ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

小説2.0が(すり足気味に)やってきた!

年明けから、小説関連でぼくが注目しまくっているはてなっ子―id:pqrさん、id:yukiyshrさん、id:morisさんの書いた小説を読む幸運に恵まれました。(小説関連でぼくのところを見に来てくれている方で、万一、今挙げた三人のダイアリーをまだアンテナに入れていない方がいらした場合、アンテナに収納することを強くおすすめします。更新頻度がちょっと低いですが。)
で、前のお二人は面白かったのですがちょっとしか見せてくれなくて歯ぎしりしました。id:morisさんの『デンジャラス・ツアー』は書き終わったところまでを(60枚ほど)見せてもらったので(最後まで書いてという要望も兼ねて)感想を書かせてもらおうと思います。
話の筋を書いても特に意味のない小説なのですが、簡単に書くと、銀行の入社研修の様子を気まぐれな語り手が語ったり語らなかったりしている小説で、蟻に運ばれる蝉の死体の描写から始まります。

真っ白な壁、その白いペンキの濃淡によってできた凹凸の上を、巨大な油蝉が葉脈のような模様のある茶色がかった半透明の薄い羽を揺らしてじりじりと移動していく。油蝉は壁の凹凸に自らの手足をかけてはおらず、ペンキの盛り上がった部分が面ではなく点で硬くこわばった腹部に接しているだけで、接していない空間、腹部と壁との間の狭い空間からは、小さな黒い泡がぶくぶくと湧きだしてくる。その泡は空気に触れると蟻に姿を変え、実際には泡ではなくはじめから蟻なのにそのようにみえ、際限なく湧きだしてくるかのようなおびただしい数の蟻の足の運動によって油蝉は運ばれていく。

ロブグリエをキュートにした感じですが、独特のユーモアがあります。こんな調子で、イメージを媒介にして語りがいろんなところにワープしたり戻ってきたりします。重要なのは、どこを切っても読者を退屈させない配慮がなされているというところです。決してワープすることが前衛であるとか、そういうアナクロな意図は全然なくて、あくまでも面白いことを言いたいから、結果として普通の小説の形をはみ出してしまっているということだと思います。要約が難しいのと同様、ココがいい!って引用しにくい文なのですが、以下、面白かったところで引用しやすいところを引用してみます。

トムとスティーブのうしろで、壁にもたれて立っているティムがジャックの顔に人差し指をむけ、おまえ女とやったこと自体、一度もないだろうと言う。こいつの指をさすしぐさは若く才気あふれるラップミュージシャンのマイクを持っていないほうの手つきを思わせるとジャックは感心する。壁には赤いスプレーで〈フレッシュ〉と殴り書きがしてある。

「マイクを持ってない方の手つき」!
あと、一番笑ったのが以下の部分です。まあ他も笑えるところ満載なのですが。

この歳で、初期のゲームボーイをもう少し大きくしたくらいだなんて考えるのはわたしくらいだろうと朋子は集金のたびに思う。朋子は自宅から自転車で一〇分程度のところにあるジャスコの玩具売り場でパートとして働いていているので、ゲームボーイアドバンスや、ニンテンドーDSニンテンドー64や、プレイステーション2、プレイステーションポータブルセガサターンや、ドリームキャストネオジオ、3DOリアル、そしてバーコードバトラー3などのゲーム機器のことをまとめて「ファミコン」と呼んでしまうようなことはない。そしてそれは職場でそれらのゲーム機器を扱っているためにひとつひとつの名前を自然に覚えたという、ただそれだけの理由からではないと朋子は思っている。
たとえば〈道端の雑草ひとつひとつにも名前がある〉という一言が、〈わたしたちひとりひとりに個性があるのだ〉といったような意味合いで口にされるのをテレビなどで耳にしたことがあるように記憶しているけれど、雑草ひとつひとつに名前があるというのはむしろ、すべてのものに名前をつけてやろうという人間の貪欲さに感心すべきことであり、そうした姿勢を見習ってわたしもできる限り何に対しても貪欲に興味を持ちたいし、何に対しても興味を持つことこそが、四十代の基礎化粧品などを使うよりも若さを保つうえで大切なことだという信念を持っていて、そうした信念があるからこそわたしは「ファミコン」と呼ばないのだと、朋子は考えている。

ヌーヴォー・ロマンって、亡きものにされていますが、ぼくなりの総括としては、「小説を本当の意味で『読ませる』フォーマットの実験がされた」というところに重要性があると思っていて、そのフォーマットに何を流し込むかというのは、まだまだこれからの課題であると思います。小説的な細部は、そもそも50年代のフランスと今の日本ではだいぶ違うこともあるし、そのまま読んで面白くなかったからといって、「ヌーヴォー・ロマンはもういい」と言うのはちょっと早計かなぁと思います。今までの小説にありがちな弱さ―あらすじを読むだけで読んだ気になってしまえたり、ネタばれしただけで読む気がしなくなったりするような、文そのものの強度の弱さ―を乗り越え、純粋に文を「読ませる」方法は確立されたと思うので、この方法の上で何を書くかというのが今大事なんじゃないかなぁと思いました。id:morisさんの小説は、この件に関して一つの答えを見せてくれていると思いました。id:morisさんのはぼくのテイストに近いから特に面白いと感じてしまうところもあるのかもしれませんが、電車の中でにやにやしながら読んでしまい、恥ずかしかったです。
もちろん、id:pqrさん、id:yukiyshrさんのも、チラッとしか見せてもらってないのですが、そこらへんに売っている小説よりも面白かったです。1人ならまだしも3人!…市場に流通していないところに面白い小説がいっぱい眠っているのではないか?という気がしてなりません。