ココロ社

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千葉・佐倉のチューリップ祭りに行って、「チューリップが好き」と言いにくい謎について考えた

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大人になると、チューリップが好きな人も、堂々と「チューリップが好きです」と言えなくなってくる。
内心、チューリップが大好き、死んだら棺桶の中をチューリップで満たしてほしい、と願っている人でもそうだろう。
亡くなったあとも、菊に囲まれ棺に収められながら、「これじゃないんだけど言い出せなかったし、棺桶の花以外についても言いたいことを言わないで過ごしてきた人生だった……」という残留思念が葬儀場の中をさまよっているのかもしれない。

わたしはチューリップのことはほどほどに好きだが、大人にとって、チューリップが好きだとは言いにくいムードがあることは承知している。
意中の女性の誕生日に100本の薔薇の花束を贈ったら嫌な顔をされる確率はおよそ80%ほどかと思う。では20%は喜ぶのかと思った方もいるかもしれない。愛情の押しつけが嫌いな人は、得てして愛情の押しつけが嫌いなあまり、世界中が愛情の押しつけを嫌っていると思いがちなのだが、それはそれで冷静さを失っており、実際のところ、押しつけがましいくらいの方がちょうどいいと思っている人はそれなりにいるものである。
それはともかく、100本の薔薇の花を喜んだ20%の女性も、100本のチューリップの花を贈られたら、全員がうれしくないと思うはずで、なぜならそんな子供っぽい花を2~3本ならともかく、100本も部屋に置いた日には、ファンシーも度を越して窒息死してしまいかねない。

とはいえ、よく考えてみると、チューリップそのものは子供ではない。チューリップの花には雄しべと雌しべがあり、その雌しべのぬめり具合ときたら、もしかしてあなたは雄しべなのかと思えるほどなのだが、そこまで成熟し欲望を露わにしているにもかかわらず、世間からは子供っぽいと思われているのはなぜだろうか……その謎を解くべく、取材班は千葉県へと向かった。(ひとりでも「班」を自称するのは、わたしの五感がそれぞれバラバラの結論を出すことが多いからである)


前置きが長くなったが、以前から存在を知っていた千葉県の「佐倉チューリップフェスタ」に行ってきた。今年(2017年)は、4月23日(日)までである。
「春になったら行こう」と思いながら放置して10年あまり経ってしまったが、おびただしい数のチューリップに囲まれることにより、真理に辿りつけるのではないかと思ったからである。


ここに東京から電車で行く人はほとんどいないようである。電車で行く場合、最寄り駅の京成臼井駅から、およそ30分歩くことになる。隣の佐倉駅からバスが出てはいるのだが、このチューリップ祭りの存在根拠を握っている印旛沼沿いに歩いてこそ、このチューリップ祭りのありがたさが身にしみるのである。


印旛沼は濁っていて、日本の湖沼の中でもだいぶん茶色い部類に入るのだが、ふつうに「沼」と聞いて想像する広さとはまったく異なる。
向こう岸が遠すぎてよく見えず、湖のようであり、忙しくてチューリップにも興味がないという人は、印旛沼だけを見て帰ってもいいかもしれない。
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有害な外来種といえども、カミツキガメがガオーと言いながら沼から出てきたらうれしいと思ってしまうだろう。
なお、注意喚起したいあまり「注意喚起」と書いてあるが、「注意」と書くだけで事足りる。

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誰もいない沼のほとりを15分も歩き続けると、風車が見えてきて感激した。チューリップフェスタの会場である。

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会場の駐車場は1000円で使えるのだが、車がひしめき合っていて、チューリップ祭りと同時に車祭りをしているのかと思ってしまった。そして1000円を払えない者たちは、近くの路上に無料で停めている。

印旛沼近辺は、かつては氾濫がひどかったのだが、干拓により、水の量をコントロールできるようになり、いまは広大な水田が広がっている。
印旛沼の干拓といえば、江戸時代に田沼意次が行ったことで知られているが、ご存知のとおり失脚して計画も頓挫し、干拓が完遂されたのは戦後になってから。ここのチューリップは、住民の自然に対する勝利宣言のようである。

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祭りの中心には風車がある。オランダ製らしいのだが、近くに見ると羽に帆が張っておらず、今日は回す気がないことがわかる。チューリップ祭りのときに回さずしていつ回すのだろうかと思ったが、風車が回っていると夢中になってチューリップのことなどどうでもよくなってしまうから、あえて集中させるために風車を止めているのかもしれない。一蘭の「味集中システム」を想起してしまう。

風車に関心がない人は、風車を、巨大な羽根が回っているのを見てオーガズムに達するという、地味な娯楽施設だと思っている人もいるかもしれないが、風車は風の力で歯車を回して、水汲みや粉挽きに使っている。
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ここの風車では、その仕組みが垣間見える。

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風車に至る道には小さいながら跳ね橋があって、ノーマルな日本人が西洋に求めるものが凝縮されている。ゲイシャの背景にフジヤマ的な……。

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風車を囲む堀には淡水のゴキブリの異名をとる鯉たちが餌はまだかと跳ね回っていて賑やかであるが、今日はチューリップを見にきたのだった、

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おびただしいチューリップ群を見て最初に気になったのは、一様に東向き、午後だとちょうど太陽に背を向けた格好になるところ。
たとえば自分が面接官だとしよう。面接に来た人が笑顔で熱意をアピールするが、足先だけは真横を向いていたら……。合否を決めるにあたっては考慮には入れないと思うけれど、戸惑うことはたしかである。
チューリップは屈光性であると思っていたが、太陽の位置にリアルタイムに応対するようにはできていないらしい。そこまでまめに応対しなくても暮らしていけるのだろう。
1本2本ならともかく、何万本もが一斉に太陽に背を向けていて、まるで無言の抗議を受けているような気になってしまった。

また、チューリップ畑の撮り方にはコツがあった。上や横から撮ると、畑に花が咲いているように見えてしまうが、チューリップと同じ高さで撮ると、チューリップに満たされてているように見える。
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しかし、花・花・花……。
葉も茎も印象に残らない。
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葉も茎も、単に花を支えるだけの存在である。たとえば薔薇の葉は可憐で、茎には棘があり、互いの存在を引きたてあっているが、チューリップにはそのような相互関係はない。「植物といえば花」という、シンプルな自然観を表しているところに子供っぽさを感じてしまうのかもしれない。

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チューリップの原種の花冠はほどほどの大きさだが、人類が花を大きくすることに執念を燃やして交配に交配を重ね、巨大な花冠を持つ、観賞用として都合のよい花に仕立てあげた。そんなチューリップが一面に植えられているのを見ると、人類の圧倒的勝利を実感するし、完璧に自然を支配できるのではないかという気がする。その一方で、人類の欲望を正直に体現しすぎていて、我にかえってしまい、好きと言いづらい気持ちにもなったりもするが、そんなところも含めて素晴らしいと思う。


1時間ほど歩きまわり、推定3年分のチューリップを堪能したので、会場をあとにした。
人間として生まれたからには、チューリップという花について一度くらいは真剣に考えた方がよいと思うので、今年が無理でも来年はぜひ訪れていただきたいと思う。

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なお、会場のすぐ近くの地すべり防止のコンクリートの崖が未来都市のよう。上の建物は病院なのだが、チューリップ畑とのコントラストが素晴らしい。


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