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ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

千葉・佐倉のチューリップ祭りに行って、「チューリップが好き」と言いにくい謎について考えた

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大人になると、チューリップが好きな人も、堂々と「チューリップが好きです」と言えなくなってくる。
内心、チューリップが大好き、死んだら棺桶の中をチューリップで満たしてほしい、と願っている人でもそうだろう。
亡くなったあとも、菊に囲まれ棺に収められながら、「これじゃないんだけど言い出せなかったし、棺桶の花以外についても言いたいことを言わないで過ごしてきた人生だった……」という残留思念が葬儀場の中をさまよっているのかもしれない。

わたしはチューリップのことはほどほどに好きだが、大人にとって、チューリップが好きだとは言いにくいムードがあることは承知している。
意中の女性の誕生日に100本の薔薇の花束を贈ったら嫌な顔をされる確率はおよそ80%ほどかと思う。では20%は喜ぶのかと思った方もいるかもしれない。愛情の押しつけが嫌いな人は、得てして愛情の押しつけが嫌いなあまり、世界中が愛情の押しつけを嫌っていると思いがちなのだが、それはそれで冷静さを失っており、実際のところ、押しつけがましいくらいの方がちょうどいいと思っている人はそれなりにいるものである。
それはともかく、100本の薔薇の花を喜んだ20%の女性も、100本のチューリップの花を贈られたら、全員がうれしくないと思うはずで、なぜならそんな子供っぽい花を2~3本ならともかく、100本も部屋に置いた日には、ファンシーも度を越して窒息死してしまいかねない。

とはいえ、よく考えてみると、チューリップそのものは子供ではない。チューリップの花には雄しべと雌しべがあり、その雌しべのぬめり具合ときたら、もしかしてあなたは雄しべなのかと思えるほどなのだが、そこまで成熟し欲望を露わにしているにもかかわらず、世間からは子供っぽいと思われているのはなぜだろうか……その謎を解くべく、取材班は千葉県へと向かった。(ひとりでも「班」を自称するのは、わたしの五感がそれぞれバラバラの結論を出すことが多いからである)


前置きが長くなったが、以前から存在を知っていた千葉県の「佐倉チューリップフェスタ」に行ってきた。今年(2017年)は、4月23日(日)までである。
「春になったら行こう」と思いながら放置して10年あまり経ってしまったが、おびただしい数のチューリップに囲まれることにより、真理に辿りつけるのではないかと思ったからである。


ここに東京から電車で行く人はほとんどいないようである。電車で行く場合、最寄り駅の京成臼井駅から、およそ30分歩くことになる。隣の佐倉駅からバスが出てはいるのだが、このチューリップ祭りの存在根拠を握っている印旛沼沿いに歩いてこそ、このチューリップ祭りのありがたさが身にしみるのである。


印旛沼は濁っていて、日本の湖沼の中でもだいぶん茶色い部類に入るのだが、ふつうに「沼」と聞いて想像する広さとはまったく異なる。
向こう岸が遠すぎてよく見えず、湖のようであり、忙しくてチューリップにも興味がないという人は、印旛沼だけを見て帰ってもいいかもしれない。
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有害な外来種といえども、カミツキガメがガオーと言いながら沼から出てきたらうれしいと思ってしまうだろう。
なお、注意喚起したいあまり「注意喚起」と書いてあるが、「注意」と書くだけで事足りる。

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誰もいない沼のほとりを15分も歩き続けると、風車が見えてきて感激した。チューリップフェスタの会場である。

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会場の駐車場は1000円で使えるのだが、車がひしめき合っていて、チューリップ祭りと同時に車祭りをしているのかと思ってしまった。そして1000円を払えない者たちは、近くの路上に無料で停めている。

印旛沼近辺は、かつては氾濫がひどかったのだが、干拓により、水の量をコントロールできるようになり、いまは広大な水田が広がっている。
印旛沼の干拓といえば、江戸時代に田沼意次が行ったことで知られているが、ご存知のとおり失脚して計画も頓挫し、干拓が完遂されたのは戦後になってから。ここのチューリップは、住民の自然に対する勝利宣言のようである。

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祭りの中心には風車がある。オランダ製らしいのだが、近くに見ると羽に帆が張っておらず、今日は回す気がないことがわかる。チューリップ祭りのときに回さずしていつ回すのだろうかと思ったが、風車が回っていると夢中になってチューリップのことなどどうでもよくなってしまうから、あえて集中させるために風車を止めているのかもしれない。一蘭の「味集中システム」を想起してしまう。

風車に関心がない人は、風車を、巨大な羽根が回っているのを見てオーガズムに達するという、地味な娯楽施設だと思っている人もいるかもしれないが、風車は風の力で歯車を回して、水汲みや粉挽きに使っている。
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ここの風車では、その仕組みが垣間見える。

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風車に至る道には小さいながら跳ね橋があって、ノーマルな日本人が西洋に求めるものが凝縮されている。ゲイシャの背景にフジヤマ的な……。

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風車を囲む堀には淡水のゴキブリの異名をとる鯉たちが餌はまだかと跳ね回っていて賑やかであるが、今日はチューリップを見にきたのだった、

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おびただしいチューリップ群を見て最初に気になったのは、一様に東向き、午後だとちょうど太陽に背を向けた格好になるところ。
たとえば自分が面接官だとしよう。面接に来た人が笑顔で熱意をアピールするが、足先だけは真横を向いていたら……。合否を決めるにあたっては考慮には入れないと思うけれど、戸惑うことはたしかである。
チューリップは屈光性であると思っていたが、太陽の位置にリアルタイムに応対するようにはできていないらしい。そこまでまめに応対しなくても暮らしていけるのだろう。
1本2本ならともかく、何万本もが一斉に太陽に背を向けていて、まるで無言の抗議を受けているような気になってしまった。

また、チューリップ畑の撮り方にはコツがあった。上や横から撮ると、畑に花が咲いているように見えてしまうが、チューリップと同じ高さで撮ると、チューリップに満たされてているように見える。
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しかし、花・花・花……。
葉も茎も印象に残らない。
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葉も茎も、単に花を支えるだけの存在である。たとえば薔薇の葉は可憐で、茎には棘があり、互いの存在を引きたてあっているが、チューリップにはそのような相互関係はない。「植物といえば花」という、シンプルな自然観を表しているところに子供っぽさを感じてしまうのかもしれない。

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チューリップの原種の花冠はほどほどの大きさだが、人類が花を大きくすることに執念を燃やして交配に交配を重ね、巨大な花冠を持つ、観賞用として都合のよい花に仕立てあげた。そんなチューリップが一面に植えられているのを見ると、人類の圧倒的勝利を実感するし、完璧に自然を支配できるのではないかという気がする。その一方で、人類の欲望を正直に体現しすぎていて、我にかえってしまい、好きと言いづらい気持ちにもなったりもするが、そんなところも含めて素晴らしいと思う。


1時間ほど歩きまわり、推定3年分のチューリップを堪能したので、会場をあとにした。
人間として生まれたからには、チューリップという花について一度くらいは真剣に考えた方がよいと思うので、今年が無理でも来年はぜひ訪れていただきたいと思う。

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なお、会場のすぐ近くの地すべり防止のコンクリートの崖が未来都市のよう。上の建物は病院なのだが、チューリップ畑とのコントラストが素晴らしい。


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東京・府中の巨大パラボラアンテナを見納めてから偉人の墓参りをキメる

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東京都の建造物で都民を励まし続ける存在といえば東京タワーであるが、東京都民でありながら東京都になじめないアンダーグラウンド都民にとって、あれはまだまだ赤すぎる。
われわれアングラ都民(共犯に仕立てあげてしまい、申し訳ない……)を励ましつづけてきた建造物といえば、府中のパラボラアンテナである。
わたしがこのアンテナを見たのは20年で5回程度に過ぎないのだが、週の半ばに嫌な事件が起きたとき、「逝去したい……でも週末に府中のパラボラアンテナを見たら気分転換になるだろうから逝去はもうちょっと先にとっておこう」と思って過ごし、週末になると逝去の件についてはすっかり忘れて遊び呆ける……という一週間を過ごすことが多く、実際に行くことはなくとも、パラボラアンテナが府中に存在するという事実がわたしを勇気づけてきたのだった。

あのパラボラアンテナ、米軍基地跡にあって、現役ではない。府中市は競馬などで財政が潤い気味だから再開発的なこともしたいのではないかと思っていたのだが、先日、建物の撤去が始まっていたという情報を遅ればせながらキャッチし、最後にたくさん写真をとって、思い残しがないようにせねばと思って現地に向かった。
そして、パラボラアンテナ目当てで府中に行くのも、なんだかはしたない気がする……という謎の恥じらいが脳内で発生したので、近接する多磨霊園で偉人の霊を一網打尽としゃれこもうと思ったのだった。

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今回の行程はこれ。京王線東府中駅で降り、米軍基地跡のフェンス沿いに、さまざまな角度から基地跡の姿を記憶に焼きつけ、ナイス寺院を挟んで最後に高台からパラボラアンテナを眺め、我が世の春を謳歌しスッキリして賢者モードになってから偉人たちの墓参りをする……という夢のようなツアーである。ノーマルな人にとっては何もないところを歩き倒すという悪夢のようなプランなのかもしれないが……。
ノーマルな感性のオーナーの皆様におかれましては、企画展が常に充実している府中市美術館の帰りに、軽くパラボラをキメる程度の方がよいかもしれない。

東府中駅を降りて北に歩いていくと、ほどなくして自衛隊の基地が見えてくる。気軽に入れる雰囲気はないのだが、フェンスの向こうに給水塔のような建物が見えるので、ありがたく拝ませていただくことにする。
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すごい茶色の汁が中に溜まっていそうで興奮する。

しばらくすると、フェンスに囲まれた廃墟のようなものが見えてくるけれど、これが今回のお目当ての米軍基地跡である。


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フェンスの近くに、まだ取り壊されていない建物が残っているので、不審者と思われないよう気をつけながら観察しなくてはならない。具体的にいうと、フェンスに近づいてもいいが、フェンスの跡が顔につかないよう気をつける。

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しかしここの木の空気の読まなさがひどい。植物に話しかけるとよく育つという説があるが、たとえ「じゃまだなぁ……」と話しかけてもこのように育つのであれば、植物には言葉がわかったりしないのだろう。

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レコードが散乱していたが、何のレコードかはわからなかった。80年代に竹の子族が忍びこんで『怪僧ラスプーチン』を踊ったりしたのではないかと推察する。


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ここは国有地という扱いのようである。国有地の前に赤字で何か書いてあったのだろうか。
こういうシチュエーションで気の利いたコメントが言えるセンスを持っていたなら、わたしはハガキ職人として活躍していたかもしれない。


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いま、基地跡を囲うフェンスは二重になっている。内側のフェンスはフェンスとしての機能を期待されていないためか、植物と一体化して朽ちている。


基地内の外灯がまだ形を保っているが、わたしの気持ちを忖度したカラスが二羽、外灯にとまってくれたので、感謝しながら撮影した。
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フェンスに沿って歩いてみても、なかなかパラボラアンテナの姿は見えない。ただ一周しても30分もかからないので、あれこれ想像しながら歩くと楽しい。観光スポットを自分で探す喜びに震えることだろう。

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最初に見えてくるパラボラアンテナの姿は、おそらくこれだ。
この写真だけ切りだしてみたら、ベルリンの壁から見た東ドイツの風景のようである。実際のベルリンの壁はもっと高いからフェンス越しにアンテナが見えたりはしなかったようである。

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以前、パラボラアンテナのまわりには、魅力的な建物が林立していたのだが、それらはすでに撤去されていて、パラボラアンテナの思わぬ御開帳となっている。


以前に撮ったパラボラアンテナの姿も合わせて貼っておこう。
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ひとしきり取り終わって気持ちが落ち着いたころに、慈恵院が見えてくる。ここは動物の霊をなぐさめる東京では最大級の寺院。
庭園には立ち入れないものの、箱庭感がユニークなので、ぜひ立ち寄ってほしいと思う。
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特筆すべきなのがこの建物で、部分的に溶岩で覆われていて、そのまだら具合がハイセンスである。こういう家に住みたいと思ったが、おそらく中は普通なのだろうなと思う。


観音様は猫派のようである。
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動物像がにぎやかで、ペットを失ったわけでもないわたしも癒やされた。
特にWELCOMEの子犬はとびきりのがんばりやさんである。
後ろの高級そうな猫を家に置きたい。


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驚いたのがこの張り紙で、動物霊園を保健所かなにかと勘違いしている人がそれなりにいるということだろうし、捨てた人は来世では石臼か何かに転生して永遠に回転しながらじっくりと反省してほしい。



さらに基地跡をまわっていると、マイクロウェーブ塔により近づける。
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年季が入っていて思わず何枚も写真を撮ってしまうが、現役とのこと。



こんどは、まったく別の角度からパラボラアンテナを眺めてみよう。
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浅間山公園を登っていく。ここは広大な公園のわりに人が少なくて、単体でも観光に耐えうる、ありがたい公園である。


一番高いところから西の方角を見ると、パラボラアンテナを横から見ることができる。
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街並みと合わせて撮ると、タイムスリップしたのかという気持ちになる。遠くにあるので、望遠レンズが必要。写真を撮らないなら双眼鏡があるといい。


この公園は浅間神社を擁している。創建年月は不詳なのだけれど、小さいながら山の頂上にあるので、神がここにいる感じはする。写真を撮ったときはちょうど例大祭だった。
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このあと、ゆっくり下って多磨霊園に向かうのだが、山道を歩いていると、突然視界が開けて、本気度の高いアマチュアカメラマンたちが現れた。何やらお触れのようなものが掲げてある。
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一瞬何かと思ったのだが、鳥に人気の水場で、人間がじゃましない限りにおいては撮り放題で、入れ替わり立ち替わり、鳥たちが水浴びをしていた。


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イメージ通りの写真を撮るには、おそらく600mmくらいの望遠レンスが必要。これは300mmで、鳥を本気で撮りたいなら望遠レンズを買い足す必要があるように思うが、レンズ沼にははまりたくない。本体沼だけでじゅうぶんである。


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浅間山の斜面では最近、謎の大量伐採があったようで、このあとどうする気なのかが気になるので、何年かしたらまた来てみようと思う。


小さな吊り橋を通過し、多磨霊園の26区に向かう。多磨霊園は江戸川乱歩のお墓参りから始めるのがスムーズである。


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江戸川乱歩先生の本は、『D坂の殺人事件』を読んだのだが、題名の『D坂』という響きだけで震えあがってしまい、よく覚えていない。ミステリーの基本くらいは押さえておきたいと思って読んだのだが、改めて拝読いたします……と先生にお話しした。

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次は長谷川町子先生。フォントが庶民的で感動した。サザエさんがまだ現役で放送しているので、どうにも亡くなった感じがしない。声優さんにR.I.P.と思うことはある。

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三島由紀夫先生もこちらに眠っておられる。享年44歳と知って驚いた。あの自決は若さがないとできないと思っていたのだけど……とにかくああいうなくなり方はよろしくないので次は考えていただけないかお願いした。

そしてトリは大好きな田山花袋先生である。
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かといって墓石をさすったとしても花袋先生に近づける感じがまったくしない。
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裏に何かかいてありそうなくぼみがあったのに、帰宅してPhotoshopでコントラストをいじってみても何も出てこない。
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しかし当時植えたであろう木がお墓を囲むように育っている。
花袋先生の撒いた文学の種については、変な汁をかけて育てられてしまったからか、よくわからない実をつけているが……。


訪れた偉人の墓の場所を順にまとめておくと

江戸川乱歩 26区1種17側
三島由紀夫 10区1種13側
長谷川町子 10区1種4側
田山花袋 12区2種31側

なので、参考にしていただければありがたい。
偉人たちの墓参りをしていると、誰だかわからない人のお墓の様子が気になってきた。
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定期的に参られて親族によって整備されているお墓を見ると安心するが、草木が生え放題のお墓は奥の院のように見えて、いっそうその霊があらたかに感じられるが、そう感じる人は変態なのかもしれない。

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しかしこの多磨霊園のピラミッドと呼びたくなる建築物も無縁墓扱いになっているのは非常にもったいない気がする。

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なお、ここの管理者不在の墓については、小池百合子先生がちゃんとしろと命じているのでちゃんとしなければならない。


また、個人の在りし日の姿がよくわかるタイプのお墓もいくつか見つけた。
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お金があるならこれにした方が絶対よいと思うのだが、調べてみると台座なども含めると200万円近くするようで、子孫に自分の存在を伝えるのもなかなか難しい。
また、材質によってはひびが入りやすく、いたずらにケンカが強そうに見えてしまうので注意が必要である。

ただ、銅像ができたとしても、痕跡が一切奪われてしまったままのものもある。
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この銅像の主が不憫に思うのだが、この扱いからして、かなりの偉人のはずである。誰なの~~!

霊園のメインストリートには噴水塔without水がある。
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アールデコのようでエロチック。何周も回ってしまった。

多磨霊園を出て、多磨霊園の駅へと歩く。この通りは、古くからの石材店が並んでいて、城下町のような風情がある。ただ立ち寄っても何も買うものがないのだが……。

ふと目を遣ると魅力的なお寺。染屋不動尊は1653年にこの地に鎮座し、小さいながら宝物殿には、旧国宝、現重要文化財の阿弥陀如来立像が安置されている。こんなさりげなく置いてるのか……。毎年文化の日には御開帳らしいので忘れずに行きたいと思う。
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この旅の終わりに立ち寄ったのは街中華の極み、『珍華』。
16時に着いたのに、このあと何組ものお客さんで賑わっていた。お客さんが来ないと思ってひとりでテーブル席に陣取ってしまったが、次回はカウンター席に座るようにしようと思った。

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店内は落ち着きすぎるほど落ち着いていて、一心不乱にフルートを吹く少女たちのレリーフがいかしている。
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上のパイオニアのAVセレクターか何かの機械のデザインが、まるで初期のローランドのシンセサイザー、Jupitar-8やTR-808のようなデザインで、もしかして同じデザイナーなのかと思った。さらに上にはダブルデッキのカセットプレイヤーで、料理を注文する前からごちそうさまと言いたくなるほどの満足感である。

壁には表彰状がいくつも貼ってあったが、よく見ると、料理コンテストの賞状ではなく、青色申告制度の普及に努めたことへの感謝状だった。マスターのお人柄が伝わってくる。

頼んだのは、あんかけチャーハンで、ザ・昭和中華の味で期待を裏切らない。
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ずいぶん遠くに来た気がしたのだが、40分後には新宿にいて、不思議な気分である。
近場なのに非日常を感じられて大変ありがたい。



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花キャベツのがんばりも見てあげてください

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東京の桜が満開との報道があったが、そのとき実際に都内で見かけた桜はまだ五分咲きほどだった。
開花宣言のときもそうだが、早めに咲く靖国神社にある桜が標本木になっているから実感とずれてしまう。靖国神社の桜が都内の他の桜より早く開花しているように思えるのは、もしかすると英霊のなせるわざなのかとも思うのだが、だとしたら、それだけ早く散ってしまうので、国体護持という観点では縁起が悪いのではないかと思ったり、桜の花芽形成を早めるほどのテクノロジーを持っているのであれば、他の諸問題の解決にも力を貸していただけないかと思ってしまう。

それはさておき、わたしはいつも、この季節に、花のない時期からわれわれを励まし続けてきた、お世辞にも趣味がよいとは言えないが健気な植物のことを想う。その名は花キャベツ。以前から何度か言及してきたのだが、写真がたまってきたので、ここで花キャベツご本人に代わって紹介しようと思う。

この植物、正式な和名はハボタンだが、おそらく「家事手伝い」や「授かり婚」を名付けた人と同一人物ではないかと推測している。素晴らしい才能だと思うが、ここでわたしの牡丹フォルダを開けて、双方を比較してみよう。

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なるべく花キャベツのよいところを撮って下駄を履かせたつもりだが、花キャベツは、土から直接生えているところが地味。色合いも、葉にしては努力していると思うが、牡丹の華やかさには足元にも及ばない。
やはり、ノーマルな感性の持ち主が見ると、「キャベツに色がついていて花のように見えなくもない」という域を超えてはいないし、本人たちにとっても、牡丹と比較されるのはつらいと思うので、サイレント・マジョリティの声を重視して、「花キャベツ」と呼ばせていただきたいと思う。


見頃は、世間の花があらかた散ってしまった11月ごろからで、この時期に、道路の脇の植えこみに登場する。
冬の植えこみといえばパンジーがあるけれど、寒さがピークになる時期は枯れやすく、そんなときに植えこみで花らしきものを見せてくれるのは花キャベツだけなのだ。
とはいえ、この色合いである。都落ちした貴婦人を思わせ、そんなところで気高くしなくてもいいよとも思うのだが、花キャベツがなかったら道の植えこみは更地だらけになり、吸い殻や空き缶を捨てるところと思われてしまう。その意味で花キャベツはささやかな花状のデザインを提供するだけでなく、窓が割れていないことを示す記号でもあるのだ。

2月になってくると、まず沈丁花が華やかな香りをふりまき、梅や蝋梅も咲きはじめ、人々は春が近いことを感じ、多少お世話になった花キャベツの地味な花状の葉のことは忘却の彼方である。
そして4月になって、桜が咲きはじめると、世間の注目は桜の花に集中する。ふだん昆虫や鉱物や魚類にしか関心がない人も桜の花に夢中である。とはいえ、花見をしている脇を通ると、人々は花見というほど花を見ていないように見えるが……。

ほとんど同じ時期に、花キャベツは花を咲かせている。
ただ、花を咲かせる前にお役御免となって撤去されることがほとんどである。
よく植えこみで「花を大切に」という意味の警告が書いてあるが、大切にしていないのはキミじゃないのかと思う。


花キャベツの花がどのような花なのかご存じの方はいるだろうか。
おそらく、中央に控えめな白い花を咲かせる……と思うはずだ。少なくともわたしはそう思っていた。


しかし実際は違う。
冬に花っぽい葉を広げながらすくすくと育ち、3月の末になると、彼らは突然茎を伸ばし、ブツブツ言いはじめる。「いままでのわたしたちの姿に魅了されていたみなさん……実はこの姿は花ではありません……こう見えて、実は葉だったのです……そして……ジャーン!!!これが、わたしたちの花なんです~~~!!!ほらほら見て見て~~~~!!!」
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どこにそんなポテンシャルがあったのかと驚くほど茎が伸びて、黄色い花を咲かせるのだった。植えこみを作った人としても想定外の高さで、バランスの悪さで植えこみの美観を損ねている。
少し前に咲く菜の花に似すぎていて、ふとわれわれの目についても、「それさっき見たよ」と思うし、かつて花のように見えていた葉は、しおれながら別れ別れになってしまい、くたびれたカンカン娘のようで、哀愁しか感じられない。


しかし、花がない季節に花のような葉をつけて、花の季節には改めて花をつけ、人類を二度楽しませてくれようとしてくれた努力は認めるべきではないかと思うのだ。
多機能を目指した結果、無機能に等しくなってしまっているところは、なんだか日本のお家芸のようで他人事とは思えない。


桜もいいけれど、一瞬でいいので、植えこみでひそかに満開を迎える彼らことも見てあげてほしい。


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小田急多摩線の終着駅、唐木田の最果て感が最高

東京在住の人でも、「唐木田」という文字列を見たことがない人もいるだろう。小田急線を使っている人は、「唐木田行き」という文字列を見たことがあるかもしれないけれども、そういうのはいいから小田原行きを増やしてくれと思うだけかもしれず、ましてや降りたことのある人は少ないと思う。
わたしも、唐木田に行く前は、住む分には始発駅だから通勤には便利そうだが、観光地ではないと認識していた。しかし、実際に行ってみるとそうではなかった。いや、やはり一般的な意味での観光地にあたらないことはたしかなのだが、ちょっとした非日常的な空間が楽しくて、もう五回ほど散歩に行っている。たとえば幕張に住んでいる人が唐木田に遊びに行くのはあまりおすすめしないが、仙川や調布、成城学園前や新百合ヶ丘などにお住まいの方にとっては、気軽に味わえる異空間である。

もし行くなら、夕方4時ごろがおすすめで、駅を出てからゆっくり歩いても2時間もかからない散歩道である。
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ホームに降りる。
近くにある終着駅、京王相模原線の橋本駅は、JR横浜線と接続しているため、ここで行き止まりになっているという感覚がないが、唐木田駅のホームは広く、終着駅特有の開放感がある。
ゆっくり味わうように歩いて改札に向かう。

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折り返し乗車禁止の告知に余念がない。終着駅ならではである。

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改札を出たところも、終着駅らしい開放感がある。

国道158号線を南下していく。
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南下しているのに北上しているような感覚になる風景である。方向感覚に優れた人は、こういうとき、南に進んでいることを実感できたりするのだろうか。

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お目当てのひとつ、煙突が見えているが、のちほど舐めるように見るのでご安心いただきたい。

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丁寧に刈られていて床屋のパンチパーマを思わせる中央分離帯も見逃せない。

5分ほど歩くと、中世ヨーロッパの城のような奇妙な風格を感じさせる建物が現れた。

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多摩市総合……の続きの判読が難しくて興奮する。どんなメンテナンスをするとこんなに汚れるのだろう。多摩市には、パルテノン多摩という謎めいた施設があるが、それに匹敵するほど謎めいた建物である。

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細部の老朽化が激しく、実年齢プラス50年の風格を持っている。
中に人がいるのに、なぜか廃墟のように見えてしまう不思議な建物で、ぐるぐると何周もしてしまった。
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老人や障碍者の福祉のための施設で、高齢化が著しい多摩市ではますます重要性を増してくる施設と思われる。
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首から上の飛び出し具合が愛らしい。
家に飾りたい。

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なぜここは突き出ているの?

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草はだいたい変なところから生えている。

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裏から見ても素敵。なぜこんなデザインにしたのだろう。ここの建築家の他の作品も見たい。
しかし、何周もぐるぐる回って施設内には一歩も入らなかったわたしは傍から見たら単なる不審者だったろう。


福祉センターの外観を満喫したら、ゴルフ場に隣接した遊歩道に入っていく。
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この山道からは巨大な煙突がちらちらと見えるのだが、木の枝に阻まれてよく見えない。
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ここで十分イライラしておくことで、このあとよく見える位置に来たときの感動が強まるのだからじっくりとイライラしておきたい。こういうときの枝もまた魅力的である。

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広場のような場所に出たが、誰もいない。2回に1回くらいの確率で老人が背を丸めて座っていて、何度も来ると、くじ引きしているような気分になってくる。

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ここではタンクがちらちら見えるので、同じく焦れておこう。

斜面を登って右折すると、タンクと煙突がよく見える道につながっている。鑑賞するための道では決してないだろうけれど……。
この道は「よこやまの道」と呼ばれている。奈良時代の防人歌で、多摩の横山というくだりがあり、ここから太宰府に赴任することもあったらしい。大阪からは船に乗るとして、多摩から大阪まで歩くのかと思うと気が遠くなる。つまり、渋々ながらも、「東国から手弁当で北九州まで行って国を守って死んでくれ」という命令を聞いていたということだ。1300年以上前に朝廷の威厳がこんな隅にまで及んでいたとは驚きである。

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このタンクは東京ガスのタンク。 東京ガス多摩整圧所である。

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山道の上から撮っているので望遠レンズがあれば写し放題である。
ガスタンクは、近いところで立川や千歳烏山にしかない、ということは、このタンクで 多摩ニュータウンよりも広範な地域にガスを供給していることになり、そう思うと小さく見える。

ガスタンクに隣接しているのは、多摩清掃工場の煙突。
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そして、先ほど降りた唐木田駅は、この地域の清掃工場の建設を許可した住人たちの請願によってできた駅なのだった。かっこいい清掃工場もあれば駅もあるなんて盆と正月が同時に来たような気分かと思うが、それはわたしの主観にすぎず、ノーマルな人間は清掃工場に対してネガティブな印象を持つものかもしれない。

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環境を考えてなるべく高いところから煙を出すようにしているのだろう。
とはいえ、池袋の清掃工場が200メートル以上の高さであるのに比べると、こちらは半分の高さしかない。あそこは日本一なので比べるのは気の毒であるが……。


唐木田の魅力は尽きない。清掃工場の隣には小田急線の車庫がある。
フェンスが張り巡らされていて見づらいのだが、顔に網模様がついてもじっと見ていたい。
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さらに余裕のある人は、駅を過ぎて、「からきだの道」を歩くのもよいかもしれない。
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ゴルフ場に沿うように壁が作られ、その脇の里山の道を歩くことができる。

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この壁はあまり高くないが、刑務所の中にいる気分になれていい。

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見えているのはゴルフ場。
金網の向こうにシャバ……模範囚としてがんばっていこうと思う瞬間である。
ゴルフが大嫌いな人は、金網の向こうが刑務所だと思って、ムショ暮らしにならないようがんばっていこうと思う瞬間だろう。


そして、道の端には多摩市唯一の湧水池「寺ノ入の湧水」がある。
滲み出てくるようで、どこから出てくるのかはよく見えないが確実に溜まっていることはたしかである。
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鴨がいて、スヤァ……と寝ている風だったのでまわりこんでズームしてみると……。

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ウルトラ覚醒中で笑ってしまったが鴨的には絶賛警戒中なのだろう。

この池の階段を登っていくと、見晴らしのよい広場に着く。

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さあこの絶景を見てくれと言わんばかりの解説パネルだが、不良の示威活動の一環としてボコボコにされている。

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そして、実物も木にじゃまされてよく見えないのだった。樹齢三年などならわかるのだが、樹齢二十年の木だったりしたら、見晴らしを売りにするなら切ればいいし、切りたくないなら見晴らしを売りにしなくてもよいのでは、と思ってしまう。



東京にこんな終着駅らしい終着駅があったというのは大きな発見で、他の終着駅にも行ってみたくなっている。
何もない夕方にぶらっと歩くのに最適の地域であり、これからも何度も遊びに行こうと思った。



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グリーンプラザ新宿は、わたしにとっての宇宙船だった

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新宿にグリーンプラザというカプセルホテルがあり、何度か泊まったのだけど、残念ながら16年の年末で閉館となってしまった。
建て替えではなく、事業が終了するようなのだが、繁華街に隣接していて土地の価値は高いとみえ、間髪を置かずに取り壊しが始まっている。


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フォーマットに○をつけるようなのを見ると、「挿入」→「図形」で楕円形を選んで貼るのではなく、普通に○でないところを消せばええんちゃうのと思ってしまうが、それはさておき、わたしはここを、なんとなく家に帰るのが面倒なときや、終電を逃したときなどに使っていて、実際は三回くらいだったと思うのだが、寝床がなくて困ったらここにくればいいという、精神的支柱のような存在だったので、ちょっとした喪失感に苛まれている。
カプセルではないホテルなら近辺にごまんとあるが、家に帰るタクシー代よりも高いと退廃的な気分になってしまう。近くに家があるのに普通のホテルに泊まったときの夢は、おそらくマリー・アントワネットになった夢で、ひんやりとしたギロチンの感触を感じたところで目が覚めたりするのだろう。いっぽう、カプセルホテルなら、それほどのぜいたくではないので、せいぜい、コンビニエンスストアでトイレットペーパーを買う夢を見る程度のはずだ。

中は創業34年ということもあり、それなりに老朽化しているが、当時考えた宇宙船のようなたたずまいで、わたしはそれが大好きだった。古いカプセルホテルの多くは宇宙をイメージしているか、イメージした結果宇宙になってしまったかのどちらかだが、最近のカプセルホテルは宇宙を志向していないところが残念である。
カプセルを、非人間的な居住環境と考え、それを緩和するため、カプセル内を木目調にしたり、10センチ程度大きくしたり……などという虚しい努力をするのではなく、カプセルは宇宙船なのだから狭くて簡素なのがあたりまえであると強弁してほしいし、朝起きたら火星に着いていると信じさせてほしい。


いつも、人がいないのではないかと思えるくらい静かだった。実際あまりいなかったのかもしれず、それが事業終了の原因だったのかもしれない。
音を立てないよう注意してカプセルに入る。


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入り口のカーブがたまらない。
カプセルからは向かいのカプセルの入り口が見える。サラリーマン……ではなくてクルーたちは半分くらい入っているだろうか。
ほかのカプセルホテルがそうであるように、グリーンプラザもサウナなどが併設されていて、ホカホカになった状態でカプセルに入るのがよいのかもしれないが、そもそも風呂に入るくらいの気力があったら普通に帰宅しており、それが嫌だからカプセルホテルに来ているので、来たときの姿でカプセルに入り、カプセルの中で芋虫が蛹になるときのように身をくねらせ、室内着に変身していた。

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鏡は円形。作るなら長方形の方が安くて大きくなるはずだが、円形なのは、ここが宇宙船の中であることの証左である。

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このテレビで地球の様子を知ることができる。
地球人は頭を下げてばかりのようで、宇宙に出てきてよかったと思う瞬間である。


わたしはカプセルホテルではツタンカーメンみたいにして寝るのが好きだ。
家でもそうしていることが多いのだが、宇宙を飛行中なのだから、不慮の事故により宇宙船ごと冷凍されたりした場合の見栄えにも配慮し、やはりそれらしきポーズで寝なくてはいけない。地球人は寝相がいいと思われたいのだ。


閉館すると聞いて、もっと泊まっていればと残念に思ったが、あとの祭りで、グリーンプラザ丸はブラックホールを目指して旅立ってしまった。


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横にそびえ立つのは、個室でありながらカプセルホテルに泊まったときのような心地よい疲労感が得られることで人気のアパホテル。


グリーンプラザ新宿がなくなってしまった今、気軽に入れ、宇宙を感じさせてくれるカプセルホテルを探さなくてはならないと思っている。



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「愚痴なんだけど」などと前置きして話す人の思考回路が謎

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不適切であることを自覚しているとアピールしながら不適切な発言をする不思議な種族がいる。「これ愚痴なんだけど」「100%偏見で言っちゃうけど」などと前置きしながら存分に不適切発言を垂れ流す場合と、好きなだけ不適切発言をしてから正気にかえって「これってセクハラかな?」などと発言の妥当性について面倒な質問をしてくる場合のふたつの種族がおり、どちらも不適切であることには変わりはない。後者は言い過ぎたと反省して後で付け加えているので計画性なしと見なせなくもないが、少なくとも前者は、「わたしはいま正気ですが、これから狂います」と宣言しているのだから、計画的犯行であることは明らかである。

以前、透析患者について問題発言をしてメディアからは干されたものの、政治家としては多少湿り気味になってきたかもしれないことでお馴染みのX谷川豊さんですら、「偏見だけど」と前置きはしなかった。「100%偏見で言っちゃうけど、 自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」とでも書いておけば、多少はマイルドな印象を与えたのかもしれない。そんなブログは注目されにくいので書く気はなかっただろうけれど。

不適切自覚アピールさんは、アピールしておけば許してもらえると思っているが、実際に許されるどころか、より憎まれるのであるが、そのことに気づくスキルを持っていないから止まらないのである。

謙遜と欠点自覚アピールはまた別の話

欠点自覚アピールと謙遜は似ているように思える。贈り物を渡すときに「つまらないものですが……」という枕詞をつけるのと似ているように思えるかもしれないが、つまらないものですが、と言われて、霧吹きで湿らせたかっぱえびせんなどをもらったことはない。本当につまらないと思っているものは贈らないからだ。
つまらなくはないと思ってはいるが、期待させてしまえば、どんなにいいものでもつまらないものに思えてしまうので、最初に「つまらないものですが」とつけておけば、禍根を生むこともない……という配慮もあって、そう言うのである。まれに、「愚痴なんだけど」と前置きして、愚痴を超えたエンターテインメントを提供してくれる人もいるが、同じ原理である。
また、不適切ではないと確信してはいるが、世の中にはいろんな考え方をする人がいるから、念のため、極論や偏見であると謙遜しておこう、という配慮をすることも問題ではない。
彼らと違い、欠点自覚アピールさんは、不適切であることを自覚しつつ、なぜか自分は不適切発言を許されていると思って発言してしまうのである。

欠点自覚アピールさんの特徴

欠点自覚アピールは、職場や友人関係のヒエラルキーで上位にいるか、実際は上位ではないがそう認識している人が多い。なぜなら、ヒエラルキー下位の人間が不適切発言であることをアピールしながら暴言を吐いたとしても、輪をかけて不適切な言葉で言い返されるだけだから。
欠点自覚アピールとは、その場での地位の高い人が、「他人の人権を侵害したいが嫌な人だとは思われたくない」と思ったときに使うとき専用の言葉である。ただ、彼らも、表立って言い返されないだけ。欠点自覚アピールをする権利と同様に、欠点自覚アピールさんの死を熱烈に願う権利もまた、日本国憲法によって万人に保証されている以上、本人が思いもよらないほど裏で悪口を言われたり、死を本気で願われたりしているのだった。

欠点自覚アピールさんの対処法

欠点自覚アピールさんへの対処法は大変簡単である。問題であることを自分で認めているのだから。

「100%偏見で言っちゃうけど」
→「そうですか偏見ですか……。話は変わりますが、ブックオフの剥がれにくい値札、ブックオフのレジ前で売っている値札剥がし液を使えば簡単に剥がれたのですが、最近はマッチポンプみたいと思ったのか、売らなくなったようで残念です……。」


「愚痴なんだけど」
→「そうですか愚痴ですか……。話は変わりますが、 自転車で坂道を降りるとき、進行方向の逆に漕いだら、小さな反乱を起こしているような気分になれてスッキリしますよ!」


「極論だけど」
→「そうですか極論ですか……。話は変わりますが、ラーメン二郎ってあるじゃないですか、あの名前、『二』の郎じゃなくて、『次』の郎が本当の名前だったんですが、看板の業者さんが間違えて『二』の郎にしてしまって、これでいいやってなってその名前になったみたいです。わたしは友人とラーメン二郎を食べながらそのエピソードを聞いたのですが、感動で胸がいっぱいになり、ラーメン大を残してしまったんです。」


前置きの段階で、不適切であるという宣言に沿って、発言の主旨については一切触れる必要はない。彼らの本題に触れてしまうと味をしめてしまうし、そもそも、先人たちが甘やかした結果、欠点自覚アピールさんが誕生したのである。

欠点自覚アピールをして、仮に言い返されなかったとしても、好感度が大幅に下がるのに、なぜ口に出してしまうのかのか、大いに謎である。
自分から自分の欠点を言っておけば、相手から指摘されるより自分が傷つかないと思っているのかもしれないが、そんなややこしい脳波を流すくらいなら、最初から問題発言をしなければいいだけのはず。
地中からわざわざ出てきて干からびて天に召されてしまうミミズと同じくらい謎めいている。もうすぐ春だ。


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写真はもう著作物ではないのだろうか

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無料なら絶賛されるが、売るとこき下ろされる写真たち

少し前に、インターネットの安達祐実さんのギャラリーの写真がすばらしいと話題になった。アクセスが集中していたが、そういえば、安達祐実さん、同じようなタッチの写真集を出していたような気がする……と思って調べてみたら、その写真を撮った写真家と同じ写真家が撮っていた。しかし、その写真集は、その芸術性というより、もっぱら安達祐実さんのセミヌードが載っていたことで話題になっていたし、Amazonでも酷評する人が多く、ブログの写真への圧倒的賞賛がまるで嘘のようだ。
なぜ、同じ写真の評価にここまで差がついてしまったかというと、ブログの写真を見た人は、「(スマートフォンで無料で流し見するには)素敵な写真」と言い、写真集を買った人は、「(ヌードが見たくて金を出したのに被写体の露出度が足りなくて)よくない写真」と酷評したのだった。芸術性を認めた人がお金を払わず、芸術性を認めない人がお金を出す、という珍妙な状況であるが、写真が芸術的表現としてあまり高い価値が与えられていない状況を象徴している。

著作者すら写真を盜んでしまう始末である

人物写真の多くは、被写体の人気で価値が測られてしまうので、著作物であると捉えられていないのかもしれないが、では、風景や生物が被写体なら、著作物として評価されるのかといえば、これもまた怪しい。任意のライターさんのTwitterを何人か見てみると、報道写真などを、あたりまえのように載せている事例を見つけることができるだろう。自分の文章が剽窃されたと訴えていたライターさんですらそうしているのを見たことがある。自分の書いた文章には著作権があるが、他人が撮った写真には著作権がないと思っているのであった。いわんやアマチュアをや、で、自分の作品が「パクられた」とツイートしている人の過去のツイートを見ると、ほとんどの場合、10ツイートも遡れば、どこかから「拾ってきた」写真を載せていて、どの口で……いや上の口しかないよねと思ってしまう。
著作物を「拾う」ことなどできず、鑑賞するか批評するか剽窃するしかないのだが、写真は、現実のコピーと考えているために「拾う」という行動が可能だと考えられているのである。

写真とは、そもそも著作物ではないように見えてしまうものでもある

写真は著作物であるはずだし、「著作権」という抽象的な概念を媒介せずとも、その写真の構図を描く能力を磨くための努力、撮りに行くための旅費、シャッターチャンスを捉えるまでの待ち時間などのことを考えると、気軽に拾ったり貼ったりはできないはずだ。ただ、カメラマンは透明な存在でないと、見た者がその場にいる気持ちになりづらい。湾岸戦争を象徴する写真のひとつとなった、ドロドロになった鳥の写真。あの写真を撮ったのは誰だかわれわれは知らないし、あの写真を撮った人はほかに何を撮ったのかも知らない。あの写真にカメラマンが写りこんでいたら、写真家の存在を意識することはできたにしても、ここまで湾岸戦争を象徴できなかったことはたしかである。写真に結果として映っているのは現実でしかないので、想像力が足りない人からすると、道端の石ころと同じく、インターネットに落ちているものに見えてしまうのかもしれない。
気軽に剽窃されてしまい、著作権者も自分の写真が盗まれていることに気づきにくく、そもそも、別ジャンルの芸術家にも写真を著作物だとは認めていない人がたくさんいる。
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カメラがフィルムや印画紙から開放され、好きなだけシャッターを押せるようになったことで、誰もが簡単に鑑賞に堪えうる写真を撮れるようになつた。インターネットによって、誰もが公開できるようになってきたこととも相まって、写真の価値は下落した。しかも、いままで写真家に支払われていたはずのギャランティーは、二束三文の広告収入を得ようとする無数の泥棒の懐に入る。法的には問題があるにもかかわらず、慣習としてこのビジネスモデルが許容されてしまったので、事実上、写真は著作物ではなくなってしまったのだった。
音楽について、著作権管理がうるさいからCDが売れなくなったという説をよく見かけるのに、著作権管理が十分にされていないから写真集の売れ行きが伸びたという話は残念ながら聞いたことがない。

著作物の最底辺と見做された写真たち……写真の精がかわいそうなので写真工業発祥の地に行って写真の精を慰めてきた。
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写真が工業化された時点でいつかこうなることは予想されていたのかもしれない。「カメラを買って写真を撮って写真屋で現像してもらえば、誰でも写真家になれる」と言われた時代もあっただろう。
なお、この碑は新宿中央公園の片隅にあるので、ヨドバシカメラに寄ったあとに行くと味わい深いかもしれない。


昔はまだ、いいカメラやレンズを買い、作品として写真を撮ろうという前向きな気持ちもあったのだが、いい写真を撮っても盗られるだけだと思うようになり、記録程度の写真でいいやという気持ちになってしまった。
自分にとって、写真が一番やりたいこととでもないのだが、剽窃された写真が人気ツイートになっているのを見るたび、寂しく思う。