ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

中年女性を揶揄するフォークソングとハンバーグ定食の間で

ラーメン屋などでオリコンのヒットチャートが有線でかかっていることはよくある。音楽にこだわりがないなら無難な音楽をかけてほしいと思うのだが、まさにマジョリティーにとっての「無難な音楽」がオリコンのヒットチャートなのだろうから耐えるしかない。わたしは正確にオリコンのチャートを把握してはいないので、もしかすると店主の心のオリコンチャートの上位にランキングした音楽をかけているのかもしれない。それならそれで、使用料を支払わずに流していることになるため、わたしの心のJASRACが黙っていないはずだが、それはともかく、そのような体験をするたびに、お口に広がるおいしさと内耳に広がるつらさが極まった状態になったらどうなるだろうかと思っていたのだけれど、先日、その暫定的な答えを得た気がしたので報告させていただきたい。

 
仕事が早く終わったある日のこと。まっすぐ帰宅するのも味気ないので、ほとんど降りたことのない駅で下車してみた。よさそうな店を見つけて夕食をいただこうと思ったのだ。その店はビル街にある定食屋で、こういう店はランチタイムには行列ができるが夜はゆっくりできることが多い。実際に入ってみると、お客さんが少なめなのもよかったのだが、入り口からは想像ができないほどゆったりしたつくりで、席と席の間が1メートル近く離れていて、定食屋というよりレストランと呼ぶ方がふさわしいかもしれない。店に入ったとたん「再訪したい」と思ったのだった。メニューは普通だけれど、夕食のあと、コーヒーでも頼んでゆっくり読書できたりしそうだ。ざっとメニューを見て、単価の高いほうがゆっくりする言い訳になるかと思い、いちばん高かったデミグラスソースとチーズのハンバーグ定食を頼んだ。
 
ここで状況は一変する。わたしの注文が終わるのを合図にしたかのように、ポロロンと奥の方からアコースティック・ギターの音が聞こえた。まず奥があったことに驚いた。ふつうの店は奥がないのに奥があるように見せるために鏡を置くなどの工夫をするのに、この店は奥があるのに奥があることをアピールしないとは……。しかもこの臨場感、録音された音ではない。
つまりここは、世にも珍しい、生演奏が聴ける定食屋だったのだ。すぐに演奏は終わり、「どんなのが好きですか、なんでもやりますよ。」という声が聞こえた。少ない客のひとりが、「N」という、愛国的なアティテュードでおなじみのミュージシャンを挙げた。わたしの主観を語ることが許されるとするなら、生では最も聞きたくないとわたしが思っているタイプの演奏で、つまり地獄へのプロローグである。ここで「Nさんの音楽だけはやめてください」と叫ぶわけにもいくまい。ここはNの音楽が好きな人のための専門店かもしれず、それを調べなかったわたしの責任であるし、ここにいるうちはNが大好きであるかのようにふるまわないと失礼にあたる。
 
このように覚悟を決めたのだが、驚くべきことに彼はリクエストには応えず、謎のオリジナルソングを歌い始めた。それが真にNを愛するミュージシャンの態度であると思っていたのかもしれない。一瞬、(個人の感想として)「助かった」と思ったのだが、彼が始めたのは(個人の感想として)助かったとは到底思えない歌だった。歌が意識に流れてくるのを阻止すべく、心の弾道ミサイル迎撃システムを起動したが、実際の弾道ミサイル迎撃システムがそうであるように、インパクトのあるフレーズのすべてを遮断するのは困難だった。
その歌は、あろうことか、サビのところで、「ちょっと年増は遠慮させてください〜」というフレーズを何回も繰り返す歌だったのである。コミカルな歌という位置づけなのだろうけれど、いまこの店は、「年増」の定義に合致する客と店員がいるのに、コミックソングとして聴くことができるかはなはだ疑問である。少なくとも、キッチンに見え隠れしていた「年増」にあたる店員さんは、ハンバーグをこねる手が震えたのではないだろうか。
 
しかも、よく磨かれた鏡に反射されたミュージシャン自身の姿も50を過ぎているように見えた。若気の至りで歌っているのではなく、自分もそれなりに「年増」だというのに、自分だけに選ぶ権利があるかのごとく歌えるなんて、大した自信である。
そもそも、フォークソングというものは、「女は若さこそが命」という保守的なイデオロギーなどに対して異議を唱えたりもする音楽が多いことを考えると、無駄に斬新でもある。
 
……などと考えているうちに、デミグラスソースとチーズのハンバーグ定食がきて、わたしは直ちに食べはじめた。

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ジューシーな肉汁やデミグラスソースやチーズとのマッチング具合などのおいしさ情報が舌から伝わってくるのだが、まったくその情報が心を打たない。

 

よく、「料理は見た目が何割」などという言い方があるが、聴覚情報もおいしさに関与することを自分の口と耳で確かめることができた。飲み終わるころには次の歌の演奏を始めていたのだが、お会計を済ませて「ごちそうさまでした」と言って店を出た。
長居しようとは思えなかったものの、味覚と聴覚が引き裂かれるという得がたい経験をさせてもらったことについては感謝していて、そのあとも何度か引き裂かれに行っている。
 
たとえば有線で日本のヒットチャートをかけているフレンチがもしあれば行ってみたい。「フォアグラとアナゴのソテーの赤ワインソース 季節の野菜を添えて」などをいただきながら聞いたら精神にどのような変調が生じるのか、実際に体験してみたいと思っている。