ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

正直言って…海苔っていらない気がするんだけど…

こんにちは。
お忙しいところ大変申し訳ありませんが、まず、この蕎麦の写真を見てください。

素晴らしい蕎麦ですよね。余計なものがない状態の蕎麦ほど美しいものはこの世にないんじゃないでしょうか?「あー日本人に生まれてよかった!」と思う瞬間ですね。いや、思いません。たしかにわたしはみすぼらしいオッサンかもしれませんが、感激したときに国家などという間接的な概念を持ち出すほど落ちぶれてはおりませぬぞ!


―それはともかく、本題に入りたいと思います。この蕎麦、おいしかったのですが、とくに海苔がのってないところに好感を持ちました。けっこうな老舗に行っても、海苔をのっけている蕎麦が出てくることが多く、わたしは、ブラックジャックのように、海苔を丹念に蕎麦から剥がして飲みこむのです。のどにべったりと張り付いて、おいしさとまずさの中間的な味を発生させる紙状のサムシング……しかし、蕎麦といっしょに口にして、蕎麦の味を台無しにするわけにはいきますまい。

海苔=毛の代わり説

しかし、蕎麦の味を台無しにしてまで、なぜ蕎麦の上に海苔が乗っかっているかというと、それは蕎麦が毛の代わりに使われているからに他なりません。

ここで、毛についてご存じない方のために解説をさせていただきます。

毛とは…
「毛」とは、その字のサワァァァ〜としたデザインからも端的に知り得るように、細い糸状の物体で、おもに動物の大事なところを保護する役目を負っている、見た目は若干ダサいものの、非常に役立つ存在なのである!
(『知られざる毛の秘密』より)

つまり、蕎麦が好きでしょうがない人が、蕎麦をお願いして、そのまま蕎麦だけが出てきたら問題だろう、「蕎麦を頼んだら蕎麦が出てきた」などという異常事態!…ということなのです。蕎麦が丸見えになっていては興ざめですよね。そこで、大事な大事な蕎麦を隠し、かつ、チラ見えするように、海苔がかぶせてあるというのが、蕎麦の上に海苔が載っている理由なのです。
蕎麦のすべてが見えないので、なんだかとてももどかしいが、海苔の奥でチラチラ見える蕎麦に誘惑されることで、また蕎麦が食べたくなりますよね。

しかし、考えてみてください。海苔という名の毛に覆われ隠されているから、ダリの絵に出てくるくらいに伸びきった蕎麦でも、なんだか魅力的に見えてしまいまうというビジネスモデルにお気づきですか。みなさんもご経験かと思うのですが、つまらないものほどもったいぶるものです。いわゆる新製品のティーザー広告はそうですよね。「○月×日、△△が変わる」みたいな思わせぶりなのをテレビやらインターネットで見て、実際、○月×日になって、△△の概念が変わって、今まで△△のことを「なーんだ、△△かよ」みたいに思っていたのが、○月×日の前日、つまり、○月(×−1)日には、△△にしか感じられなかったものが、翌日には◎◎に感じられて、今まで見てきた△△は、子供だましなんじゃないかと思えるほど…などという経験をお持ちですか?ぼくはそんな経験がないです。△△がより悪化して、∴∴くらい貧相になって、「もうそれだったら、今まで通り△△のままでいてヨ!」とボヤいたことはありますけど。
話が長くなってしまったのですが、つまり、海苔をまとっている蕎麦は大したことないし、その海苔のイケてなーい風味を加えることにまずさが加速さえしていると言えるのです。これが海苔がいらないと思う理由の1つです。

軍艦巻から軍靴の足音が聞こえてくる!

また、「海苔なんていらないんじゃないか」というと、ほとんど全員が、「じゃあ軍艦巻はどうするんだい?」などと口を尖らせておっしゃいますが、軍艦巻なんて、まずその由来が怪しい。軍艦巻は、軍艦ができてからのものだから、あんなもの、江戸前の寿司の歴史にはありません。あるいは、江戸前寿司の歴史自体がねつ造で、せいぜい日清戦争以降のものであり、その動かぬ証拠が「軍艦巻」という名称だった…まったく寿司は運が悪くていらっしゃる。わたしのような名探偵がこの問題にたまたま目をつけたばっかりに、寿司の歴史の浅さが明るみに出たわけですからね。証拠はそれだけではありません。たまに「江戸時代のファーストフード、SUSHI」的なコピーがありますが、それがもし本当だったら、江戸のファーストフードに比べて平成のそれがあまりにも貧しくて、何のための明治維新か、何のための脳内革命かと言いたくなってしまいますよ……。
話が長くなってしまって申し訳ありません。まあ、謝るのが好きで、謝りたいがために話をあえて長くしているところもあるのですが、軍艦巻は軍国主義を思わせるのでやめた方がいいと思うのです。実際に軍艦に乗った人が軍艦巻を口にしたりしているという、むごたらしい現実を考えると、すっぱい米の塊に海苔を巻いて、それを軍艦だなどというなんてデリカシーのかけらもないのです。

いろどりの犠牲者…それが海苔!

ここまで、海苔のことをケチョンケチョンに言ってきたため、海苔愛好家はもちろんのこと、海苔に似ている食べ物、ワカメやヒジキの愛好家のみなさまにも窮屈な思いをさせてしまったことを謹んでおわび申し上げます。
突然、海苔の肩を持つようで申し訳ないのですが、というか、わたしは、誰の肩でも持つので味方が少ないと思ったらお声掛けいただければと思うのですが、それはともかく、海苔もまた被害者なのです。なんか黄色ばっかりで見た目にアクセントがないからとか、そういう理由で海苔が動員されているのです。黄色ばかりの食べ物なんて見る気もしませんよね。やはり、黒が一点でもないと、食欲がわくはずもないのです―と、ここまで書いていて思ったのは、どう弁護しても、海苔が被害者であるという反論の仕方は妥当性に欠けるという厳然たる事実。よく、裁判やら何やらで、加害者を弁護するとき、「加害者ではありません」というだけでは飽きたらず、「むしろ被害者である」的な言い方をしていて、それを真似てみたのですが、なるほど、そのようなシーンで「ああー本当だ。加害者って思って(精神的な意味での)石を投げてしまってゴメン」みたいな展開を見たことがなくて、むしろ、「盗人猛々しいわ」という感想を抱くことが多かったように思います。つまりそういうことで、わたしにはもう海苔を弁護することができなくなってしまいました。


ということで、海苔について、さまざまな角度から客観的な資料とともに検証を重ねてきましたが、海苔は必要ないということがおわかりいただけたかと思います。もし明日、お弁当を作ったり蕎麦をゆでたりするときは、自分の気持ちに正直になって、思い切って海苔を使わないで、紙か何かで代用するようにしてみてはいかがでしょうか。