ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

事実上のストロベリー・スイッチブレイドのセカンドアルバムが今になってリリースされておりました……の巻

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ストロベリー・スイッチブレイドの最初にして最後のアルバムが出たのは1985年のことで、あれから30年も経つ。
イギリスや日本のヒット・チャートを席巻した"Since Yesterday"(邦題は『ふたりのイエスタディ』)に代表されるように、ネオ・アコースティックのメロディに、まったく不似合いなノイジーな電子ドラムの音が混ざっているところが画期的だった。これはプロデューサーのDavid Motionのオーバープロデュースによるもの。本人たちにとってはこのアレンジは本意ではなかったようで、そのことは、最初にストロベリー・スイッチブレイド としてリリースした"Since Yesterday" と、Current 93のライブで演奏していた"Since Yesterday"を聴き比べてみたらすぐわかる。

Since Yesterday

Since Yesterday

  • ストロベリー・スウィッチブレイド
  • ポップ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
Since Yesterday

Since Yesterday

  • Current 93
  • オルタナティブ
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

どんだけ我慢してたのかと。
王道のネオ・アコースティックがやりたかったのかと思うけれども、このままリリースしていたら、ストロベリー・スイッチブレイド の名前をいま知っている人はほとんどいなかったかもしれない。(そう言いつつも、何回も聴いていて、これはこれで好きだけれども……)

恥ずかしながら、ぼくはこのアルバムを30年間にわたって、少なくとも週に1回は聴いている。
あまりにも後ろ向きなので、20年くらい前から聞くのをやめたいと思っているのだけれど、やめられなくて困っている。

ぼくにとってストリベリースイッチブレイドは悩ましい存在なのだが、去年、ふと検索してみて、片割れであるRose Mcdowallが、2004年にひっそりと" Cut With the Cake Knife”というアルバムを出していたことに気づいた。
録音は86年~88年。彼女がのちにSorrowやSpellといったユニットからリリースしていたものと違い、ストロベリー・スイッチブレイドの最初のアルバムが出た直後から録りためていたもののようだった。

しかし、サイン入りかつ500枚限定ということもあって、つい先日までは2万円という結構なお値段がついていたのだった。
いや待てよ、このアルバムを2000回聞くとしたら、1回あたりわずか10円であり、それを考えるとまったく高くないと言えるのではないだろうか、ただ、このあと、このアルバムを2000回聞くような人生を送りたいかというと何とも言えない……などと逡巡しながら、ときどきDiscogsのページを見ていたのだけれど、あるとき価格が値下がりしていたのである。
おかしいと思って念のためAmazonを検索してみると、なんと再発されていたのだった。ただちに購入し、Amazonの配送状況を何度も何度も見に行ってしまった。

実際に聞いてみると、あのころのストロベリー・スイッチブレイドの音が真空パックされていたようで、こんな素晴らしいものがお蔵入りになっていたのかと驚くばかりである。


Tibet

Tibet

  • Rose McDowall
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Cut With the Cake Knife

Cut With the Cake Knife

  • Rose McDowall
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


産業的なアレンジに可愛らしい歌声。そして、ジャケットのデザインと音楽がますます乖離しており、持て余している感がすばらしい。目のところが黒くなっているけど何を考えているんだ……。
本人は、ライナーノーツのインタビューで、もっとギターを使って作りたかったという意味のことを述べていらしたのだけれども、むしろこれでいいのだと思う。録り貯めていた曲の一部は、ストロベリー・スイッチブレイドのセカンドアルバムに収録されるはずだったのだが、方向性プロブレムでユニットは解散してしまったし、そのあともリリースする気になれなかったとのこと。親友が電車に飛びこんで自殺etc.いろいろあったようなのだけれど、聴くことができてよかった。
長生きしてみるものだと思ったのだが、ただ、このアルバムを2000回聞くような生き方もそれはそれで問題だとも思っているし、ご本人も2000回聴いたファンがいると知ったら笑顔がひきつるだろう。

Cut With the Cake Knife

Cut With the Cake Knife



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秋芳洞&秋吉台が、今もなお国内屈指の奇景であることを、多めの写真と面倒なエッセイでお知らせしたい

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ココロ社です。
今回はちょっと前に行ってきた秋芳洞featuring秋吉台(本当は逆だろうけれど)の話です。

平均的な人間が一生のうちに見る鍾乳洞の数は1.2パイくらいだと思うのだけれど、すでに奥多摩や石垣島の鍾乳洞を見、岩屋観音窟のような小粒なアイテムを寄せ集めて1パイとすると、合計3パイほど見たことになり、わたしは普通の人の倍以上の鍾乳洞経験を経ていることになる。鍾乳洞経験中級者としての高度な自覚をもって筆をすすめていきたいと思う。

なお、ここで仮に鍾乳洞の単位を「パイ」としてみたけれど、語感が気に入っているのでそう呼ぶことにしている。
少し前の話になるが、「たとえ何パイ見たところで、日本を代表する鍾乳洞であらせられますところの秋芳洞を見なかったら鍾乳洞を見たことにはならないのでは?」という、希死念慮にも似た妄想にとりつかれてしまったため、新山口まで足を運んだのだった。

地味な土産物屋に挟まれ呼びこまれるという通過儀礼

駅からバスに揺られて40分ほどすると秋吉台に到着する。

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洞窟の入り口まで地味な土産物屋が続くのだが、眺めながら歩いていると、わたしだけ、「兄ちゃん、化石もいろいろあるよ」と声をかけられた。心外ではなかった。「一人で秋吉台に来るオッサン=化石好き」という読みはそれなりの妥当性があるような気もするし、少なくとも「血液型がO型=おおらか」よりは妥当だと思う。
昔、血液型B型でしょと言われてO型だと言ったら「ごめん」と言われたことがあるが、B型の人はこの事実に怒っていいと思う。


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そして、石になんでも書いてくれる店があったのだが、美しい字でどうでもいいことが書いてあると、かえって内容の空疎さが際立つことを発見した。このことは、相田みつを先生のビジネスモデルがいかに秀逸であるかという話と関係するのだけれど、その話はまた回を改めることにする。(先日、研究のために相田みつを先生の本を買ってみたのだ)

川だけで満足してしまう哀れな都会人

洞窟からは大量の湧き水が流れ出ている。
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仮にわたしが超ド級のうっかり者だったら、このエメラルドグリーンの川を日がな一日見て過ごし、そのまま帰って「秋芳洞よかったわ~エメラルドグリーンで宝石みたい~まあ宝石は個体で水は液体だからだいぶ違うけれども色的に……」などとツイートしてしまうところだった。

広さだけで満足してしまう哀れな都会人

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秋芳洞の中は、一般的な洞窟のイメージ、正確に言うと、テレビの探検隊などで見るイメージとは異なり、開放感すら感じられるほど広い。岩肌が見えるだけなのだけれど、秋芳洞はここで終わりと言われたとしても、先ほどのエメラルドグリーンの川と同様、「秋芳洞よかったわ~特に何もなかったけど開放感があって、鬱屈した日々を一瞬でも忘れることができた!」などと満足して帰ることができただろう。

百枚皿のシズル感に夢中になる

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この棚田のような光景は「百枚皿」と呼ばれている。「千年杉」「八百屋」などと比べると数が少ないし、「皿」と言われても困惑してしまう。名前を聞いただけでは見たいとは思えない名前だ。
この棚田風の風景、棚の中は水だけで、もうちょっとマリモか何かを入れておいて賑やかにしてほしいという気持ちもなくはないが、ただ皿だけでも、ナメクジの背中のような模様がついていて、濡れ具合もナメクジのようでかっこいい。
この棚は水たまりが時間をかけて石灰化し、縁状になったもので、たしかどこかに、これが1センチ伸びるのに、70年やら80年がかかるといった説明があったと思う。多幸感に襲われて、うっかりこの皿にダイブしてこれを割ってしまったら気まずいだろうなとは思うものの、「1センチ伸びるのに○○年」の話をし始めたら、たとえばこの文を書いているパソコンを駆動させている電気のもとは、数億年前の生物の死骸が長い時間をかけて黒い汁になったことでおなじみの石油であり、あらゆるものから悠久の時を感じられて、「自分のちっぽけさを感じる」飽和状態になる。

魚眼レンズは人が写ってこそ楽しい

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このように魚眼レンズを使用すると見物人も写ってしまうのだけれど、大きさの比較ができて臨場感が醸し出される。ここに写っている見知らぬ誰かは、この写真においてはものさしにすぎないのだけれども、ぼくもまた誰かの写真でものさしの役をしているはずで、わたしも誰かがカメラを構えたら「ワオ」と吹き出しを入れたくなるような表情ができるようにしておきたいと思う。
なお、使っているレンズの限界のF値2.8で撮ったが、もうちょっと明るいレンズか、暗所に強いカメラがあると、よりくっきりと撮れると思う。

乾き気味の鍾乳石たち

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鍾乳洞というと、上から石が垂れているのを想像するけれど、秋芳洞では天井近くで地味に垂れているばかりで汁気も足りない。
垂れているものに圧迫されたければ、ほかの鍾乳洞をあたるべきなのかもしれない。



360度の黄金柱

秋芳洞の奇景のなかでも、「百枚皿」と並び称される「黄金柱」。
素麺の集合体のような巨大な柱を見たり触れたりできる。表面が濡れていて、絶賛製造中であることが感じられる。
ここはとくに魚眼レンズで撮ると天井と柱が同時に見えて、臨場感が楽しめる。
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天井部分はトムとジェリーに出てくるチーズのような形になっているが、夜はここにコウモリなどが帰ってくると思われる。

ここにもあった富士山

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円錐形のものはなんでも富士と呼んでしまう感性の貧しさはいかがなものかと思ったのだが、富士に喩えないと、「入り口から6割くらい歩いたところにある円錐形のもの」などという呼び方をせねばならない。そう考えると富士は必要悪だという気がしてきた。

名もない鍾乳石にも味がある

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特に名づけられていない鍾乳石もじっくり見ていると霊長類などの生き物に見えて楽しい気持ちになる。これは長渕剛を聞くことを覚えたチンパンジーに似ている。人類に比べてはるかに小さな彼の脳のうち8割が長渕剛の楽曲で満たされている。彼は一生をかけて長渕剛のすべての楽曲を覚えるのだ。

なお、土産物屋では、よりユーモラスな鍾乳石が置いてあったことも報告させていただきたい。
天然のセクシャルハラスメントである。
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しかしこれ、入り口に置いてあるから、こういうのが苦手な人は来なくなるので奥の方に置いた方がよいのでは、と思った。

クラゲの滝昇りか滝下り

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クラゲ状になっているところもあり、水族館に行きたいと思っていたが、秋芳洞に連れてこられてしまった人はここで溜飲を下げることができるかもしれない。クラゲの滝昇りに見えるか、クラゲの滝下りに見えるかによって、その人の精神状態を占える気もするが、精神状態を知りたいのであれば、単純に「調子どう?」と聞けば事足りるのかもしれない。

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この抽象的な形状の岩、マリア像でもいいし、観音像でもいいはずだけれど、海外の観光客と国内の観光客の両方にアピールするためか、「マリア観音」と称してある。これらの名づけは総じて雑である。

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名付けに困っているというのであれば、素直にわたしのところに連絡してきてほしい。


時間がない人はここで引き返すというのも手だけれど、お勧めしたいのは、バス停→秋芳洞→秋吉台→秋芳洞→バス停のルートで、秋芳洞を2回見て帰るコース。秋吉台を満喫したあと、暗くて湿った秋芳洞が恋しくなるので、最後にアンコール、という寸法である。

出口のタイムトンネルに合わせて歩く

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秋芳洞の入り口の反対側の出口の前は、時間のトンネルになっていて、まわりの絵が、生命誕生から、出口側に進めばすすむほど現代になってくる。
絵に合わせて徐々に文明化した方がよいのかなというプレッシャーを感じ、最初は背中を丸め、たどたどしく二足歩行をしながら、歩くごとにだんだん背筋が伸びてくるのだった。


そして現代に戻ったわれわれ……のはずだが、十分に現代に戻っていないように見える。
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休日なのに閉店しているということは、毎日閉店なのかもしれない。


秋吉台も地味ながら奇景

出口は湿度調整のため、内側の扉が閉まってから外側の扉が開くようになっている。

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ここから秋吉台までは500メートル程度で、途中の道中でキノコなどを無駄に発見しない限りはスムーズに歩ける。
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秋吉台は「カルスト地形」の代表として記憶させられるが、岩が雨水などに溶食されてできた地形を指し、このように、緑の中に、虫歯になった歯のような形をした岩たちが点在している。

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秋吉洞を見てから見ると感動が少ないのだけれど、その分、人もいないのが利点。


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展望台から秋吉台を一望できるし、近くには小さな博物館があり、そこでお茶を濁してもいいのだが、せっかくだから足が棒になるまで歩こうと思ったのだった。


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祝日でもこの程度の人出で、やや不安になる。実際、秋吉台は「使える国定公園」として、用途のひとつとして「走れる」を挙げている。高尾山で走られたら困ってしまうが、秋吉台だとちょうどよいかもしれない。
実際、人がほとんどいないという点だけでも、一人になるのが好きな人にとっては絶好の観光地で、草と岩しかないところをぶらぶら歩いているだけでも幸せな気分になれる。


初秋に行ったのだけど、トノサマバッタが往来のど真ん中で産卵中だった。
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土はわりと硬いはずだけど、バッタの性器も負けず劣らず硬いのだろうか。女性器が硬いというのは「女性=しなやかな感性」などの通俗的イメージとはずいぶん異なる。

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「外人=犬にメガネをかけた写真をInstagramにアップロードする」という偏見を持っている。

展望台の近くには秋吉台科学博物館がある。秋芳洞にかつていた生き物や現在住んでいる生き物の標本を展示している。
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どさくさに紛れて秋芳洞にいない生体も展示されており、いかがなものかと思ったのだが、原点に立ち返ると、この世にいなくてもいい生き物なんてないので、この目が退化したケイブ・フィッシュ(語感がKate Bushを思わせる)もありがたいと思うべきだと思った。

「秋芳洞冒険コース」は本当に冒険なので覚悟が必要

帰りの秋芳洞は、行きにみたときと違う角度から楽しむことができる。
知り合いに度を越して嫁好きの人がいたのだけど、奥様が前を歩いているところを見かけて、「あ~後ろ姿もいいねぇ~」と言っていて、まあ結構なことだ、と思っていたのだけれど、今ならその感覚がわかる。

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また、追加料金を払うことで、より厳しい「冒険コース」を回ることができる。
狭い道を歩くことができて、洞窟らしさが足りないと思ったのであれば、最後に補充することができる仕組みになっている。
両手をあけた状態で臨んだ方がよいと思うけれど、ハイヒールで最後までたどり着けていけた人もいたので、さほど大変でないのかもしれない。そのハイヒールのオーナーは、ムキムキな男といっしょにキャーキャー言いながら険しい道を登り降りしていたのだが、あんたもけっこうムキムキやでと思った。


ひとまず秋芳洞に行けたことで、数年分の洞窟分は満たされた。
とくに仕事で疲れている人にとっては大規模に胎内回帰ができるので、たとえば「金曜日に博多出張」という魅惑的な状況になった場合には選択肢に入れてもいいと思う。

辛すぎず、いろんな香りがする「スーパーマイルド五香ラー油」を自作し、辛さ一辺倒の世界から脱出する

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ココロ社のクッキングコーナーの続き。
今回からは「店では食べられないものを家で作る」ことに特化した記事を書いていきたいと思っている(ので、レシピを確立するのにすごい手間がかかっていてつらい)。

市販されているラー油はせいぜい50ccの小さな瓶に入っている。
決してこの写真のような売り方はされていないが、なぜこのようにしなければならないかについて、お話しさせていただきたいと思う。


今回紹介する、スーパーマイルド五香ラー油とは……
辛いのが苦手な人も大丈夫な、いろんな香りがする、しかも、市販のラー油より圧倒的に安く作れるラー油である!
辛さ一辺倒の世界から四川料理を自由にしたいという壮大な目論見もあり、それについては後日述べるけれども、この定義に納得してくださった方は、以下のレシピを実行していただければ大変ありがたいです。

【材料】
(1) 長ネギの青いところ3本分、あるいは、丸ごと1本分
(2) サラダ油 450ミリリットル
(3) 胡麻油(かどやの金印純正など、炒ってから絞るタイプのもの)50ミリリットル
(4) 干しエビ 20グラム
(5) 八角ひとつ(注:1粒ではなくて星1つ)
(6) シナモンの皮(桂皮) 10グラム
(7) みかんの皮 1個分(裏の白い糸みたいなのは取ったもの。乾いてなくていい)か、陳皮10グラム
(8) 唐辛子 20グラム(一味でもよいが、より細かく挽いてあるものが望ましい。キムチ用の「甘口」がおすすめ)


【製法】
(1) 長ネギを5センチ程度の長さに切る
(2) ボウルか耐熱容器に唐辛子を入れておく
(3) フライパンに、サラダ油、八角、シナモン、陳皮、干しエビ、長ネギを入れて、弱火で20分加熱する
(4) 金属のザルで油を濾しながら油をボウルにいれ、素早くかき混ぜる
(5) 常温近くまで冷めたらごま油を入れてかき混ぜて完成

 
 

安さだけではない、ラー油自作のメリット

ラー油の製法だけを読んでもピンとこなかった人もいるかもしれない。たしかにわたしもラー油を自分で作るまでは、ラー油を自作する人は、よほどのこだわりやさんであると思っていた。
しかし、実際に作ってみてわかったのだけれど、市販のラー油から脱却するということは、中華料理を作るにあたって、自由を手にすることとほとんど同義だと言っていいのではないかと思っている。

ここまで言っても、何のことを言っているのかサッパリ……だと思うので、なるべくわかりやすいよう、ラー油を、とりわけ、辛さをおさえたラー油を自作しなければいけない理由について箇条書きにさせていただきたい。

・市販のラー油は簡素なつくりなのにべらぼうに高い
・材料費をどれだけかけても、市販のラー油よりも安くできる
・辛くて安いので、いままでラー油を使わなかったところに大量に使って味に深みを出せる
・市販のラー油の味を越えることは大変簡単である
・長期保存が利くので、まとめて作ることができる


……長々と書きすぎたせいで、もはや箇条書きにした意味がなくなってきたのだが、市販のラー油高校を卒業し、自作のラー油大学に入学したら、いままでラー油を使うとは思っていなかったところでラー油を使い、おいしくいただくことができるので、ぜひお試しいただきたい。



「辛くて高い」ラー油から「マイルドな辛味でリーズナブルな」ラー油へ

小さな瓶に入っている市販のラー油は、おそらく原価は激安であるはずなのに、大さじ1杯50円という価格設定なのは、ラー油が辛すぎるからである。
餃子のたれに数滴垂らすという使い方であれば、1回当たり何銭というコストにしかならない。むしろラー油のコストというのは、あの瓶と、数滴をこぼさずに垂らすことができる機構に対するコストといえるのかもしれない。
しかし、この辛さと価格のバランスはあまりよいとはいえない。ラー油が、単なる「辛味をつけるときだけに少量用いるもの」になってしまい、もったいないのである。
後日詳しくお話しするけれど、麻婆豆腐や担々麺を自作するにあたって、「辛すぎなくて、いろんな香りのする油」が大量に使えたら、こんな幸せなことはない。

いまの話に近いコンセプトに沿って発案されたのが、「食べるラー油」。
もともと、中国ではラー油に具が入っているものもあったが、食べるラー油は、食べることを意識して、辛味が控えめになっている。
しかしこれもまた、食べないラー油と大差ない価格設定がなされており、おかずとしての地位を与えるほかなく、「食べるラー油」であると同時に「食べるしかないラー油」なのである……。

いまはちょっと世の中が「辛い is おいしい」に寄りすぎているように思うし、そのせいでラー油は本来持っている力を発揮できていないのではないかと思う。
ラー油を、辛味づけだけではなく、中華料理におけるオリーブオイルのような位置づけの油と考えたい。
麻婆豆腐や担々麺で気軽に湯水のように使いたいのである。オリーブオイルのように。パスタの乾麺100グラムでペペロンチーノを作るときに使うオリーブオイルは大さじ2杯。オイルをケチると健康にはよいものの、おいしさが控えめになるのは言うまでもない。そして健康を重視したとしても、きたるべき年金無支給時代に、長生きに必要な生活費をねん出できるかどうかは人によるだろう……。

また、餃子を食べるときに、いままでは醤油と酢をまぜたところに、ほんの数滴垂らすだけだったかもしれないが、自分で作った、辛すぎないラー油が潤沢にあるという状態だと1:1くらいの割合で楽しむこともできる。

ペペロンチーノにおけるオリーブオイルのようにして、中華めんにこのラー油と塩をあえて食べても、少なくともペペロンチーノと同程度の満足感は得られる。

前置きが長くなったけれど、材料を揃えるところから始めよう。冒頭にあげた材料を再掲する。

【材料】
(1) 長ネギの青いところ3本分、あるいは、丸ごと1本分
(2) サラダ油 450ミリリットル
(3) 胡麻油(かどやの金印純正など、炒ってから絞るタイプのもの)50ミリリットル
(4) 干しエビ 20グラム
(5) 八角ひとつ(注:1粒ではなくて星1つ)
(6) シナモンの皮(桂皮) 10グラム
(7) みかんの皮 1個分(裏の白い糸みたいなのは取ったもの。乾いてなくていい)か、陳皮10グラム
(8) 唐辛子 20グラム(一味でもよいが、より細かく挽いてあるものが望ましい。キムチ用の「甘口」がおすすめ)

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一般的なラー油のレシピと比べ、唐辛子は1/3程度にしてある。
八角、干しエビあたりは料理をあまりしない人は買いに行かないとないかもしれないが、長期保存が効くので、一度材料を揃えてしまえば二度目からは気軽に作ることができる。
中華街が近所にある人はそこで仕入れれば普通のスーパーの半額くらいで手に入る。
みかんの皮は、いわゆる「陳皮」のことで、中華料理で使う陳皮はマンダリンオレンジなのだが、みかんでもあまり変わらない。
今回は別に粉にするのでもないので、食べたみかんの皮の、白い糸みたいなところを取り去ったものをそのまま使う。
みかんが手に入りにくい季節なら、中華の食材の店で陳皮を購入して、10グラム入れればよい。ハウス栽培のみかんを皮を使う目的で買うのは、ビックリマンチョコを買ってシールを集め、チョコを捨てるのに似て退廃的な気分になってしまう。気持よく調理したいものである。
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調理法は、フライパンに胡麻油以外の材料を入れて弱火で温めるだけ。 弱火で20分。
ほったらかしでもよいのだが、乾いた物体がだんだん元の姿に戻ってくるのを見ていると、自分もまだやれるかもしれないという謎の自信が湧いてきて楽しいので、ときどきかき混ぜてネギをめくって干しエビや陳皮を観察して楽しむのもいいと思う。
油の温度はむやみに上げない。一般的なラー油の製法だと、油を高温にして、唐辛子の上からかけたりするが、われわれは辛味を引き出そうと思っているわけではない。
この「スーパーマイルド五香ラー油」 において唐辛子はあくまでも脇役。油を高温にして唐辛子以外の香りを飛ばすのはもったいないので、弱火でじっくりそれぞれの食材の風味を抽出したい。
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こうなってきたら完成。余分なものを漉してボウルに注ぎ、素早く唐辛子とかき混ぜる。

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写真だと辛そうに見えるかもしれないけれど、実際に口にすると、あとから控えめな辛味が感じられるだけなので安心していただきたい。
辛くなくてもきれいな赤色に染めることができる。
冷めてきたらごま油を混ぜる。

完成したラー油は、オイル差しに入れておくと楽である。ぼくはIwakiのを使っている。
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たくさん作ってポットに入れておき、オイル差しが空になったら補充する。
数滴垂らすという使い方はもうしないので、大さじではかって麻婆豆腐に入れたり、麺にちょっとかけたりするときに使いやすいような容器がおすすめ。

フルーティな香りとエビの旨味……priceless
味見と思って舐めていると無駄に食欲が促進されるので注意したい。

試行錯誤の果てに、この魔法の油を利用したスペッシャルな麻婆豆腐や担々麺の製法を確立したので、後日紹介させていただきたいと思っている。
ここにまた見にきていただければ大変うれしゅうございます。



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通称「日本一美しい橋」の角島大橋を、あえて徒歩で渡って島を一周した


ココロ社です。久しぶりの更新で緊張しちゃう……。

7月の話。山口近辺に行くことがあって、話題の角島大橋に行ってみるのはどうだろうと思って調べてみると、おなじ山口の人が「沖縄みたい!」という感想を書いているのを見かけた。そんな近いところに喩えてうれしいのだろうか、どうしても喩えたいというなら、外国に喩えればもっと楽しかろうと思ったのだが、では具体的にどこに喩えたらよいのか、わたしにもわからない。
調べてみたら、羽田空港から那覇空港に行くのと、山口宇部空港から那覇空港に行くのでは、30分程度しか変わらない。東京の人がもつ沖縄ファンタジーと山口の人がもつ沖縄ファンタジーは案外同質のものかもしれない。


道路や橋のように、単に必要に応じて作っただけの建造物でも、お、これはいわゆるひとつの文化系かも、これはエグザイルが好きな人が好きそうだな、など、文化圏の違いのようなものを感じることがある。角島大橋は、青い海、本州最長ランクの橋と、どことなくエグザイルが好きそうな人が好きそうな風景であって、給水塔などに心をときめかせてしまうマイナー文化系のわたしにとっては、単に風景と向き合うというだけでなく、異文化に触れることでもあると思う。

角島大橋という、BGMとしてはエグザイルがふさわしい橋に対して、わたしは、駅から歩くという誤ったアプローチをあえてすることにした。

特牛(こっとい)駅からバスを借りるか、あるいは下関でレンタカーを借りて回るのが常識であることは知っているが、わたしが降りた駅は山陰本線の阿川駅。
運賃は、決済方式において電車がバス状になっているので、車中で払う仕組みになっている。

ここから歩いておよそ90分。山を突っ切る最短距離だともう少し早く着くのだろうけれど、 退屈そうなので、海沿いの道を歩くことにした。

阿川八幡宮は誰もいなくて、ついついゆっくりしたくなる


ほどよく寂れた寺社を挟んでいかないと歩けない病気にかかっているため、ちょっと寄り道をして、鎌倉時代に建立されたという、阿川八幡宮を訪れた。

本来ならもっと南にあるはずのイヌマキが群生していて、ここが北限となっているようだ。

前言撤回で申し訳ないが、「沖縄みたい!」で愉快な気持ちになる。宮崎の青島神社を思いだした。

イヌマキは、鼻の濡れた従順な生き物とは姿かたちはほど遠い。
『犬菟玖波集』の「犬」と同じく、英語で言うならtinyの意味。
「マキ」は杉の古名で、つまりは「ショボい杉」である。
ショボくてもぼくは好きやで……。


念のため金次郎も撮っておいた。
この金次郎は、衣服の柔らかさや端正な顔だちなど、かなりできがよい。
「二宮金次郎」で検索をしてみると、よりこの像のよさが実感できると思う。
この出来栄えなら、金次郎を目指そうと思った人も多かろう。


何もない道こそ、イマジネーションの発揮しどころである



とくに名所らしい名所のない人気のない県道をひたすら歩くのだが、好奇心さえあれば、どこでも名所なのである。


たとえばこの廃工場のようなところはアウトサイダーアートの趣がある。


かなり精力的に立ち入り禁止を禁止しておられる工房があり、かえって入ってみたいという好奇心をそそられてしまったが、やはり入ってはいけないのである。



ここは養鶏場。調べてみると、ここで生産された卵は、直営店で、食べログ3.5点のスイーツへと変化を遂げている模様である。
鳥インフルエンザにかかってしまったら廃業になりかねないので、外部の訪問者にはかなり気を遣っているようだ。誰もいなかったが、咳をしないよう気をつけて通過した。



かつては無粋の象徴だったかもしれないトタン屋根も、いまや風情が感じられる。




海に出ると、元食料品店と思しき店の壁に、「原発絶対反対」と書いてあった。
反対運動が成功をおさめたから消したのか、成功も失敗も関係なく、ただ書いたものが色褪せたのかはわからないが、原子力発電所が建設されなかったことはたしかである。


原発のない港。
(あるかないかについて述べただけであって、ここでよしあしについて価値判断はしない)


海沿いに歩いていくと、島と橋が見えてきた。これがあの角島大橋である。



角島大橋は、観光ガイドの写真のことを忘れて楽しみたい





観光サイトなどで見る写真は、青い空、エメラルドグリーンの海で、よい条件で撮影されたか、撮影のあと加工しているかに違いなく、実物と対峙したときにがっかりする可能性が高い。だから、あまり期待しすぎないように……と言い聞かせながら歩いてきたので、ちょうどよい大きさの感動が得られたのだった。




なお、この橋はノーマルな感性の方は自動車で通過するが、わたしは駅から橋までを歩いたので、橋そのものも当然ながら歩いて渡りたいと思った。
橋の全長は1780メートルあって、この橋を渡れば、その満足感で、しばらく橋なしで暮らしていけそうである。


観光サイトでは、長い橋とエメラルドグリーンの海に目を奪われるが、歩いてみてわかったのが、角島に近い側がかなり急な坂になっていて、非常にスリリングであるということ。

特に上り坂のピークからは先が見えなくて足が震える。そして足が震えると轢かれてペシャンコになる確率が上がる。



この小島は鳩島と呼ばれているが、たとえ事実として鳩が集まることがあったとしても、鳩はたいていのところに集まるので、他の名前を検討していただきたかった。

戦時遺跡はあるものの、歴史は控えめな島である

橋を渡り切ったあとも道は続くので、メインストリートと思しき道を歩いていく。



途中、戦時中に作られた砲台跡があるが、とくに誰も気に掛ける様子はないし、草が生え放題である。 
向かいに弾薬庫として使われていたらしい穴がある。ここで遊んではいけませんと書いてあるので厳守しなければならない。
わたしは中に入って調査をするだけであって、決して遊んでいるわけではない。
中は活用法が不明だが、平和的なアイテムが置かれていた。
ジャパニーズリーサルウエポンのTAKE=YARIの可能性もなくはないけれど……。
関係ないが、TERIYAKIとTAKEYARIは似ている。

ほどなくすると、また海岸を通ることになる。

波が高かったので、7月の休日だったのに、遊泳禁止になっていた。
エグザイルが好きな人はこの島には泳ぎに来るのだろうから残念に思っていたのかもしれないが、遊泳禁止になっていたので写真は撮りやすかった。

しかしながら、はからずも遊泳禁止のフォントが泳ぐことの楽しさを全身で表現しており、もっと禁欲的なフォントでないとフラストレーションがたまってしまうのではないかと思われた。


とくに注意書きがないわりに気合の入った縄で飾られた道祖神的なサムシング。


大規模に立ち小便を禁止しているなぁと思って見たら、不法投棄禁止と書いてあった。
鳥居を描くとせいぜい立小便しか禁止できないが、木で鳥居を組み立てるとそれはもう神社であり、不法投棄をも防止できるのだ。


青空に赤いトタン屋根。コントラストが最高!


青空に青いバケツ。同系色で最高!

住んでいる人にとってはどうでもよい風景なのだろうけれども、見とれてしまう。



博物館があったので入ってみた。

地理的には、朝鮮との通信で栄えたことを示す遺跡が出てきてもよいように思うが、展示してあったのが、大陸から漂着した木の仏像くらい。
そしこれらを返さなくても怒られないのだろうか。
「返さなくてもいいですよね」と念のため聞いたら、「じゃあ返して」と言われそうな気がするので、わたしが担当だったら絶対に聞かないが……。

島の近くで見つかった新種のクジラ「ツノシマクジラ」の骨格標本が吊り下げてあるが、これはレプリカ。
本物は東京国立科学博物館にあるようで、都民としてなんとなくゴメンという気持ちになった。
この種のゴメンは旅行すると2回に1回くらいのペースで感じるゴメンである。

しかしこのクジラ、見つかったのが15年ほど前。
おそらくそれまでも何度も見つかっていたが、ちょっと個性的やねぇくらいにしか思わない人が多かったに違いない。
何か見たら「新種」と思うくらい無鉄砲な方が、新種を見つけやすいのかもしれない。


お!
これは教会でございますね。

この地にもキリスト教が伝来し、島民に愛されてきたのだろうか……牧師が島のちびっこにパンケーキを焼いたりして「キリスト教=幸福」のイメージを流布したりしたのだろうか……などと思ったが、なんのことはない。
映画の撮影で使ったセットを残しているらしく、中はトイレである。
一言でまとめると、トイレの神様である。

朝鮮からの特使がワンクッション置くには最高に島だと思うのに、ここまで歴史が見えないとは、実は何か隠しているのでは……とう疑念すら生まれてきたが、何かあるなら糸電話か何かでご教示くだされば幸いである。

海岸に降りて、念のため海岸漂着物を確認した。

大体こんな感じで、韓国からやってきたアイテムが多くて、日本海側やなぁとしみじみする。


なかで怪しい物体を発見。

不発弾か何かに見える。外側は朽ち果てているのに中の銅線はきのうにでも引かれたように見える。
外はカリカリでもなかはしっとりしていて、銀だこのたこ焼きのことを思いだしてしまった。

日本に2つしかない、無塗装の灯台

なお、近代になってから、この島に灯台ができた。
お雇い外国人のリチャード・ヘンリー・ブラントンによる設計。和歌山の友ヶ島のこじんまりした灯台も彼が設計している。
そんな彼も今はシロアリの親分みたいにツルツルのテカテカである。




色がついていなくて完成途上のようにも見えるが、もともと無塗装で、このような灯台は国内で2例しかなく、珍しい灯台なのである。
白く塗られた灯台よりも威厳が感じられる。煉瓦の規則的な継ぎ目が蛇のようで不気味なかっこよさがある。
お小遣いが足りなくて塗料なしで組み立てたガンダムのプラモデルもこんな感じだったかも。



灯台の中に入り、展望することもできるが、このブログの筆者は高所恐怖症であり、高所にて十分な写真が撮れないという欠点をもっていることをご了承いただきたい。



帰りはバスに乗り、橋を渡って、特牛(こっとい)駅で降りる。

バスから見て、坂のところで歩行者がヌッと出てきたら驚くだろうなと思ったが、わたしはスマートなので、ヌッと出てくる感じにはならないと確信している。






特牛駅は一見、廃駅に見えて、電車が来ないのではないかと思ってしまうが大丈夫。
駅員はおらず、駅員室も空になっていて、招き猫が虚しいが、決済方式がバスと同じなので無人でも問題ないのだった。

しかし、いい風情の駅で、バスを降りてから電車が来るまでの間に空き時間が確保できれば、待合室などでぼんやりできてよい。
歩き回った疲れが古びた木の椅子を伝って抜け落ちていくようだ。



車体のデザインは無骨だけれど、色がオレンジ色だと可愛らしい。
なんだか懐かしい色と形だなと思って調べてみたら、わたしの家の沿線だった片町線でも使っていたらしい。
木津とかそこらへんでこれに乗ったかな。


角島大橋、エグザイルを聞きながら、バスや車で行くのが常識的かもしれない。
しかし、ゆっくり歩きまわるとさらに楽しめるので、まる一日歩く予定で行くとよいのではないかと思う。


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仏様がダンスする。毎年4月14日に奈良・当麻寺で行われる奇祭「練供養」の一部始終

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せっかく春になったのだから、仏像が歩いているところを見たい―人間として、ごく自然な気持ちである。
仏像は立っているだけではなんだか物足りない気がするし、漠然と物足りなさを感じているうちに、それが、立ちつくしているだけで、この人は本当にわたしを救う気があるのだろうかという不信感へと変化しはじめたころ、カルト宗教の勧誘が心の隙間を狙ってやってきて、断り切れず入信してしまうかもしれない。信者の多いカルト宗教ならまだ救いがあるが、ケーキなどの甘いものは汚れた食べ物なので食べるときは必ず酢をかけて清めなさい、などといった教義を掲げる宗教に入信することになってしまったらそこで人生は終わりだし、しかも酢をかけることは来世への輝かしいステップにすぎないと思いこんだりしているのかもしれず、つまり、「動く仏を見る」という行為は、観光というよりも危機管理に近いのかもしれない。

―とはいえ、わたしは特に仏教を信じていたりはしないのだが、毎年5月14日(2019年からは4月14日)に、奈良の當麻寺で行われる「練供養」の様子をお伝えしていきたいと思う。写真は2014年のものだが、今年ももうすぐなので、休みが取れそうな人や、あるいはずっと休みの人のために見どころを紹介したい。


練供養とは、25菩薩のお迎えを受けて、生身のまま極楽浄土へ旅立つさまを表した、西暦1005年から続いているとされる儀式。極楽浄土シミュレーターとして知られる平等院鳳凰堂は1053年だから、極楽浄土の表現としては半世紀近く先駆けていることになる。
この儀式の主役であるところの中将姫は、26歳のときに一晩で曼荼羅を描いたとされており、それがこの寺の本尊となっている。享年29歳で、775年没。当時の平均寿命は30歳そこそこなので、7世代ほどを経て気持ちの高まりや伝説のミックスを経て、極楽浄土を具現化する格好の人物として抜擢されたのかもしれない。
なお、津村順天堂の創業者の実家には、中将姫直伝とされる薬湯の製法があったことから、ご家庭でバスクリンに浸かりながら「中将姫……」と想いを馳せるとクナイプよりも安価に同様の効果が得られるのではないかと思う。


16時開始だからといって16時に行ってはならない

練供養は16時に始まるのだが、14時半には到着し、場所を確保しておくことが望ましい。當麻寺には見どころがたくさんあるが、それは別の機会にするか、午前中に済ませておくなどするのがよいと思う。
練供養の迫力のある写真が撮りたいのであれば、来迎橋のそばに陣取ることになる。いちおう、舞台には手を触れてはならないとの放送が流れているが、その放送が耳に届いていないか、届いていても実行に移すのが困難な人もいる。
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高齢の方が多いため、気温が上がりすぎるとお客様の中で入滅される方がいらっしゃるかもしれないと思って妙なスリルを感じる。
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アニマルを持参している場合は、来迎橋の下の日蔭で休ませるのが安全なようだ。
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練供養は當麻寺以外でも行われているが、ここの練供養がオリジナルだと言われていて、およそ千年の伝統を誇る。
しかし細部の演出などに重々しい伝統を感じさせないところが面白いのだ。

冒頭でさりげなく現世に戻ってくる中将姫

中将姫が25菩薩に迎えられて入滅するシーンを再現するためには、いったん現世に戻ってくる必要があるため、冒頭で籠に揺られて来迎橋を渡ることになる。
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中将姫は、練供養の登場人物の中で唯一、生身の人間が演じていない。中将姫のお面をかぶって歩くのはちょっと面白すぎるから駄目だということなのかもしれない。そのせいか注目度も高くなくて、主役はダンスする菩薩たちに移ってしまったかのようである。

現世に戻って来るやいなやお迎えがくるというせわしない設定が好きなのだが、これは最近始まったのか、昔からそうだったのだろうか。

そのあと、何らかのご利益があるとされる紙片が撒かれる。
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当然、奪い合うことになるのだが、「図々しくしたもの勝ち」みたいなのって宗教的に大丈夫なの?といつも思ってしまう。
弱肉強食の世界に嫌気が差して宗教に入信したとしても、競争から逃れることはできないのだろうか……。

お待ちかねの25菩薩の登場

そんな寂しい気分を一掃するかのように、イカ状の烏帽子を身につけたDJがブースに入る。
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「YoYo中将姫は滅茶苦茶皺くちゃ継母のいじめを耐え抜き修行に励んだから生きたまま入滅お前らも修行したら生きたまま入滅も夢じゃないmake your dreams come true」的な意味と推測されるお経を唱え始めると、菩薩たちがそろそろと迎えにくる。


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ポロリも見逃せない

わたしが小学生のとき、スター水泳大会という謎のテレビ番組があり、時々水着が脱げてしまうタレントがいたのだが、これがいわゆる「やらせ」であることを知ったのはずっとあとの話である。
それはそうと、練供養でポロリが発生することがある。急遽メンテナンスが発生する。
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こういうときの菩薩の顔はもちろん固定のはずなのだけど、なんとなく困惑しているように見えてしまう。
これこそ仏像の造形の面白さで、どんなポーズをとっていてもその表情がふさわしいように見えてしまうのだった。
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祭りのハイライト、観世音菩薩と大勢至菩薩の共演

最後に観世音菩薩と大勢至菩薩がダンスしながら登場。観世音菩薩は蓮華座で、大勢至菩薩はガッチリと合掌して、中将姫を救済する。こんな頼もしいダンスなんて他にあるだろうか?
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お迎えのメンバーがすべてこの世に着いてしばらくしたら、今度は中将姫が入滅するために、来迎橋を渡って本堂(曼荼羅堂)に向かう。

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そして25菩薩も後に続く。
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一部の悪質な撮り鉄的なマインドの主がここにも……


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よく剃れた髭である。


……などと思ったら、
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菩薩の一人が謎のポーズ……
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またしてもポロリが発生していたのだった。

エンディングに一抹の不安を覚えてしまうところも含めて必見の行事である

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最後に、おそらく中将姫グッドラック&シーユーネクストイヤーという趣旨のお経を唱えるなか、中将姫はおとなしく帰っていくのだが、このときに流れる音楽は喜多郎先生の『絲綢之路』。
NHKのドキュメンタリー、シルクロードのテーマソングとして知られるが、千年続く中で最も長くても三十五年はこの音楽で中将姫が見送られていることを考えると、その三十倍以上の時の流れをさかのぼるとどんな行事だったのだろうかと思うと胸がときめく。

9年前に撮っていたものを再掲する。


練供養エンディング


若いころは、伝統行事が現代風に超解釈されているのを見かけると嫌な気持ちになっていたものだけれど、最近はそれを楽しめるようになってきた。


練供養が終わるのはだいたい17時半くらい。
1時間半の極楽浄土ショーだが、あっという間に終わってしまうし、写真を見ているとまた行きたくなってしまうのだった。

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ムービー広告には、あらかじめ失敗する仕組みが内蔵されている

今回は広告の話。とあるショートムービーが非難囂々だったことも記憶に新しいが、仮に、ポリティカリーにコレクトだったとしても、ネットのムービー広告には、失敗する仕組みが内蔵されているので、儲かりすぎて困るので損をしたいと悩んでいる企業におすすめである……という話をしたい。


「新しい広告媒体」について考えたとき、あの会社でもこの会社でも、以下のような会話が繰り広げられているに違いない。

A「テレビや雑誌広告以外の広告媒体も開発していかないとねー」
B「そうですね、開発は大事ですよね、わたしも昔はいじられてもくすぐったいとしか思わなかったのですが、開発されるうち、第二の悦び……といいますか、大変頼もしい存在になりました」
A「歳をとってくるとね、第三第四もね、開発されていくよ。それがどこかは人によるね。楽しみにしておきたまえ……それはそうと、新しい媒体といったらネットだよね」
B「そうですね。ツイッターとかで拡散されて売り上げがビンビンですね」
A「ビンビンか……しかし、何を拡散したらビンビンになるかね」
B「映画を作って流すんですよ。無料で映画が見られるなんてユーザーにとってはいい時代ですよね」
A「なるほど……たしかにネットならではの表現だな。TVCMは1回15秒で数百万かかるけど、ネットはより長時間の映像を安価で流すことができる!」
B「時間があるから商品名連呼みたいな下品なのじゃなくて、じっくり見られるものがいいんじゃないですかねー」
A「そうだね、顧客が成長していくような、見ごたえのあるものが……」
B「うん、トライアルでやるものだから、特定の商品を売るのではなくて、イメージ広告として作ってみようよ」

この世には神も仏もない……AにもBにもこれから胃の痛くなる日々が待ち受けているとは気づく由もない。これなら、仕事そっちのけで下品なネタの応酬でもしていた方が会社に利益をもたらすことはなくても、少なくとも損失を与えることはないのでいいのかも……と思うのだが、「新しい広告」→「ネット」→「ショートムービー」という三段論法は自滅する可能性が極めて高い。盛大につけ火されるか無視されるかのどちらか好きな方を選ぶ状況だと言っていいだろう。
前置きが長くなったが、今回はショートムービーの広告が失敗する4つのメカニズムについて考察していきたい。なお、わたしにまったく集中力がないため、メカニズムひとつについて説明するたび、先日撮影したカエルの産卵シーンの写真を貼り、意味不明なキャプションを挿入させていただくことになってしまうのだが、どうかご容赦いただきたい。


(1)物語の冒頭はたいてい心地よくないものである

ノーマルな人間向けに作られた物語は「何らかの困難が生じる→努力したりヒーローが現れたりして解決」という流れで構成されることが多い。「退屈な日常→すてきなハプニング」という流れもあるが、これらのフレームの外で万人にイエスと言わしめる物語を作るのはなかなか難しい。
桃太郎も、おじいさんもおばあさんも金持ちで筋肉ムキムキであったら、桃が流れていても、なんだか尻みたいで笑えるよねと思ったところで話が終わってしまうし、シンデレラが最初からピカピカのオベベを着ていたら、いじめっこたちもたちまち退散し、多くの読者はよかったと安堵するものの、どことなく物足りなさを感じてしまうはずだ。
物語の冒頭は、心地よくないシーンから始め、その不快感を原資にして物語を駆動させるのだが、ムービーの冒頭もまた、心地よくないシーンから始めるしかないのである。

【カエル休憩その1】
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ヒキガエルの雄が雌を刺激して卵を産ませ、そこに精子をかけ、有精卵になる。
同じ体外受精でも、鮭の産卵は、雄も雌もボロボロになりながら川をさかのぼり、雌が生んだ無精卵に白い汁をかける。傍から見ていても何が楽しいのかわからず、つらい気持ちになるだけだが、カエルは見かけ上、愛し合っているかのように見えるのでまだ救いがある。


(2)ユーザーの問題解決ストーリーは、ユーザーが課題を抱えているシーンから始まる

商品を作るときや売るときは、ターゲットとなる顧客の問題解決のストーリーを立てるもので、「顧客の抱える問題が、弊社の商品を手にして解決する」という流れをとる。
これは先ほどの物語の枠組みとまったく同じ構造なのだが、それをそのままムービーに落としこんでしまうと、顧客が問題を抱えて苦しんでいる様子から始まる陰惨なムービーが自動的に出来上がってしまうことになる。「顧客の実感に寄り添うムービーにしよう」などと思ってしまったら、なおひどい。リアリティ満載の地獄絵図から始めることになる。
たとえば、バナー広告で有名な「わたしの年収低すぎ」をムービーにしたものを見たら、おそらく多くの人はつらい気持ちになってしまうだけだろう。

【カエル休憩その2】
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雌がやたらと動き回って他の夫婦の産んだ卵を踏み越えていたのだが、雄が、こっちにもかけておくかと別の雌の産んだ卵に精子をかけたりすることはないのか、非常に心配であるし、ぼくがカエルの雄なら絶対にそうするだろう。



(3)顧客は広告を見るのが嫌いである

ここまでの話なら、「冒頭が不快でも、それはこのあとの展開でハッピーエンドになるのだから問題ないではないか」と思うかもしれない。もちろん、映画ならまったく問題はないのだけれど、これは企業の広告なのであり、顧客にとっては、見たいどころか、できれば見ずに済ませたいコンテンツなのである。
たとえ1分のムービーであったとしても、残念ながら、冒頭から見る人の数は減る一方。ムービーの出来がよければ減少の度合いがゆるやかになるかもしれないが、それでも何割かは冒頭の陰惨な描写を見て見るのをやめる。先ほどのセオリーに従って作ったムービーなら、離脱した顧客にとっては、企業のネガティブキャンペーン広告を見たのと同じ効果になる。
1分の映像でそうなのだから、毎週5分ずつ連載していき、徐々にハッピーエンドに近づいていくようなムービーについては言わずもがなである。
そもそも、ムービーのターゲットは誰なのだろうか。
15秒のCMで好感度が上がらなかった顧客が、毎週5分ずつチャンスをくれるはずもなく、最後まで見た顧客はもともとムービーがなくても好感を持ってくれている顧客にすぎない。つまり、優良顧客に火を飛び越えさせてやけどの度合いを確認するという、世にも奇妙なスペシャルコンテンツを作っているのである。


……などと文字だけで語ってもわかりづらいので、顧客の数と時間、印象の関係の概略がわかるグラフを作った。
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―つまり、作品として3話作ったとしても、視聴者の総数で考えると、「ひどいムービー」と思う人の方が多数派になる仕組みなのである。
1話にまとめたとしても、最初から見て、徐々に見るのをやめていくという構図は変わらない。
ここで「最後まで見て作品のよしあしを評価してほしい」とお願いすることはできなくはないが、そのお願いを聞いてもらえるかは非常に怪しい。
視聴者には企業が倫理的でないことを糾弾する権利があるが、企業には、視聴者が倫理的でないことを糾弾する権利は事実上ないのである。


【カエル休憩その3】
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上を向いて産卵中。このように撮ると、次の世代へ思いを馳せながら産卵しているように見える。
わたしは日本カエル組合(略称日カ組。日教組と並んでミスターアベの二大お気に入り組合である)からイナゴ三匹で買収され、イメージアップに努めているのである。


(4)「ツイートしやすさ=燃えやすさ」でしかない

これらの困難を乗り越えることができたとしても、最後に待っているのは、ガソリンまみれになったツイートボタンである。ムービーの評判がよくても、見て「まあいいんじゃないの」とそのまま別のコンテンツを見るだけでいっこうに広まらない。なぜなら、「いい話」よりも「いやな話」に人は注目するからで、それを一番よく知っているのは、ほかでもないムービーの製作者のはずである。なぜなら、冒頭で「いやな話=ユーザーが課題をもって悩んでいる状態」を描くことによって注意を引こうとしたのだから。

【カエル休憩その4】
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かくして、産卵が終わり、受精卵ができあがった。哺乳類の出産シーンならそこそこ感動するのだが、カエルの産卵については、「この小さな身体からこれだけの卵を出すなんて、頑張り屋さんやなー」と感心はするものの、感動はない。
ウミガメだと涙を出したりすることで人間になぞらえることができるため、カエルにも、ウミガメの出産時の涙に匹敵するキラーコンテンツをお願いしたいところである。


以上、ムービー広告に内蔵されている失敗のメカニズムについて説明したが、もし運悪く、ムービー係に任命されてしまった場合、そこでできる努力は、せいぜい「誰にも着目されない」起伏のない物語を作ってつけ火されぬようにすることくらいで、仮にアクセス数が自分のブログより少なくなってしまっても、燃やされて社内事例集に入れられ語られ居づらくなって退職届をしたためたりするのに比べれば、ずっと幸せ……と思うしかないのである。


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渋谷駅から徒歩10分。買い物帰りに行ける熱帯ジャングル「渋谷区ふれあい植物センター」で、季節外れの夏休みを満喫する

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あと一か月ほど寝たり起きたりしたら春がやってくることは確実だが、実際のところ、寝たり起きたり以外のこともしなければならない。
そう思うと、さっと南の島にでも行きたいと思ったりもするが、南の島に行く旅を準備する気力は、もうすこし日照時間が増えないことには養えず、暖かくなってきたらきたで、東京も南国で、自然も少なくないし、なかなかのものだと思い、ついに南の島に行くことはない。
この季節、休日はさっさと買い物を済ませて家に帰ることが多いのだが、渋谷駅から10分ほど歩いたところにジャングルがあるのを発見し、わたしの暗黒の買い物生活に光が差したのだった。


渋谷の歩道橋まわりもよく見ると楽しい

渋谷の東口を出て、歩道橋をのぼる。
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JR渋谷駅、山手線内回りのホームと同じ高さになっていて、電車を待つ人たちと向き合える場所がある。ただそれだけなのだが、ここでしばらくぼんやりして、電車を待っている人に想いを馳せるのも楽しい。
内回りといえば目黒方面で、目黒といえば寄生虫館。行ったら数週間はお刺身を凝視したりすることになるので、それなりの覚悟が必要である。

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渋谷川が見える方向に向かう。
この渋谷川こそが、渋谷をかつて谷たらしめていた川なのだが、渋谷を谷にしている川が渋谷川と呼ばれているのはなんともウロボロス的である。

この川の先には常に一定の行列がある。「牛かつ もと村」の行列。
牛カツはわたしの頭の中では、マグロステーキと同じ引き出しに入っている。「牛肉をカツにするなんてもったない」という謎の背徳感があるので、本格的な牛カツを食べたことがない。


明治通りを恵比寿方向に向かって歩く。
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東急線の高架の撤去が進められているが、つい先日までこの上を電車が走っていたとは思えないほど寂れている。
定年を迎えたとたん老けこんでしまった元会社役員のような風情である。


10分ほど歩くと「ふれあい植物センター」に着く

交番の前の橋を渡ると、目的の「ふれあい植物センター」がある。
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冬なので、悪趣味の王様である花キャベツによるお出迎えである。

外からも、温室の様子はよくわかる。
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「出して~~~~!!!」とせがんでいるように見える。


館内に入ると、突然の来客に驚いた空気が漂うこともあるが、すぐ体制を立て直してくるので、入場料100円を笑顔で支払えばよい。
コインロッカーなどはないが、中にベンチ状のものがあり、そこにコートなどを置いて身を軽くし、イマジネーションを働かせることができれば、もうそこは熱帯のジャングルそのものである。

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温室の入り口で、「鍋島松濤公園かいぼりコーナー」による歓迎を受ける。
鍋島松濤公園は、渋谷駅を挟んで文化村の向こうにある、池つきの公園。「かいぼり」とは、池の浄化のために、いったん水抜きをして干すことを指し、「コーナー」とは、一区画の意味である。


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ピラニアがあると、「え?渋谷にピラニアが?」と、うれしさ半分恐ろしさ半分の気持ちになるが、関係ないようで、半分ほっとして半分残念な気持ちになる。
「意外に憶病」という解説での擁護も虚しく、5匹いたが共食いで2匹に減ったとのこと。
なお、かいぼりでワニガメが見つかったらしく、ここで公開予定とのことで、カメファンとワニファンは注目。


また、しぶやホタルの郷というコーナーもあり、冬は単に草がちな水たまりだが、夏はちびっこで大盛況のようである。
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いまはヌマエビ的な生き物が地味に集合している。彼らも共食いが好きだから要注意。


運がよいと、スプリンクラーから水が出るところを拝むことができる。
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雄の鮭が卵に精子をかけているところに似ている。

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中央にはバオバブが植えてある。
バオバブらしさがまだ感じられないところが残念である。
バオバブらしくなるまでこの植物センターが存続することを祈念し、わたしが実際に旅行で見てきたバオバブの写真を貼っておく。
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あかんあかん……ここは渋谷なんや。

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中央には水槽を囲むようにして椅子が置いてあり、ここに座るとたちまちジャングルにいる気分になれる。
10分前は渋谷駅で人ごみに揉まれていたというのに、ワープしたかのようだ。



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よくバナナの実は男性器に喩えられるが、バナナの花も負けてはいない。


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ラフレシアは当然ながら模型での登場となるが、「模型でもいいから大きさを知らしめてやろう」という気迫十分である。
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頭がよくなるサボテンとのことだが、育てると頭がよくなるのか、見ると頭がよくなるのか、食べると頭がよくなるのか、詳細は不明。
見て頭がよくなるのであれば、この写真を凝視すれば事足りるだろう。


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このシダ植物は、見ての通りの名前で、クロコダイルファーン。


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とくに珍しくはないが、アンスリウム。
やはり角度が芳しくないと虫も寄ってこなかったりするのだろうか。


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若者と老人。


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紹介する植物がやや偏っているような気がするので、調整のために、ナミブ砂漠のみに自生している「奇想天外」という希少植物を紹介しておく。
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2枚の葉しか持たず、1000年以上生きるという、その名のとおり不思議な植物だが、それだけではなくて、根元が非常によい感じで、棒のようなものが目立つ熱帯植物園で穴のようなものを見せ、気を吐いている。
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二階ではだいたいちびっこがDSで遊んでいる

階段をのぼる。

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二階では、無料で入場できる子供たちがDSで遊んでいることが多く、じゃまに思うかもしれないが、彼らが二人で老人ひとりを養わねばならない未来に想いを馳せると、せめていまだけではせいぜいゲームでもして楽しんでよ、と思え、若くない者たちは、階段の上からぼんやりと全景を眺めるのがよいのだろう。なお、わたしは角度を工夫して撮ったので、自然に子供のプライバシーを保護できているという点にも着目してほしい。


奥には、図書コーナーや、オカンアート的なコーナーがあり、座れる場所があり、休憩することも可能である。
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どんぐりの実の果皮を頭髪に見立てたくなる気持ちは理解できる。

屋外のおさわり自由のハーブ園も見逃せない

3階の奥の扉を開けると、屋外のハーブ園がある。屋外といってもベランダ感しかないが、ハーブが触り放題なのがうれしい。
かつて「スーパーでは魚が切り身で売られているので魚を知らない子が増えている」という説を唱える人がいたが、タメを張って、「スーパーでは細切れになって調味料のビンに入った状態で売られているので、生えているハーブの姿を知らない子が増えている」という説を唱えたいが、よく考えてみれば、子供はあまりハーブを好まない生き物だ。


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これはオレガノ。


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これはレモンバーベナ。ほかにもレモングラスなどの、「そんなにレモンが好きならレモンの果汁を使えばいいのでは」系のハーブも充実。
わたしはレモンよりもレモンN(Nは任意の文字列)の方が好きだけれど。

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屋外はビルが並んでいて、ああ、やはりここは渋谷であるということに気づく。
そのあと、また温室に戻ると、サウナ→水風呂→サウナ的な気分になれるのだ。


この「ふれあい植物センター」の素晴らしいところは、比較的遅くまで開いているところで、最終入館は17時半。
温室といえば、神代植物公園の温室が工事中である今、代替温室としても注目である。


植物センターを出て帰途につく。
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交差点の向かいにはコンパクト稲荷がある。鳥居の左に社があり、コンパクトすぎてユーモアが漂う。
面積が取れないが豪華な神社を作りたいと考えている神主様に参考になるレイアウト例かもしれない。

30分もいれば満足してしまう、こじんまりとした施設だけれど、渋谷駅から歩いて行ける距離に植物センターがあることは覚えておいてもよいだろう。

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