ココロ社

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金ぱくはがし、出てきた平安中期の密教像

そうそうそう。何か重要なことを言い忘れていると思ったらこれだった。
以下引用。年金問題とかそういうのよりもこっちが大事。画像が大きすぎるかもしれないけど、それもまたよし。

江戸時代の作とされていた石山寺大津市石山寺1丁目)所蔵の仏像「如意輪観音坐像(にょいりんかんのんざぞう)」が修理で金ぱくがはがされたところ、平安時代中期の作で、全国的にも数少ない初期の密教像であることが2日までに、滋賀県立琵琶湖文化館の調査で分かった。同寺が真言宗に教義を変えた時期にあたり、同文化館の土井通弘学芸員は「本尊的な役割を果たしていたのでは」とみている。
 仏像は高さ56・4センチで、密教の教義を6本の腕で表した六臂像(ろっぴぞう)。
 同寺の鷲尾遍隆副座主によると、昭和の中ごろの修理で金ぱくを張り直したところ安っぽい姿になり、収納庫にしまわれたという。顔の表情から江戸時代の作と見られていた。
 寺では像を古びた雰囲気にしようと3年前から修理。金ぱくをはがすと古い木地が現れ、顔の彫りが穏やかで耳が太い特徴から、同文化館などが10−11世紀の作と鑑定した。

先日言及したわびさび問題がここでまた復活!!
「昭和の中ごろの修理で金ぱくを張り直したところ安っぽい姿になり、収納庫にしまわれたという」
実際、張り直したときに、ものすごくいい加減に張ったとかそういうことは考えにくい。圧倒的な差が出ることもないんじゃないか。つまり、「金箔を張った状態それ自体が安っぽく見えてしまった」というところに事の本質がある。ここでの霊験は「古さ」に依るものだけ。教義のロジカルな正当性などは関係ない。特に金ピカな感じは、逆に「古さ」とは矛盾し、かえって霊験を損なう要素と考えられたからこそ、金箔を張ったあと「しまった」となって、収納庫に直行することになったんだろう。
しかし仏教はどう考えても「先進的な文化」として朝鮮半島から渡ってきたのであり、その霊験のよりどころは「先進的」であるところが大きかったはず。先進的な朝鮮半島の思想的基盤であるところの仏教。橋本治の「法隆寺の五重塔とか、当時は相当奇異なものに映ったはず」という指摘は絶対正しい。いつの間にか「伝統」のみが霊験のよりどころになってしまったということなんだと思う。たしかに平安時代の仏像に接したときに「古さ」に由来する感慨めいたものを感じることはあるし、それは別に悪いことでもなんでもないのだけれど、少なくとも当時の信仰のあり方との間に圧倒的な断絶があるのは確かで、その意味においては、見た目ほど「伝統的」ではない。
われわれがそこに感じる「わびさび」とはたかだか数百年程度流行している観念だと思う。

しかしあんた、「像を古びた雰囲気にしようと」ってそんなあけすけな…せめて「古式に戻してその正統性を…」とかに言い直した方が気まずくないと思われ…