ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

ムービー広告には、あらかじめ失敗する仕組みが内蔵されている

今回は広告の話。とあるショートムービーが非難囂々だったことも記憶に新しいが、仮に、ポリティカリーにコレクトだったとしても、ネットのムービー広告には、失敗する仕組みが内蔵されているので、儲かりすぎて困るので損をしたいと悩んでいる企業におすすめである……という話をしたい。


「新しい広告媒体」について考えたとき、あの会社でもこの会社でも、以下のような会話が繰り広げられているに違いない。

A「テレビや雑誌広告以外の広告媒体も開発していかないとねー」
B「そうですね、開発は大事ですよね、わたしも昔はいじられてもくすぐったいとしか思わなかったのですが、開発されるうち、第二の悦び……といいますか、大変頼もしい存在になりました」
A「歳をとってくるとね、第三第四もね、開発されていくよ。それがどこかは人によるね。楽しみにしておきたまえ……それはそうと、新しい媒体といったらネットだよね」
B「そうですね。ツイッターとかで拡散されて売り上げがビンビンですね」
A「ビンビンか……しかし、何を拡散したらビンビンになるかね」
B「映画を作って流すんですよ。無料で映画が見られるなんてユーザーにとってはいい時代ですよね」
A「なるほど……たしかにネットならではの表現だな。TVCMは1回15秒で数百万かかるけど、ネットはより長時間の映像を安価で流すことができる!」
B「時間があるから商品名連呼みたいな下品なのじゃなくて、じっくり見られるものがいいんじゃないですかねー」
A「そうだね、顧客が成長していくような、見ごたえのあるものが……」
B「うん、トライアルでやるものだから、特定の商品を売るのではなくて、イメージ広告として作ってみようよ」

この世には神も仏もない……AにもBにもこれから胃の痛くなる日々が待ち受けているとは気づく由もない。これなら、仕事そっちのけで下品なネタの応酬でもしていた方が会社に利益をもたらすことはなくても、少なくとも損失を与えることはないのでいいのかも……と思うのだが、「新しい広告」→「ネット」→「ショートムービー」という三段論法は自滅する可能性が極めて高い。盛大につけ火されるか無視されるかのどちらか好きな方を選ぶ状況だと言っていいだろう。
前置きが長くなったが、今回はショートムービーの広告が失敗する4つのメカニズムについて考察していきたい。なお、わたしにまったく集中力がないため、メカニズムひとつについて説明するたび、先日撮影したカエルの産卵シーンの写真を貼り、意味不明なキャプションを挿入させていただくことになってしまうのだが、どうかご容赦いただきたい。


(1)物語の冒頭はたいてい心地よくないものである

ノーマルな人間向けに作られた物語は「何らかの困難が生じる→努力したりヒーローが現れたりして解決」という流れで構成されることが多い。「退屈な日常→すてきなハプニング」という流れもあるが、これらのフレームの外で万人にイエスと言わしめる物語を作るのはなかなか難しい。
桃太郎も、おじいさんもおばあさんも金持ちで筋肉ムキムキであったら、桃が流れていても、なんだか尻みたいで笑えるよねと思ったところで話が終わってしまうし、シンデレラが最初からピカピカのオベベを着ていたら、いじめっこたちもたちまち退散し、多くの読者はよかったと安堵するものの、どことなく物足りなさを感じてしまうはずだ。
物語の冒頭は、心地よくないシーンから始め、その不快感を原資にして物語を駆動させるのだが、ムービーの冒頭もまた、心地よくないシーンから始めるしかないのである。

【カエル休憩その1】
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ヒキガエルの雄が雌を刺激して卵を産ませ、そこに精子をかけ、有精卵になる。
同じ体外受精でも、鮭の産卵は、雄も雌もボロボロになりながら川をさかのぼり、雌が生んだ無精卵に白い汁をかける。傍から見ていても何が楽しいのかわからず、つらい気持ちになるだけだが、カエルは見かけ上、愛し合っているかのように見えるのでまだ救いがある。


(2)ユーザーの問題解決ストーリーは、ユーザーが課題を抱えているシーンから始まる

商品を作るときや売るときは、ターゲットとなる顧客の問題解決のストーリーを立てるもので、「顧客の抱える問題が、弊社の商品を手にして解決する」という流れをとる。
これは先ほどの物語の枠組みとまったく同じ構造なのだが、それをそのままムービーに落としこんでしまうと、顧客が問題を抱えて苦しんでいる様子から始まる陰惨なムービーが自動的に出来上がってしまうことになる。「顧客の実感に寄り添うムービーにしよう」などと思ってしまったら、なおひどい。リアリティ満載の地獄絵図から始めることになる。
たとえば、バナー広告で有名な「わたしの年収低すぎ」をムービーにしたものを見たら、おそらく多くの人はつらい気持ちになってしまうだけだろう。

【カエル休憩その2】
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雌がやたらと動き回って他の夫婦の産んだ卵を踏み越えていたのだが、雄が、こっちにもかけておくかと別の雌の産んだ卵に精子をかけたりすることはないのか、非常に心配であるし、ぼくがカエルの雄なら絶対にそうするだろう。



(3)顧客は広告を見るのが嫌いである

ここまでの話なら、「冒頭が不快でも、それはこのあとの展開でハッピーエンドになるのだから問題ないではないか」と思うかもしれない。もちろん、映画ならまったく問題はないのだけれど、これは企業の広告なのであり、顧客にとっては、見たいどころか、できれば見ずに済ませたいコンテンツなのである。
たとえ1分のムービーであったとしても、残念ながら、冒頭から見る人の数は減る一方。ムービーの出来がよければ減少の度合いがゆるやかになるかもしれないが、それでも何割かは冒頭の陰惨な描写を見て見るのをやめる。先ほどのセオリーに従って作ったムービーなら、離脱した顧客にとっては、企業のネガティブキャンペーン広告を見たのと同じ効果になる。
1分の映像でそうなのだから、毎週5分ずつ連載していき、徐々にハッピーエンドに近づいていくようなムービーについては言わずもがなである。
そもそも、ムービーのターゲットは誰なのだろうか。
15秒のCMで好感度が上がらなかった顧客が、毎週5分ずつチャンスをくれるはずもなく、最後まで見た顧客はもともとムービーがなくても好感を持ってくれている顧客にすぎない。つまり、優良顧客に火を飛び越えさせてやけどの度合いを確認するという、世にも奇妙なスペシャルコンテンツを作っているのである。


……などと文字だけで語ってもわかりづらいので、顧客の数と時間、印象の関係の概略がわかるグラフを作った。
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―つまり、作品として3話作ったとしても、視聴者の総数で考えると、「ひどいムービー」と思う人の方が多数派になる仕組みなのである。
1話にまとめたとしても、最初から見て、徐々に見るのをやめていくという構図は変わらない。
ここで「最後まで見て作品のよしあしを評価してほしい」とお願いすることはできなくはないが、そのお願いを聞いてもらえるかは非常に怪しい。
視聴者には企業が倫理的でないことを糾弾する権利があるが、企業には、視聴者が倫理的でないことを糾弾する権利は事実上ないのである。


【カエル休憩その3】
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上を向いて産卵中。このように撮ると、次の世代へ思いを馳せながら産卵しているように見える。
わたしは日本カエル組合(略称日カ組。日教組と並んでミスターアベの二大お気に入り組合である)からイナゴ三匹で買収され、イメージアップに努めているのである。


(4)「ツイートしやすさ=燃えやすさ」でしかない

これらの困難を乗り越えることができたとしても、最後に待っているのは、ガソリンまみれになったツイートボタンである。ムービーの評判がよくても、見て「まあいいんじゃないの」とそのまま別のコンテンツを見るだけでいっこうに広まらない。なぜなら、「いい話」よりも「いやな話」に人は注目するからで、それを一番よく知っているのは、ほかでもないムービーの製作者のはずである。なぜなら、冒頭で「いやな話=ユーザーが課題をもって悩んでいる状態」を描くことによって注意を引こうとしたのだから。

【カエル休憩その4】
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かくして、産卵が終わり、受精卵ができあがった。哺乳類の出産シーンならそこそこ感動するのだが、カエルの産卵については、「この小さな身体からこれだけの卵を出すなんて、頑張り屋さんやなー」と感心はするものの、感動はない。
ウミガメだと涙を出したりすることで人間になぞらえることができるため、カエルにも、ウミガメの出産時の涙に匹敵するキラーコンテンツをお願いしたいところである。


以上、ムービー広告に内蔵されている失敗のメカニズムについて説明したが、もし運悪く、ムービー係に任命されてしまった場合、そこでできる努力は、せいぜい「誰にも着目されない」起伏のない物語を作ってつけ火されぬようにすることくらいで、仮にアクセス数が自分のブログより少なくなってしまっても、燃やされて社内事例集に入れられ語られ居づらくなって退職届をしたためたりするのに比べれば、ずっと幸せ……と思うしかないのである。


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渋谷駅から徒歩10分。買い物帰りに行ける熱帯ジャングル「渋谷区ふれあい植物センター」で、季節外れの夏休みを満喫する

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あと一か月ほど寝たり起きたりしたら春がやってくることは確実だが、実際のところ、寝たり起きたり以外のこともしなければならない。
そう思うと、さっと南の島にでも行きたいと思ったりもするが、南の島に行く旅を準備する気力は、もうすこし日照時間が増えないことには養えず、暖かくなってきたらきたで、東京も南国で、自然も少なくないし、なかなかのものだと思い、ついに南の島に行くことはない。
この季節、休日はさっさと買い物を済ませて家に帰ることが多いのだが、渋谷駅から10分ほど歩いたところにジャングルがあるのを発見し、わたしの暗黒の買い物生活に光が差したのだった。


渋谷の歩道橋まわりもよく見ると楽しい

渋谷の東口を出て、歩道橋をのぼる。
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JR渋谷駅、山手線内回りのホームと同じ高さになっていて、電車を待つ人たちと向き合える場所がある。ただそれだけなのだが、ここでしばらくぼんやりして、電車を待っている人に想いを馳せるのも楽しい。
内回りといえば目黒方面で、目黒といえば寄生虫館。行ったら数週間はお刺身を凝視したりすることになるので、それなりの覚悟が必要である。

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渋谷川が見える方向に向かう。
この渋谷川こそが、渋谷をかつて谷たらしめていた川なのだが、渋谷を谷にしている川が渋谷川と呼ばれているのはなんともウロボロス的である。

この川の先には常に一定の行列がある。「牛かつ もと村」の行列。
牛カツはわたしの頭の中では、マグロステーキと同じ引き出しに入っている。「牛肉をカツにするなんてもったない」という謎の背徳感があるので、本格的な牛カツを食べたことがない。


明治通りを恵比寿方向に向かって歩く。
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東急線の高架の撤去が進められているが、つい先日までこの上を電車が走っていたとは思えないほど寂れている。
定年を迎えたとたん老けこんでしまった元会社役員のような風情である。


10分ほど歩くと「ふれあい植物センター」に着く

交番の前の橋を渡ると、目的の「ふれあい植物センター」がある。
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冬なので、悪趣味の王様である花キャベツによるお出迎えである。

外からも、温室の様子はよくわかる。
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「出して~~~~!!!」とせがんでいるように見える。


館内に入ると、突然の来客に驚いた空気が漂うこともあるが、すぐ体制を立て直してくるので、入場料100円を笑顔で支払えばよい。
コインロッカーなどはないが、中にベンチ状のものがあり、そこにコートなどを置いて身を軽くし、イマジネーションを働かせることができれば、もうそこは熱帯のジャングルそのものである。

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温室の入り口で、「鍋島松濤公園かいぼりコーナー」による歓迎を受ける。
鍋島松濤公園は、渋谷駅を挟んで文化村の向こうにある、池つきの公園。「かいぼり」とは、池の浄化のために、いったん水抜きをして干すことを指し、「コーナー」とは、一区画の意味である。


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ピラニアがあると、「え?渋谷にピラニアが?」と、うれしさ半分恐ろしさ半分の気持ちになるが、関係ないようで、半分ほっとして半分残念な気持ちになる。
「意外に憶病」という解説での擁護も虚しく、5匹いたが共食いで2匹に減ったとのこと。
なお、かいぼりでワニガメが見つかったらしく、ここで公開予定とのことで、カメファンとワニファンは注目。


また、しぶやホタルの郷というコーナーもあり、冬は単に草がちな水たまりだが、夏はちびっこで大盛況のようである。
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いまはヌマエビ的な生き物が地味に集合している。彼らも共食いが好きだから要注意。


運がよいと、スプリンクラーから水が出るところを拝むことができる。
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雄の鮭が卵に精子をかけているところに似ている。

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中央にはバオバブが植えてある。
バオバブらしさがまだ感じられないところが残念である。
バオバブらしくなるまでこの植物センターが存続することを祈念し、わたしが実際に旅行で見てきたバオバブの写真を貼っておく。
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あかんあかん……ここは渋谷なんや。

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中央には水槽を囲むようにして椅子が置いてあり、ここに座るとたちまちジャングルにいる気分になれる。
10分前は渋谷駅で人ごみに揉まれていたというのに、ワープしたかのようだ。



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よくバナナの実は男性器に喩えられるが、バナナの花も負けてはいない。


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ラフレシアは当然ながら模型での登場となるが、「模型でもいいから大きさを知らしめてやろう」という気迫十分である。
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頭がよくなるサボテンとのことだが、育てると頭がよくなるのか、見ると頭がよくなるのか、食べると頭がよくなるのか、詳細は不明。
見て頭がよくなるのであれば、この写真を凝視すれば事足りるだろう。


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このシダ植物は、見ての通りの名前で、クロコダイルファーン。


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とくに珍しくはないが、アンスリウム。
やはり角度が芳しくないと虫も寄ってこなかったりするのだろうか。


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若者と老人。


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紹介する植物がやや偏っているような気がするので、調整のために、ナミブ砂漠のみに自生している「奇想天外」という希少植物を紹介しておく。
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2枚の葉しか持たず、1000年以上生きるという、その名のとおり不思議な植物だが、それだけではなくて、根元が非常によい感じで、棒のようなものが目立つ熱帯植物園で穴のようなものを見せ、気を吐いている。
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二階ではだいたいちびっこがDSで遊んでいる

階段をのぼる。

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二階では、無料で入場できる子供たちがDSで遊んでいることが多く、じゃまに思うかもしれないが、彼らが二人で老人ひとりを養わねばならない未来に想いを馳せると、せめていまだけではせいぜいゲームでもして楽しんでよ、と思え、若くない者たちは、階段の上からぼんやりと全景を眺めるのがよいのだろう。なお、わたしは角度を工夫して撮ったので、自然に子供のプライバシーを保護できているという点にも着目してほしい。


奥には、図書コーナーや、オカンアート的なコーナーがあり、座れる場所があり、休憩することも可能である。
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どんぐりの実の果皮を頭髪に見立てたくなる気持ちは理解できる。

屋外のおさわり自由のハーブ園も見逃せない

3階の奥の扉を開けると、屋外のハーブ園がある。屋外といってもベランダ感しかないが、ハーブが触り放題なのがうれしい。
かつて「スーパーでは魚が切り身で売られているので魚を知らない子が増えている」という説を唱える人がいたが、タメを張って、「スーパーでは細切れになって調味料のビンに入った状態で売られているので、生えているハーブの姿を知らない子が増えている」という説を唱えたいが、よく考えてみれば、子供はあまりハーブを好まない生き物だ。


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これはオレガノ。


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これはレモンバーベナ。ほかにもレモングラスなどの、「そんなにレモンが好きならレモンの果汁を使えばいいのでは」系のハーブも充実。
わたしはレモンよりもレモンN(Nは任意の文字列)の方が好きだけれど。

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屋外はビルが並んでいて、ああ、やはりここは渋谷であるということに気づく。
そのあと、また温室に戻ると、サウナ→水風呂→サウナ的な気分になれるのだ。


この「ふれあい植物センター」の素晴らしいところは、比較的遅くまで開いているところで、最終入館は17時半。
温室といえば、神代植物公園の温室が工事中である今、代替温室としても注目である。


植物センターを出て帰途につく。
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交差点の向かいにはコンパクト稲荷がある。鳥居の左に社があり、コンパクトすぎてユーモアが漂う。
面積が取れないが豪華な神社を作りたいと考えている神主様に参考になるレイアウト例かもしれない。

30分もいれば満足してしまう、こじんまりとした施設だけれど、渋谷駅から歩いて行ける距離に植物センターがあることは覚えておいてもよいだろう。

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宗派が乱立する半熟ゆで卵の製法を統一。簡単&短時間&失敗なく半熟卵を作る方法と、ゆで時間と仕上がりの比較写真

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ココロ社のクッキングコーナーを始めようと思うが、まず半熟ゆで卵の作り方について書きたいと思う。
たかが半熟ゆで卵といえども、その製法にはいくつかの宗派がある。たっぷりのお湯でゆでる宗派もあれば、少量のお湯で蒸す宗派もあり、後者が最近のトレンドのように見える。
それぞれの製法の妥当性を卵20個以上をゆでて検証し、短時間ででき、手間もかからず、安定して作る方法を確立したので報告させていただきたい。
失敗作も含めてスタッフ(=自分)がおいしくいただいたため、正直言って、しばらく卵を見たくない気持ちになってしまったのだが……。
最初に試行錯誤の末の結論としてのレシピを記しておき、なぜこの結論に至ったかについては、それぞれの宗派の言い分と合わせてその後に記しておく。

【準備するもの】

たまご…1~5個(常温ではなく、冷蔵庫にあるもの)
水…100cc


【製法】

(1)鍋に100ccの水を入れて強火で沸騰させる
(2)沸騰したら火を止めて、可能な限り静かに鍋の底にたまごを置く
(3)鍋に蓋をして中火にし、7分間ゆでる(何分ゆでるとどうなるかの比較は本文を参照)
(4)鍋にそのまま水を入れて1分間水を流し続ける
(5)水の中で剥く


・熱が回せればお湯は少なくても問題ない
「1リットルの水に卵4つ」と「5リットルの水に卵1つ」と「100ccの水に卵1つで蓋はしない」と「100ccの水に卵4つで蓋をする」で比較した。結果は「5リットルの水に卵1つ」がやや柔らかく、「100ccの水に卵1つで蓋はしない」は、一部に熱が回らず白身が固まらない状態になった。水の量が多いと、強めに加熱しないと、かえって水の量が少ないときより水温が下がってしまうので、たっぷりのお湯でゆでるのは得策ではないと思われる。また、水の量が少ないときは蓋をしていないと、鍋の中の温度を保つことができない。


・水を100ccより減らすのはハイリスクローリターンである
蓋をして蒸す流派では、極端に水の量を少なくしているものもある。たしかに、水の量は少ないほど、調理時間が短縮できるのだが、最低限のリスク回避策は講じておきたい。卵ができるまでに水が蒸発してしまったら惨事が起きてしまうので、保険として100cc用意した。この量なら、沸かすまで1分もかからない。
なお、中火で100ccの水を温めて、完全に蒸発するのがおよそ10分である。


・ゆで時間を計測しやすいよう、お湯から卵をゆでる
理論的には、急激に熱するよりも徐々に熱した方が殻が割れにくいのかもしれないが、水からゆでる場合、もとの水温の温度差が夏と冬で20度近く異なり、夏と冬で別のゆで時間を設定しなくてはいけないので面倒である。また、常に冷蔵庫から出した卵をゆでるのも同じ理由である。夏と冬の常温にはやはり20度近くの開きがあるからだ。


・割れた卵のリカバリーは困難。割れていない卵を割れないよう扱うしかない
蒸すのではなくゆでる宗派では、割れた場合のリスク回避として塩を入れることが多い。
塩分濃度を高くしておけば、塩がタンパク質の凝固を促進するため、殻から外部に白身が露出しないからである。実際、かなり大きな割れ目を作ってみたが、被害はこの程度でおさまる。
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では、ひびの入った卵を、ゆでるのではなく蒸したときはどうなるかというと、どんなに塩を入れてもこの有様。
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「黄身ってこんなに自由な形で固まれるんだな」と感動した。

―つまり、割れた卵をどうしてもゆで卵にしないといけない必然性のある人に限っては「塩水でゆでる」という道を選択すればよく、割れていない卵を使えるのであれば、やはり蒸す方が時間短縮になる。
また、お湯が沸いているところに卵を置くとき、やけどをしたくないからと、乱暴に置いてしまいがちである。卵を落ち着いて鍋に置くために、いったん火を止める工程を入れている。


・1円節約したいなら余熱を使う手があるが、手間と時間がかかる
蒸す派は、途中で火を止めて、余熱で調理し、ガス代の節約することをすすめるのだが、余熱だから温度がさがり、加熱し続けたよりも数分時間がかかる。これで節約できるガス代は1円前後。
また、加熱する→余熱で蒸らす→水をかけるの3ステップの手間を取るよりも、加熱する→水をかけるの2ステップの方が楽でもあるので、余熱を入れないことにする。


・エッグパンチと、「水の中で剥く」はおよそ同じ効果
卵の殻を楽に剥くためにエッグパンチという文明の利器がある。
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寂しいので、愛用中の無印のキッチンタイマーにも友情出演していただいた。
ダイソーなどで売っていて、裏に磁石がついていてホスピタリティ満載のスグレモノ……なのであるが、このエッグパンチでなぜ剥きやすくなるのかというと、小さな穴を通じて中の二酸化炭素を逃がすことができ、殻と卵の間に空洞ができる……という仕掛けらしいのだけれど、水の中で卵を剥いたときの剥きやすさとさほど変わりはないように思われた。卵の内側にある膜の剥きやすさについては、水の中で剥くかどうかの方が剥きやすさに大きく関与しているのではないかと感じたので、結局使っていない。


・時間とゆで度合いの比較
ネットでよく見かけるゆで時間の比較写真だが、断面を上から撮影しているので、黄身がどれくらいの硬さなのかが想像しづらい。それだけではない。真上から撮ったヌード写真を見て満足する人間はどれくらいいるのだろうか……。
そこで、皿に載せて切った直後の様子を写真に撮った。なお、熱を十分に回せるという前提なら、水の量や卵の量の多寡を問わず、この結果になる。


【5分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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黄身がほぼ液体だが決して生ではなく(「粗にして野だが卑ではない」に似た言い方)、加熱した黄身のうまみは感じられる。



【6分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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黄身の外周が少し固まってきて、中心部も少しとろりとしてきたが、黄身のこってり感がもうちょっとあったら最高だなと思った。


【7分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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これは袈裟を着ているラーメン屋の半熟たまごくらいで、袈裟を着るメンタリティは好きではないものの、コスチュームがない(≒プロモーションに無頓着である)店と比較すると、平均値としてはおいしいのではないかと思っている。


【8分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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これは袈裟を着ていないラーメン屋の半熟卵。黄身は最低限固まっていてほしいと思う人はこの時間がよいと思うが、個人的には黄身の周辺が若干パサついているところが不満。


【9分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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ここまでくると、黄身が固まってくるばかりでなく、白身が固すぎるように思うのだが、昔はこれくらいを「半熟」と呼んでいたような気がする。



わたしはここで「7分」を選択したが、この写真を目安にしてお好みのゆで加減を発見していただければ幸甚である。


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「ダサピンク現象」は、男女の問題ではなく文化的差異の問題である


はてな界隈でのみ話題になっている話はなるべく扱わないというのがこのブログの方針である。はてなユーザー以外の人にも読んでもらいたいからで、はてな界隈で話題になっている話を扱いたい場合は、より一般論として読めるようにテーマを変えて書くようにしている。
ただ先日、ピンク色のプロダクトが多く見当たるという一般的な事象について記事を書いたときに、あくまでもその一部として「ダサピンク現象」について言及しただけで、もう書かない方がいいなどというご意見を頂戴した。つまり、もっと書いてほしいと思っているのに、それが素直に言えないのである。
今回は、そんな愛くるしい方々の熱いリクエストにお答えし、心をこめて「ダサピンク現象」についての考察をしていきたい。

「ダサピンク現象」の定義とその具体的な事例

はてな界隈で話題になっている「ダサピンク現象」は、どのように定義されているかをまとめておこう。
「ダサピンク現象」とは

「女性ってピンクが好きなんでしょ?」「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」「女性って恋愛要素入ってるのが好きなんでしょ?」など、男性の、女性蔑視的な思いこみから作られた「女性向け」プロダクトが世にあふれている現象

としておくと適切だろうか。「ピンク」というのは象徴的な事例にすぎず、ピンク色でなくても、男性の女性蔑視を含んだ思いこみから作られているかどうかが最大のポイントである。男性の思いこみから作られていないものや、男性向けの黒ずくめのプロダクトについても「ダサピンク現象」に含むのであれば、そもそも男女の話は関係なく、マーケティング一般の話でしかない。単純に「ダサ現象」と呼べばよい現象になる。「ダサ現象」については、「たしかに、マーケティングをしないと的外れなものができるよね」と思うだけで、それ以上の感想はない。それをわざわざ、「ダサピンク現象」と名づけるのはミスリードにすぎないので、ここでは扱わない。

定義を確認したところで、「ダサピンク現象」の事例を挙げてみよう。
下記のような、「女性ってピンクが好きなんでしょ?」「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」「女性って恋愛要素入ってるのが好きなんでしょ?」的なバイアスによるものがあげられる。

・自動車:女性に受け入れやすい、丸い、かわいいフォルム
・ノートパソコン:商品名が「○○キッス」
・ノートパソコン:女性が好きそうな、星占いのソフトがインストールされている
・体温計:機能だけでなく、デザインも女性向けにピンク色をあしらってパッケージも花柄に
・美容家電:ふつうの家電は角張っているが、女性向けに丸みを帯びたデザインを採用

念のため書き添えておくが、わたしはこれらを「ダサ」いと思っているわけではない。一部の人が使う「ダサピンク現象」の定義を具現化したものが、これらのプロダクトだろうと言っているのである。
これらのプロダクトが、実際どのように作られていくのか、実態に沿って考えていこう。

プロダクトを「ダサピンク」にしている人が仮にいるとすれば、社員やデザイナーである

プロダクトを作る際、さまざまな色がある中で、どの色にするかを絞らなくてはならない。ピンク色のものを作るとしても、ピンク色にも好みがあるからと5色のピンク色のプロダクトを出すわけにはいかず、ボリュームゾーンにあるピンク色1つを選択せざるを得ない。デザインについても同様である。その選択の結果が気に入らない人は、なぜこの色(あるいはデザイン)を選んだのかと疑問に思うかもしれないが、それは単純に、「マーケティングの結果として一番売れそうだから」である。プロダクトについて決定権を持つ人たちは「ここで俺の女性への偏見を十分に反映させたダサいプロダクトを作って会社を潰したるで!」などとは決して思っておらず、マーケティングが雑なときもなくはないにせよ、「多数派の女性に受け入れられたい」と思っているはずである。

プロダクトについての決定権を持つ管理職はプロダクトの細部にまで指示を出す暇もスキルも持ちあわせていない。「ダサピンク現象」の存在を主張する人は、管理職がどの色のプロダクトを作るか、CMYKの値をあーでもないこーでもないと考えて、「どっちがCでどっちがMだったかすぐ忘れちゃうんだよなー」などと独りごちたり、DICのカラーチャートを指に唾をべったりつけながらめくったりしているとでも思っているのだろうか。実際、プロダクトの色やデザインについての管理職の関与の度合いは、「女性向けの企画を持ってきて」と命じ、それが女性向けかどうかをデータを見て決める程度で、細かく言う管理職でも、せいぜい「ピンク色にしてほしい」と指定するくらいだろう。「CMYKは0/70/6/0にしなさい」などと細かい色指定をするはずもない。ピンク色にしていれば管理職が満足するのだから、社員やデザイナーは、より多くの女性に好まれるピンク色を調べてプロダクトに反映させることで帳尻を合わせることができるし、上司も顧客も満足するはずなのである。上司が、わざわざ「ダサくして」と依頼しない限り、現場がデザインの溝を埋めにいくものだ。
「ダサピンク現象」の実際にあった例として、『「ピンク=女性向け」?』というツイートのまとめ記事がよく参照される。ここで語られている事例については、「そのおっさん(デザイン業)」と書かれていているところから考えると、自分の得意分野だと張り切って細かく的外れな指図をしてしまったのだろうし、そもそも、発端となった人も、自分が推すデザインを「ニッチでも確実に需要があるとこは攻めるべき」と言っているのだから、ニッチであることは自覚しているようである。単に、ニッチな市場を狙うのは仮にローリスクであったとしてもローリターンだから事業としてはやる意義が薄いと考えていたのかもしれない。

プロダクトにセンスが感じられるか否かは、細部の色やデザインをどうするかに大きく依存するが、そこには外注先のデザイナーや、それをチェックする社員の関与度が大きい。「ダサピンク」は会議室ではなく、現場で起きているのである。「ダサピンク」なプロダクトがあるとしたら、その主犯は社員やデザイナーであり、そこに若い女性が一定数含まれていることは言うまでもない。

「ダサピンク現象」は、実は男女の話とはあまり関係がない

「ダサピンクと感じられるプロダクトの背景には常に、男性管理職の女性蔑視を含んだバイアスが反映されている」という説について、誰にでもわかる反証を挙げるなら、ただ単に「女性が開発したプロダクトにもダサピンクと感じられるものがある」ことを示せばよいはずである。
実はこの記事内ですでに反証を示している。今回「ダサピンク現象」の事例としてわたしが挙げたプロダクトは、すべて、女性チームが開発した事例である。また、冒頭の写真も同様である。男性管理職が云々というのが、偏見にすぎないことがおわかりいただけたのではないかと思うし、それでもなお、男性管理職のみが「ダサピンク」なプロダクト作りに邁進していると言いたいのであれば、個別に「ダサピンク」だと思う事例について、どのようなプロセスで開発されたのか、すべてが男性管理職によるゴリ押しで作られたのかを調べてみるとよい。また、そのプロダクトの売れ行きを確認してみるとよい。
「まさかこんなに自分の気分にフィットしないものを同じ性別である女性が作るわけがないし、女性に売れるわけがない」と思う女の人もいるかもしれないが、文化的差異はときに性差よりも広がりを持つことがあることは周知の通りである。

「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」という偏見を批判するのであれば、「男性って女性の意見を聞かずにゴリ押しするんでしょ?」という判断が偏見でないかどうか、十分に検討すべきだったはずだ。的外れな子供向けのプロダクトがあったとして「きっとこれは子供のいない管理職が決裁したのだろう」などと書いたら問題になるはずだ。いかに的外れであるかの話に集中すればよいのであって、その管理職の性別などのバックグラウンドについて言及するべきではないのは言うまでもない。

「ダサピンク」が目につくのは、それが人気だからである

先ほど挙げた、女性チームが作ったプロダクトは、実際のところ、市場に受け入れられているものもある。そもそも、「ダサピンク=女性に売れない」のであれば、「ダサピンク」なプロダクトは市場原理によってあっさりと駆逐されているはずだし、もし女性のニーズにアンマッチなものが一時的に目につくことがあっても、市場原理に任せておけば、その発案者もろとも消えていくはずなのだ。もし、「ダサピンク」なプロダクトが頻繁に目につくのであれば、それらはセールス的に成功をおさめているということになるはずだ。まさか、オッサンのファンタジーのために、赤字覚悟で売れないデザインのものを無理に作り続けていたり、的を得ないデザインの製作費のために、「オッサン慰労費」という、特別な勘定科目があったりするとでも言うのだろうか。
つまり「ダサピンク」なプロダクトが街にあふれているのはなぜかというと、それが「ダサ」くないからか、あるいは、多数派が「ダサ」いかのどちらかである。

「ダサピンク」=女性の最大公約数の具現化だから、一部の人には「ダサ」に見えてしまう

長々と書いてきたが、「ダサピンク」と言われているものの実態は何なのかというと、「女性の嗜好の最大公約数を具現化したもの」なのである。それは大量生産のプロダクトの宿命であり、平均的な女性の感性から(優劣ではなく、単純に距離が)遠くにいる人にとっては「ダサ」く見えてしまうのは当然のことなのだ。以前も書いたが、自分のタイムラインに「ダサピンク」が好きな人が見当たらないのは、自分のタイムラインにEXILEのファンが見当たらないのと同じ現象にすぎない。
女性の好みが細分化される傾向があるというなら、いっそう「ダサ」いと思う人も多くなってしまうだろう。選ばれた1つのピンク色について、「このピンクは薄すぎる」という人がいたかと思えば、「このピンクは濃すぎる」という人もいて、「いやいやピンクは好きじゃないから」という人もいて、「わたしは別にデザイン性は気にしないし…」という人も出てくる……という状況が起きているのである。


以上、「ダサピンク現象」を語るにあたって、男性/女性という対立軸が適切ではないことを示してきた。「ダサピンク現象」が問題であるとするなら、文化的差異を軸に話をすすめなくてはならない。その詳細について語るには、いわゆる「マイルドヤンキー」論なども参照せねばならないが、また回を改めて書こうと思う。


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衰退しつつある産業がやりがちな「お説教広告」について

テクノロジーの進化が、かつて栄華を極めていた巨大企業のビジネスモデルを成り立たなくさせてしまうことがある。たとえば郵便。物流はなくてはならないが、信書について考えてみると、手紙を出すメリットはほとんどない。手書きだと温かみがあるような気がするが、別にLINEで暖かいメッセージをクリエイトすることは可能であるし、手書きの手紙をもらったら手書きで返さなくてはいけないような気がして、むしろありがた迷惑という気もしなくもない。手書きで手紙を書くのなら、往復ハガキで、返事も書いておいてほしいし、それが本当の礼儀というものではないだろうか……などと妄言を吐きたくなってしまうほどに信書の電子化は不可避であり、ドル箱であったところの年賀状もまた、衰退の一途を辿っている。


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先月の話だが、電車を降りたら不意打ちに遭った。
つまりこれは、「年賀状を出して、ちゃんとした大人になりなさい」という意味である。しかも、高齢のタレントさんに言われるならスケールの小さな遺言だなと思うだけだが、若いタレントさんに言われていて、「若者でも年賀状を出すのにあなたときたら……」と言われたような気持ちになってしまった。たしかにわたしは「あなたときたら……」と言われるようなオッサンなのかもしれない。ジャケットはかろうじて持っているが肩パッドが入っていない。「Tポイントカードお持ちですか?」と聞かれても、Tポイントカードが丸出しになっている財布を見せながら「大丈夫です」と答えてしまう。しかし、電車を降りるときくらいお説教プレイは控えていただかないと、電車とホームの間に足がはさまってしまい、そのショックで失禁して「助けて!やっぱり助けに来ないで!」というアンビバレントな気持ちになってしまう危険性があるのだ。


また、撤収してしまった某書店の女性向け文庫本フェア、「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」が、ソフトな口調ながらお説教プレイじみていて、女性差別の問題でもあるのだが、これもまた、かつて栄華を極めていた文庫本が売れなくなってきたからという背景があるからだった。


いまとなっては顧客にとってメリットが目減りしてしまった商品やサービス。顧客に「これを買うとこんないいことがありますよ」と訴求することができなくなってきたら、道徳や教養や伝統という実態のない概念を持ち出したくなってしまい、ついついお説教じみてしまうのかもしれない。しかもかつては栄華を極め、殿様気分が抜けていなければなおのことであるが、顧客を不快な気持ちにしてしまったら元も子もない。


なお、このあと発生しそうなお説教広告を考えたので、ビジネスモデルに不安を抱えていらっしゃる企業のご担当者様におかれましては参考にしていただきたいと思う。

・書店「ネットを見るより本を読むのが大人だよね」
・電話会社「メールよりやっぱり直接通話するのが礼儀だよね」
・旅行会社「写真を撮るより風景にひたるのが人間らしいよね」
・百貨店「安物買いの銭失いって知ってます?」


今回のようなお説教広告を目にして、わたしはひとりのサラリーマンとして、「お客様は神様ではないにせよ、下僕でもないし、そもそも仕事中に性的な戯れをしてはいけない」という、当たり前の教訓を得、ズボンのチャックが締まっているかを改めて確認したのだった。


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STAP細胞、EM菌、アベノミクス……キラリと無駄に光ったネーミング

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【忙しい人のためのまとめ】
「STAP細胞」という呼び名はコツコツ実験して発見した成果であるような印象を与え、「EM菌」という名前は、科学的根拠があるように聞こえる。「アベノミクス」は、世界的な経済政策であるかのような印象を与えることに成功した。ネーミングさえうまくいけば、不正をごまかすことすらできてしまうので学ぶべき点も多い……それはそうと、お忙しいところお目通しいただき、感謝しております。


割烹着で実験をして世紀の大発見……と思いきや、そうでもなかったことでおなじみのSTAP細胞。
最初にこの発見がNETSU造かもしれないという疑惑が出たときには、えーそれってミソジニーじゃないの?オッサンが発見していたら誰も疑わなかったと思う……などと思っていたが、実際は違っていたので反省した。匿名のブログでも、女の人が書いていて文章が面白いと「本当に女の人が書いてるの?」と言われる現象に似ていると思ったのだ。
わたしは情報が不十分なとき、ポリティカリーなコレクトネスを重んじていったん判断をしてみるのだが、最終的にそれがコレクトではないときがあるから生きるのはなかなか難しい。ただ、経験上、最初にポリティカリーにコレクトな判断をした方が最終的に正しくなる確率は高い。少なくともポリティカリーにはコレクトであるのだし、あえてポリティカリーにインコレクトな判断をする理由はないなと思っている。

「STAP」という響きのもつコツコツ感

閑話休題。この「STAP」という略称に注目してみよう。これは単純に"Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency"の略で、特に略した人のセンスが発揮されてはいないのだが、結果として、「若い女性が割烹着で大発見」というストーリーを支えていたと思う。偶然にも「STEP」に字面が似ていて、かわいらしい研究者がコツコツと実験して見つけた風味に聞こえ、ポジティブ教徒も大満足。見事なハマり具合である。ただし見事なハメ具合でもあったのだが……。
たとえばこれが「LAZI細胞」のような名前だったら、lazyや、naziなど、ネガティブなイメージを想起させ、もう少し周囲も冷静になれたのかもしれない。

なお、STAP細胞と比較されていたiPS細胞は、小文字の「i」で始まるところから、アップル社の商品を思わせる名前で未来を感じさせる。実際に山中さんはそれを意識してiをあえて小文字にしていたそうで、科学に興味がない人を意識して命名するとは、超絶すばらしい研究者であると同時に超絶すばらしい営業マンである。

科学的に見えるネーミングが光るEM菌

いじめがなくなるなどの四次元的な効能があることでおなじみのEM菌。もし「INCH菌」のような名前だったとしたら「これはインチキだな」と気づき、親子で川に珍妙な団子を放り込み、それをFacebookなどで紹介し、恥をさらすとともに水を汚すこともなかったのかもしれない。ES細胞を想起させるネーミングセンスが機能している例といえる。念のため書き添えておくと、ESは"Embryonic Stem"の略で、EMは"Effective Microorganisms"の略。ESとは何の関連性もないし、ゆるい呼称である。「役に立つ微生物たち」……Rolling Stones並みにロックンロールである。使うことでささやかな自己満足に浸れるという意味においては、"Microorganisms"ではなくて"Microorgasm"にした方が適切ではないかと思うのだが、そもそもEM菌という概念そのものが不適切であることは言うまでもない。

「アベノミクス」批判の失敗

アベノミクスは、80年代に行われたレーガン大統領の「レーガノミクス」をもじったもの。第一次安部内閣のときから言われていたらしい。元ネタのレーガノミクスはいわゆる「双子の赤字」を産んだ。つまり、自分から「アベノミクス」などと名乗ってしまったら、腕まくりをして(あるいは省エネスーツを最初から着て)「今から壮絶な失敗をしまっせ」と宣言しているようなものであり、そのネーミングセンスは大丈夫なのかと思ったのだけれど、まず、経済政策に名前をつけたことで、前政権が経済政策をしていなかったような印象を与えることができたという点で成功した。また、レーガノミクスをはじめとして、過去に取られた海外での政策について平均的な日本人が記憶しているものはといえば、学校で習うニューディール政策くらいのものであり、レーガノミクスを覚えていた人も、どのような政策だったのかは忘れていたことだろう。「日本人の名前+英語」で、国際的な雰囲気も漂っていて、最近流行の「日本のここがスゴイ」的な文脈に見事なまでのハマり具合である。
批判的な立場を取っているはずのメディアですら、批判する際に「アベノミクス」という言葉を多用し、結果として、「景気がよくなった気があまりしないけれど、まあノーミクスよりアベノミクスかなぁ……」という空気を醸成する手助けをしたのだった。

「アベノミクス」に反対する人たちもまた、「アベノミクス」なる体系的かつ効果的な経済政策が存在することを証明し宣伝することに加担していたことは皮肉でしかない。レーガノミクスなら、あのときお父ちゃんの方のブッシュが"Voodoo Economy"と呼んでいて、この呼び方もポリティカリーにコレクトなのかどうなのかと思うが、根拠の薄い政策という意図を汲んで、「ニセ経済」とでも呼んでおけばよかったものを、せいぜい「アホノミクス」などと、個人を感情的に中傷しているように聞こえるキーワードを作ることしかできなかった(「アホと言う人こそがアホ」と大阪のちびっこは教わるものだ)のだから、本当はミスターアベのことが好きなのではないかもしれない。実はミスターアベおよび自民党をなんとかしたいと思っているのであれば、代案となる経済政策に、少なくともレーガノミクスをもじる程度に気の利いた経済政策の名前をつける必要があるだろう。


胃にもたれる例ばかり見てきたが、このように、何かを成功させたいと思ったときには、名前をつけるかどうかを含めネーミングについて真剣に考えるべきであり、うまくいったあかつきには、正当性がないものをも正当にであるかのように見せることさえできるのであった。
一般的になにかものを作るときに、まずコンセプトを固めることから始め、コンセプトが固まったらネーミングを考える。たとえば本を作るときもタイトルは後の方で決めることが多い。しかし、適切な名前が捻出できなければ、コンセプトがよかったとしても世に出す意味はあまりないのかもしれない。

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「宝くじを買う人は愚か者」説の真偽を確かめ、ついに最終結論を得た

宝くじ研究家(研究しすぎた結果、買わなくなるほどの本物の研究家)のココロ社より愛をこめて……
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「宝くじは愚者の税金だ」という言葉を知っているにもかかわらず、わたしは何度か宝くじを買ったことがある。そのうちの少なくとも一回は、どうせ当たらないのだから、当選したかどうかを確認するのは時間の無駄と思って、確認しないまま捨ててしまったので、その意味で、まさにわたしは愚者税を払ったのかもしれない。しかし、愚かであるというハンディキャップを持ちながら健気に生きているのだから、そこを評価してもらい、むしろ賢者から税金を取ってわたしのような愚者に再配分した方がよいのでは、と思ったが、よく考えてみると、それは世に普通に存在するZEIーKINそのものではないか……ということに気づくのにも時間がかかってしまったので、わたしは筋金入りの愚者なのかもしれない。

―そんな感傷はさておき、「宝くじは愚者の税金」論を語る人の多くが、その根拠に、期待値が低いことを挙げている。宝くじ当選金の期待値は1枚につき150円程度で、それに1枚300円を費やすのは愚かである云々……。

「期待値の定義を確認する」という遊びをしよう

「期待値」という言葉は中学数学で習う概念で、「その試行の結果の平均値」である。たとえば、サイコロを振ったときに出る目の期待値は3.5である。しかし、一般的に「期待値」とは「ある事象が起こってほしいと願う強さの度合い」を示すことが多い。ぼくは「期待値が上がる」などと、無理に数学的表現を使うのではなく、単純に「期待する」などと表現すれば事足りると思ってもいるのだが、細かい人と言われるのも癪なので、誰かが「『今度飲みに行きましょう』って言ったら『行きましょう』と返事されたので、ついつい期待値が上がってしまうものだよねぇー?」と問いかけられたとしても、「それで本当に期・待・値が上げられるなら絶対ノーベル賞がもらえるよ」などと嫌味を言ったりはしない。空気を読んで、「よっぽど嫌いでない限り『行きましょう』と答えるよ。このあと日程を調整するときに『忙しい』を連発されるかもしれないけど」と答えることだろう。

話を宝くじに戻すと、宝くじの当選金の期待値は1枚あたり約150円であるといわれている。つまり1枚当たり150円を捨てていることになるのだが、期待値だけを基準にして行動するのであれば、人生における期待値は家も持てず仕事に苦しみ……なので、頭のいい人は大学を出たあたりでさっさと首を吊るものであり、生きている者は全員愚か者だ、ということになってしまうが、そうしていない人の方が多い。つまり期待値の多寡は行動のキーにならないこともあるのである。

憂鬱になるようなたとえは措いておき、より宝くじに近いケースを考えてみよう。
200円で販売されているシベリアンハスキーが共食いしている図柄のチケットがあったとして、

(1)じゃんけんに勝ったら250円もらえるが、負けたら何ももらえない、シベリアンハスキーが共食いしている図柄のチケット
(2)8桁以下の数字のうちから1つ選び、値が一致すると20億円もらえるが、一致しなければ何ももらえない、シベリアンハスキーが共食いしている図柄のチケット

のどちらかを買わねばならない。もし買わなかった人は、誘拐して耳にスピーカーを埋め込む手術を施され、日本の歴代総理大臣の喘ぎ声を絶え間なく流し続けるぞ(ただし初代総理大臣伊藤博文~11代総理大臣桂太郎の喘ぎ声は、音声が残っていないため、写真からコンピューターで計算して出力したもので代用)、と脅迫されたらどうするだろうか。(1)の当たり金額の期待値は125円で、(2)の当たり金額の期待値は20円。単純に期待値の大小で決めるのであれば、(1)を選ぶはずだが、この条件なら(1)を選ぶ人は少ないはずだ。つまり、確率が低くても、当選した時の金額が大きければそのくじに魅力を感じることもある。
その意味で、宝くじを買う人が言う「買わなきゃ当たらない」が、それなりに妥当ではあるのだった。

なお、宝くじの当選と交通事故を比較する人のことは好きだが、変態だと思う

なお、この話とは直接関係ないが、宝くじの当選確率の低さを「交通事故よりも低い」と表現する人がいるが、そのたとえを持ち出すことは不適切であると指摘しておく。たしかに、1年のうちに、交通事故で死ぬ確率は、4500人/127080000人で、交通事故の方が確率が高いし、感覚的にとらえても、交通事故で亡くなった知人の1人や2人はいることを考えると、宝くじの1等の当選確率は極めて低いので、言っていること自体は正しいのだが、不幸な事柄である交通事故と幸福な事柄である宝くじの当選の確率を比較し、不幸なことが起こる確率の方が高いことを示しても、気が滅入るだけではないだろうか。

それでもなお、わたしは宝くじを買わないだろう

以上、「期待値が低いから、宝くじを買うべきでない」説に欠点があることを横道にそれながら考えてきたが、それでもなお、わたしはもう宝くじを買わないと思う。
理由は簡単で、「宝くじのようなものを毎日無料で引いているから」だ。

人は、無意識にさまざまな試行を行っている。ざっと考えただけでも下記のような試行があるだろう。

・ある日、会社の社長が料亭で食べたふぐの白子に元気で紐に似た寄生虫がいて、白子が好きな社長はそれを丸呑みした。会社で社長とすれ違ったとたん、社長の脳を新居とした寄生虫が口蓋の神経に触れ、はからずも「キミよく頑張ってるね。お小遣いとして7億円あげよう」と社長が発音することに……「まあ自分の意志でないような気もするが、言ってしまったものは仕方ない」と渋々7億円を給与振込口座に振り込んだとさ。


・話があると言われて実家に帰ったら、玄関を開けた途端にガソリン臭にむっとした。もしかしたら一家心中のお誘いだったのか?とヒヤリとし、まあ自分自身人生うまくいってるわけでもないし、一家で同時に絶命するなら寂しくないからいいのかも……などと思いながら話を聞いてみると、家の庭から石油が噴出しているとのこと。本格的な採掘を依頼したら小規模ながら油田があったとのことで、その先お金に困ることはなかったとさ。


・漬物をよく見たらキリストの像が……ただちに冷凍してオークションに出したら1億円の値がついたのだが、そのオークションの落札画面を薄目で見たら、これもまたキリストの像に見える!そのスクリーンショットをテレビ局に売るとともに出演もしたのだが、出演しているシーンもまた薄目で見たらキリストの像に……と、永遠にキリスト像に見えるループに嵌まってしまい、けっきょく自分自身がキリストの再来であると噂されるようになって無限の富を得ることとなったとさ。


・山道を歩いているときに猛烈な便意に襲われ、これはたまらんと思って林の中に入って用を足したら、足元に、お寺のマークに似ているがなんとなく逆な感じの胸騒ぎのするマークが……もしやと思って掘ったら、マジックで「ヒトラー私物 開けるな」と書いてある金庫で、間違いなくナチスの財宝。7億円相当の中身を全額手に入れる権利を法的に得たものの、これをそのまま受け取って悠悠自適というのは倫理的にどうなの……と思っていたら、みのもんた氏や板東英二氏が、「権利は主張すべきだし、財宝を受け取ることを恥じてはならない」と番組で援護してくれたので、世間から後ろ指を指されることなく大金を手にすることができたとさ。


・雨の日に近所を歩いていたら、びしょびしょになった柴犬を発見。柴犬って毛足が短いから、濡れたときのみすぼらしさは大したことないなー、ヨークシャテリアとか体積が半分になっていて即保護しようと思うけど……などと頭では思いながらも身体は正直で、柴犬を持ち帰って飼うことになった。ある日、家に帰ってきたら犬がレシートを持って手としっぽで数字を表現しようとしている風で、その数字はなんと各レシートの合計金額と合致!計算ができる犬であり、特に平均的には頑固であるとされる柴犬だったものだからテレビにひっぱりだこで、たちまち犬はスターになり、大金を手に入れたとさ。


ネタが尽きたのでこのあたりでやめにしておくが、このような事象が起きるくじをわれわれは毎日引いているはずで、ただ、毎回当選していないからくじを引いていること自体に気づかないだけなのだ。もちろんこれらの事象が起きる確率は極めて低く、起きることはないと断言してもいいくらいだ。まさに宝くじが当たったかのような話である。

以上のように考えて、「宝くじを買う人は愚か者ではなく、お金持ちである」という結論を得た。
わたしは、毎日無料で宝くじ状のものを引いているのに、それに加えてわざわざお金を出して宝くじを買う必要はないのでは、と思い至って、宝くじを買うのをやめるのに成功したのだった。
しかし、今日もさまざまな宝くじ状のものを引いて外れたと思うが、早く何か当たってほしいと思う。
わたしは先進国に生まれる宝くじに当選しただけで終わってしまうのだろうか。そう考えるとまあいいやという気もするが。