ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

遺跡や仏像に何を見出すか

明日香村に行くと、石で作られた建造物が散在しているのに出くわすが、それらのデザインは、「日本的」と呼ぶにはほど遠い。現在のいわゆる「日本的なもの」と地続きで存在しているようには到底思えない。
ぼくが明日香村によく行くのは、断絶を感じたいからで、心のふるさとであるという感覚とは、むしろ逆の感覚だと思う。仏像に関しても同じことが言える。仏像を作ることになった人々は、何かしらの思いをもって仏像を作ったには違いないが、そこに近代的な作家性、「自分らしさを『表現』する」といった気分はなく、また別のものに突き動かされて像を彫っていたに違いない。ぼくは今の行動原理とはまったく違う体系で動いていた人間たちの軌跡をたどり、ひんやりした断絶を感じるのがどうやら好きらしい。
しかし、だいたい、その断絶はなかったことにされるのが常で、たとえば『見仏記』ISBN:4041846021、親しみにくい仏像たちを現在のものにたとえて(たとえばビートルズとか)その断絶をなかったかのように見做して仏像たちを視姦しているかのように思える。みうらじゅんは、エロ本でスクラップブックを作ったのと同じ感覚で仏像のスクラップブックを作っていたんだろうなと思う。
もちろんそれは好みの問題で、断絶がなかったかのように、涼しい顔で歴史を塗り替える乱暴さがイイという見方もあると思う。たぶん、そう思う人は、江藤淳が漱石の著作をフロイト的解釈で読み直したのも好きだと思えるんじゃないかと思う。