ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

自分の椅子が低いことに40年近く気づかなかったという話

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きょうは椅子が低すぎたことに気づいた話をしたいが、特筆すべきドラマなどは特になくて申し訳ない。
 

椅子が低すぎたことが発覚したのはキーボードの傾斜問題が発端だった

先日、「キーボードの傾斜は実は意味がない」という趣旨の記事を見かけた。そんなはずはなかろう、わたしはキーボードを使い始めて40年近く経つが、キーボードに傾斜をつけることの意義をよく知っている。初めて使ったパソコン、シャープのX1 turboのキーボードにもチルトスタンドがついていて、わたしはそれをビンッビンに立ててディズニーランドとは似ても似つかない世界を冒険する『デゼニランド』などのゲームを満喫していた。80年代前半のパソコンは入力機器としてマウスが使われていないこともあり、ゲームも英語で直接コマンドを打ちこんで進めるものが多かった。しかも開発する者も遊ぶ者も英語ネイティブではないから、プレイヤーは正しい英語ではなく製作者の頭の中にある英語を推測しながら打ち込むという高度なゲームプレイを強いられており、解かねばならない謎は何重にもなっていたのである。有名な事例では、棺桶の穴に十字架をはめるときに「ATTACH CROSS」と入力しなければ次に進めない……などというものもあり、そうでなくてもゲームで遊ぶにも打鍵は避けられなかったのだが、苦しい打鍵生活の支えになっていたのがチルトスタンドで、なんだか打ちにくいと思って確認したらチルトスタンドが寝ていたということもあったくらいだから、キーボードに傾斜は絶対必要だと認識していたのである。チルトスタンドが上がっている状態が本来の状態で、持ち運びのときにチルトスタンドを収納すると認識していた。「キーボードに傾斜をつけることには意味がない」とは、ほとんど「人間が生きることには意味がない」と同じではないのか、といった虚しい反論が脳裏をよぎったのだが、人間工学から見ても優位性はなくて、むしろ手首に負担がかかるるなどと書いてあった。この40年近く、キーボードに角度をつけることによって感じてきた打ちやすさが気のせいなはずなかろう……と思ったのだが、記事は、角度をつけないと打ちにくいと思っている人は椅子が低すぎる可能性がありますという趣旨の言葉で締めくくられていて、まさか……しかし念のため、と思って椅子を上げてみたら、キーボードの傾斜には意味がないことを即座に理解したのだった。キーボードに傾斜をつけなくても、qやpやdeleteなどの辺境系のキーにも難なくアクセスができた。そしてキーボードの打ちやすさだけでなく、作業に集中できる姿勢になっていた。わたしは40年近く何をしていたのだ……。
 

自転車のサドルは上げるのに椅子を下げるのは変態である

かくして、わたしは椅子の高さを間違い続けていたことを瞬時に体で理解したのだが、頭でも理解したいと思い、「椅子 高さ 計算」で検索した。わたしはずっと、椅子の適正な高さは、使う人の身長に反比例するのではないかと想定していた。計算式で表現するなら「4000/身長(cm)」のようなイメージだったが、実際の数値は「身長(cm)÷4+1(cm)」などだった。1を足すものとないものがあったりの違いはあったが、身長の高さに反比例しているものはなかった。高さが変えられない机とペアで使っていたとしても、椅子の高さを最低にするのはさすがにバランスが悪い。
よく考えてみたら、レンタサイクルなどで自転車に乗るとき、当たり前のようにサドルを上げていた。中学生のときに遊びでサドルを最低にしたことがあったが、足腰にかかる負荷が尋常でなく、トレーニングになるのではないかと思ったほどだ。また、証明写真を撮るときも船を急速旋回させるように椅子を回して上げていた。なぜ腰掛けるもののなかで椅子だけが例外になると思ったのだろうか……。
 

椅子を低くしたいという心理は、寝たいという気持ちの現れである

人(突然の主語の巨大化)が椅子を低くしてしまうのはなぜか。それはずばり寝たいからである。
椅子を低くし、姿勢を低くして背もたれに最大限もたれると、座っていながらにして限りなく寝ている状態に近づく。たとえオフィスで失敗が絶対に許されない仕事をしていたとしても姿勢だけは寝ているに等しくなる。これは「仕事をせず寝ていたい」という気持ちと、「そうはいっても仕事はせねばならない」という相矛盾したふたつの気持ちが壮絶な争いを繰り広げたのち、かりそめの休戦協定を結んだ形なのである。


ただしそれは義務を遂行している瞬間にのみ当てはまる話であって、義務から解き放たれたあとに起きていることを積極的に選択して椅子に座る者が、あえて椅子を低くしたりソファなどの座面の低い椅子を選ぶ意味はないはずである。ソファで映画を見ながらいつの間にか寝ているといった生活も悪くはないように思えるが、実際そうしてしまったとき、起きてからどこまで見ていたのか探りつつ映画を少しずつ逆再生したりしているうちに映画への興味が失われてしまったりして、睡眠を経て澄みわたった意識の中で、これはほんとうに自分がしたかったことなのか……と自問するのが関の山。眠いのであれば謎の折衷案など用意せずにそのまま寝ればよいし、睡眠以外の何かをしたいのに眠いというのであれば、寝てからにすればいいはずだ。

読書も同じで、本を斜めに立てかける書見台というものを買ってみたが、椅子を低くしたときに見やすくなる仕組みで、やはり「読書したくないし寝たい」という欲望と「読書をやめてしまったら単に小汚いオッサンになってしまう*1」という強迫観念の間に出現した謎の器具が書見台なのである。本当に読書をしたいのであれば両手で本を持って書籍に対峙すべきだろう。


寝るのか起きるのか。その二者択一の中のわずかでも迷いが生じると椅子が低くなってしまい、その結果として生活が乱れてしまうので、われわれは鉄の意思で椅子を高くせねばならないのである。

 
 

*1:読書しすぎると、いっそう小汚いオッサンになってしまう……という説もあります