93年頃だったと思う。友達が「そういや、暴力温泉芸者の人が島田雅彦に『作家になりたいんですが』って言ってるのを見た」って教えてくれた。「もう、今すぐにでもなってほしい!」と思って数年後、文藝で彼の短編を偶然見つけたのだけど、あまりの素晴らしさに驚くと同時に、これは特殊な小説だと思ったので、どれくらい世に受け入れられるのかわからないなぁと思った。ただ、リスペクトしている二人の批評家―渡部直己とスガ秀実―がどう評価するかは見ものだと思っていて、万一、二人が評価しなかったら、もう本を読むのも小説を書くのもやめる!…などと鼻息を荒げていたのですが、仕事とかしてるうちに忘却の彼方へ…そして数年後の一昨日、渡部直己の『メルトダウンする文学への九通の手紙』をめくって中原昌也について言及しているところがあり、しかも中原昌也の小説が好きみたいで、ああよかった…と思った。
と、前置きが長くなったけれど、『メルトダウンする文学への九通の手紙』を傍らに置きつつ、中原昌也の小説について感想を書こうと思う。
中原昌也は二つの意味で暴力的だと思う。一つは、普通のお話のレベルで、書いてある内容が暴力をテーマにしているという意味で、もう一つは、小説そのものが読者に対して暴力を仕掛けてくるという意味。前者の暴力はどうでもよくて、他の作家の『蹴(以下略)』などは、タイトルからして痛くて手に取る気もしない。たぶん内容もタイトルにふさわしく、大昔からある「若者は粗暴である」みたいな考えを退屈に繰り返して、感度の鈍い老人の持っているステレオタイプな若者観に媚びているだけだろうと思う。それに対して後者の暴力は、たとえば後藤明生の『挟み撃ち』を考えてみると、物腰は穏やかで、いろんなことを思い出したり忘れたりしているだけなのだけれど、話が横道にそれすぎて「ちゃんと小説になるの?」と読む者を不安に陥れる、一種の放置プレイ的な暴力小説だと思う。中原昌也の小説しか持っていない暴力性というのもやはり後者の暴力で、最も面白いのが、むしろ前者のお話レベルでの暴力性が後退し、小説そのものの断絶が起こる瞬間。一見平和な紋切型が物語を台無しにする瞬間が最も面白いんだと思う。たとえば、たぶん最高傑作の『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』に収録されている『あのつとむが死んだ』の場合だとこんな感じ。たぶんこれがデビュー作で、もっともよさが出ていると思う。
なんだか自分の中で元気な力が甦ってくるのが感じられた。するとベンチの脇の茂みから五、六人の若者たち(十代前半と思われる)が鉄パイプを手にして現れた。一見して、この若者たちにはフレッシュ・ジェネレーションという名称がふさわしいと感じた。リーダー格の男の合図で一斉に鉄パイプがつとむに振り降ろされた。そして一瞬で血だるまに…この時代のときめきを代表するような若者たちの登場に拍手をおくりたい。
最後のまとめかたが面白い。ただ、「ポジティブなようでネガティブ」という対照性が、すでに「ツンデレ」的な紋切型になっていると言えなくもないので、このスタイルが安泰というわけではないと思うけど。
マリ&フィフィの虐殺ソングブック (河出文庫―文芸コレクション)
- 作者: 中原昌也
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