ココロ社

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その昔、『一杯のかけそば』というマッドな童話があった

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ココロ社です。
今回は、元号が昭和から平成に変わったころの話。
あのとき、『一杯のかけそば』という童話が空前のブームになっていた。
話のあらすじはこうだ。

ある年の大晦日、子供二人連れの母親がそば屋を訪れ、お金がないがどうしても食べたいと、一杯だけかけそばを注文し、三人で分けあって食べた。
その年からしばらく、大晦日には三人で来て、一杯のかけそばを注文して食べていたが、ある年からぱったりと来なくなった。そば屋は、三人がまたいつか来てくれると思って何年も待っていた。
来なくなってから10年以上経ったある年の大晦日に、あのときの三人がやってきた。子どもたちは立派に成長していた。聞くと、それぞれ銀行員と医者になり、この蕎麦屋でかけそばを食べるためにわざわざ集まったという。三人は三杯のかけそばを頼んでおいしく食べたのだった。


若い人には信じられないかもしれないが、平成になりたてのころには、この作り話が「本当にあった泣ける話」として日本全国に感動を呼んでいたのである。もしかしたらそば粉に脳波を乱す成分が含まれているのかもしれないが、当時10代だったわたしは「国民がこんなしょうもない話に熱狂するような知的水準で、このあと国家を維持できるのだろうか」と本気で心配していた。
あれから27年経ったいま、自衛隊が多少ワイルドになったり、二度ほど巨大地震を経験して原子力発電所から放射能が少々漏れたりしたとはいえ、いまも日本国は少なくとも国家としての形態をとどめている。「世も末」と思っていても、本当の「末」はそうそうやってこないもののようだ。


とはいえ、日本については、少しずつ「末」に近づいていることも間違いない。
いま、『一杯のかけそば』を読めば、あらゆる角度からの非難が予想できる。

・そんな特別な話だろうか。うちもかけそばではないが、食べたいものを思いきり食べられるのは年1回くらいだ。
・ここまでではないにせよ、うちも決して生活は楽ではないので、「いい話」として消費されているのを見ると、なんだか馬鹿にされているように感じる。
・外でかけそばを頼むより、家で作って食べたほうが豪華になるはず。やはり収入の低い人は生活スキル全体に問題があるんだな……。
・最後の銀行員になったり医者になることがハッピーエンドのような扱いを受けていることに違和感。結局金持ちが偉いということなのか。貧乏でも、一杯のかけそばを仲良く分け合えられれば幸せだと思う。
・店の名前「北海亭」をGoogleで検索しても出てこない。名前を変えていたとしても、この店を知っているという人が何人かいてもいいはず。作り話なのでは?
・かけそばを食べるのがあざとい。一杯の牛丼にすれば同じような値段で味噌汁もついてくるのに、あえて具なしのかけそばを食べるなんて、貧しさを強調しているようで不快。

……など。


あのころと比べて、生活保護の受給者はおよそ倍になっている。身の振り方によっては、一杯のかけそばを三人で分けあうというシチュエーションが必ずしも異次元の話であるともいえなくなってきた。この話では、貧乏生活から脱して、銀行員や医者になったというのだから、平均年収の3倍は貰えて定年までずっと働けるはずだが、現実では多くの企業では終身雇用のムードはなくなってきている。

当時、『一杯のかけそば』などに感動している人は単純に頭が悪いと思っていたのだが、あの話に感動できるということは、前提として、あの話が他人事だと思える程度にはみんな豊かだったし、豊かでなくとも、このあと豊かになるはずだという確信をもっていた……ということだったのだなとしんみり思う。

現在は、いまは大丈夫だとしてもこのあと何が起こるのか予想がつかないし、いつか、大晦日に一杯のかけそばを分けあって食べることがあるかもしれないと思ってしまい、そばを等分に分ける方法について想いを巡らすばかりなのである。



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