ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

坂本龍一は、昔も今もあんな感じだと思う

坂本龍一の「ジャージが不愉快」「一人でご飯を食べている人も不愉快」という発言に対して、ブログを辿ってみたら「そんな人だとは思わなかった」という意味のコメントが載っていて驚いた。ぼくは特に坂本龍一が好きでも嫌いでもないけれど、彼は常に「そんな人」だったと思う。
坂本龍一は徹頭徹尾、頑固なロックンローラーだった。YMOがアコースティックギターでライブをやったときに「アイデンティティから軽やかに逃走するなんて!」と評されもしていたのと同じ時代、アメリカではロン・ハーディ、イタリアではダニエル・バルデリがすでに活躍していて、彼らはアイデンティティという概念を知らなかったかもしれないけれど、スキゾフレニーのように、人の曲をべらぼうな速さでかけたりつないだり切り離したりループしたりサンプリングしていたのだから、YMOはむしろ、オーディエンスと向き合い、「俺たちはここにいる」と真摯に伝えるロックンローラーだったんじゃないかと思う。しかもYMOは、フジヤマ&ゲイシャの日本ではなく、新しい日本のナショナル・アイデンティティとして消費されていて、実際、日本の方言にすぎなかった「テクノ」という言葉は、世界の共通語であるかのように錯覚されていた*1

また、ハードコア・テクノの全盛期に「本家はわたしたちだ」と言わんばかりに「テクノドン」というアルバムを出して「再生」してしまうような振る舞いは、ミック・ジャガーの「ある意味、俺たちが最初のパンクだった」的な発言にとても似ているし、ダウンタウンの番組にアホアホマンとして出たときも、ピアニカで『戦場のメリークリスマス』を律儀に演奏することで「アホなことをやっているのは世界のサカモトですよ」と高らかに宣言するところも、まさにロックンローラーだった。
そんな坂本龍一に、「若者文化のよき理解者」であることを求めるのは、ちょっとお門違いかもしれないと思う。折り目正しきロックンロールの伝承者である坂本龍一にとって、いまの若者の服やライフスタイルは、単に不快なものにしか映らないだろうから。

*1:言うまでもないけれど、世界的には「テクノ」は、ホワン・アトキンスが86年に生み出した言葉であるとされている

卑弥呼も桂離宮もフィクションまみれ

「近代isフィクション」的な話って、もう聞き飽きたよ…と思っていらっしゃる方も多いと思います。たしかにそうなんですが、学問の現場では、そのフィクションの詳細の研究が今なお丹念に行われているし、そもそも、年老いてなお、知性不足に悩める人たちに「近代ってフィクションなんですよ」という話をしても、「何それ?」という答えしか返ってこない…っていうか、バーチャルリアリティが悪なら、「想像の共同体であるところの国家も悪なので、解体すべき」という話なのかしら…そんなこんなで、「近代isフィクション」話は、教養のない人間には全然行き渡らないまま、一部の人のブームみたいになって過ぎ去りつつあるのかもしれませんが、そういうのってよくないヨ!という意味もこめて紹介させていただきます。

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

井上章一が、桂離宮が神格化されていく仮定を丹念に検証しています。「簡素美こそが日本文化の精髄」という、近代につくられたイデオロギー…とか書いても「どうでもええわ」と思うかもしれないけれど、桂離宮伊勢神宮が神格化されていなかったら、たとえば伊藤若冲曾我蕭白はもっと早くから認められたのではないかと思うし、この退屈な妄説こそが、ここしばらくの日本文化をダメにしてきたのだろうと思います。
つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家 (ちくま新書)

つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家 (ちくま新書)

こちらは卑弥呼です。「卑弥呼は祭祀を司っていて、政治にはノータッチだった」という歴史認識には、ジェンダー的なバイアスがかかってるんじゃないか?という話です。女性の天皇を「中継ぎ」とみなすのにも異議あり!ということで、ちょっと口当たりが良すぎて物足りない気もするけれど、現代の女帝論議をも射程に捉える好著。