ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

夏のウグイスが精神的にやかましいという話

ウグイスといえば、かわいらしい鳴き声で春の到来を告げる鳥であることはご存知のとおりである。ウグイス的にはべつに人間に春が来たことを知らせたくて鳴いてはいないのだが、人間はウグイスの鳴き声を聞いて春が来たと感じて、勝手にうれしい気持ちになるものである。かつてわたしは旅先でウグイスの鳴き声を聞いて、やっと春がきたと喜んだりしていたものだが、何回か鳴き声を聞いて春の到来を実感してから、その鳴き声は車の走行音などと同様、意識にのぼってこない音になっていた。

 

ウグイスのことをよく知ることになった、というより、いやおうなく知ることになったのは、鳥のうるさい地域に引っ越してきてからのこと。まず、鳥のうるさい地域とはどこかというと、多摩ニュータウンである。それまで暮らしていた東中野や調布、武蔵小杉と比べて鳥がうるさいのは当然としても、わたしの育った大阪の端、四條畷と比べてもうるさい。四條畷は読み方がよくわからないことは言わずもがなであるが、店が少なくて電車の本数も少なく、塾などで大阪市内のクラスメイトに引け目を感じたりもしていたものだが、そんな四條畷よりも多摩ニュータウンは緑が多くて鳥がうるさいことは意外だった。鳥がうるさいわりに駅は4つ(路線の違うものを入れてよいなら7つ!)もあるし、丸善も大判焼のしゃるむもあって、もう10年近く暮らしているのに今も意外性に驚きつづけている。

 

引っ越してきたばかりのときは朝は7時ごろ起きていたのだが、最近は加齢に伴って起床時間が前倒しになって、5時ごろ、ちょうど鳥が鳴きはじめるタイミングで早起きするようになってから、鳥の鳴き声には結構なボリュームがあると感じるようになった。ウグイスは春に鳴いているのだが、毎朝鳴き続け、いつのまにか夏になって、それでも鳴いている。春が来たことは存じあげているので人間としてはもう鳴かなくてもよいが、いったいいつまで鳴くつもりなのかと思っていたのだが、ある日、悲しい情報を目にした。ウグイスはパートナー探しのために鳴く、つまり、夏になるまで鳴いているということはパートナーが見つかっていないのだ……という趣旨の話だった。その話を読んで「ホーホケキョ」が、かわいらしい音楽から、「誰かぼくと交尾しませんか?」というモテない鳥からの生々しいメッセージに聞こえるようになった。わたしは毎朝、「誰かぼくと交尾しませんか?」の声で目を覚ましていて、まさに寝覚めが悪い。そもそも、どんなにモテなくても「誰か」などと言って振り向く雌はいないんやで……ウグイスがそう言っているわけではないと思うけれど。

 

それにしても、わたしの家から聞こえてくるホーホケキョの音自体は、少なくとも人間の感覚で聞くと、音楽的であり、鑑賞に値する。そのウグイスはモテないわけないんじゃないのと思って念のために検索してみると、ウグイスは一夫多妻制で、繁殖期は交尾する相手を探し続け、また、縄張りを知らせるために鳴くこともあるらしい。つまり、「誰かぼくと交尾しませんか?」だけでなく、「ええ男がここにおるで~!」「これ以上近づいたら排除する!」の合計三種類の意味があるということである。「誰かぼくと交尾しませんか?」の悲壮なイメージは薄まったものの、本能むき出しの鳴き声でわたしが朝起こされていることに変わりはない。いままでウグイスはかわいい鳥だと思っていたのに結構なイメージダウンである。夫の定年退職後、一日中家にいる夫に我慢できなくなった妻の話をよく見かけて、それに似ているのかもしれないし似ていないのかもしれないが、音そのものはともかく、精神的にやかましいと思って毎朝目覚めている。飼っている犬や猫の鳴き声から真意を把握しようとするのは大切なことだと思うが、飼ってもいない鳥が発するメッセージを人間が受け取ってもあまり意味はなかった。動物の鳴き声はすてきなBGMとして聞くもので、無用な詮索はすべきではないのかもしれないと思ったのだった。

 

とはいえ、人間も一皮むけば同じようなことで、都度縄張りを主張する必要がないように家にはドアがついていて鍵がされている。人間がマッチングする場合も、単にアプリを使ったり、友人の紹介というシステムがあるというだけである。これらの仕組みを使わないのであれば、道端や職場でホーホケキョ級の会話をしなければならなかったはずである。いっぽう、ウグイスも自分の縄張りが囲われていたらホーホケキョなどと鳴かないだろうし、マッチングアプリがあれば、少なくともアプリに登録するときに渾身のホーホケキョを一度吹きこめばよいだけである。アプリがあってもウグイスの雌は鳴き声を頼りにパートナー選びをするのかはわからないが……。

 

もし自分がウグイスだったら、いまわたしを起こしているウグイスよりもうまく鳴けないと思っている。おそらく楽器がうまい人や、身体能力の高い人がウグイスになったらうまく鳴けるのだろう。わたしがウグイスなら、まったく出会いもなく、毛だらけで食べるところが少ない毛虫を食べて暮らすだけだったのかもしれない。

 

明日からは、ホーホケキョで起こされながら、自分はホーホケキョと鳴かなくてもよいのだ、と、人間に生まれた喜びを噛みしめていこうと思ったのだった。