こんにちは。
あれから卒業式やら入社式やらが自粛されていて、ちょっと窮屈なムードですよね。
桜祭りもとりやめ、8月に行うはずの東京湾大華火祭までも取りやめになる始末。東京湾大華火祭につきましては「花火」を「華火」と表記するセンスが、「ラーメン」を「らうめん」、「カレー」を「カリー」と表現するのにも似ているので、中止しても悲しくないかも……などと思わなくもないですが、そんな話を耳にしてしまうと、募金の方が意味があると頭ではわかっていながらも、自分も負けてはおれん、リッツパーティの具をスモークサーモンからシーチキンに切り替えたり、道端で可愛らしい猫を見かけても、耳の後ろなどの最強気持ちよいゾーンは避けて背中を撫でるにとどめておこう、などと決意してしまったりして、誰もが「やり過ぎ」と思っていながらどうにも止められないのは太平洋戦争なども同じです。これらは日本の伝統芸といえ、この伝統芸のせいで日本はいずれ沈むかもしれませんが、この伝統芸をやめてしまっては日本が日本でなくなってしまうかもしれないので、経済を維持するより国体を護持したい…愛されるよりも愛したいマジで!!!―などと、ある意味安堵を覚える日常風景ではありますが、自粛することで誰も幸せになっていない、というのは残念な話であります。首都圏の飲食店の売り上げもかなり減少しているとか。そういう話を聞くと、飲食業界以外の業界の人も飲食業界の売上減に配慮していろいろ自粛しなければならない、などと考えてしまい、さらに飲食店の売上が減ってしまって、さらに自粛し……という無限ループになってしまいそうです……。
今回は、自粛と規制がどのような仕組みで起きるのかを確認し、われわれが取るべき正しい方向について考えていきたいと思いますが、わたしも自粛問題について語ることを自粛気味であり、ところどころに関係ない話が入ってくる危険性がありますが、ただちに生命に害を及ぼすわけではないのでご安心くださいませ。
(1)「自粛」は、トラブル回避のための方便である
お花見の自粛を迫る動きがあります。自粛は主体性を持った個人の行動であるはずなので、「自粛してください」は「規制」に近いですね。「節電のため、花見をやめなさい」という話のようです。それが方便であることはご存じかと思いますが、念のため書き添えておきますと、節電が目的なら、まず「昼間にお花見をしましょう」とか「街灯が暗いので電池式の明かりを用意してください」とか「ひざかけなどを用意しましょう」などと言えばよいはずで、もし公園が民営化されていたらそういう対応を取ったでしょう。ではなぜ花見の自粛を迫っているかというと、面倒だからです。
花見の件数が増えたら公園課の人の査定がよくなって収入が増えてブーダンノワールなどが気軽に食べられるんだったら別ですが、花見というだけでも場所取りやらゴミなどのトラブルの種なのに、今回は「なんでこんな時期に花見をするんだ!」みたいな変態からの苦情を頂戴することになるわけですから、花見自体をやめてもらえれば一石二鳥であり、「そもそも花よりも葉を見た方が目にもよくないか?ただ葉は毛虫とかがついてるから油断ならんけど……」的な気持ちになってしまうのも無理はありません。
花見だけでなく、「なんでこんな時期に!」と怒る変態に対しての対応はどこでも大変に思えてしまうので、「面倒だから自粛ということで」という結論に落ちついてしまうのです。しかも自粛っていいことをしているように見えますからね。
(2)自粛ムードは臆病者のエクスキューズが支えている
しかし、春は変態が活発になるシーズンであり、これを書いているわたしもまた、テンションの調節が困難な季節と捉えているのですが、実際のところは想定されるほど変態からの苦情はこないものです。「ほんとかよ!」とお考えの方はtwitterで検索してみるとわかります。twitterで注目されていた話といえば、 乙武洋匡さんが「飲みに行きましょう」みたいな話をtwitterでしていて、それについて「不謹慎だ」と言った人がいた件がありました。言わずもがなですが、「この地震で被災した人がいるのに楽しいことをしているのは、被災した人への配慮に欠ける」という話のようですが、言った人は被災していない人でした。考えてみれば、当事者が自粛を迫っていることは少ないし、普通は経済活動が活発になってほしいと願うものだと思います。
では、「不謹慎」という言葉はどのような文脈で使われるのが多いかというと、地震と関係ない話をしたり、楽しい話をしたりするときの枕詞として、「こんな時期にこんなことを言うのは不謹慎だけど」という用法が圧倒的に多いのです。Googleのリアルタイム検索で「こんな時期に」で検索してみると一目瞭然です。
たしかに一つの保身としてつけたくなる言葉ですが、これをすることで、少数に過ぎない敵の姿がどんどん大きくなってしまい、「誰もが不謹慎って思っているのではないか」という気持ちが「ふえるワカメちゃん」のようにムクムクと作られることになるのです。
(3)「自粛」は「思いやり」が生むのではなくて「日常の恨みつらみ」が生む
声を出して「不謹慎だ」と企業や公共団体にテレフォンをリングしてしまう変態はごくわずかとはいえ、「1匹のGを見たら20匹のGがいると思え」的に考えると、その背後にはそれなりに規制大好き人間がいることも事実です。花見の自粛強制については「なんでやねん」と思った人も、パチンコはどうでしょう。
そもそも経済活動という点ではパチンコも勉強も同じはずで、「ろくに教科書を読まずひたすらノートにきれいにまとめるという作業をしただけで勉強した気になって満足している」などの学習効率のよろしくない方法で学習されますと、なかなか有名大学に合格することは難しく、トータルで見た場合の経済効果はパチンコが得意な人の収入以下になったりする危険性もなくはないのですが、それはともかく、普段からパチンコが嫌いな人が「こんなときにこんなことに電力を使いまくって!」と思って一層頭にくる、という構造で、普段から苦々しく思われている存在が、不幸な出来事をきっかけに叩かれるということなのです。
自粛云々の話は関係なく、パチンコは事実上は賭博なので、賭博のすべてを法律的にOKとしてしまうか、あるいは賭博はダメだからパチンコも法律で禁止、などとして整合性を持たせた方がスッキリするのでは、とは思います。というか、あれが賭博じゃないんだったら「ふえるワカメちゃん」はワカメじゃないってことになるんじゃぁないのかな……。
それはともかく、「こんなときに○○するなんて不謹慎」と思っている人は、「こんなとき」以外の○○もまったく許しておりません。ただ、平常時において、○○に対して目くじらを立てていると、スケールの小さい人間だと思われてしまうので、「あ〜○○を攻撃したいなぁ〜」と思いながらイボイボだらけのスルメの脚を噛んでいるのですが、そこにきてこの大地震。日本中が自粛ムードであることに乗じて、常日頃から大嫌いだったものについて攻撃するチャンスが巡ってきたというわけなのです。
―などと、自粛について考えているとドンヨリしてきて、「がんばりたくてもがんばれない……そもそも、テレビをつけたら電力会社が協賛しまくっているAC様が、芸能人を使ってお説教……まるで復興ハラスメントやん……」的な気持ちになるかもしれませんが、以上の考察からどのようにふるまうべきであるかをまとめておきますので、参考にするなり叩くなりしてくださいませ。
【ポイント1】保身のための枕詞を置かず好きにする
言い訳のつもりで言った「こんな時期ですが……」の一言が自分や他人をしばりますし、そもそもそんな臆病者はモテないので、何事もなかったかのようにふるまうべきです。
【ポイント2】規制されるまで好きにする
自粛はあくまでも自主的にするものですから、自粛の必要がないと判断された場合は、規制されるまで好きにふるまえばいいのです。自粛を迫る人は「明示的に規制することで器の小さい人間であることがバレたら恥ずかしさのあまり痩せちゃう!」と思っているので、実際のところは何も言われないものです。
【ポイント3】日常的に恨まれないように立ちふるまう
規制されるかどうかというのは、この時期でのふるまいというよりも、それまでのふるまいが明暗を分けるので、普段からあまり幸せそうにしたり楽しそうにしないよう心がけたいものです。
海外の新聞で、「日本は自粛という強迫観念にとらわれている(Nihon wa jishuku to iu kyouhaku kannnen ni torawrete iru. Yonda hito gomennasai...)」という報道がありました。しかしそれは一面的な見方でしかなくて、実際は、日常的に恨み辛みがたまっていて、それが噴出したり怯えたりするのがこういう地震などの国内的な危機のとき、ということだと思います。
なんだか原発に似ていてアレですが、そこらへんをおさえた上でスマートに生きて死にたいところですね……。