ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークnifty.comです。

上から2冊目の本を買うのをやめた

かつては率先して2冊目の本を買っていた

本を買うとき、上から1冊目ではなく2冊目を手に取るようになったのはいつからかは覚えていないが、少なくとも小学生のときはすでにそうしていた。本屋に積んである本のいちばん上は立ち読みの対象になるので実質的に古本である。だから、きれいな本を買いたければ2冊目を取ればよい。わたしはそのことを独自に発見したつもりでいたのだが、他の人が同じようにしているのを見かけ、自分だけがそうしているのではないと知った。むしろ、素直にいちばん上の本を買う人の方が少数かもしれない。当時、わたしは自分が神童であると思っており、その根拠のひとつが「本屋で上から2冊目の本を取る」だったので絶望したのだが、いま思うに、あまりにも脆弱な根拠であった。
わたしの神童幻想の舞台となったのが大阪府四條畷市にある「くるみ書店」である。昔から忍ヶ丘駅前で営業していて、2025年現在も営業している。わたしは駅から少し遠くに「ブックランドすばる」という大型書店ができてからはそちらの方に通っていたりもしたが、そちらは2014年に閉店している。くるみ書店の粘り勝ちになるとは思ってもみなかった。個人経営の本屋を駅前で続けるのもかなり大変だと思うが、ありがたい話である。

それはともかく、わたしは神童ではないことが発覚したあとも、心折れることなく2冊目の本を買う暮らしを続けていたのだが、半世紀生きてきて考えが変わり、今はいちばん上にある本を買うことにしている。そしていま、自分が天才であることの根拠のひとつが「本屋でいちばん上にある本を買う」となった。それもまた脆弱な根拠ではあるのだが、少なくとも、自己肯定感が得られ読書生活が豊かになったことは実感できている。

 

「神経質な自分」と向き合うのに疲れてしまった

2冊目を買うという行動は、単体で考えると労力のかかる作業である。あらかじめ購入意思がある本の場合、本の山を見つけ、1冊目を脇に置き、2冊目を手に取って1冊目を元の位置に戻す。これは純然たる作業であって、その行為自体にはなんの喜びもない。そして、その作業が単純であるがゆえに「わたしは神経質な人間であり、他人が読んだ本を購入することすら許容できないのでございます」という自省が浮かぶ。買う気のある本ならまだその程度で済むのだが、立ち読みしているうちに買いたくなった場合はさらに厳しい自問が待っている。どういうことかというと、立ち読みして気に入ったなら、そのままレジに持っていけばよいはずなのに、それをわざわざ脇に置いて、2冊目を手に取り、読んでいた本を元の位置に戻す……という極めて不自然な行動にコミットするのである。単に、きれいな本がほしいというのではなく、1冊目を汚す行為に積極的に加担していて、自意の問題を超えて、うっすらとした迷惑行為に辿り着いてしまっているのである。

そして、これらのリスクをとって2冊目を取ったとしても、それが本当に2冊目である保証はどこにもない。「上から3冊目を買う」という過激派がその書店に潜伏していた場合、過激派は1冊目と2冊目を脇に置いて3冊目を購入することになるが、そんな過激な存在が、1冊目の下に必ず2冊目を置いて原状復帰をしてくれる保証がどこにあるだろうか。そして、過激派への自衛策として、「2冊目が本当に2冊目なのか」を、目を皿のようにして確認し、2冊目が真の意味で新品の本であるといえる状態であると確認できたとして、1冊目を元の位置に戻そうとしたときに、1冊目もまた真の意味で新品の本であるといえる状態であるように見えた場合、そもそも自分がしてきた2冊目を選ぶという行為の無意味さが身にしみてくるはずである。

こうなってくると、本を買うという行為が、愉快な読書のための準備というより、自分の心の闇を覗く行為になってしまって、このようにして買った本を楽しく読むことができるかというと非常に疑わしい。

 

きれいな本だと気軽に手に取れない→そのまま積読コーナーへ

もし、明鏡止水の境地で2冊目の本を購入したとしても、その本はどうなるかというと、なるべく美しい状態を保ちたいという意識が強くなるばかりで、そのまま帰宅して、本棚に入れてしまうだろう。汚してはいけないという気持ちがあれば、ポテトチップスを食べながら気軽に読んだりはできず、本を手に取るハードルが上がってしまう。そうなってくると、読書体験を買うのではなく、本を運搬して家に積む権利を買っただけになってしまう。
そもそも、「早く読みたい。多少汚れていようが構わない」と思うのが読書家としての自然な姿ではないだろうか。昔、『いちげんさん』という映画があって、鈴木保奈美さんが何らかの役で出ていたのだが、帰宅するや否や服を脱ぐのももどかしく行為を始めるというシーンがあり、わたしはスカパー!で録画したBlu-rayを後生大事にし、そのシーンだけを繰り返し見ている。全体としてどのような映画なのかは知らないままなのだが、これを見るたび、読書も同じことで、何冊目の本を選ぶかももどかしく本を購入して読みはじめたいと思うのであった。

 

 

以上の心境の変化により、わたしは1冊目の本を買う人間へと生まれ変わった。

レジに持っていったとき、「カバーはおつけになりますか」と聞かれたとしても、もちろん「大丈夫です」と微笑む。カバーをつけるという行為は1冊目を買う人がすることではないからである。

 

 

 

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チーズ牛丼を避けていたが、食べてみると想像以上においしくて驚いた

チーズ牛丼の略称「チー牛」が侮蔑語として使われる前から、チーズ牛丼のことはnot for me だと思いこんで、食べようと思ったこともなかったが、侮蔑する記述を繰り返し眺めるにつけ、だんだん「オタクのソウルフード」のような感じがしてきて食べたくなってきた。

 

ただ、わたしのソウルフード観も非常に大雑把で、「アメリカ南部のアフリカ系アメリカ人が食べていた内臓の煮込み」程度の認識しかなかった。前半は間違ってはいないとしても、「内臓の煮込み」って何やねん。先日わたしが1000円寄付したことでおなじみのWikipediaの「ソウルフード」で検索してみたら、部位はともかく揚げたものが中心だった。煮込みだとうっすらヘルシーで、抑圧された民の不健康な食事というイメージから少し離れてしまうし、日本のモツ煮込みと混同していたようである。なお、部位についても、豚の内臓だけでなく、たとえば鳥のもも肉も該当するような記述があり、それならそんなにキツい食事でもないのではと思ったのだが、好きで食べるのと、それしか選択肢がないというのは状況として異なる。

そもそも、オタクは少なくとも経済的には抑圧されていたりはしないので、ソウルフードに位置づけてしまうと、文化の盗用との誹りを逃れられない。「B級グルメ」などと思うのが妥当かもしれないが、いずれにせよ、チーズ牛丼が、高級なものではないが、その分おいしさの本質を捉えたメニューのような気がしてきたのであった。

 

そしてある休日の朝、わたしはチーズ牛丼の聖地であるところのすき家に向かったのだった。

朝起きてチーズ牛丼を食べにいくところから本気度を知っていただきたい。「ランチでよく行く店が混んでいたから比較的混雑していないすき家に行った」などという理由ではないのである。


わたしは堂々入店し、迷いなくチーズ牛丼を選んだ。それだけだと罪悪感があるので、オクラ入りのサラダも頼んだ。

チーズ牛丼の実物を見て、「なぜ牛丼にチーズをのせるの?」と思ってしまったのだが、「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」に興味本位で入ってみて、想像以上においしかったので、「すき家=なぜ牛丼にチーズをのせるのか」だと思いなすことにした。

 

せっかくなので近づいてみよう。

溶けているのがエグモントチーズ、溶けていないのがレッドチェダーチーズとモッツァレラチーズというインターネット情報を得た。ひとりだけ溶けていると、ほかの二人もがんばったら溶けられるんじゃないのと思ってしまうが、がんばりの問題ではない。そしてひとりで溶けてチーズ感を一手に引き受けているエグモントチーズのことを恨むのは筋違いというものである。ひとりでサービス残業をして賃金のダンピングをしているわけではないのだから……。

 

特に頼んだわけでもないタバスコが添えてあった。メニューにも「タバスコつき」とあった。「お好みで使うのだな、わたしはチーズ牛丼の素材の味を味わいたいからいらないが……」などと思いながら食べはじめた。

あまりにも想像どおりの味だった。牛丼の上にチーズがのっている、チーズがのっていることで牛丼がまずくなったりはしないが、コロッケそばのような1+1が2ではなく4くらいになるような味の相乗効果は感じられない。コロッケそばに4を感じてしまう件については、回を改めてお話ししたい。

 

そして、タバスコが席に常備してあるのではなく、チーズ牛丼を頼んだときのみに添えられる意味について考えてみた。おそらく、牛丼にタバスコをかけてもさほどおいしくはならなくて、チーズ牛丼にかけたときにおいしくなるのだろう。

 

……などと考えながらタバスコをかけてひとくち食べてみたら、その変貌ぶりに驚いた。

1(牛丼)+1(チーズ)+1(タバスコ)=5くらいになっている。
牛丼とチーズの違和感がタバスコによってたちまち解消し、それぞれのおいしさを引き立てはじめたのである。

 

よく考えてみれば、この組み合わせはタコライスに近い。レタスとトマトがないものの、ごはんの上にひき肉とチーズがあって、タバスコをかけて食べる。タコライスの野菜について「別に……」と思う人であれば、タコライスよりも魅力的かもしれない。「チーズ牛丼=和製タコライス」の公式が浮かんだ。タコライスがもともと和製なのだがそれは措いておこう。タバスコをかけたとたん、和洋折衷のおいしいごはんになったのだった。


チーズ牛丼をいちど頼んでしまったら、次に行ったときにはふつうの牛丼を頼む気にはなれなかった。圧倒的に「足りない」と思ってしまったからである。

 

念のため、すき家ではない店でチーズ牛丼を頼んでみたのだが、そのときはタバスコはなかった。唐辛子をかけて食べたらいいのかなと思ってかけてみたのだが、そういうことではなかった。

辛ければよいということではなく、お酢があることでのさっぱりした感じが不可欠なのだろうと理解した。


では、チーズ抜きの牛丼+タバスコはどうなのか。

こちらもまたおいしくないに違いないと思ったが、念のためたしかめてみた。

牛丼をテイクアウトして、よく行く公園の絶対に人の来ないゾーンで、あらかじめ購入したタバスコをかけて食べたのだが、予想外においしい。チーズがあるときと比べて少し足りない気がするが、じゅうぶんなおいしさである。おろしポン酢でいただくとんかつなどがあるが、それらに近い味で、さっぱりした牛丼が食べたいのであれば、ぜひまた食べてみたいと思う味だった。


思いかえしてみると、かつてわたしは「たらこスパゲティ」に対してもチーズ牛丼と同じ感情を抱いていた。たらこ=牛丼、スパゲティ=チーズである。好んで食べることはなかったのだが、ひとり暮らしをするようになってから多用している。


「チー牛」と揶揄してくる女性への反撃として「豚丼」という侮蔑語があるが、投稿をよく見ると「チー牛」と言っている人の指が写っている写真を見て、その指が太いことから体全体が太っていることを揶揄していた。指が太いだけで体全体としてはスリムである可能性もあるし、そもそも言い過ぎである。「チー牛」は、少なくとも表面上はチーズ牛丼を頼む嗜好の是非が問われているにすぎないが、「豚丼」は、おもに女性の体型について言及しているのである。なので、正しく女性に対して反撃するなら、「たらこスパゲティ」などがよいような気もするが、いずれにせよ、けんかはよくないというのがわたしの認識である。

 

 

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日本丸と北朝鮮の工作船を見ていろいろ想像した話

あなたが、みなとみらいに行ったときにいつも目にして、「へぇ、中に入れるんだ。次行ったときは入ってみよう」と思いつつ通り過ぎ、次に行ったときもまた「へぇ、中に入れるんだ。次行ったときは入ってみよう」と思いつつ通り過ぎ、入る機会がないものといえば日本丸である。

業を煮やしたわたしはあなたに、「今日は、お出かけの主従関係を逆転させて、日本丸を見学するついでにみなとみらいに行こう」と提案したのだった。

 

航海練習船だからかもしれないが、日本丸の中は学校の教室の匂いが充満していた。柔軟剤ファミリーが通り過ぎたときは柔軟剤の匂いに支配されてしまうが、今の学校の教室も一定の柔軟剤チルドレンがいるはずなので、それも含めて「教室の匂い」なのかもしれない。

 

匂い以外についていうと、帆は張っていない状態ではあるがマストなど大変優雅で、「太平洋の白鳥」と呼ばれる理由がわかったが、実際の白鳥の頭をよく見るとだいぶ黄ばんでいるなどして大して優雅でないのと同様、この船にも優雅とはいえないところがあると思ったのは練習生用の部屋を見たときだった。

練習生用の部屋は個室などではなく、4人部屋で、2段ベッド×2である。もしわたしが練習生で、あなたの後輩にあたるのであれば、おそらくわたしが上の段のはずで、あなたは下の段になるはずだ。上の段からは首を伸ばせば海が見えて、高い方が上座かなと思ったのだが、「2段ベッド 上座」で検索して、いろいろなサイトが見つかり、マナー講師のような人もそうでない人も異口同音に「上座は下段」と言っていた。たしかに、寝るたびにはしごを登る人とそのままベッドに飛びこむ人のどちらの社会的立場が上かといえば答えは明らかだろう。あなたは、わたしがベッドの上段でつまらない冗談を言ったりしたらベッドを蹴りあげて反応したりもできる。

 

しかし、最初に部屋割が決まって部屋に入ったとき、中央の感じのよい椅子についてあなたは着目すると思う。ここをただの共有の椅子にするとあまりいいことにはならないと予感する。半年も同じ部屋で過ごしていれば、となりあって椅子に座っているうちに必要以上の親しみを感じることになることが容易に想像がつく。そこであなたは、先手を打って、この椅子を時間制で交代で使うことを提案するのである。他の部屋は考えなしに無秩序に利用した結果、妙な空気が流れてしまう。親しすぎるというだけならよいのだが、誤解に伴う嫉妬が渦巻いて、穏やかな海を航海してるときも精神的には大シケである。いっぽう、あなたの提案によって、われわれの部屋はちょうどよい距離感が保たれることとなった。そこで最もあたりさわりのない話題として重宝されるのは食事のメニューの話なのである。

 

船の上とはいえ、メニューはすばらしく、ふつうにひとり暮らしをしているときよりもはるかに豪華な食事にありつける。しかし、栄養のバランスを考えると、どうしてもほうれん草のおひたしが登場してしまうことがある。他に適切な話題もないので、おひたしをいかに悪く言うかの競争みたいになってしまって、最初のうちは、苦くて無駄にジューシーだから、せめて乾かしてほしい……などのコメントにおさまっていたのだが、航海がはじまって3ヶ月後には完全に煮詰まってしまって、わたしはほうれん草の役になって芝居を打って、人間に命を奪われることは仕方ないとして、せめてバター炒めにしてほしかった、命を奪われるだけでなく、おひたしにされてまずいまずいと言われながら飲みこまれて胃液に溶かされていくのは恥辱の極み……などとあなたに向けて言っているうちに、なんだか悲しくなってしまってわたしは涙が出てくるし、あなたも罪悪感のようなものが芽生えてきて謝ってしまう。そして食べなかったほうれん草のおひたしをポケットに入れて押し花のように部屋の天井に貼って供養するのであった。航海が終わるころには天井のほうれん草は龍になって、われわれが無事に帰港するための守り神のようになったのであった。

 

さまざまなドラマがあったようななかったような日本丸を降りて30分ほど歩くと、まるで船を一隻匿っているかのような建物が見えてくるが、それは北朝鮮の工作船を展示している海上保安資料館横浜annexである。

 

日本丸で航海については習得できたものの、北朝鮮の船が弾を撃ってきたときにどう対処するか、われわれは机上でしか学んでいない。正当防衛であることをじゅうぶんに示すためにふたりでカメラに状況をおさめようとするが、船が揺れてどんどん気持ち悪くなってきて、わたしは日本の領海が侵犯されることよりも胸にわきあがってくるものの対処のことしか考えられない。そんなわたしを尻目にあなたは勇敢にも北朝鮮の船に対して適切な射撃をするが、最終的に北朝鮮の船は自爆して沈んでいくのだった。

あなたは、殺意に満ちた者たちであるとはいえ、自分の手で彼らの命を奪うことにならなかったことに安堵しながら、生還することが絶対になくなってしまった工作員たちの暮らしに思いを馳せる。

日本で入手した缶詰、日本では非常食のようなものかもしれないが、工作員にとってはごちそうだったに違いない。

 

小さな液晶のポケットコンピューターはゲームもできるので、小さな白黒画面でシューティングゲームを楽しんでいたかもしれない。実際にシューティングで命のやりとりをすることになることを意識しながら遊ぶゲームはどんな感じだっただろう。

 

 

日本丸と北朝鮮の工作船、片方だけ見ると心のバランスがおかしくなって仕事に差し障ったりするかもしれないので、いちどに両方見ることができてよかった。

 

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カメラで「元が取れたよ」と自分に言い聞かせることに成功した

たとえばホテルのビュッフェ。小さな区画に区切られた不思議なお皿に和洋さまざまなおかず、スクランブルエッグやサバの味噌煮などを盛っていく。ときには肉じゃがの汁が越境して、隣のカリカリのベーコンが汁っ気たっぷりになることもあるかもしれないが、細かいことを気にしないのであれば、朝食なしプランとの差額1500円の元はたやすく取れるだろうし、がんばり次第では、宿泊費の一部を回収することすら可能である。

 

しかし、カメラの場合はどうだろう。それなりに高価ではあるし、何を以て「元が取れた」とすればよいのかが不明である。カメラ好きの人の多くはそんなことは気にせず趣味に没頭しているのだろうとは思う。
ただ、わたしの場合は違う。「元が取れた」という実感を得ないまま使い続けていくと、「老後の蓄えも大してないくせに高価な機械など買いよって……」と、もうひとりの自分がやかましいので、この際でっちあげでもよいので、「元が取れた」という実感を得ておきたいのである。

 

前置きが長くなったが、GR IIIというデジタルカメラを、日常で持ち歩く用のカメラとして2年ほど前に購入した。正確に書くなら、「GR III Diary Edition」である。色遣いが80年代のPCのようで、気に入っている。

そのときは128,520円した。その前は富士フイルムのX100Fを使っていたのだが壊れてしまったのである。GR IIIのことは気になってはいたが、いかんせん高価なので買う口実がなければ買うわけにはいかないと思っていたところに故障してしまったのである。大義名分が得られたので半笑いで注文した。いまは抽選販売で売られており、中古でも、わたしが買ったときよりも高い値段で売られている。これらを以て「元が取れた」と考えてもよいのだが、感覚的なレベルで「元が取れた」という気持ちになって心の平安が得られた記念にこれを書いている。


昭和のころと比較すれば、1枚撮ってSNSに載せれば元は取れている(と言えなくもない)

インターネットがなかった時代と比較すると、買ってすぐ元が取れる状態と考えることも可能である。たとえば、撮った写真をSNSで見てもらうところまでをカメラのコストと考えるなら以下のような計算も可能だろう。
GR IIIの解像度は6000ピクセル×4000ピクセルなので、四つ切りサイズの印刷に耐えられる。これをSNSに載せ、1000人が見たと試算する。同等のことをインターネットのなかった時代にする場合、写真1200円の写真を1000人に送ることになる。昭和50年代の定形外郵便の料金120円を足すと、1枚プリントして送るのに1320円かかる。これが1000人分なのだから、1枚撮ってSNSに載せるのと同じことを昭和時代にしようと思ったら、それだけで合計132万円かかっていたと考えることもできなくはない。


シンプルに考えて、プリント代と比較するのが適当かもしれない

しかし、インターネットで拡散するところまでを考えて「ボロ儲けですよ」と言われてもリアリティがあまり感じられないので、単純に「デジタルなのでプリント代がかからない」という論法の方が自分の気持ちも納得しそうである。
プリント代は、拡大して見ることもそんなに多くはないので四つ切りではなく1枚50円のL版と換算してみる。
冒頭の128,520円をそのまま50円で割るなら、2,570枚撮れば元が取れたことになるが、デジタルカメラだから無駄にシャッターを押した分くらいは勘案しておかないとリアリティがない。「意味ないかもしれないけど念のため撮っておこう」と思って撮った写真の割合は、だいたい3枚中2枚くらい。本当に見返す写真は10枚に1枚もないように思うが、それを言っていいなら、フィルムカメラの時代に「写ルンです」で撮った写真もほとんど見返していないので、対フィルムカメラの3倍いらん写真を撮っているという状態が適切だと思う。
上記を考えて、歩留まりを33%と考えると、7,788枚撮れば元が取れる計算である。
いま9,189枚撮ったので、元がすでに取れていると見なせるし、そのような実感も得られている。

 

「コレや!」という写真が100枚くらい撮れたらいいんじゃないのという気もしている

もし、多摩動物園からライオンが逃走して多摩モノレール通り沿いを闊歩している写真が撮れるなどした場合は、1枚で元が取れた気分になると思うので、実際は「撮れ高」の累計が一定量に達したら、元が取れた気分になるのかもしれない。気に入っている写真が100枚も撮れたらよいのかなと思う。

カメラの性格上、一般的にいう決定的瞬間であったり絶景を切り取ったりできるわけではないが、GR IIIがなかったら撮れていないかもしれないと思う10枚を紹介したい。おそらく解説なしだとなぜこの写真なのかがわからないと思うので、解説をつけさせていただきたい。

 

(1)稼働中あるいは非稼働中の何らかの工場

津久井湖から相模湖まで歩いているときに見かける工場。ただの散歩と思って歩いていたらちょっといい感じの工場があったときなども安心である。

 

(2)ヒヨドリに葉だけ食い荒らされたブロッコリー畑

近所の畑なのだが、日常に潜む惨劇が撮れてよかった。節操なく食い荒らしているように見えるが、人間にとっての可食部はお好きでないようで、きっちり避けている。

 

(3)「ホテル 野猿」跡

たまたま通りかかって更地になっていたので撮った。

「野猿」という文字列を見ると、とんねるずのユニットである「野猿」の解散を苦に、ふたりの高校生が飛び降りた事件を思い出すが、そのユニット名の由来になった「ホテル野猿」が、名前を変えたあと、さらに更地になったところ。

 

(4)松屋でダブル生野菜になってしまったところ

定食に生野菜がついていたことを認識せずに生野菜をプラスしてしまったのだが、その戸惑いがよく写しとれているように思う。生野菜2セットを食べるとすごい水分量になった。

 

(5)よしもとが多摩ニュータウンに来た

よしもとがパルテノン多摩に来るというニュースを見て、二度と来てくれないだろうという気がしたので見に行ってきた。撮影禁止だろうと思ったが、開演前の説明のときに「いまなら撮ってもいいですよ!」と言われて、慌ててカバンの中を探してGR IIIがあったので撮れた。

 

(6)神社のお供え

美容室に行くまでの道にある神社のお供えを見るのが好きでよく撮っているのだが、このときは白湯と鬼ころし、焼きさつまいも&むき栗という組み合わせで、バンドだったら方向性の違いで即日解散しそうである。

 

(7)晩秋の若葉台

家から若葉台までよく散歩している。若葉台は多摩ニュータウンの中でもニューな方なのだが、ニュータウン外から見た景色が非常に好きな感じ。

 

(8)いい木の幹

買い物に行く途中でいい感じの木を見かけたときにGR IIIが役立っている。

 

(9)おいしそうに撮れて実際おいしかった冷やし刀削麺

新宿の西安で食べた冷やし刀削麺。

 

(10)街中の廃墟

おそらくスナックだと思うけど、散歩中にとつぜん廃墟を見つけたときにもGR IIIは廃墟感を写し取ってくれるので感謝している。いまどうなっているかが気になってGoogle Mapを見たら、取り壊し中になっていた。

 

―こんな感じで、個人的に好きな写真がじゅうぶんに撮れて、元が取れた気がしてきた。高い高いと思っていたら持ち出すのに躊躇してしまうし、いつもリュックの中に入れて気が向いたら撮るというスナップ写真のよさが失われてしまうので、これからは、「すでに元は取ったのだから乱暴に扱ってもよいのだ」という気持ちでGR IIIとつきあっていきたいと思う。


なお、先日GR IVが発表になり、しばらくGR IIIを使い続けようと思ってはいるが、もしGR IIIが故障してしまったら、元は取れたことになってはいるので、ためらいなくGR IVに移行することができるはずである。

 

 

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忙しいと夢が生活の中心になってしまう

たしかにヤクルト1000を飲むと夢をよく見る

ブームは一段落したのかもしれないが、ヤクルト1000がコンビニエンスストアで買えるようになってから、だいたい毎日飲んでいる。もともとよく眠れていたのだが、さらに眠りが安定してきたように感じている。飲むのは朝がよいという説も見かけたが、寝る前に甘いものを飲むことについて大義名分が得られるのもうれしい。最近、糖質オフのものが出て、「余計なことを……」と思ってしまった。大義名分は失われ、甘いものが好きな自分と向き合わざるを得なくなってしまった。
以前から、安眠と引き換えに変な夢を見ることがあるという評判があったが、少なくともわたしには当てはまっている。いままでわたしが見た夢でいちばん気に入っているものを紹介したい。

 

暫定 ベスト of my 夢

東京の東の下町に「いじめ」という駅があった。虐めという意味ではなく、漢字で「井志免」と書く。プラットフォームでの表示ではひらがなで「いじめ」と書かれていて、井志免とルビが振ってあった。イメージはよくないが昔からの地名だから仕方ないと地元の人は言っていた。
駅のガード下には飲食店がひしめいていて、何を食べるかすごく迷った。インド料理店を覗いてみると、客の老人が「ビリヤニにカレーをかけて食べてもいいかねぇ?」と聞いてくるので、食べたいように食べればいいと答え、わたしも次にビリヤニを食べるときはカレーをかけてみようと思った。
さんざん迷ったが、肉の焼ける匂いに導かれて、カウンターのみのステーキハウスで昼食をとることにした。シェフが何枚ものステーキを同時に焼いていて、注文するとすぐ出てきて感動した。シェフひとりでやっているので、隣の人に水を出すときに雑にするものだからわたしのステーキに水がかかった。まあ下町のステーキ屋はこういうことも楽しみのひとつだよなと思っていたら、隣の人が有名な女優さんで、ステーキといっしょに頼んだおにぎりが大きすぎるので半分食べてと言われて、わたしは大変光栄ですと言ってありがたくいただいた。

 

他にも、鹿鳴館に火をつけて灰にする現代アートを見たり、チグリス川とユーフラテス川の間を走る近鉄電車に乗ったりした。楽しい夢が多かったのだが、唯一つらかったのは、火曜日の朝に、金曜日の朝だという夢を見たこと。日付を間違える夢は昔からよく見ていて、ほとんどが、夢では平日の朝で実際は日曜の朝だったというささやかな悪夢。起きてから少し得をしたような気分になる夢だった。金曜の朝だと思って起きたら実際は木曜日の朝で、うっすら失望したことはあったが、金曜日と思ったら実際は火曜日だったというのはさすがにこたえた。夢がポジティブすぎるのも考えものである。

 

多忙とヤクルト1000をかけあわせると人生が夢になる

夢の内容が不思議かつポジティブなのはよいことなのだが、毎日必ず夢を見るようになった。そして仕事は忙しい。その結果、その日一日をふりかえったときのトピックが夢になった。夢は寝ているときに経験したもので、目が覚めたらその記憶はみるみるリアリティを失っていくが、「仕事して寝るだけの現実の暮らし」と、「不思議な世界でのできごとだがリアリティは8割減」のどちらがインパクトが強いかというと、残念ながら後者なのだった。一時は起きてすぐ見た夢をメモしたりしていたが、そうなると完全に人生=夢になってしまって虚しいので、夢の内容は忘れるがままにすることにした。


「後出し夢人間」の気持ちをようやく理解することとなった

SNSで夢について書くときに「夢を見た〜」から書き始めるのではなく、「~という夢を見た」としめくくる人のことを、わたしは「後出し夢人間」と心の中で呼んでいる。ブログ時代で、さんざん驚きの情報を書いが挙げ句に「~という夢を見た」と最後にそれが夢であったと書く人は見かけなかったし、たとえばサザエさんが、両親を失い、独身のまま中年を迎えた磯野サザエの見た幸福な夢だったという回が放送されたりしたら物議を醸すだろうが、140字くらいなら問題ないと思っているのだろう。自分が経験したことが夢であった驚きを共感してもらうために最後に夢であった驚きも含めて伝えたいと思ってそう書くのだろうけれども、少なくとも読者であるわたしにしてみれば、実際に起きたことを期待しているので、最初に「夢だけど」と書いてほしいと思っていた。しかし、生活の中で夢のウエイトが上がってしまうと、少なくとも夢を見たという事実はあったのだから、旅行に行ったことを書くように書きたいと思う気持ちを理解できるようになった。
夢が生活の中心になってくると、もはや生命として活動を維持する意味はないのではないかと考えなくもないが、その問題については先送りしておきたい。

 

 

 

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南関東の「いろんなところから富士山が見える」状況に驚きつづけている

大阪から東京に引っ越して30年以上経つが、じわじわと蓄積されてきた驚きがついに閾値を超えたので筆を執った次第である。正確には「ポメラ DM250を起動してmenuキーを押して新規作成を選んだ」のだが、ポメラを持っていなかったら、さらに驚きが蓄積されていないと、PCを起動して待って海辺の洞窟みたいな写真を見てそろそろ海に行きたいと思って指紋認証してテキストエディタを開いて新規作成したりはしないと思うので、ポメラを買ってよかったと思うが、それはともかく、閾値を超えた驚きとは何かというと、富士山がいろんな場所で見えるという事実についてである。

 

はじめて東京に来て暮らしはじめたのは東中野で、すでにまわりはビルだらけだった。近くに「富士見町」というそのものズバリの地名があったにもかかわらず、建物がなかったころはたしかに富士山が見えただろうけど、小さかっただろうし、今はビルに遮られて見えへんのやろ、と思っていて、試そうともしていなかった。そもそも、富士山を見たいという願望も持っていなかった。若いころは景色を楽しむという概念に乏しいものである。わたしが富士山を見るのは、実家に帰るのに東海道新幹線に乗ったときくらいだった。そのときは、なかなか大きいなぁと思っていたのだが、それでも、線路のすぐそばにあった太陽電池の三日月みたいな建物に比べたら迫力に欠けると思っていたのだった。

 

調布に転居したとき、まわりに高い建物がないマンションの最上階(ただしエレベーターなしで不在がちだったので宅急便の人には申し訳なかったと思う)で、ルーフバルコニーがあったのだが、そこから富士山を見た記憶はない。地図で確認したらバルコニーは見えない方向だった。見えていたはずの味の素スタジアムについても見た記憶がなかったから、仮に富士山が見えていたとしてもそれを見ようとしていたかは疑問である。

 

そのあと短い間だが暮らしていた武蔵小杉のマンションにもまたルーフバルコニーがあったのだが、日当たりが致命的によくて、物干しスペースとしては高性能だったが、その目的にしか使っておらず、富士山が見えるかどうか確認したことはなかった。地図で調べてみると、そのルーフバルコニーからは見えないところにあった。

 

そして多摩市に転居したのだが、40歳半ばで、だいたい日本で行きたいところは旅行したなぁと思って、行くあてもなく近所の遊歩道や、少し遠出して南関東の海沿いなどをじりじり歩きまわっていたら、突然富士山が現れはじめて驚いた。それまでは新幹線から見るものだと思っていたのだが、実際は、南関東なら高い建物が少ないところや高いところに行くと見える頻度が高い。

 

わたしが富士山をよく見る場所は高幡不動のふれあい橋である。

人々がふれあう想定の橋だと思うが、わたしは富士山とのみふれあっている。夕方に見て、そのまま歩いて帰宅するのがルーティンになっている。

 

また、「川にかかる橋で西側が見える」というシチュエーションであれば高頻度で見えることを学習し、多摩川にかかる石田大橋からも見えたりするのかなと思ったら、やはり見える。

これは300mm相当のズームによって得た画像なので、実際はこんなに大きくは見えないが、端とはいえ東京なので、300mm相当のズームをすればこの大きさになるということにも驚いてしまう。

多摩ニュータウン通りを歩いていてふと見えたときには驚いた。映画のシャイニングのどのへんのシーンか忘れたけどそういう感じ。

 

西東京だと23区より富士山に近いし見えて当然ジャンなどと思ったりもしたのだが、葛西臨海公園でも見えた。

ただ海を見たいと思って行っただけなのに思わぬ収穫である。海沿いで西側が見えるところなら見えるということなのだろう。

 

さすがに千葉県になると難しいのではと思ったが、東京湾沿いだと遮るものがないので見える。

これは船橋の三番瀬。海を見たいと思ってきただけなのに富士山まで見えるとは……。

 

さらに千葉市の千葉タワーに行っても富士山がわたしを追いかけてくる。天気のよい日に夜道を歩いていて「月がどこまでも追いかけてくる」と思うのとまったく同じ感覚である。富士山は惑星なのか……。

 

千葉から見えるなら、東海地方であり富士山が属する静岡県なら当然よく見えるはずだが、沼津で富士山がこんなに近くに見えることは知らなかった。

ここまでよく見えるのなら富士山が見えることをもっとアピールすればいいのではと思ったが、沼津でなくてもよく見えるので、深海魚の水族館などに比べて独自性は薄いのかもしれないし、仮に富士山が見えなかったとしても沼津は見どころ満載シティである。

 

話を南関東に戻して……三浦半島を歩いていても、目を凝らすと見えるときがある。

最近は、「かもしれない運転」のように「富士山が見えるかもしれない」という気持ちでお出かけしている。「だろう運転」のように「富士山は見えないだろう」と思っていたら全然見えないと思う。車の免許を持っていないので「かもしれない運転」がどの程度有効なのかは知らないが、「かもしれない散歩」は暮らしを豊かにしてくれているたしかな実感がある。

先述の高幡不動では、これでも富士山を感じることができる体にされてしまった。

 

いっぽう、わたしが育った大阪はどうかというと、伊勢神宮遥拝所のようなものをときどき見かける。

これはなんとなく立ち寄った天王寺近くの寺田町の神社で、当然ながら建物がなかったとしても見えない位置にある。まず生駒山地に遮られるので、奈良すら見えない。つまり、この方角に伊勢神宮があるからimagine……ということである。それはおかしなことでもなんてもなくて、伊勢神宮に行ったとしても神様が見えるわけではなくて、やはりお賽銭を入れるところからimagineである。同じ関西でも、見える地域は限られているものの、三輪山は神そのものがご神体で、富士山は同じような感覚で信仰されているように思う。南関東のあちこちで見える富士山は、わたしたちを見てくれているような感覚があり、わたしは中年になってからその感覚が芽生えてきた。

 

もしかしたら、いじめの件数なども、富士山の見える地域は少なかったりするのかしらと思って検索してみたら、そんな感じでもなかったし、そもそもいじめの件数はその地域が認知数を増やす方針なのか否かによっても大きく異なってくるようなのでなんともいえない。富士山がよく見える地域に住んでいる人は富士山があたりまえだと思っているので、富士山の見えない地域から見える地域に引っ越すと幸福度が向上し、その反対だと幸福度が低下したりするのかもしれない。

 

富士山が見える地域に住むことによって精神にどのような影響がおきるのかはわからなかったが、だいたいどこからでも同じ山が見るという状況は、少なくともわたしを落ち着かせる効果があることがわたしによって実証されている。外から南関東に来た方で、富士山をあまり意識してこなかった人も、「富士山が見えるかもしれない」と思って過ごすと楽しいと思う。

 

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夏のウグイスが精神的にやかましいという話

ウグイスといえば、かわいらしい鳴き声で春の到来を告げる鳥であることはご存知のとおりである。ウグイス的にはべつに人間に春が来たことを知らせたくて鳴いてはいないのだが、人間はウグイスの鳴き声を聞いて春が来たと感じて、勝手にうれしい気持ちになるものである。かつてわたしは旅先でウグイスの鳴き声を聞いて、やっと春がきたと喜んだりしていたものだが、何回か鳴き声を聞いて春の到来を実感してから、その鳴き声は車の走行音などと同様、意識にのぼってこない音になっていた。

 

ウグイスのことをよく知ることになった、というより、いやおうなく知ることになったのは、鳥のうるさい地域に引っ越してきてからのこと。まず、鳥のうるさい地域とはどこかというと、多摩ニュータウンである。それまで暮らしていた東中野や調布、武蔵小杉と比べて鳥がうるさいのは当然としても、わたしの育った大阪の端、四條畷と比べてもうるさい。四條畷は読み方がよくわからないことは言わずもがなであるが、店が少なくて電車の本数も少なく、塾などで大阪市内のクラスメイトに引け目を感じたりもしていたものだが、そんな四條畷よりも多摩ニュータウンは緑が多くて鳥がうるさいことは意外だった。鳥がうるさいわりに駅は4つ(路線の違うものを入れてよいなら7つ!)もあるし、丸善も大判焼のしゃるむもあって、もう10年近く暮らしているのに今も意外性に驚きつづけている。

 

引っ越してきたばかりのときは朝は7時ごろ起きていたのだが、最近は加齢に伴って起床時間が前倒しになって、5時ごろ、ちょうど鳥が鳴きはじめるタイミングで早起きするようになってから、鳥の鳴き声には結構なボリュームがあると感じるようになった。ウグイスは春に鳴いているのだが、毎朝鳴き続け、いつのまにか夏になって、それでも鳴いている。春が来たことは存じあげているので人間としてはもう鳴かなくてもよいが、いったいいつまで鳴くつもりなのかと思っていたのだが、ある日、悲しい情報を目にした。ウグイスはパートナー探しのために鳴く、つまり、夏になるまで鳴いているということはパートナーが見つかっていないのだ……という趣旨の話だった。その話を読んで「ホーホケキョ」が、かわいらしい音楽から、「誰かぼくと交尾しませんか?」というモテない鳥からの生々しいメッセージに聞こえるようになった。わたしは毎朝、「誰かぼくと交尾しませんか?」の声で目を覚ましていて、まさに寝覚めが悪い。そもそも、どんなにモテなくても「誰か」などと言って振り向く雌はいないんやで……ウグイスがそう言っているわけではないと思うけれど。

 

それにしても、わたしの家から聞こえてくるホーホケキョの音自体は、少なくとも人間の感覚で聞くと、音楽的であり、鑑賞に値する。そのウグイスはモテないわけないんじゃないのと思って念のために検索してみると、ウグイスは一夫多妻制で、繁殖期は交尾する相手を探し続け、また、縄張りを知らせるために鳴くこともあるらしい。つまり、「誰かぼくと交尾しませんか?」だけでなく、「ええ男がここにおるで~!」「これ以上近づいたら排除する!」の合計三種類の意味があるということである。「誰かぼくと交尾しませんか?」の悲壮なイメージは薄まったものの、本能むき出しの鳴き声でわたしが朝起こされていることに変わりはない。いままでウグイスはかわいい鳥だと思っていたのに結構なイメージダウンである。夫の定年退職後、一日中家にいる夫に我慢できなくなった妻の話をよく見かけて、それに似ているのかもしれないし似ていないのかもしれないが、音そのものはともかく、精神的にやかましいと思って毎朝目覚めている。飼っている犬や猫の鳴き声から真意を把握しようとするのは大切なことだと思うが、飼ってもいない鳥が発するメッセージを人間が受け取ってもあまり意味はなかった。動物の鳴き声はすてきなBGMとして聞くもので、無用な詮索はすべきではないのかもしれないと思ったのだった。

 

とはいえ、人間も一皮むけば同じようなことで、都度縄張りを主張する必要がないように家にはドアがついていて鍵がされている。人間がマッチングする場合も、単にアプリを使ったり、友人の紹介というシステムがあるというだけである。これらの仕組みを使わないのであれば、道端や職場でホーホケキョ級の会話をしなければならなかったはずである。いっぽう、ウグイスも自分の縄張りが囲われていたらホーホケキョなどと鳴かないだろうし、マッチングアプリがあれば、少なくともアプリに登録するときに渾身のホーホケキョを一度吹きこめばよいだけである。アプリがあってもウグイスの雌は鳴き声を頼りにパートナー選びをするのかはわからないが……。

 

もし自分がウグイスだったら、いまわたしを起こしているウグイスよりもうまく鳴けないと思っている。おそらく楽器がうまい人や、身体能力の高い人がウグイスになったらうまく鳴けるのだろう。わたしがウグイスなら、まったく出会いもなく、毛だらけで食べるところが少ない毛虫を食べて暮らすだけだったのかもしれない。

 

明日からは、ホーホケキョで起こされながら、自分はホーホケキョと鳴かなくてもよいのだ、と、人間に生まれた喜びを噛みしめていこうと思ったのだった。

 

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