ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

モーニング娘(id:farrahさん編)

id:farrahさん、こんにちは。
もー遅くなってすみません。
都合のいいところばかり引用していたら「ダメよ!」ってママンみたいに叱ってください。
まあ、うちのママンは子供をあまり叱らないタイプだったので、こんな饒舌な変態に育ってしまったと言えるのですが…

ただ、好きという衝動ありきの過剰付与であり、過剰付与ありきの好きではないです。それってニワトリかタマゴかってやつだ、とされちゃうかなとも思いますが。でまあ、どっちが先にせよゲームには違いなくない?って言われるとこれまたあんまり返す言葉がないです。要するに、何故好きか、「誰にも納得のいく」説明をするのはほんとうに難しいなあと感じています…。

「好きという衝動ありきの過剰付与」というのはよくわかります。が、他でも話させていただいていますが、その「好きという衝動」の形成に、すでに言語化されたモーニング娘の姿あり!だと思うのです。誰かが過剰付与したテクストを読んで、モーニング娘を好きになったとするならば、過剰付与されたテクストの連関また連関…みたいな感じで衝動が次々と形成されたと思うのです。もちろんぼくは、それ自体がダメだとかはまったく思っていません。むしろ興味深いです。ただ、そこで感じられた衝動は、少なくとも非言語的なものではないんじゃないか?と思うだけです。ある日突然、テレビに映るモーニング娘を見て、「なんだこの歌って踊る可愛い女の子たちは…モーニング?今は夜だよ…しかもこんなにいっぱい…1・2・3・4…ああ動くからワカンネ!これじゃあまるでコージーコーナーの焼き菓子の詰め合わせだよママン!」と思った人を除いては、言語的体験としてモーニング娘を好きになったとぼくは考えます。
だとすると、言語的体験としてのモーニング娘と言語的体験としての金井美恵子は同じフォーマットになったと言えると思うのです。だから、その同一のフォーマットの上で、矛盾するかしないかという話が可能になるのです。それが矛盾をはらんだ状態でどうやって同居するんだろう?という話です。