大阪から東京に引っ越して30年以上経つが、じわじわと蓄積されてきた驚きがついに閾値を超えたので筆を執った次第である。正確には「ポメラ DM250を起動してmenuキーを押して新規作成を選んだ」のだが、ポメラを持っていなかったら、さらに驚きが蓄積されていないと、PCを起動して待って海辺の洞窟みたいな写真を見てそろそろ海に行きたいと思って指紋認証してテキストエディタを開いて新規作成したりはしないと思うので、ポメラを買ってよかったと思うが、それはともかく、閾値を超えた驚きとは何かというと、富士山がいろんな場所で見えるという事実についてである。
はじめて東京に来て暮らしはじめたのは東中野で、すでにまわりはビルだらけだった。近くに「富士見町」というそのものズバリの地名があったにもかかわらず、建物がなかったころはたしかに富士山が見えただろうけど、小さかっただろうし、今はビルに遮られて見えへんのやろ、と思っていて、試そうともしていなかった。そもそも、富士山を見たいという願望も持っていなかった。若いころは景色を楽しむという概念に乏しいものである。わたしが富士山を見るのは、実家に帰るのに東海道新幹線に乗ったときくらいだった。そのときは、なかなか大きいなぁと思っていたのだが、それでも、線路のすぐそばにあった太陽電池の三日月みたいな建物に比べたら迫力に欠けると思っていたのだった。
調布に転居したとき、まわりに高い建物がないマンションの最上階(ただしエレベーターなしで不在がちだったので宅急便の人には申し訳なかったと思う)で、ルーフバルコニーがあったのだが、そこから富士山を見た記憶はない。地図で確認したらバルコニーは見えない方向だった。見えていたはずの味の素スタジアムについても見た記憶がなかったから、仮に富士山が見えていたとしてもそれを見ようとしていたかは疑問である。
そのあと短い間だが暮らしていた武蔵小杉のマンションにもまたルーフバルコニーがあったのだが、日当たりが致命的によくて、物干しスペースとしては高性能だったが、その目的にしか使っておらず、富士山が見えるかどうか確認したことはなかった。地図で調べてみると、そのルーフバルコニーからは見えないところにあった。
そして多摩市に転居したのだが、40歳半ばで、だいたい日本で行きたいところは旅行したなぁと思って、行くあてもなく近所の遊歩道や、少し遠出して南関東の海沿いなどをじりじり歩きまわっていたら、突然富士山が現れはじめて驚いた。それまでは新幹線から見るものだと思っていたのだが、実際は、南関東なら高い建物が少ないところや高いところに行くと見える頻度が高い。
わたしが富士山をよく見る場所は高幡不動のふれあい橋である。
人々がふれあう想定の橋だと思うが、わたしは富士山とのみふれあっている。夕方に見て、そのまま歩いて帰宅するのがルーティンになっている。
また、「川にかかる橋で西側が見える」というシチュエーションであれば高頻度で見えることを学習し、多摩川にかかる石田大橋からも見えたりするのかなと思ったら、やはり見える。
これは300mm相当のズームによって得た画像なので、実際はこんなに大きくは見えないが、端とはいえ東京なので、300mm相当のズームをすればこの大きさになるということにも驚いてしまう。
多摩ニュータウン通りを歩いていてふと見えたときには驚いた。映画のシャイニングのどのへんのシーンか忘れたけどそういう感じ。
西東京だと23区より富士山に近いし見えて当然ジャンなどと思ったりもしたのだが、葛西臨海公園でも見えた。
ただ海を見たいと思って行っただけなのに思わぬ収穫である。海沿いで西側が見えるところなら見えるということなのだろう。
さすがに千葉県になると難しいのではと思ったが、東京湾沿いだと遮るものがないので見える。
これは船橋の三番瀬。海を見たいと思ってきただけなのに富士山まで見えるとは……。
さらに千葉市の千葉タワーに行っても富士山がわたしを追いかけてくる。天気のよい日に夜道を歩いていて「月がどこまでも追いかけてくる」と思うのとまったく同じ感覚である。富士山は惑星なのか……。
千葉から見えるなら、東海地方であり富士山が属する静岡県なら当然よく見えるはずだが、沼津で富士山がこんなに近くに見えることは知らなかった。
ここまでよく見えるのなら富士山が見えることをもっとアピールすればいいのではと思ったが、沼津でなくてもよく見えるので、深海魚の水族館などに比べて独自性は薄いのかもしれないし、仮に富士山が見えなかったとしても沼津は見どころ満載シティである。
話を南関東に戻して……三浦半島を歩いていても、目を凝らすと見えるときがある。
最近は、「かもしれない運転」のように「富士山が見えるかもしれない」という気持ちでお出かけしている。「だろう運転」のように「富士山は見えないだろう」と思っていたら全然見えないと思う。車の免許を持っていないので「かもしれない運転」がどの程度有効なのかは知らないが、「かもしれない散歩」は暮らしを豊かにしてくれているたしかな実感がある。
先述の高幡不動では、これでも富士山を感じることができる体にされてしまった。
いっぽう、わたしが育った大阪はどうかというと、伊勢神宮遥拝所のようなものをときどき見かける。
これはなんとなく立ち寄った天王寺近くの寺田町の神社で、当然ながら建物がなかったとしても見えない位置にある。まず生駒山地に遮られるので、奈良すら見えない。つまり、この方角に伊勢神宮があるからimagine……ということである。それはおかしなことでもなんてもなくて、伊勢神宮に行ったとしても神様が見えるわけではなくて、やはりお賽銭を入れるところからimagineである。同じ関西でも、見える地域は限られているものの、三輪山は神そのものがご神体で、富士山は同じような感覚で信仰されているように思う。南関東のあちこちで見える富士山は、わたしたちを見てくれているような感覚があり、わたしは中年になってからその感覚が芽生えてきた。
もしかしたら、いじめの件数なども、富士山の見える地域は少なかったりするのかしらと思って検索してみたら、そんな感じでもなかったし、そもそもいじめの件数はその地域が認知数を増やす方針なのか否かによっても大きく異なってくるようなのでなんともいえない。富士山がよく見える地域に住んでいる人は富士山があたりまえだと思っているので、富士山の見えない地域から見える地域に引っ越すと幸福度が向上し、その反対だと幸福度が低下したりするのかもしれない。
富士山が見える地域に住むことによって精神にどのような影響がおきるのかはわからなかったが、だいたいどこからでも同じ山が見るという状況は、少なくともわたしを落ち着かせる効果があることがわたしによって実証されている。外から南関東に来た方で、富士山をあまり意識してこなかった人も、「富士山が見えるかもしれない」と思って過ごすと楽しいと思う。