ココロ社

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「いかがでしたか」とブログの崇高な理念

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「いかがでしたか」という、もともとは不快な意味を持っていないはずのフレーズが、いつしか読む価値のない、読者を苛立たせるコンテンツの代名詞になってしまった。さらに丁寧なはずの「いかがでしたでしょうか」については、その丁寧さとは裏腹に、いっそう腹立たしいと思われている。
いったい、いつからこのような状況になってしまったのだろう。そもそも、無意味な情報を書き連ねるにしても、なぜ最後に読者に質問するのかと不思議に思う人も多いかもしれないが、その謎について記憶をたどってみた。
 
わたしの記憶がたしかならば、オンラインの文章の末尾につく「いかがでしたか」の決まり文句は、ブログの草創期に、ブログの理念とともに誕生していた。
ブログの登場により、読者と作者の関係が大きく変わった。雑誌やホームページを読んだ人は、その文章に対して感想や批評を述べたくなったとしても、読者ハガキに書くか、電子メールをしたためるかくらいしかなく、読者は筆者の主張を受け取る客体にすぎなかったが、00年代前半に現れたweblogは、そこで書かれた記事はパーマリンクにより記事ごとに読者に開かれていて、反論や認識不足などがあれば、自由にコメントを書いたりトラックバックを飛ばすことができ、ブログ世界の中で応答を含めた全体がひとつの記事となる。
その記事の起草者の知識が不十分であったり、主観性の強いものであったとしても、それに伴う反応で最終的には高度な知識が完成するのである。
 
―「ブログ」という言葉が一般に普及しはじめたころ、ある編集者から上記のような話を伺い、インターネットを通して徹頭徹尾自らの主観を垂れ流すことしか考えていなかったわたしはカルチャーショックを受けた。
たとえばハウスミュージックにおいて、時折発生する無意味とも思えるブレイクや、音数の非常に少ない小節などは、単体で聞くと、音楽としての完成度を下げているように聞こえてしまうが、前の曲や次の曲とスムーズに接続するために必要な「間」である。それと同じで、一読して不完全と感じられる文章も、その不完全さゆえに開かれているのかもしれない。オンラインの文章が開かれていることを保証するため、最後の一節に「いかがでしたか」が挿入された。その一言によって、筆者は文章における絶対的な主権者の地位から降り、読者に対して、読者のポジションから発言の主体という立場をとるよう促すのである。
 
長々と書いてしまったが、「いかがでしたか」というフレーズは、かつては、「作者=作品における神」という古典的な作品概念を破壊するための、インターネット時代の文章を飾る輝かしいエンブレムとなるはずであった。しかし、文芸復興が、「ルネッサンス東中野」(注:実在しない)のような、崩壊していないがゆえに復興することもないアパートの名称に使われたりするのと同様、「いかがでしたか」もまた、起草者の書いたものこそが他のブログからの転載であるなど、まったく言及するに及ばないような品質のもので、ただ、情報をもとめて検索した人々を苛立たせる結果となってしまった。
 
いまとなっては、自分も含めて、文章が開かれている状況に耐えられる人がどれほどいるのかと思う。
成功しているのはWikipediaくらいのもので、それにしても、読み手がうれしいだけかもしれない。書き手は記事の完成度を高めるための人柱でしかなく―どんなにすばらしい項目があったとしても、その筆者の名前は憶えていないどころか確認しもしないのが常である―モチベーションは上がらない。
一方でTwitterなどのミニブログでは剽窃が横行し、自分の作品でなくてもいいから神になりたいと思う人の巣窟になってしまったし、ツイートにコメントしただけで怒る人種もいる始末で、開かれた文章どころではない。
 
人類には「いかがでしたか」は早すぎたのかもしれない。
わたしは「いかがでしたか」を見かけるたび、インターネットの理想が潰えてしまったことを想い、せつない気分になるのだった。