ココロ社

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そろそろサンタクロースが嘘であることを明示的に教えるべき

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もうすぐクリスマスで、街にクリスマスソングが流れているはずだけれども、最近は一聴してそれとわかるクリスマスソングが少なくなってきていて過ごしやすい傾向にあると思う。ただ、サンタクロースの実在しない件については明らかには示されていないのが不満で、今回はその話。
 

「いい話なら作り話でも問題ない」論の総本山が、サンタクロース伝説である

「江戸しぐさ」という作り話が教科書に載っている。次の教科書改訂でなかったことにされるだろうとは思うけれども、このような作り話を広める人たちにそれが作り話であることを指摘しても、多くは「いい話なのだから、実話か作り話など、どうでもよいではないか」と開き直る。本当にどうでもよいなら、わざわざ工夫を凝らして実話を騙ったりしなければよいはずだから、本当でも嘘でもどうでもよいと思ってはおらず、嘘を信じさせたいと積極的に細工していることは間違いない。
 
ここまで書けば、「キミのことが好きだった」と言われて「なんで過去の話をするの」と思ってしまうほど鈍感な人だったとしても、サンタクロース伝説がまったく同じことであるとわかるだろう。しかも「江戸しぐさ」をでっちあげた人たちに「まあ作り話なのかもしれないけれど、あなたがこよなく愛するサンタクロースと同じですよ」と言われたら、「江戸しぐさは嘘だし気持ち悪いという偏見を持っていたことを反省します。今日からは傘かしげなどの江戸しぐさの普及に邁進します」と返すしかない。
 
サンタクロースは作り話であって実際のプレゼントは保護者の冬季賞与の一部から支給される旨を子供が生まれた瞬間から明言しつづけているなら、江戸しぐさのようなインチキを唱える者がいても、「これはインチキだから無視しよう」と思えたかもしれない。インチキを批判するのが好きな人たちが、子供がはじめて出会うインチキについて注意喚起しないのはまったく謎である。サンタクロースの存在を疑問視することが野暮だというなら、水素水やEM菌や江戸しぐさの効果を疑ったり歴史修正主義を批判したりすることも、同じくらい野暮なことではないだろうか。
そもそも、幼児にとっては発達段階の重要なタイミングで、プレゼントとともに「いい話なら嘘でも許される」ことがインプットされるのだから、パブロフ先生もびっくりである。思いきって人体実験をすればよかったと思うにちがいない。
 

サンタクロースではなく、忖度ロース

日本には古来から「忖度する」という伝統があり、それが海を渡って訛り、いつしか「サンタクロース」と呼ばれるようになった―もちろんこれは作り話だが、江戸しぐさに比べれば信憑性が感じられるのではないだろうか。
 
子供のころはサンタクロースがいると教わり、周囲が信じている、あるいは信じているふりをしているから、自分が存在を信じていなかったとしても忖度して行動しなくてはならない。また、幼少期にサンタクロースの存在を本気で信じていたとしても、情報が訂正されぬまま成長してしまったら問題である。自分が親になったとき、「クリスマスプレゼントはサンタがくれるものだから親はプレゼントを準備しなくていい」などと涼しい顔で発言したら配偶者に怒られるはずだ。
 
また、サンタが実在しないと気づくきはじめる年齢―幼稚園の年長あたりだろうか―になったとしても、保護者がずばり、「サンタクロースはいないんだよ」と教えてはいけない空気になっている。法的にいないと発言することを禁じられてはいないが、まさに忖度によってそのようにふるまうことになる。サンタクロースがいないことを名言せずとも自然に気づいてくれと願わなくてはならず、そこに言論の自由はない。
 
サンタクロースを信じない子どもはひねくれ者と呼ばれ、サンタクロースを信じる大人は馬鹿と呼ばれる。忖度しながらサンタクロースに対する態度を決めなくてはならないのである。子供のころ、セックスについて一言も言及しない、あるいは禁じていた親が、ある日突然「いい人はいないのか?」と聞いてくる現象と同じである。「いい人」とは、田中正造か誰かのことだろうか。親たちは「セックスしていいよ」といつ言ったのだろうか。
このように、クリスマスは西洋の風習だったけれども、日本に根を張り、それを否定するものを「野暮だ」などと冷笑する土着的な忖度の祭りと化しているのである。
 

サンタクロース伝説には夢もなければ教育的効果もない

「サンタクロースがいないと教えることは、子供の夢を壊すことになるのでよくない」という説が昔から根強くあるが、ではどんな夢なのだろうか。単に日常では手に入らない物品を与えくれる第三者がいるという夢であれば、大人が年末ジャンボ宝くじに見る夢とほぼ同じ夢にすぎない。宝くじは300円で手に入るから、そちらに一本化した方が安くて合理的なのではないだろうか。
そもそも宝くじを買う人が跡を絶たないのも、幼少期にサンタクロースがいないことを明示的に教えなかった弊害なのかもしれないし、単純な物欲を「夢」という言葉で飾っているにすぎない。
 
また、サンタクロースの存在を信じることによって道徳性が増すかというと、それもまた疑問である。「よい子にしているとサンタさんからプレゼントがもらえる」というフレーズは、一見教育的効果があるように思えるが、実際はまったくない。教育的効果を狙うのであれば、保育士に対してセクシャルハラスメントを行ったり、友だちを暴行したような子はプレゼントなしの刑に処されるべきだし、いじめを告発した子などは、いっそう豪華なプレゼントが与えられるべきだが、実際はプレゼントの支給にあたって何の査定もされておらず、おそらく親の収入に比例してプレゼントが豪華になるだけだし、いじめを告発した子は次のいじめのターゲットになるだけなのであった。
 

ほんとうに夢を大事にしたいなら人身売買を糾弾するべき

サンタクロース伝説の発祥は、聖ニコラウスが、身売りされる寸前の3人の娘のために金貨を贈り、身売りを免れた……という伝説から発生しているので、万一その逸話に感銘を受けたのであれば、身売り予定のない自分の子供にプレゼントを献上するのではなく、冬のボーナスの何割かを恵まれない子供に募金する、あるいは、親子でデモ行進をして、外国人実習生をタダ同然で働かせている企業を糾弾するなどした方が、いくらか夢のある話になるのではないだろうかと思うけれども、その種の夢はお好きでない方が多いようで、サンタクロースが嘘であると言って壊れてしまう夢はいったいどんな夢なのか、謎は深まるばかりである。