ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

「明日の神話」のいたずらは最低で悪趣味だった

渋谷の、おもに京王線とJR線の乗り換えに通る道に、岡本太郎の「明日の神話」が設置されたのが3年ほど前のこと。先週、絵の右下に、福島原発の絵を貼りつけた人がいて、それが物議を醸していて、最初は、「そんなことで怒らんでも」と思っていたのだけれど、「明日の神話」と向き合ってみるにつけ、やっぱりおかしい、というか、これはものすごく下品な事件であり、いたずらどころか微妙に本気でやったことがうかがい知れるこの恥ずかしい事件の犯人はきっと、高校時代の卒業文集に皆が修学旅行について書いているのに、アンディ・ウォーホールと出会った時の衝撃について書いていたりするだろうから、それを見て楽しみたいという気持ちになった。


もともと、あの場所は待ち合わせに使うのであれば便利かもしれない場所で、ちょうど関西で言うと、梅田のビッグマンのところと状況が似ていなくもない。JRと阪急の乗り換えで通るし。ただ残念なことに、渋谷には待ち合わせの代名詞であるハチ公があり、悪趣味だと思われてもいいから人が少なめのところで待ち合わせたい、となりふり構わない人のためには裏側にモヤイ像が用意されている関係上、どうも、「ビッグマンで待ってるでー」的な感覚で、「明日の神話のところで待ってるよ」とは言えず、「明日の神話」は通り道にある絵、という存在以上のものになりにくい。ハチ公の姿や、その前にある路面電車なら忠実に描けるという自信があるが、「明日の神話」がどういう絵だったかは全然思い出せなかった。


明日の神話」の前には柱があったり、座るところはなかったりして、この絵をゆっくり見てくださいという雰囲気はまるでない。だいたい、ここを通るときは吉祥寺に行った帰りのことが多く、吉祥寺って微妙なセンスのカフェが多いけど、結局、平均的な若者がオシャレと思うような店って、ボサノバがかかっていたり、古びた本棚に絵本を置いていたりするような店だから仕方ないよね、それでも、「親に感謝」的な歌―本当に親に感謝するんなら、「ありがとう」を連発するより、定期テスト2週間前から対策を始めたりする方が親にとってはうれしいんじゃないかと思うけど―が流れていたり、3秒で人に気に入られる方法、みたいなのが本棚にあるような店に比べれば、ずっとすてきで、つまり一言でまとめるんだったら、吉祥寺はすてきな街だね、などという話をしながら通るのが常だ。
また、あそこで、「明日の神話」を、ひとつの芸術作品として鑑賞するのは気恥ずかしいという気持ちもある。ひっきりなしに人が歩くところなので、そこでひとり立ちつくして「明日の神話」を鑑賞するのは、「あなたたちと違ってぼくは芸術作品の前で立ちどまることができる選ばれし繊細な人間なのであります」と主張しているのと同じじゃないか、恥をしのんで見たとしても、道端で美人を見かけたときのようにチラチラとしか見ることができないだろうし、美人はたいてい顔が小さくて一瞥すれば全貌がつかめるのに、「明日の神話」は大きくて二度見したとしても見えるのは絵のごく一部にすぎない。


このように、鑑賞しづらい状況に置かれている「明日の神話」だけれど、さらにぼくと岡本太郎にとってよくなかったことには、この絵が設置されるときに、テレビか何かで―「テレビか何かで」と思ったときにテレビ以外のものであったことは一度もないからテレビなんだろうけれど―誰かが「明日の神話は、岡本太郎が平和への願いを込めて描いた絵であり…」的な話をしているのを耳にして、平和の大切さと大切でなさについてはよく知っているし、通路の風景以上のものとして扱おうという気が失せてしまったというおかしくも悲しい誤解もあったのだった。


「平和への願いを込めて作った」的な作品が、平和を実現するためのひとつの道具に成り下がっていることはもちろん、捨てたプライド以上のものを得ていなくてかわいそう、という一般論については回を改めて書くけれども、百歩譲ってあのスペースで平和の大切さを訴えたいというのであれば、皮膚がケロイド状になった被爆者の写真とか、子を失って呆然としているシーンを大きく引き伸ばして貼りつけた方が実効性があるし、もし核戦争が、現代において悲劇のシンボルとしての説得力を失いかけていると考えるのであれば、今年生まれた赤ちゃんが、将来何人分の老人の面倒を見なければいけないかをわかりやすく人型のグラフで示したりした方がはるかに有効だとは思う。
そんな皮肉にならない皮肉はともかくとして、いくらなんでも、「平和への願いを込めた作品」などという恥ずかしいものをあの岡本太郎が作るかねー、という気がしなくもなかったので、「他の街のことを考えると、吉祥寺ってすてきな街だよね」みたいな話をしつつ通りすぎるばかりだったあの場所に赴き、平和がどうとかいう話をいったん措いて、「明日の神話」がどんな絵だったかを確認してきたのだった。



よく見ると、というかよく見なくても、この絵、よく反戦団体から非難を受けなかったなぁと思い、驚きを隠せなかった。もともと感情を隠そうと思っていないのでドラマチックなことを言えた義理はないけれど。核兵器みたいなもので着火している人たちが描かれているが、苦しんでいるようにはあまり見えない。一番大きく描かれている人間型の物体は、大きなエネルギーを発散しているようには見えるけれど、これって核兵器と関係あるのかどうなのかは絵を見ただけではわからない。そもそもエネルギーが発散されているこの状況を、人間型の物体たちは喜んでいるようにも見えるし、これが仮に核兵器をイメージしているものだったとしても、核兵器がすばらしいとは言っていないのと同様、ダメだとも言っていないだろう。圧倒的なエネルギーにより、いいとか悪いとかそういう話を超えたところで神話的な情景が繰り広げられているばかり、そういう風景が見える。
明日の神話」の絵を見て平和への誓いを新たにした人がいるのなら、その人は生カステラを食べても平和への誓いを新たにするだろうし、ゲルマニウム美容ローラーを頬で転がしても平和への誓いを新たにするのではないかと思う。



今回の事件、この写真の青いところに原発がモクモクとしている絵を貼った人は、それでこの絵の内容を最新版としたかったのだろうけど、まず気に入らないのは人のふんどしで相撲を取るような真似をしている点で、原発の絵を描きたかったら、センスに自信がないにせよ、単体で描けばよいはずで、相撲自体も八百長やらなんやらでかっこよさが半減しているというのに恥ずかしいやり方だと思う。
もっと気に入らないのは、その絵を置くことで、「明日の神話」という作品を「平和を願う」ための、しかも実効性皆無の道具に貶めてしまったこと。ここで「岡本太郎はそんなものを描きたかったわけじゃないし、岡本太郎が見たら怒るだろう」という推測はしないでおきたい。そう言えるのなら、そもそも、神が人類の体たらくを見たら怒るだろうという話や、もっとさかのぼって、神がいるのかどうなのかの話をする必要があるだろうし、そんなスケールの大きな話をしているうちに、ひとつの絵についてあれこれ考えることが馬鹿馬鹿しくなってくるからだ。


この絵の保存の担当者が、「とんでもないいたずら」と言うのも無理はない。もちろん、福島での人災が問題であることには変わりないのだけれど、だからといって、悪趣味ないたずらをしても平和な世の中がやってくるわけでは決してなく、むしろ逆で、人が作った作品を政治の道具に貶めてしまうような浅ましい精神の持ち主が提供するのは、平和どころか新たなる紛争の火種だろうと思う。