ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

モリアオガエルの産卵シーンを目撃するも、男の人生を重ね合わせて絶望してしまった話

モリアオガエルの産卵について知ったのは幼稚園のころで、泡だらけの産卵シーンを自分の目で見たいけれど、それを見るには草木がボウボウに生えていたり泥が底なしに溜まっているような密林を潜り抜け、そのあとは何日も産卵のチャンスを窺って産みそうな場所でキャンプを張ったりせねばならず、きっと無理だろうと思い、その希望は、「産卵シーンが見たい」から「産卵は無理としても、せめて泡でできた卵塊が見たい」という、やや現実的な夢へとダウンサイジングされた。幼稚園児のころのプロ野球選手になりたいという夢が、大学2年あたりには一部上場企業で働きたいという夢にダウンサイジングされることと悲しいほど似ているけれども、一部上場企業で働くことが簡単ではないのと同様、卵塊を見ることもそれなりに難しい。
 
3年前の5月に東京都あきる野市をぶらぶらしていたときのことである。考えなしに武蔵五日市の駅で降りて、地図でお寺を探して、秋川を越えた山のふもとによさそうなお寺があるのを発見し、行ってみた。それが広徳寺で、本堂の佇まいはこのように素晴らしく、都内屈指の名刹といえるだろう。
 

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そして本堂の脇にある池がワイルドで、何かいるのかなと思って池のまわりをうろうろしたら、大変気になる看板を発見した。

 

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看板の指示通りお行儀よくする気マンマンなのはいうまでもなく、「モリアオガエルがいる池ですよ」と書いてあるより、「モリアオガエル等すべてを愛護」の方が、たしかに存在していることを前提にしているようで期待感が高まった。

 
翌年の梅雨の終わりごろ、もしかしたらいるかもしれないと思って行ってみたのだが、ひとつも卵塊はなかった。そもそも、モリアオガエルについての看板が古すぎるので、もう過去の話かなと思って一度は諦めた。まあモリアオガエルの卵を見なかったからといって死ぬわけでなし、そもそも絶対に死にたくないと思っているかというと、それも疑わしいほどであるから、まあいいやと思っていたのだった。
 
 
そしてさらに2年が経ち、Twitterをふと見ると(実際は「ふと見る」という頻度以上に見ているが、「ふと見る」と言いたい)、モリアオガエルが話題になっていた。前回見にいったときは梅雨の終わりごろだったのだが、そもそも季節を間違えていて、梅雨の始まりだったのかもしれない、もしかしたら、いま広徳寺に行けば卵塊くらいは見られるかもと思って行ったら、あっけなく、551の豚まんのようにぶら下がっていたのだった。551だと、たとえば京都駅などでは並ばないと買えないので、卵塊の方がよほど身近である。

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しかしその日は、こともあろうにメインのカメラに電池を入れるのを忘れていたので、ズームもできないコンパクトカメラで撮るしかなかった。卵塊だけで満足なのだが、より大きな写真を撮りたいと思い、翌日にも広徳寺に行った。
あいにくの雨で、きのう電池を忘れていなければよかったと後悔したのだが、行ってみたらきのうよりも卵塊の数が増えていたのである。
 

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白いものもあれば茶色がかったものもある。茶色がかったものは、できてから時間が経ったものかもしれないが、それは局部の色が濃い女性を経験豊富であるとイメージしてしまうのと同種の誤りで、むしろ茶色がかっていたものが白くなっていくのかもしれないし、産卵のときにより気持ちよくなった雌が茶色ががった卵塊をつくるのかもしれない。

 

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アップで見ると汁のようなものが垂れていて、舐めたら酸味と塩味の嫌なハーモニーを体験できそうで震えた。

……などと無駄な思考を巡らせながら雨に濡れたレンズを拭き拭き撮影してまわり、そろそろ帰ろうと思っていたら、視界の端においしそうな草餅のようなものが見えた。
 

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なんと……これはご本尊ではないか……まだ産んでないものの、産卵する態勢であると判断した。この状況でただのお友達ということはなかろう。
 
しかしこの写真を撮って観察を終わりにしてしまったら、この写真を見た人(あなたのことです)に「こういう感じなのに実は友達みたいなのってなんだかオシャレですてきだし、そういうことじゃないの?」と一蹴されそうな気がしたので、産卵の証拠である泡を撮ろうと意地になってしまい、本堂で雨宿りをした。
 

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30分ほどすると雨も止み、さきほどの場所に戻ってみると泡まみれになっていたのであった。

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雄の方が体が小さく、また、人間の交尾でこんなに泡立つことはない(たぶん)。それらを除いては人間のそれに似ている。人間が木に登って交尾することはないけれども(たぶん)、自分と配偶者の体重を支えるための手のたくましさが人間の腕のようで驚いた。

 

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裏から見るといっそう生命のロマンを感じさせてくれる。人間も同様に下から撮ると生命のロマンを感じさせてくれるのかもしれない。
 
 
―ひとしきり撮って満足して、今度こそ帰ろうと思って、念のため池を一周したら、池の中央にもう一組いるのを発見した。しかし、さきほどのつがいと異なり、色が黒い。カエルだから体色を変化させているのだろう。さきほどは葉が多かったので葉を擬態していたが、こちらは枝を擬態しているのかもしれない。複数の固体であっても同じ色に変色しているのが興味深い。「俺はここは葉になっておくべきと思うんだけど」「いやいや、枝じゃないの?」と見解の不一致があって別々の色であるものの身体は正直で次世代をもうけたりすることはないのだろうか。あるいは体色を含めての身体なので、体色を合わせることがセンター試験の足切りのような位置づけなのかもしれない。
 

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そして、よく見たら、もう一匹雄がいる。
 

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人類についてこのようなシーンを見たことが何度かある。男女で話しているときに、空気を読まずわりこんで話しかけてくる男。
 
そして興味本位でさらに待つと、後から来た雄が前からいた雄の肩を抱いていた。

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まるで人間のように見えるし、ここまでくると、雌と交尾したいのか、雄と交尾したいのかわからないし、本人もわからない状態になっているのではないだろうか。

わたしが、かつて大変人気のある女の人とおつきあいしていたときは、「恋人ではないが、何でも言うことを聞いてくれる都合のよい男」のような存在がいたりしたことを思い出した。そんな彼らのことを下賤だとは思わない。自分がその男のようになったりすることも十分に想定できるし、だからこそ意気消沈してしまうのである。
 
実際のモリアオガエルたちは、単純に息をすることの延長のようにこれらの動きをしているのだろう。雄同士で戦って交尾の相手をひとりに絞るのではなく、雌の産卵に合わせて一斉に精の子を放出する方法で優秀な子孫を選別し、残すのである。たしかにその方法の方がより強い子孫を残す結果にはなるだろう。雄の優秀さを競うのではなく、次の世代の素になる精の子自体の優秀さを個別に競った方がたしかに合理的ではある。
 
……と、頭では納得したものの、昆虫などと比べて人類に姿形が似ていて体色も人間寄りのモリアオガエルが肩を組んで精の子を放出しているシーンを人間に重ね合わせてしまって気分が沈んでしまったのだった。人間の場合は、交尾の瞬間に選別が行われるわけではなく、幼少のころから熱心に勉強し、仕事について高収入を得るなどの手段で、競争は間接的に行われるし、勉強は交尾の目的以外にもなされることだけれども、結局のところ同じことではないかと思ってしまったのである。ここで「交尾なんて人生の5%にすぎない」などとわたしは言えない。100%ではないにせよ、70%くらいではある。
 
自分が後からきた雄ならどんな気持ちになっただろう。そこまでして自分の遺伝子を後世に残したいとは思わないし、そうまでしないと遺伝子が引き継がれないような日々是決戦といわんばかりの厳しい「生」に、いかほどの価値があろうか、と思ってしまうに違いない。繁殖の季節が来ても、生きるべきか死ぬべきか……と思案しながら、水中で水草の根をいじくり倒しているうちに、水鳥に食べられて生涯を終えてしまいそうである。
 
性に目覚める前から見たいと思っていたモリアオガエルの産卵。見ることができて幸せだとは思ったが、いざ成人した身で目のあたりにしてみると、自分を重ね合わせてしまってつらい気持ちにもなってしまったのだった。