも不可能ではないのだが、ただ、「一組だけ先客がいる」という状態が多い。何組も人がいるか、まったく無人なら気兼ねしなくていいのだが、一組いるなかで一人で参入するのは、なんとなく気まずいので、実際あまりお弁当を食べたりしたことはない。
 

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そして、この小さな川、よくわからないが一級河川なのであった。
そのわりには名前が消えているが……。
 
多摩センターと永山の中間地点では、流れが緩やかになって、葦が生えている。

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この川で一番好きなところである。
 

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川沿いの遊歩道では、近所の人たちが花を植えていて春~夏はかなり賑やか。
 

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永山に近くなってくると、整備されてきて、高低差が大きなところは魚道のようなものが作られている。
 

f:id:kokorosha:20200429073156j:plainこのあたりは見晴らしもよくて、ニュータウンという語のイメージがしっくりくるが、整備されすぎていて、もうちょっと野放しな感じにしてくれてもいいのにな、とも思う。

 

f:id:kokorosha:20200429073202j:plain子鴨たちが媼にパンの耳を与えられていた。

 

f:id:kokorosha:20200429073214j:plainしかしカラスが登場し、ほとんどすべてを器用に奪っていった。

 

f:id:kokorosha:20200429073208j:plainこの子は収穫なし子……。

 
永山の手前で桜並木はなくなるのだが、そのあとは適宜、ハナミズキなどが植えてあって(源流から歩いていても)飽きない。

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聖蹟桜ヶ丘近くの大栗川との合流地点に近くなってくると、最初見たときと比べるとかなりの川幅になっている。
源流の写真を見ながら、「あの子がこんなに大きくなって……」と感慨にひたるのもいい。

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夢にまで見た大栗川との合流地点

ここが合流地点。

f:id:kokorosha:20200429214011j:plain奥側が大栗川だが、いままで乞田川沿いを歩いてきたせいで乞田川の肩を持ちがち。

「なんか大栗川の水が濁ってるねぇ……」と思ってしまうのであった。
 
乞田川はここで終わり、大栗川になるのだが、せっかくなので多摩川に合流するところまで見届けていこうと思った。

f:id:kokorosha:20200429073244j:plainいい風景かどうかは措いて、大栗川に合流してすばらしい太さに成長していることはたしかである。

 

f:id:kokorosha:20200429073250j:plainこの謎ゾーンは大栗川と多摩川の中洲にあたる。

 

f:id:kokorosha:20200429073256j:plainテトラポッドの墓場のようである。

 

クライマックスに向けて地味な諸施設が姿を現す

さらに先を進むと、多摩川との合流地点。多摩市市立交通公園がある。

f:id:kokorosha:20200429073308j:plainここで交通ルールを学んだりできるらしい。

 

f:id:kokorosha:20200429073302j:plainプロトタイプみたいな信号がかわいらしい。

 
そして、さらに先には野鳥観察小屋がある。

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f:id:kokorosha:20200429073318j:plainじっくり観察してやろう……と思ったのだが、わたしがここに身を隠して観察していても、ほかの人類が外にいるから、意味はなさそうである。この小屋が目的通りに使われたことはないのかもしれない。

 
そして、まだここで多摩川とは合流してはいないので、奥に進む。

f:id:kokorosha:20200429073330j:plain大栗川を見て「大河だなぁ」などと思ってしまったが、多摩川のスケール感に圧倒された。

さんざん整備されてはいるものの、大自然を感じてしまったのだった。
 

f:id:kokorosha:20200429073335j:plain歩いても歩いても先が見えず、本当に合流するのかと思うし、石の大きさがまちまちでで非常に歩きにくい。

 

f:id:kokorosha:20200429073341j:plain大栗川、ここにきて、対岸が粘土むき出しの崖になっていて不気味である。

 
ここが合流地点。

f:id:kokorosha:20200429073347j:plain釣り人がいたのでここで撮影するにとどめた。

もうちょっと近くで見たかったけど……。
 
乞田川というか大栗川の終わりをたしかめて幾分落ち着きを取り戻したので、せっかくなので、大栗川と多摩川の比較をしてみた。比較といっても匂いを嗅ぐだけだが。 

f:id:kokorosha:20200429073324j:plain大栗川はその見た目とは裏腹にほぼ無臭だった。

 

f:id:kokorosha:20200429073353j:plain多摩川はビューティフルな見た目なのに、いかにも処理しました的な匂いがした。

 
それもそのはず、乞田川・大栗川が流れる八王子市、多摩市の下水は、この煙突の先の処理施設で処理され、多摩川に流される。つまり乞田川と大栗川には処理水が流れていない。いっぽう、多摩川はこの時点で処理済みの水が流れてきているので、特有の匂いがする。東京湾と同じ匂い。
 
じゃあこの匂いが嫌かというと、そうではなくて、都会の匂いとして、風情を感じる。
 
 
~~~
 
源流のような場所から約2時間で多摩川との合流地点に着いた。
これで乞田川のすべてを知ったという満足感がある。いちばん近くにある川の始まりから終わりまで見たという体験は、思いのほか日常に魂の平安をもたらしたのだった。
これをお読みになった方も、近所にちょうどいい規模の川があったらぜひ実践してみていただきたい。
 

友達がいない人の特権的エナジードリンク「くさチャイ」の製法と味と効能について

話が長くなるので最初に製法についてまとめておきます。
 
【材料】
牛乳:200cc
砂糖:大さじ4杯
紅茶:10グラム
クローブパウダー:大さじ1杯
シナモンパウダー:大さじ1杯
生姜:20グラム
にんにく:20グラム
 
【製法】
①牛乳・砂糖・紅茶・クローブパウダー・シナモンパウダーを鍋に入れて、弱火で7分温める
②①の間に、生姜とにんにくをすりおろしておく
③生姜とにんにくを鍋に入れて混ぜ、2分温める
④茶こしを通してカップに注ぐ
⑤うへっ……なんだこの飲み物は!

 

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先月、「海外のセレブの間でバターコーヒーが流行している」という話題がわたしの脳に届けられた。痩せたり集中力がアップしたりするなどの効果があるそうである。集中力は本当かなと思わなくもないが、痩せたら腹の肉が視界の端でチラつくこともなくなるだろうから集中力はおのずとアップするということなのかもしれない。
 
もしかするとあなたは、「先月バターコーヒーを知ったとは、キミはどれだけout of dateなの」と英語まじりにわたしのことを嘲笑するかもしれないが、わたしがバターコーヒーの名を網膜に映したのは2年以上前なので、あなたが思うほどout of dateではないはずだ。ただ、網膜から脳まで到達するのに少々お時間をいただいてしまったことは認めざるをえない。通常の情報なら、網膜から脳に到達するのは一瞬のことだが、そのとき、バターコーヒーを愛飲しているという「海外のセレブ」という文字列に意識を占有されてしまい、バターコーヒーの情報そのものは網膜と脳の間にある踊り場のような場所に放置されていたのである。その踊り場には今もなお、ピェンローやメイソンジャーサラダなどが桐の箱に入って大切に安置されているのだが、それはともかく、「海外のセレブ」といわれて想起するのは、ミック・ジャガー、マイケル・ジャクソン、マドンナ、シルベスター・スタローン……中には他界してバターコーヒーがなくてもわりと大丈夫な状況になっている方もいるほどで、30年間ほどアップデートがかかっていない状況である。これでは、若者は言うまでもなく、中年同士の会話にも支障をきたしてしまう。たとえばミック・ジャガー先生にあらせられましては、73歳でも子を成しているので、まだまだ健康だと推察しているが、「海外のセレブ」の持ち駒がこの30年で増えていないのはたいそう心細い。あとひとりふたり、「海外のセレブ」を銘記しておきたいのだが、それがシャバからいなくなったり天に召されたりするたびに覚え直すのが面倒なので、品行方正かつ若めのセレブがよいと思い、ホーム・アローンに出ていた子役の子はどうだろうと思って「ホーム・アローン 子役 現在」で検索したが、シャバにはいるものの、名前が長くなっていて覚えるのが困難だし、苦労してそれを覚たところで、この先セレブでい続けてくれるのか不安が残った。仕方ないので、わたしの把握しているもうひとりの子役、「レオン 子役 現在」で検索し、「ナタリー・ポートマン」という、少なくともわたしが死ぬまでの間はセレブの地位にいそうな方の名前を覚えた。彼女はもはや子役ではなかったので驚いて、思わず「ナタリー・ポートマン ヌード」で画像検索をしてしまったのだが、その結果報告は措くとして、わたしは「海外のセレブ」と言われたときに、それなりに最近のセレブを想起できるようになったのだった。
このように海外のセレブについて考えていたせいでバターコーヒーそのもののことをすっかり失念していたのだが、満を持してバターコーヒーについて考えてみたいと思ったのが先月の話。せっかく覚えた海外のセレブには失礼かもしれないというか、わたしの把握している海外のセレブが実際にバターコーヒーを飲んでいるかどうかも知らないが、カフェインと油脂が入っていたら、そりゃあいい感じになるに決まってるジャンという感想を持った。
 
そもそも、わたしは長年にわたって、紅茶の不甲斐なさをどげんとせんといけんよ……とニセ宮崎弁で思い続けていた。以前、友人がイタリアに旅行に行ったとき、神父たちが紅茶を片手にトランス状態で語り合っているところを見たという話を聞いたのだが、そういうことである。どういうことかというと、紅茶は本来、優雅でおしゃれな飲み物というよりも、そのカフェインの効能から、ドラッグとしても愛飲されるべきであるということ。しかしながら、ソフトドリンクの中でのドラッグといえば、もっぱらコーヒーであり、紅茶愛好家の方々には、あなたたちやられっぱなしでいいの?と反語を飛ばしたくて飛ばしたくてうずうずしていた。そんなところに届けられたバターコーヒーのお知らせ。弊ブログをご覧になるのが初めての方でも、わたしがどれだけショックを受けた想像がつくはずである。
 
……などと前置きが長くなったが、まとめると、「紅茶をベースにしたドラッグのようなソフトドリンクの開発が急がれている」という話。以前、茶葉の量を限界まで増やしたロイヤルミルクティーを試作してみたのだが、大量のミルクと砂糖を以てしても、渋くて飲用不可だったので諦めたことがあった。少なくとも、茶葉を増やすという方向には限度があることを知った。ここでカフェイン濃度を高めていくことでバターコーヒーを凌駕しようという作戦はほぼ終了してしまった。
 
しかし、そのあと思いついたのが、もともと体があたたまるとか、スパイスでシャッキリするといわれているチャイをKAIZENする形。スパイスはそのまま入れて煮こむより、パウダーをそのまま入れた方が早いし効能があるとすれば煮出したエキスだけでなく、本体もそのまま味わった方がよい。まずこの点を従来のチャイからのKAIZENとする。
 
そして、チャイにバターを足すことも考えたのだが、すでにミルクを足しているので、味としても効能としても重なってしまい、適切でない。
うーん……と思ったが、ふと、ニンニクがあるじゃないか、と思った。ニンニクが甘い味なのはどうなのかと思うかもしれないが、「ニンニクのグラッセ」という、極めてアウトサイド寄りなデザートもなくはないので、試してみる価値はあるだろうと思ったのである。
 
以下、写真をまじえた製法を記させていただく。
 
 
【材料】
牛乳:200cc
砂糖:大さじ4杯
紅茶:10グラム フレーバーティーを使うと、より味がややこしくなるのでおすすめ。先述のとおり、茶葉を増やしすぎると、苦いというより渋くて飲めないので、10グラムが適量だと思う。
クローブパウダー:大さじ1杯
シナモンパウダー:大さじ1杯 これは五香粉に代えても中華風になって楽しい
生姜:20グラム
にんにく:20グラム
 
【製法】
①牛乳・砂糖・紅茶・クローブパウダー・シナモンパウダーを鍋に入れて、弱火で7分温める

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見た目、ややグロテスクだけれど、味もグロテスクなので期待して作っていただきたい。

 
②①の間に、生姜とにんにくをすりおろしておく
 
③生姜とにんにくを鍋に入れて混ぜ、2分温める
ここで、火を止めてから生姜とにんにくを入れてしまうと、いくらなんでも臭すぎるし、生のにんにくは体によくない(実際のところ、生のにんにくを食べすぎておなかを壊して寝こんだ経験あり)ので、友達がいなくてもここは加熱しておきたいところ。
 
④茶こしを通してカップに注ぐ
200ccの牛乳を使っても紅茶に吸われたり蒸発したりで、できあがりは100cc強といったところ。ただし濃厚なので、100cc以上飲みたいという気分にはならないので安心してほしい。
 

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エスプレッソ用のカップやショットグラスがあれば、使ってみると気分が出る。何の気分かはわたしにもわからないが……。
 
飲む前に、まず、目の覚めるような匂いがする。複雑かつ強烈。
飲んだら、口の中がにんにくで満たされる。材料を見たらわかると思うけれども、重量で換算すると、ニンニク10%にはなる清涼飲料である。清涼なわけなかろうが……。
 
味はどうかというと、おいしいことでおなじみのユンケルをさらに豊かにしたような味で、わたしは大好きである。味が濃いので一気に飲めず、ちびちびいただいた。また、インパクトが強すぎて、お茶請けなどはまったく必要ない、というか、飲んでいると喉が乾いてしまうので、むしろ自らが液状のお茶請けとなっているので、口直しにジャスミン茶とともに召しあがるのがよいかもしれない。
飲み終わった直後は、しばらく飲みたくないと思ってしまうのだが、翌日になると、また飲みたくなる不思議な味。何よりも、効能が顕著だった。飲んで2時間くらい経ったら体の疲れが消えており、倦怠感も一掃されていた。20時ごろいただいたのだが、翌日の朝の目覚めがスムーズで、いままでにない感覚である。体の各機能が底上げされているような不思議な感覚になる。そして効果は翌々日にまで持続しているように感じる。
 
ただ、大きな欠点がある。やはり大変臭い。ミルクで煮こんだが、帳消しになってもなお残る圧倒的な腐臭。わたしは友だちがほとんどいないため、どの程度匂っているのかはわからないが、自覚できる程度に臭いということは、第三者が嗅いだら、かなりの悪臭を放っている可能性が高い。翌日誰にも会わないと決まっているときのみ、飲むことを自分に許可しているし、バターコーヒーを出社前に飲むのに比べ、くさチャイは仕事(=人と会う)が終わってからしか飲めないので、仕事上の生産性アップにはまったく寄与しないのであった。
 
 

究極の神道建築はピカピカすぎて、神様がいると思えない

昨年の天皇の代替わりには大して興味はなかったのだが、平成のはじまりのころはネガティブな関心を持ち、それなりに行動していたことを思い出すと、30年という時の長さを想う。それはともかく、あるときFacebookでマイフレンズが載せていた大嘗宮の写真があまりにも不思議だったので拡大して見、それでも気持ちがおさまらなかったので、長時間並ぶことを覚悟しつつ、大嘗宮の公開の最終日に、大嘗宮の様子をたしかめに行ってきた。
 
特に気になっていたのは鳥居である。黒木造という、かなり古い様式で作られているのだが、プレイステーション3(初代でも2でも4でもなく)に出てくる木のように、低ポリゴンの立体にテクスチャーをベタっと貼ったようなビジュアルに感動し、ぜひ実物を……と思ったのである。
 
行ってきたのは公開最終日。大嘗宮は急ごしらえなわりに広大で、列をなして移動する間に、少しずつ有利な場所に移動し、全体をおさめることができた。

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遠くから見ても、曲線は見当たらず、シンプルで、「概念」という印象を受ける建築である。
お目当ての鳥居。

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スマートフォンで人が撮ったのを見ていて、カメラにもよるのかなと思ったが、フルサイズ機で撮ると、いっそうプレイステーション3である。
 
この儀式が古くから続いていることや、造形がたいへんユニークで実物を見ることができてよかったとは思うものの、ここに神がいることなどを説得するための建築がこの佇まいなのか、と驚く。
三浦半島で見た手すりに似ている。

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そして鳥居以外もなかなかプレイステーション3だった。

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vaporwaveみたいだとも言えるかもしれない。

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なお、令和の大嘗祭から茅葺きの屋根が板葺きになった建物やプレハブに変わった建物もあるなど、驚くべき仕様変更が行われていて、数十年でそんなに変わるのなら、いままでもさんざん変わってきたに違いない。
 

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仕様変更のなかった鳥居についても、より原木に近くすれば、木の精の存在感が感じられ、同時にここに神ありと信じることができたかもしれないが、あえて枝が存在しなかったかのように精巧な加工が施されていて、むしろ伝統を感じさせなくしているようにも見えてしまう。
 
伊勢神宮の式年遷宮の様子を見に行ったときも似たような気分になった。

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柱がピカピカで、歴史が感じられない。もちろんこの鳥居そのものは建てられたばかりなので、歴史も何もない。神が大昔からずっとここにいて、20年ごとに住まいが変わるだけだということは承知しているが、新しいところに神がいると信じるのが難しい。
 

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「朽ち果てている場所には神はいない」という考えでそうしているのだろうし、この圧倒的な数の参拝者たちのほとんども、このピカピカの建物の中に神がいると信じ、畏怖したり、何がしかのご利益を期待したりしているのだろうけれど、わたしはただ建物を見に来ただけの異邦人であり、同じ場所にいながらすばらしい断絶が感じられたのだった。
 
なお、新旧で共存しているタイミングを狙って見に行ったので、古い―といっても20年だが―経っている方には神がいるかもしれないという気がしなくもない。

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あるいは、特に有名ではない末社のペンキで塗った鳥居でも、数十年経ってみると風格のようなものが感じられ、神がいそうな気もする。

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自然物の姿を想像させたり時の流れを感じさせたりするものには説得力を感じるが、わたしにとっては、ピカピカした木たちに伝統を感じたり神がいると信じることが難しい。大嘗宮は古代の黒木造で、伊勢神宮に至っては「唯一神明造」という少年ジャンプに出てきそうなくらい絶対的な建物のはずだけれど、組体操大好きペアレンツの感性と同じくらいの隔たりを感じる。組体操大好きペアレンツは同時に、ピカピカした木に神を見出すことができているのかもしれない。
 
わたしは、神道の国、日本に住むものとして必要なトレーニングが足りないのかもしれないと思うが、この違和感も含めて楽しいと思っている。