ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

岩宿遺跡は、考古学に関係ない中年でも勇気づけられる名所だった

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最高に地味なタイトル画像なのに、弊ブログを見に来てくださってありがとう……。
 
 
日本の遺跡といえば、まず最初に挙がるのは岩宿遺跡。しかし、そこを訪れる人は少ないし、わたしも行ったことがなかった。わたしが岩宿遺跡の存在を知ったのは小学校の社会で、「日本のあけぼの」的な章で初めて日本人の文明の記述として出てくる史実としてだった。東京に暮らして25年経つが、「群馬県岩宿遺跡」と記憶してはいるものの、群馬県のどこにあるのか、そもそも、群馬県はどこからどこまでなのかもはっきり認識しないまま過ごしてきた。
少し昔の話になるが、「そろそろ岩宿遺跡を確かめないといかん」と意を決し有休をとったときの話をしたい。最寄り駅は岩宿駅でたいへんわかりやすく、その名前なら駅から遺跡まで近そうだなと思ったのが、問題なのは都内から岩宿までの道のり。同じ関東だから片道2時間程度なのかなと思っていたが3時間近くかかった。
 
岩宿駅はこじんまりとした駅だが、 大間々駅の名前で1889年開業。

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この電気関係の建物も注記はないけれど、とても可愛らしく、東京にあったらライトアップされていたに違いない。
 
 
岩宿駅の前にはみやげもの屋があり、石器を象った黒くて硬いおせんべいなどが駅前の土産物屋で売っていて……と想像していたのだが、そんなことはなく、いまは電車よりも自家用車を前提としてインフラが構築されている模様。

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駅から徒歩20分ほどで岩宿遺跡に到着。
 

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遺跡は「A地点」と「B地点」などというかっこいい名称で呼ばれており、ぼんやりと散歩をしているだけでも本格的な学術調査をしているような錯覚が得られて気持ちいい。最初に相沢忠洋先生が旧石器時代のものと思われる黒曜石を発見したのがB地点。彼からの知らせを受けて本格的な学術調査が行われ、A地点で粗めて石器が確認された。A地点は稲荷山という小さな山のふもとにある。稲荷山には岩宿稲荷神社がある。由来などは書いていないが、遺跡発見の1946年よりも前からあるように見える。

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もう何も出ないとは思いつつも、ついうつむき加減で捜索しながら歩いてしまう。
 
そして歴史的発見の舞台であるB地点には、岩宿ドームがあり、中には地層が展示してある。

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ローム層=火山灰=灰色のイメージだったのだけど、赤い色が関東ローム層=旧石器時代の地層である。ライトのせいもあり、どの地層も関東ローム層に見えてしまった。絶対考古学者に向いていないと思った。
 
遺跡の発見者である相沢忠洋先生は、発見当時は桐生市に住んでおり、行商の傍ら、赤城山山麓に焦点をしぼり、仕事の傍らで発掘活動に勤しんでいた。のちに岩宿遺跡と呼ばれるこの場所では、当時は崖の断面に土が露出していたのだが、何度か通っていくなかで徐々に謎を解いていったのだった。さきほどのように、表面を見ていても何も見つからないのは当然で、注意を払うべきは断面が露出しているところだったのだ。

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最近になって、石器を発見した瞬間の相沢忠洋先生の像が建立された。このシーンは、彼が以前からここの赤土の層(関東ローム層)から、いくつも細かい石器のような、そうでもないようなアイテムたちを、土器を伴わない形で発見していて、これってもしかして縄文時代よりも前に人が住んでいたことの証拠かも……と、うすうす気づきはじめた中、どうみても人工のものと思われる黒曜石が、崖の断面の赤土の部分から出てきて、推測が確信へと変わった瞬間と思われる。まさに彼はこのとき、この像のように固まってしまったのだろうと想像する。とても素敵な像である。また土の色になっているところも可愛らしい。実際に学術調査が実施され、日本に旧石器時代があると証明されたのはこの発見の3年後であった。

 

このあたりの経緯は自伝『岩宿の発見』に詳しいが、遺跡と関係ない彼の身の上話が大変面白く、半ば遺跡のことはどうでもよくなってしまうほどである。

わたしは遺跡に行ってから読んだのだが、読んでから行ったら何倍も楽しかっただろう。次に行ったときは、『岩宿の発見』という物語に出てくる聖地を巡礼するような気持ちになれると思う。

日本の考古学史上、最大級の発見は、学者ではない行商人が成し遂げた。特に画期的な発見をしたわけでもないが趣味の世界を持つサラリーマンにとっては勇気づけられる話である。

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて (講談社文庫)

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて (講談社文庫)

 

 

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近くには「岩宿人の広場」があり、旧石器時代の住居のようすがわかるようなそうでもないような感じである。発見されている中で日本最古といわれる、はさみ山遺跡の住居跡を復元したものがあるが、屋根の材質が違いすぎて、旧石器時代の人の息吹を感じることは困難である。なお、はさみ山遺跡の一部は当時近鉄バファローズに在籍していた梨田昌孝先生の住居兼ビルの建設予定地だった。
竪穴式住居というと、茅葺きの屋根のイメージが強いが、最近では土で覆っているものもあったと推測されている。恐竜に毛が生えていたという話に似ている。
 
 
また、さらに関係が薄まってくるのだが、マンモスの骨の模型で作られた家もある。

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似たものが東京国立博物館にもあるが、こちらは野ざらしになっていて迫力がある。当然ながらこのままだとスースーするので動物の毛皮で覆っていたようだが、骨で家を作るなんてヤンキー的な世界観だなと思わなくもない。丈夫で石より軽い物質といえば骨しかないので、消去法で選ばれたのだろう。あるいは初期の人類はみなヤンキーなのかのもしれない。
 
近くに「岩宿博物館」というモダンな建物がある。

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中では、遺物を並べて、岩宿遺跡の住人の暮らしを推定しているのだが、そもそも遺跡で出土するものが限られているので、興味を惹く展示が難しい。わたしの場合、芸術的価値が見いだせるものでもっとも古いものは土偶で、縄文時代。やはり土を捏ねて作るくらいの創作性がないと芸術性を感じることが難しい。もしかすると旧石器時代の人々の中には石器を必要以上に尖らせる者がいたり、切れ味を犠牲にしても、造形上の好みで、あえて丸い形に仕上げたりる者がいたりしたかもしれない。前者の末裔は、現代において先の尖った靴を好んで履いているに違いないが、残念ながら現代人には打製石器はどれも同じものに見えてしまう。
 
なお、打製石器は思いのほか使いやすかったことをここに記しておきたい。

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細かいコントロールが現代のカッターナイフと同程度に効くのは意外だった。
 
ここにも住居の模型があるのだが、さきほど見た、はさみ山遺跡の住居よりもリッチである。

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狩猟・採集で生活の糧を得ていた旧石器時代の人々は移動を前提とした家を作らざるを得ず、骨組みと毛皮だけの家なら移動が簡単なはずなので、毛皮を屋根代わりに使ったという説には説得力がある。毛皮の服が暖かいのだから、毛皮の家もさぞかし暖かいに違いない。
 
鹿が30頭必要だったとして、それを狩るにはどれくらいかかるのかわからないが、数ヶ月がんばれば達成できただろうと思う、現代において数ヶ月がんばって家が経つということはあり得ず、何十年もローンを組むのが普通である。当時の住にかけるコストはかなり低かったに違いない。
 
~~~
 
岩宿遺跡の調査によって、日本に旧石器時代があった事実が確認されたのだが、以後、日本のあちこちで見つかることとなる。1951年には、板橋区で黒曜石の石器がローム層中に発見された。同じく切通しの断面から見つかり、茂呂遺跡と呼ばれている。発見者は当時中学生だった瀧澤浩先生で、もし岩宿に切り通しの崖の断面がなかったら、中学生が旧石器時代の存在を発見したとの記述が山川の日本史の教科書などに載っていたかもしれない。それもまた夢のある話だけれど、都内の中学生よりも、仕事の傍ら趣味で研究をしていた苦労人が関東平野の端で旧石器時代の遺跡を初めて発見した世界の方がわたしは好きだ。
一見すると単なる切通しにしか見えないこの場所だが、ただの中年であるわたしにとって、岩宿は最高にロマンチックな聖地であった。
 
 
 

花が摘みたくて摘みたくて困ってしまった話

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百合ヶ丘で降りてみようと思ったが、どうせなら新しい方がいいと思って新百合ヶ丘で降りた。大きな目をした色白の人がたくさんいる街だと毎度のことながら思った。この町の住人は自分の写真を撮るときに写真を整形する必要がないのかもしれない。
駅から5分ほど南下したあたりで、ふと、わたしの体が花を摘みたい状況にあることに気づいた。もともとわたしは花を摘むことがさほど嫌いでもなく、純粋に花を摘みたいときだけ花を摘むというより、気分転換として花を摘んでいたりもしてきた。花を摘みたいという気持ちが頂点に達してから花を摘むようにすると、本当に花を摘みたいと思ったときに即座に花を摘む場所に行けないかもしれないという強迫観念もある。ただ、いまの状況について考えると、「花を摘みたい」という気持ちは、その強さが頂点に達するはるか前に感じられる気持ちにすぎず、1時間以内に花を摘むことが望ましいが、いますぐ花を摘まないと悲劇が訪れるという気持ちではないと誤認したのである。そして、わたしの目の前に緑道の入り口が現れた。石碑に、「この付近は細長い沢で……」などと書かれていて、ポジティブに解釈すると、わたしが好きないわゆるひとつの暗渠のようにも読めなくもない。元暗渠・現緑道の果てはどうなっているのか。突然川が登場し、蟹がひしめき、アオサギがそれをつつく……という地味な桃源郷のような世界があるのかもしれない。好奇心が、花を摘みたい気持ちに勝ってしまい、緑道を進むことにしたのである。
 

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緑道を歩く人はいなかった。わたしは椎の木に絡まるみすぼらしい葛や、その葛をよすがにして羽化したセミの抜け殻を見ながら、セミの多くは抜け殻だけが残って自らの死骸は先に形を失ってしまうんだろうな、などと思いながら、ゆっくりと道を下った。そのときも、花を摘みたいという気持ちは徐々にリアリティを増してきたのだが、その増加は無視できるほどのカーブで、遠くから見たらただの直線にすぎず、ここで引きかえすのはタイミングが悪すぎると思い、さらに下ってしまったのだった。
 
花を摘むことより優先した緑道の終わりは、期待とは裏腹に管理社会を思わせるたたずまいであり、自然と意識が花を摘むことにフォーカスされてきた。

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緑道の終わりには上りの階段があり、もしかしたら登った先に別の楽園があるかもしれないと思ったのだが、10段ほどの階段をのぼると交差点があった。

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そこで引き返して駅に戻り、花を摘めばよかったのだが、緑道を越えた先に楽園がなくて焦ったわたしを、交差点の青信号がせっかくだから渡れと誘ってきた。渡った先に何もないことはわかっていたのだが、せっかくの青信号だからと渡ってしまったのだった。その先は上り坂になっていて、一歩前に進むごとに、等比級数的に花を摘みたいという気持ちが高まってきた。わたしの見立てだと、その気持ちはゆっくりと下りのカーブを描くはずだった。グラフにするとこのような違いがある。
 

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 落ちついて考えてみよう。わたしはいま、おそらく昔は谷底となっていたところに立っている。そして、公的に花を摘む場所であると認められている場所は高台にあたる駅付近にあり、どのようなルートを経ようと、何らかの坂をのぼることは避けられない。
実際のところ、上り坂をのぼるにつれて花を摘みたくなる気持ちが強まる傾向があるのかについては寡聞にして知らない。もしそれが真実なら、エベレストに登山するときの準備のほとんどが花を摘みたいと思わないようにするための準備になってしまうだろうし、そんな話は聞いたことがないので、一概に「登ると花を摘みたくなる」とは言えないはずである。ただ、一般論として「登ると必ず花を摘みたくなる」が「偽」だったとしても、わたしのいまの、「花を摘みたい」という切実な気持ちは変わらず、何の慰めにもならない。これが厳然たる事実である。花が摘みたい。とても摘みたい。ぜひ摘みたい。可及的すみやかに摘みたい。
 
―ここまで気持ちが高まって、やっとわたしはそれまで来た道をそのまま引きかえす決断をした。花を摘みたいとはいえ、あと10分程度ならがまんできそうで、ここで駅からさらに遠ざかり、公園、しかも花が摘める公園を探すような賭けをするべきではないと思った。わたしはいつも人生の岐路において、それなりに苦労するが確実にリターンが得られる道を選んできた。参考書でも「速習」などのタイトルがついたものではなく、「詳解」などのタイトルを好んだ。職業も、華やかではないが確実に暮らしていける道を選んだつもりだ。このたびの進路選択についても、手堅くそのまま引き返すのが、わたしらしい生き方である。わたしは花を摘みたいという気持ちが軽減される方法を探りながら引きかえした。
 
まず試したのは、ベルトを緩めることで、ひとつ緩めると、花が摘みたい気持ちが有意に減った。しかしそれは、「いままで感じてきた花を摘みたいという気持ちは、ベルトを強く締めすぎたことなどの外的要因による一時的な感覚にすぎないのかもしれない」という淡い期待を打ち砕きもしたのである。いまさらながら、実際に花を摘まないことには、花を摘みたいという気持ちから逃れることはできないことがわかった。
そして次に試したのは、花を茂みの奥に戻すことである。もちろん、いまわたしが摘もうとしている花は茂みからは一歩も外に出ていないが、茂みのすぐそばにあると、いつ茂みから出てくるかわからない。茂みの奥に戻すのはそれなりに体力を要するのだが、茂みの奥に置けば置くほど、花を摘みたいという気持ちもなくなる。いままでの人生でわずか数回ではあるが、実際に茂みの奥に置こうと努力した結果、茂みの遥か奥のおそらく沼地のようなところに置くことに成功し、花を摘みたいという気持ちが完全に消えたことがあった。それは花を摘みたいという気持ちがいまほど切実ではなかったからこそできたことであることは理解していたものの、ある程度の支援にはなるはずである。ただし、茂みの奥に戻そうと熱中するあまり、花を摘むべき場所への到着が遅れることはあっては元も子もない。
 
わたしは内股気味に早足で坂をのぼり、ショッピングセンターに辿り着いた。ただし、そのショッピングセンターは「センター」と呼んでよいほど中央集権化がなされてはいない自由なセンターで、センターの事務局が、センターの付属設備として花を摘める場所を置いているかどうか、かなり疑わしかった。
センターの脇に思わせぶりな階段があった。中央集権化がなされているセンターであれば、階段を下りた先に、真夏でも暗くて冷たい、不思議な安堵感のある場所で花を摘むことができるかもしれない。しかし、そうだったとしても、中途半端な権力集中の結果、花を摘む場所はなんとか設置できたものの、いつしか花を摘むための用具を補充できなくなってしまった、という事例は事欠かない。わたしはいま、花を摘むための用具はまったく用意していない。そのような生活態度はいかがなものかと思ったたが、そんなことは花を摘んだあとにゆっくり自省すればよいことだ。今考えるべきは、花を摘むことであり、花を摘みたいという気持ちもそろそろ限界に達していた。
 
このショッピングセンターから信号を渡ると、大規模かつ比較的モダンな3階建てくらいのスーパーがあるので、そこで花を摘むことに賭け、ショッピングセンターで花を摘むことは諦めることにした。そのスーパーが花を摘む施設を備えていることは確実なのだが、入館するやいなや花が摘めるかどうかは疑問であった。このような建物では、1階に男性用の花を摘む場所が確実にあるとはいえない。わたしの経験からすると、2階以上の商業施設の場合、1階にあるのは女性用のみで、2階は女性用・男性用、3階は女性用のみで、男性向けの花を摘む場所は偶数階のみであることが多い。可及的速やかに花を摘みたいと思っているわたしに、エスカレーターを探して2階に行き、花を摘む場所を探し、大きな花を摘む場所がすべて埋まっていたら待つことになり、その間に花を摘みたいという気持ちが限界に達してしまう可能性もなくはない。ただ、このスーパーに花を摘む場所があることは確実であり、このあと、確実に花を摘める場所を探して歩きまわるよりも、確実に花を摘める場所で花を摘むための手続きに時間をかける方が得策であると考え、スーパーに足を踏み入れた。
 
スーパーに入るやいなや、わたしは恐ろしいほど低温の冷気に包まれ、花を摘みたいという気持ちは急激に高まった。花を摘みたくなってからずっと―といっても15分ほどだが―炎天下を内股で歩いていたわたしは、花を摘みたいという気持ちと気温の相関関係について、まったくの無関心でいたということに気づいた。
スーパーに入る前のわたしが、花を摘む100秒前だったとしよう。それは内股で歩いたり、花をを茂みの奥に置くために力を込めるなどの不断の努力により、少しずつ稼いできた、なけなしの100秒だったのだが、冷気に包まれたらその100秒は、たちまち30秒ほどになってしまったのである。これで花を摘む場所が2階にあったら、花を摘むべき場所でないところで花を摘んでしまうことになる。
 しかしわたしは運がよく、わたしは1階に男性用の花を摘む場所がある旨の表示をすぐに見つけた。途中でその表示がうやむやにされないよう、天井をなるべく広く見るようにして、花を摘む場所に最短距離で歩き、男性用の花を摘む場所の入口に辿りついた。その場所は狭くはなく、それなりの人数で花を摘めそうに見えたが、わたしいままでの経験から、花を摘む直前に起きる混乱についてよく知っていた。
 
花を摘みたいという気持ちは、摘むまでの時間に概ね換算できるといってよいが、そこでいくら時間を稼いでいたとしても、「今すぐに花が摘める」と気が緩んだ瞬間、残り時間とほとんど関係なく、体が勝手に花を摘む動きをとりはじめることはご存知のとおりである。現代の日本において、「気の緩みによって犯罪を起こしてしまった」という供述をよく聞くけれども、精神主義的にすぎると思う。犯罪の原因は、悪意であり、その悪意を漏らしてしまう精神的物理的構造により、犯罪が起きる。しかし、少なくとも、花を摘みたいという気持ちを我慢する行為において「気の緩み」は確実に存在する。まもなく花が摘めると思った瞬間、花を摘むべき場所の直前の花を摘むべき場所でないところで花を摘んでしまうという事案で、わたしも過去何度もその危機に見舞われていた。そこでわたしが学習したのは、気が緩まないよう、「まだわたしは花を摘むべき場所からは遠くにいる」という嘘を自分の体に信じこませることであり、花を摘むべき場所に来るまでは、花を茂みの少しでも奥に置こうとする努力を続けなくてはならない。それどころか、花を摘むという行為と花を茂みの奥に置こうとする努力を同時にするくらいの気持ちでないと、適切な場所で花を摘むことはままならないのである。
 
その端を摘む場所には花を摘むための部屋が2か所あり、両方ともすぐ摘める状態だった。わたしは手前にある方に入り、花を摘むことにした。花を摘みながら、いま花を摘める場所が2か所も空いていたら、運を無駄遣いしてしまい、次に大きな花を摘みたくなったとき、空きがないという状態になりはしないか、などと思ったりした。
 
 花を摘みおえて、ふだん自分が日常的にしている花を摘むという行為は、実はこんなに爽快なものだったのか、と驚いた。温度が2度ほど下がったように思えるし、視界が開けたように感じられる。せかせかと歩く人たちに、もっとゆっくり生きていきましょうやと、アドバイスしたい気持ちになった。
 
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わたしは花を摘みたくなった話をこのように落ち着いて、まったく花を摘みたいとは思わない状態で書いているが、たとえば道端などで花を摘んでしまった場合、どこにも書くことはできなかっただろうし、恥ずかしくて新百合ヶ丘駅近辺に行くことができなくなってしまったことだろう。新宿から江の島や鎌倉に行こうとすると、かならず新百合ヶ丘を通過してしまうので、そんな要地が鬼門になってしまうなら、いっそのこと千葉にでも引っ越しすべきだと思う。そして千葉で、「しかるべき場所で花を摘む」ということだけを心掛けてつつましやかに暮らすのである。なんなら腕に刺青を彫ってもよいのかもしれない。

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今回は首尾よく花を摘むことができたのであるが、これから外出する際には、突然花が摘みたくならないよう注意が必要であるし、この文を最後まで読んでくださったあなたも、このわたしの体験を他山の石としていただきたいと願っている。
 
 

みんなのごはん ココロ社記事のまとめ

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19年6月末で更新終了となった『ぐるなび みんなのごはん』、わたしも連載を持たせていただいたのだけれど、残念ながら更新が終了してしまったので、自薦記事を選んでおきたいと思う。
 
以前より、「『ぐるなび みんなのごはん』から原稿依頼来ないかな~」と思っていたので、17年の冬、原稿の依頼をいただいたとき、思わず「お待ちしておりました!」とお返事し、ノリノリで有楽町の本社に伺ったのだった。
ぼくだけではないとは思うけれど、ごはんを食べるとき、インターネットの評判や点数を気にして食べることが多い。評判のよい店で残念な気持ちになることはあまりないので、手堅く食べるならよいことだろうと思う。
とはいえ、評判の集積や点数に還元されない魅力をもつ店や食べ方も確固として存在し、自分が感じた自分の脳内でスクープになるような体験について語りたい思っていて、そのメディアとして『ぐるなび みんなのごはん』『ぐるなびWEBマガジン』は最高だと思ったのだ。
月1本書ければいいなと思っていたのだけれど、店を選ぶのに思いのほか手間がかかり、合計で20本も書けていなかったのだけれども、がんばってもっとたくさん書けばよかったと少し後悔している。
 
 

「群馬=魚がおいしい」ことを知ったお店

一番気に入っているのは小林屋で、このお店で、「群馬=魚がおいしい」という知見を得ることができた。この店も、単にスコアや評判を概観した限りでは、「評判のよい店」なのだけれども、神社の参道の中にあり、黒船が来る前から営業していて、オンリーワンの価値がある店である。なかでも、なまずの天ぷらがおいしくて、「うなぎなしでもそんなに困らないかも」と思える。
 
 

荒木町の坂を超解釈しながら歩き回る

また、街をテーマにした原稿依頼を『ぐるなびWEBマガジン』からいくつかいただいた(いまは『みんなのごはん』に統合)。
 
歴史的地理的な情報を参照しながらの街歩きも好きなのだが、背景があろうがなかろうが、イマジネーションを膨らませて歩くのが好きなので、それを素直にテキストに落とした。もしかしたら、歴史的地理的情報を厚くした方がもっと多くの人に読まれたのかもしれないが、これでも多くの人に読んでいただけてありがたかった。書いてある内容についてはブログと同じトーンだけれども、このブログで発表していたら、ここまで読んでもらえなかっただろう。
 
 

アルコールシティをノンアルコールで徘徊する

赤羽については、「赤羽=飲み屋」のイメージが強かったので、ノンアルコールで巡る赤羽という切り口で街歩きができないかと思い、喫茶店に行ってみたり川沿いに向かってみたりしたのだが、その結果、東京の治水について学ぶこととなり、とても満足した。原稿依頼をいただいたことをきっかけに、街をほりさげて見ることになってよかったと思う。
 
 

最高のレジャー=ひとりフレンチ説

この記事を書いてから、ほかにもひとりフレンチをしたいと思っているが、下戸なので間が持たないこともあり、あまり開拓できていない。
このお店はコースの内容がほぼ決まっていることもあり、すごいスピードで次々出てくる。前菜とメインの間にぼんやり待ったりするようなことにはならないので、ひとりフレンチを始める店として最適と思う。
 
 

当たり前すぎて行かない店にあえて行ってみると楽しかった

語られつくされたと思われる店の記事も書きたいと思って提案してみたら、すんなりと通った。
昭和期に創業したお店は、すでにクラッシックとして行ってみると楽しいお店になっている。ほかにも、いま行ってみるとブームの時とは違った魅力が感じられる店を探してみたい。
 
全記事についてはこちら。
 
 
 
店に行くたびに勝手にいろいろ学んで帰ってくるのだが、このペースなら、飽きがくるのかもしれないと不安になったりもするのだけれど、思いつく限りは、このへんで記事を書いていきたいと思っている。個人として書く以上、点数や投票に還元されないよさを主観的に伝えていきたいと思うので、おつきあいいただければ幸甚です。
 
 
 
ブログは週1回くらい(を目指している)のですが、Twitterは毎日何か書いているのでよければフォローしてみてください。
 

家系ラーメンをたしかめた話

家系ラーメンのマインドシェアが低いという個人的問題

家系ラーメンのわたしのマインド中のシェアが低いことが、常々わたしの中で問題視されてきたのだが、その理由はふたつあった。
 
そもそも、立ち位置が定まっていないように見える。脂ぎっていることがアイデンティティなのかしらと思うが、そうでもなさそうである。わたし自身、脂ぎったものを食べたいと思ったときにはラーメン二郎→なければラーメン二郎にインスパイアされた店→なければ家系ラーメンという行動を取る。海苔やほうれん草がのっていることで、コンセプトのいっそうのゆらぎが感じとれ、和風にしたいの、それとも健康的なラーメンということにしたいの、などと、物言わぬ家系ラーメンに語りかけたくなってしまうのである。
しかも、世間では、家系ラーメンが、脂ぎった食事の代表のように扱われている点に違和感を覚え、わたしの心はますます家系ラーメンから離れていった。「ダイエット中だから家系ラーメンはがまんします」という発言があちこちで見られるが、それは「(ラーメン二郎や天下一品はくどいので、ダイエット中かどうかの如何を問わず食べることはないが)ダイエット中だから家系ラーメンはがまんします」という意味なのだろうか、と勘繰ってしまう始末である。
 
また、店の名乗りにも問題があると思っていた。横浜家系ラーメンの店は、発祥であるところの「吉村家」と特に関係がなくても「家系」と名乗っている店が多くある。その現象は、ラーメン二郎と比較してみると異常さが際立つ。客が「この店は二郎系だね」と言うことはあっても、店が自分から「二郎系の店です」と名乗ることはない。「郎郎郎」と書いて「サブロウ」と読ませるのがせいぜいである。商標権の侵害の問題を持ちだすまでもなく、普通は系列を名乗ったりはしないものだろう。さらに、名乗るのがよりによって「家」で、わたしだけでなく、個人主義者であるはずの弊ブログの読者のみなさまもまた、ラーメンという個人の食べ物にファミリーを持ち出す精神性に違和感を覚えているに違いない。むしろここでみなさまの気持ちを代弁しているくらいの気持ちで書いている。
 
―とはいえ、首都圏において、中途半端な場所で中途半端な時間に脂分の濃いものを食したいと思ったとき、筆で描いた「横浜家系」という文字列が輝いて見えて、消極的な選択の結果としてそこで腹を満たしてしまうこともある。
 

やはり本家を訪ねるしかないと決意する

「家系」と称したさまざまなお店に、再訪はしないにしても合計十回は立ち寄り、本物を知らないまま「家系」のキャリアを積み、「家系=おいしくもまずくもないラーメン」と定義し、上京したころに持っていた「横浜=おしゃれcity」のイメージも、すっかり「横浜=脂・海苔・ほうれん草city」の印象に塗り替えられてしまったのだったが、それはいくらなんでも吉村家や横浜に失礼ではないか……と思い、「吉村家 待ち時間」などと検索して、「行列を見て想像したよりは並ばない」との解に勇気をもらって、横浜まで行ってきた。
 
着いたのは日曜の14時である。ノーマルな人間は昼食を終え、ジャム入りの紅茶でも飲んでいる時間である。しかし吉村家のゲストにはティータイムなどという概念は存在しない。先に券を買うのがルールと聞いたので、事前の調査に基づいてチャーシュー麺のチケットを購入。ホープ軒と同じくプラスチックのチケットだった。
 
わたしは非常に親切なので、戸惑ういちげんさんに、「列の最後尾はこちらです、券を買って並びます」と何度か説明した。この獅子奮迅の活躍するわたしが案内されている人々と同じくいちげんさんであるとは、誰も気づかなかったはずである。
 

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しばらく、炎上中のサイトなどを見て過ごす。40分程度並んだらチケットの提示を求められ、ほどなくして着席することができた。
 
着席したら5分程度でチャーシュー麺がやってきた。

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まず、家系ラーメンというか家ラーメンの本体もまた、ほかのラーメンと同様スープであると考え、スープからいただいた。
いままでいただいてきた家系ラーメンのスープをハイレベルにした味で、これまで「横浜家系」で味わってきたスープから、家系ラーメンのスープのイデアのような存在を空想していたのだけれど、まさにその味だった。
写真の奥に各種の薬味が用意されているのが写っているが、思い描いていた家系のイメージと異なる。麺の硬さなどは指定できても、味そのものの印象が大きく変わるようなしょうがやごまが置いてあるのは意外だった。もっと唯我独尊な感じをイメージしていたのだが、客の好みに合わせてくれるようだ。
 
続いて麺をいただいたが、ふつうだと感じた。しかしこれを「ふつう」と感じられるのは、吉村家が苦闘のすえ作りあげてきた「ふつう」である。労働において交通費が会社支給が「ふつう」なのと同じ「ふつう」であって、意識することはあまりないが、大変ありがたい「ふつう」なのである。先日行った家系ラーメンの店に、麺は吉村家と同じ製麺所のものを使っている店があり、その店と同じ味だったが、スープとの関係性において、麺の魅力が最大限に引き出されているように思った。
 

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ここまでの体験であれば、「さすが吉村家のラーメンはおいしいなぁ」という感想のみだったのだが、驚いたのはあまり期待していなかったチャーシューである。これに度肝を抜かれた。いままで食べてきたチャーシューのどれよりもジューシーであり、しかも、すみずみから微かにスモーキーな香りがする。たしかにスープもまろやかで素晴らしいと思ったのだが、あくまでも想像の範疇ではあったのだけれど、このチャーシュー、単体で3000円分くらい食べてみたい。いきなりチャーシューしたい。イベリコ豚のホニャララみたいなのも足元にも及ばない味で、チャーシューを口にしたとたん、チャーシュー麺が、チャーシューwithスープに見えてきたのである。
 
なお、海苔とほうれんそうは、箸休めとして利用するもので、それ単体としての味のよさを求めるものではなないと理解した。
 

心の相互ブロック 

わたしの隣にいた夫婦と思しき中年男女のペアのうち、女性が、一口食べて「なるほどね~」と冷めた調子で言った。まず、40分並ぶほどの情熱がありながら、ラーメンを食べるのではなく評論しにきた的なスタンスを取るところが気に入らない。夫が、「いっしょに吉村家に行かなければ抗議の意味でソープに行くから!」などと脅迫して、渋々ついてきたという事情があったのかもしれないし、もしそうだったとしても吉村家の如何を問わず夫は別途ソープに行くだろうと予測されるが、そこで、「おいしい、並んだ甲斐があったね」などのコメントはできなかったのだろうか。もし、何がしかの納得が得られた結果「なるほどね~」と発音するに至ったとしても、「納得のおいしさだよね」などと言ってほしかったのだが、なるほどねオバサンもまた、わたしのように無言で並んで目を潤ませながら無言で食べるオッサンのことは嫌いだろうし、つまり心の相互ブロックのようなものである。
 

チャーシューを求める旅が始まった

家系ラーメンをたしかめることによって「本物の家系ラーメンはチャーシューが抜群においしい」という偏った知見を得たわたしは、「ラーメンの本体はチャーシュー」というイデオロギーにひとりでに染まり、わたしのチャーシューを求める旅が始まったのである。
 
翌日に新宿の「満来」に行ってきた。
 

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吉村家とは全く異なる路線だが、チャーシューのボリューム感と柔らかさが最高。ラーメン二郎の豚肉を限りなく高級化したらこうなるという味だった。
 

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また行きたいと思っているし、わたしのチャーシューの旅は果てしなく続くに違いない。
 
最後まで読んでくださったみなさまにおかれましても、気になる食べ物があったら、その源流をたしかめてみるといいと思う。想像以上の新たな発見があるはずである。
 
 

百舌鳥・古市古墳群、ガッカリ名所どころか、脳から汁が出るくらい楽しい

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トップの写真からして茶色くて地味なのに、よくぞ弊ブログにお越しくださいました。広告を入れていないことが唯一のウリの弊ブログですが、ゆっくりしていってください……。
 
百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されたということで大変めでたいのだが、世界最大の古墳の世界遺産登録が、たとえば石見銀山よりも後に登録されるのは順番がおかしいのではないかと思った人も少なくないだろう。石見銀山はそれ自体観光地としては最高で、世界遺産に登録されていることそれ自体には何の疑問も抱いてはいないが、古代につくられた世界最大の古墳の方が今になって登録されたことに、わたしもあまり納得できてはいない。当然ながら、ピラミッドは世界遺産がはじまってすぐに登録されている。しかしあれは、大仙陵古墳よりも小さい古墳である……。
 
……などと、何も知らぬかのように装ってみたのだが、百舌鳥古市古墳群の登録が遅かった原因について、実際はなんとなく納得している。それは大仙陵古墳が、古墳の高さではなく、長さで勝負して「最大」と称しているからである。その違和感は女性のバストを例にして考えてみると、一瞬のうちに理解できる。高さではなく、直径でバストを表現されたらどう思うだろうか?グラビアに「Fカップの誘惑」ではなく、「直径20センチメートルの誘惑」などと書いてあったら……(注:わたくし個人は「バストのサイズは女性の魅力のうちごくわずかしか占めていない」という立場である)
 
少なくともピラミッドの雄大さというのは、高さに起因するところが大きいので、その点で勝っていなかったらどうにも消化不良であり、世界遺産振興組合の人も、世界遺産決定会議で、「直径20センチメートルの誘惑とか言われても微妙だよね、もちろんバストのサイズは女性自身の魅力のうちごくわずかしか占めていないという立場だけど……」などと議論していたに違いないのである。
 
前置きが長くなって申し訳ない。検索でこのページに来た方におかれましては、食べログで店のレビューを見ようと思ったら冒頭がレビュアーのポエムだったときと同等の「知らんがな」感が醸成されてしまったと思うのだが、そこは、書き手の承認欲求を満たすことと引き換えに情報が得られるのだとご理解いただければ大変ありがたい。
 
この春に丸一日かけて巡ってきた古墳を順に紹介しようと思うが、おそらく一日で百舌鳥・古市古墳群を満喫するなら、この組み合わせがベストではないかと自負している。古墳の特徴と、なぜその古墳を、この順番で見る必要があるのかについての簡単なまとめをしておく。
 
 
盾塚古墳公園…ごく小さな古墳だが、いきなり大きな古墳を見ると感動しすぎて呼吸困難に陥ってしまうため、雑な扱いを受けている古墳から見始めるべきだから
 
古室山古墳…全長150メートルの前方後円墳で、トップ10にはるかに及ばない大きさだが、このあと見る古墳は宮内庁の管理下にあり、墓の中に入ることができず、ここで前方後円墳の様子を全身で体感しておく必要があるから
 
応神天皇陵…全国2位の長さであり、2位である感動と1位に届かない残念な気持ちを同時に味わうため
 
白鳥稜古墳…ナニワの内田裕也みたいな翁におすすめの古墳を聞いたら「ヤマトタケルの墓があるで」と勧められたので
 
履中天皇陵…全国3位の長さであり、大仙陵古墳を見る前に一度クールダウンしておくため
 
七観山古墳…小規模ながら、当時の墳丘のたたずまいが確認できるため
 
大仙陵古墳…大仙陵古墳を見るべき理由なんて言わせないで……。
 
昨年、岡山・総社市の古墳群についての記事を書いたが、合わせて行くと、日本の古墳の1位~4位までを見たことになり、かつ総社の造山古墳は立ち入れる墓の中でおそらく世界最大でもあり、「古墳に詳しい」と胸を張って言える(かもしれないので)、百舌鳥・古市古墳群をご覧になった方におかれましては、総社市にも行かれることを強くおすすめする。
 
今回の行程を地図にしてみたので参考にしたり苦笑したりしてほしい。
百舌鳥ゾーンと古市ゾーンで距離があるのだが、2日に分けてしまうと自分自身に引いてしまう可能性があるので、中のプランを多少間引きしてでも1日におさめるべき……というのがわたしの見解である。

(1)盾塚古墳公園 (2)古室山古墳 (3)応神天皇稜 (4)白鳥陵古墳 (5)履中天皇陵 (6)七観山古墳 (7)平和塔 (8)堺市博物館 (9)大仙陵古墳
 
今回の旅のはじまりは、道明寺駅からはじめる。道明寺といえばピンク色のおいしいアレを想起するが、わたしはあれが大好きなので、また別の回で扱いたいと思う。今回は古墳の話に集中したい。
 
 

古墳の旅は、公園なのか古墳なのか、よくわからないところから始めたい

古墳というと、立入禁止になっていて、鳥居があって、奥はうっそうと茂っていて……というイメージがあるかもしれないし、これから巡回する古墳たちは日本屈指の古墳だから、まさにそのイメージ通りなのだが、この盾塚古墳は、小ぶりの円墳で、古墳のうえで遊ぼうと思えば遊べる公園になっている。

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しかし、どんなに飼いならされても古墳は古墳。なだらかな丘になっていて、サッカーや野球などをするには難しい。かといって、お弁当を食べるような見晴らしのよさでもないし、公園を偽装するのは難しいようだ。

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このサイズ感を記憶して大仙陵古墳に臨めば「スイカに塩をかけるとより甘さが際立つ」のと同じ効果が得られるに違いない。
 

小室山古墳は、立ち入り可能な古墳として近辺で最大なので立ち入り必須

続いて全長150メートルという、トップクラスではないものの、近辺で立ち入れる古墳の中で最大級の古墳に行きあたった。

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墳丘からの眺めは立入禁止の天皇陵では絶対に味わえないので、この後円部から登って外界を見下ろし、為政者の気分を存分に味わいたい。休日でもほとんど人がいないのでゆっくりしようと思えば好きなだけゆっくりできる。その後、赤面山古墳・大鳥塚古墳・誉田丸山古墳を経由して(というか、最短距離を歩くと古墳の連続になってしまう)応神天皇陵の前方部の遥拝所に達する。
 
 

旅の前半で、全国2位の応神天皇陵を体感できる喜びよ……

応神天皇陵は、いままで見てきた古墳と異なり、天皇陵なので宮内庁の管轄になる。

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拝礼所までの道も整備されており、植えこみたちもかつての高校球児を思わせる。(最近見ていないので今の高校球児がどうだか知らない)
 

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どの天皇陵も鳥居がいつも美しいと思っていたのだが、この鳥居をよく見たら、鳥が止まらないように鉄線が張ってあった。鳥居と言いながら鳥が留まれないのはなぜ……階段の踊り場で踊っていないのと同じ原理なのかもしれない。

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鳥居ができたのは実は近代からではないかと睨んでいたのだが、そのへんの疑惑を晴らすべくパネルが用意されていた。

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遅くとも室町時代には鳥居が設置されていたようである。たしかに、武家が活躍していた時期も、征夷大将軍の称号は天皇の勅令によって与えられるものだから、ないがしろにするわけにはいかなかったのだろう。
ほんとうに絵通りだったとると、草木はまめに刈っていたということになり、いまもそうすれば、より天皇陵としての存在感が際立つと思う。
 
 
 

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休んでもいいけれど座ってはいけない的な謎の高さのベンチ。
 

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外堀には花や作物が植えられていて楽しい気分になる。
 
写真を撮りまくっていたら、ナニワの内田裕也と呼ばれている確率99%の翁が現れ、「何撮ってますのん?」と聞いてきた。不審者と思われているのかな、たしかに不審であることは認めるけれども、少なくてもあんたよりは不審度は低いはずでっせ……と思ったのだが、「もちろん古墳ですよ」と答え、それだけだと楽しくないので、「このあたりでおすすめの古墳あります?」と聞いたら、少し間を置いて、「あっちにヤマトタケルの墓があるよ」と教えてくれたのである。もともと予定に入れていなかったのだが、ヤマトタケルの墓を見ないで帰るわけにはいかんやろというのは、わたしと彼との共通認識であったのだが、「どうやっていったら近いですかね~?」とノリノリで聞いたら、「うーん……わからへん」と言ったので、まあ地元の人だからといって詳しいわけではないよねと思い、Map界の立花隆ことGoogle Mapで調べてそのまま徒歩にて向かった。
 

ナニワの内田裕也のイチ推し、白鳥稜古墳

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ヤマトタケルの墓とされる白鳥稜古墳だが、5~6世紀の墓なので、ヤマトタケルの没年とまったく合わないところが最高にチャーミングである。白鳥となったヤマトタケルがこの地に降りたという伝説が残っているうえに、明治政府がここがヤマトタケルの墓だと決め、羽曳野市という名前の由来にもなっていたりもするので、史実などはもはやどうでもよいという気分になってしまう。
 
 

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そして堀には白鳥になりきれないことと引き換えにお肉はおいしそうな鴨たちがくつろいでいた。
 

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宮内庁もここを「日本武尊白鳥稜」と呼んでいるが、ここがヤマトタケルの墓であると信じるには神武天皇陵が神武天皇の墓であることを信じるのと同程度のイマジネーションが必要。
 

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なお、拝礼所の両脇は民家で固められていてエキサイティングである。
 
 
そして、本丸であるところの仁徳天皇陵に行くため、近鉄南大阪線で一旦天王寺まで戻ってから堺へ向かう。最寄り駅は三国ヶ丘駅だが、上野芝で降りるのがポイントである。なぜなら、日本第3位であり、世界第3位でもある履中天皇陵古墳もついでに見ておきたいからである。
 

巨大なのに影が薄い、悲運の古墳……それは履中天皇陵古墳

日本第3位であるはずの履中天皇陵、観光客はかなり少ない。やはり日本第1位であり、世界第1位であるところの大仙陵古墳に近すぎるのでインパクトが感じられないのだろう。もし履中天皇陵が神奈川県秦野市や千葉県茂原市にあったとしたら、どれだけ賑わったことだろう。そして履中天皇陵は大仙陵古墳よりもあとにできたのだが、自分の墓が「単体で見たら大きいはずなのに大仙陵古墳のそばにあるせいで微妙……」みたいな評価になることくらいわかっていただろうに、なぜこんな近くに……などと思いながら前方部へと向かう。
 

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鳥居までの参道は整備されていて、微妙などと思ってしまったことを申し訳なく思う。

 
なお、鳥居はリニューアルされたようである。

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上のツルツル感のあるところだけで鳥が来ないようにできるのかは謎である。
 

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そして、堀の端から見ると、古墳の大きさがよくわかる。巨大古墳で、地面からの景色を撮ろうと思ったらここに勝る場所はないと思う。大仙陵古墳はここまで見晴らしがよいわけではないので、ここで記憶に焼きつけておきたい。
 
 
小規模ながら当時の墳丘の様子がわかる七観山古墳も外せない
 
また、近くに、復元された七観山古墳がそばにあるので、ぜひ登っておきたい。

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メカニックなあしらいに見えるかもしれないけれども、大仙陵古墳も、今の草木が茂っている状態ではなく、葺石がびっしり敷きつめてあったはずで、往時のインパクトは絶大だっただろう。
 

平和の塔の登れなさがせつない

そして百舌鳥・古市古墳群の最終章である大仙陵古墳に向かうのだが、気になる塔を発見。

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給水塔かなと思って近づいてみると平和の塔だった。

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同じ平和祈念の塔でも近くのPLのタワーとはまったく設計思想が異なる。

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窓状のものがついているが、中には入れない。もともと塔とはそういうものであり、仮に塔の中に入れたらより世界平和実現への意志が固まるかというと、そんなことはないから、これでいいのだと思う。

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扉のそっけなさが好きである。
 

大仙陵古墳の前にイマジネーション蓄積用の博物館がある

古墳の前には堺市博物館があって、この古墳群の何たるかを学ぶことができる。三国ヶ丘駅から歩くと、古墳を見てから博物館を見ることになるのだが、映画でいうとネタバレであるから、「博物館→大仙陵古墳」のルートをおすすめする。
 

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堺市職員の手にかかればピラミッドや始皇帝陵は透明な存在にすぎない。
 

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大仙陵古墳の石棺のレプリカが展示してある。
この姿を記憶に焼きつけてあとで遥拝所に向かおう。
 
ほかにも副葬品などの展示があり、緑のモサモサ~ッとした中にこれらがあったんだと想像することで緑のモサモサ~ッの見え方が大きく異なってくるはずであるし、知識のないまま緑のモサモサ~ッツを見ても「生えてるな」としか思えないのでご注意いただきたい。
 
古墳のイマージュで脳内を完全に満たされていて頭がお留守になっていたが、よく考えてみてれば堺といえば鉄砲。

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そして、この最大規模の火縄銃、飛距離が1.6kmと驚きである。戦国時代から地道にこの銃を作っていたら太平洋戦争で米英に一矢報いることができたかもしれない……などという無駄な想像をしてしまったが、戦艦大和の主砲の飛距離が40km超で、結局沈んでしまったことを考えると、むしろこの思想の延長線上で考えていたからよくなかったのかもしれない。

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細部が余すところなくヤンキーで、その歴史の厚さに感動する。
 

大仙陵古墳は、墓というよりひとつの街である

わたしが小学生のときは「仁徳天皇陵」と呼ばれていたが、中学生のときにはすでに「大仙古墳」で習っていた。その背景には、天皇陵なのかどうのなのかという迷いがあるのかもしれないが、だとしたら本当の仁徳天皇の墓はどこにあるのだろう。仁徳天皇が死に際に「狭いところの方が落ち着くかも」などと口走り、忖度まつりのあと、当初予定の大規模な前方後円墳ではなく、手足を折って小型の甕棺墓などに入れてしまったという可能性はないだろうか……そんなことは絶対ないだろうけれども、誰かの墓であり、それが世界で一番の面積であることは真実である。
 
さすがに遥拝所のスケールは他の古墳をはるかにしのぐ。

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そして(いるかどうか知らないが)仁徳天皇の存在が遠く感じられる。

外周は約3kmで、前方部の端から見ると先が霞んで見える。

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堀への立ち入りは禁止されているが、絶対に立ち入ってほしくないという気持ちがフェンスを水面に突っこませたのであった。

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柵のあしらいにも歴史が感じられて楽しい。

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堀から流れる水は樋の谷から土居川へと流れる。いまはすぐ暗渠になるのだけれど、水遊びができるようになっている。古墳とか水遊びとか忙しいねぇ……。

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いまでもここから30分歩けば大阪湾にたどり着くけれど、古代なら海沿いといってよいほど海に近い。舟で堺を訪れた諸国の人々は、巨大建造物を目の当たりにしてさぞかし驚いたに違いない。
 
大阪女子大の大仙キャンパスが2007年までここにあった。

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大阪女子大自体が大阪府立大に統合されて名前は消え、昭和史の1ページとなった。
 
世界遺産といいつつ、周囲はラブホテルがあったりするところも最高である。

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車でラブホテルに入ったことはないのだが、ナンバーが見えないようにするのって江戸しぐさっぽくて素敵だと思う。でも近所の人が我慢できずに近場でキメていたら車種でバレてしまうのではないだろうか。
 
そして、三国ケ丘駅近くの歩道橋で、少し古墳を展望できはするけれども、ほんとうに少しである。

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この「ミユキ御苑」は、いわゆるひとつの連れこみ宿の跡なのだが、おそらく大仙陵古墳への道しるべになっているために本体を失っても存在することを許されていると推測される。
 

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ブラウン管の大型テレビが廃棄してるのを見ると、旅行っていいなと思う。捨てられた側としてはたまらんだろう。
 
 
「古墳にはそんなに興味があるわけではないが世界一のものには興味がある」という方なら、先述のように三国ヶ丘駅で降りて、大仙陵古墳のみを見て、ただちに大阪に戻って新世界の喫茶ドレミでホットケーキ(どうやったらあんなに香ばしく仕上がるのだろう)を食べるというのも悪くない。ゆっくり歩いて堀にいる鴨を見てフーンと思ったりするすると、およそ1時間で駅に戻ってくることができる。
 
 
 
古墳というと、上空から撮った写真が印象に残って、いざ行ってみると「ただ広いだけだな」と思ってしまいがちなのだが、それは下調べやイマジネーションが不足しているだけの話。うんざりするほどの広さであることを体感するだけでも、一生の思い出になるので、ぜひ行ってみていただきたい。わたしは「一回は体験しておきたい」と思いつつ、東京から何回も訪れている。
 
 
 
 

モリアオガエルの産卵シーンを目撃するも、男の人生を重ね合わせて絶望してしまった話

モリアオガエルの産卵について知ったのは幼稚園のころで、泡だらけの産卵シーンを自分の目で見たいけれど、それを見るには草木がボウボウに生えていたり泥が底なしに溜まっているような密林を潜り抜け、そのあとは何日も産卵のチャンスを窺って産みそうな場所でキャンプを張ったりせねばならず、きっと無理だろうと思い、その希望は、「産卵シーンが見たい」から「産卵は無理としても、せめて泡でできた卵塊が見たい」という、やや現実的な夢へとダウンサイジングされた。幼稚園児のころのプロ野球選手になりたいという夢が、大学2年あたりには一部上場企業で働きたいという夢にダウンサイジングされることと悲しいほど似ているけれども、一部上場企業で働くことが簡単ではないのと同様、卵塊を見ることもそれなりに難しい。
 
3年前の5月に東京都あきる野市をぶらぶらしていたときのことである。考えなしに武蔵五日市の駅で降りて、地図でお寺を探して、秋川を越えた山のふもとによさそうなお寺があるのを発見し、行ってみた。それが広徳寺で、本堂の佇まいはこのように素晴らしく、都内屈指の名刹といえるだろう。
 

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そして本堂の脇にある池がワイルドで、何かいるのかなと思って池のまわりをうろうろしたら、大変気になる看板を発見した。

 

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看板の指示通りお行儀よくする気マンマンなのはいうまでもなく、「モリアオガエルがいる池ですよ」と書いてあるより、「モリアオガエル等すべてを愛護」の方が、たしかに存在していることを前提にしているようで期待感が高まった。

 
翌年の梅雨の終わりごろ、もしかしたらいるかもしれないと思って行ってみたのだが、ひとつも卵塊はなかった。そもそも、モリアオガエルについての看板が古すぎるので、もう過去の話かなと思って一度は諦めた。まあモリアオガエルの卵を見なかったからといって死ぬわけでなし、そもそも絶対に死にたくないと思っているかというと、それも疑わしいほどであるから、まあいいやと思っていたのだった。
 
 
そしてさらに2年が経ち、Twitterをふと見ると(実際は「ふと見る」という頻度以上に見ているが、「ふと見る」と言いたい)、モリアオガエルが話題になっていた。前回見にいったときは梅雨の終わりごろだったのだが、そもそも季節を間違えていて、梅雨の始まりだったのかもしれない、もしかしたら、いま広徳寺に行けば卵塊くらいは見られるかもと思って行ったら、あっけなく、551の豚まんのようにぶら下がっていたのだった。551だと、たとえば京都駅などでは並ばないと買えないので、卵塊の方がよほど身近である。

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しかしその日は、こともあろうにメインのカメラに電池を入れるのを忘れていたので、ズームもできないコンパクトカメラで撮るしかなかった。卵塊だけで満足なのだが、より大きな写真を撮りたいと思い、翌日にも広徳寺に行った。
あいにくの雨で、きのう電池を忘れていなければよかったと後悔したのだが、行ってみたらきのうよりも卵塊の数が増えていたのである。
 

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白いものもあれば茶色がかったものもある。茶色がかったものは、できてから時間が経ったものかもしれないが、それは局部の色が濃い女性を経験豊富であるとイメージしてしまうのと同種の誤りで、むしろ茶色がかっていたものが白くなっていくのかもしれないし、産卵のときにより気持ちよくなった雌が茶色ががった卵塊をつくるのかもしれない。

 

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アップで見ると汁のようなものが垂れていて、舐めたら酸味と塩味の嫌なハーモニーを体験できそうで震えた。

……などと無駄な思考を巡らせながら雨に濡れたレンズを拭き拭き撮影してまわり、そろそろ帰ろうと思っていたら、視界の端においしそうな草餅のようなものが見えた。
 

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なんと……これはご本尊ではないか……まだ産んでないものの、産卵する態勢であると判断した。この状況でただのお友達ということはなかろう。
 
しかしこの写真を撮って観察を終わりにしてしまったら、この写真を見た人(あなたのことです)に「こういう感じなのに実は友達みたいなのってなんだかオシャレですてきだし、そういうことじゃないの?」と一蹴されそうな気がしたので、産卵の証拠である泡を撮ろうと意地になってしまい、本堂で雨宿りをした。
 

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30分ほどすると雨も止み、さきほどの場所に戻ってみると泡まみれになっていたのであった。

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雄の方が体が小さく、また、人間の交尾でこんなに泡立つことはない(たぶん)。それらを除いては人間のそれに似ている。人間が木に登って交尾することはないけれども(たぶん)、自分と配偶者の体重を支えるための手のたくましさが人間の腕のようで驚いた。

 

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裏から見るといっそう生命のロマンを感じさせてくれる。人間も同様に下から撮ると生命のロマンを感じさせてくれるのかもしれない。
 
 
―ひとしきり撮って満足して、今度こそ帰ろうと思って、念のため池を一周したら、池の中央にもう一組いるのを発見した。しかし、さきほどのつがいと異なり、色が黒い。カエルだから体色を変化させているのだろう。さきほどは葉が多かったので葉を擬態していたが、こちらは枝を擬態しているのかもしれない。複数の固体であっても同じ色に変色しているのが興味深い。「俺はここは葉になっておくべきと思うんだけど」「いやいや、枝じゃないの?」と見解の不一致があって別々の色であるものの身体は正直で次世代をもうけたりすることはないのだろうか。あるいは体色を含めての身体なので、体色を合わせることがセンター試験の足切りのような位置づけなのかもしれない。
 

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そして、よく見たら、もう一匹雄がいる。
 

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人類についてこのようなシーンを見たことが何度かある。男女で話しているときに、空気を読まずわりこんで話しかけてくる男。
 
そして興味本位でさらに待つと、後から来た雄が前からいた雄の肩を抱いていた。

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まるで人間のように見えるし、ここまでくると、雌と交尾したいのか、雄と交尾したいのかわからないし、本人もわからない状態になっているのではないだろうか。

わたしが、かつて大変人気のある女の人とおつきあいしていたときは、「恋人ではないが、何でも言うことを聞いてくれる都合のよい男」のような存在がいたりしたことを思い出した。そんな彼らのことを下賤だとは思わない。自分がその男のようになったりすることも十分に想定できるし、だからこそ意気消沈してしまうのである。
 
実際のモリアオガエルたちは、単純に息をすることの延長のようにこれらの動きをしているのだろう。雄同士で戦って交尾の相手をひとりに絞るのではなく、雌の産卵に合わせて一斉に精の子を放出する方法で優秀な子孫を選別し、残すのである。たしかにその方法の方がより強い子孫を残す結果にはなるだろう。雄の優秀さを競うのではなく、次の世代の素になる精の子自体の優秀さを個別に競った方がたしかに合理的ではある。
 
……と、頭では納得したものの、昆虫などと比べて人類に姿形が似ていて体色も人間寄りのモリアオガエルが肩を組んで精の子を放出しているシーンを人間に重ね合わせてしまって気分が沈んでしまったのだった。人間の場合は、交尾の瞬間に選別が行われるわけではなく、幼少のころから熱心に勉強し、仕事について高収入を得るなどの手段で、競争は間接的に行われるし、勉強は交尾の目的以外にもなされることだけれども、結局のところ同じことではないかと思ってしまったのである。ここで「交尾なんて人生の5%にすぎない」などとわたしは言えない。100%ではないにせよ、70%くらいではある。
 
自分が後からきた雄ならどんな気持ちになっただろう。そこまでして自分の遺伝子を後世に残したいとは思わないし、そうまでしないと遺伝子が引き継がれないような日々是決戦といわんばかりの厳しい「生」に、いかほどの価値があろうか、と思ってしまうに違いない。繁殖の季節が来ても、生きるべきか死ぬべきか……と思案しながら、水中で水草の根をいじくり倒しているうちに、水鳥に食べられて生涯を終えてしまいそうである。
 
性に目覚める前から見たいと思っていたモリアオガエルの産卵。見ることができて幸せだとは思ったが、いざ成人した身で目のあたりにしてみると、自分を重ね合わせてしまってつらい気持ちにもなってしまったのだった。
 
 

日本をオキュパイし続ける『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』

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『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』を聞いた事がある人は多いと思う。むしろ聞いたことがない人はどのような暮らしをしたらこの30年間聞かずに過ごしていられたのか知りたいほどである。もしかしたらハムスターに育てられたから聞いたことがないという方もいらっしゃるかもしれない。歯が生えるまではひまわりの種を何度も喉に詰まらせ生死の境をさまよったりもしたが、成長するにしたがって頬の大きさは並のハムスターの十倍以上に成長。歩くひまわりの種貯蔵庫としてハムスター銀行の頭取に就任するも、まわりのハムスターは数年で死ぬので、ハムスターが生まれるたびに種を貯蔵することの大切さを説くことから始めていた。そんな暮らしなら、音楽を聞く余裕などないだろう。

 
特殊な環境にいる人の話はともかくとして、『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』がなぜかくも空間をoccupyし続けて(≠聴き継がれて)いるのかというと、その圧倒的な無難さゆえである。たしかに、この曲が、コースが3万円のフレンチで流れていたとしても、140円のキャベツ焼き(注:関西を中心に展開されているお好み焼きの具をミニマム化したもので、関西以外ではなぜか相模原市に一店舗のみ存在する)のお店で流れていたとしても、そのことが原因で原因でお店の評価が上がることはないにせよ下がることもないだろう。たとえば同じ80年代のUKの音楽で、フランク・チキンズの『ウィー・アー・ニンジャ』が流れたらどうだろうか。いま思うに、35年前に日本人女性が"We Are Ninja (not geisha)"というタイトルで曲をリリースし、それがUKインディチャートのトップ10にランクインしていたことはエキサイティングな事件だし、今年のレコード・ストア・デイでシングルが待望の再発を果たしたりもしているが、フレンチのコースをいただきながら「あんたも忍者 私も忍者 目つぶし投げて ドロンドロン~」などというフレーズを聞きたいと万人が思うかというとそれはまったく別個の問題である。
 
最初にこの曲がリリースされたのは1988年で日本はまだ昭和で、同じ年のヒット曲は『パラダイス銀河』や『MUGO・ん…色っぽい』で、なんということかと思うかもしれないが、そのときのアメリカでのヒット曲は『ギブ・ユー・アップ』(注:原題が"Never Gonna Give You Up"で邦題が『ギブ・ユー・アップ』なので、意味が正反対である。当時わたしは日本は経済大国だが文化的に大丈夫なのかと思っていたものだが、今は経済大国でもなくなってしまったので別にいいかという気分である)なので安心してほしい。『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』は、アルバム『ナッシング・ライク・ザ・サン』の3枚めのシングルとしてリリースされUS/UKのシングルチャートでは50位以内にも入っていなかった。30年後のいまも流れている音楽であるとはとは誰も予想しなかっただろうが、店でかかるBGMがフュージョンやAORからジャズやボサノヴァへと拡大していくに従って、最適化されたカバーバージョンがつくられてきた。レゲエ版は早くも92年にShineheadがリリースしていて大阪のたこ焼き屋のBGMとして活躍していたし、ボサノヴァ化したカバーも、売れているかどうかは別として飲食店向けの需要があった。また、よりジャズ寄りにしたバージョンは挙げるのが面倒なほど多い。こうなってくると作者であるスティング先生の意図を遥かにこえて、ひとつの生き物としてBGM市場の動向に合わせて自己増殖しているようなものである。
 
しかしこの曲、少なくともオリジナル・バージョンについては、BGMにおさまる音楽ではないように聞こえる。よく言われるのが2分半からの間奏で突然暴力的なドラムが打ち鳴らされるところで、これは英国人のライフスタイルに割りこんでくるニューヨークの象徴であるし、音楽そのものも、アメリカに馴染めない(馴染まない)英国人が、自国の文化を大切にしつつ生きる歌だし、ニューヨーカーがこれを聞いたらうれしい気持ちにはならないかもしれない。児童虐待をテーマにしたスザンヌ・ヴェガの『ルカ』ほどではないにせよ、BGMとして適切とは言いがたいが、『ルカ』が一時期日本の旅番組などのセンスのよいBGMとして使われていたのと同様、マジョリティの雑な感性によって飲食店のBGMにおさめられてしまったのだった。
 
そして客であるわれわれは、『蛍の光』が閉店を意味する記号であるのと同様、『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』が、快いBGMを流すように配慮している飲食店を表す単なる記号として扱えるようになるのだが、そのタイミングを見計らったかのようにリリースされる新しい『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』のカバーバージョンを耳にし、振り出しに戻ってこの曲を記号ではなく音楽として聞くことを強いられる。それは音楽の姿を借りてわれわれの意識をオキュパイしにくる。そこで感じられる違和感は『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』の世界そのままなのであるが、それを楽しむことをわれわれは求められているのかもしれない。
 
もし下校中の児童に声をかけてもお縄を頂戴しない世の中がやってきたら、わたしはラジカセを担いでボリュームを最大に、グラフィックイコライザーの右端と左端を最大にし、校門の脇に立って、腰に負担をかけないように身をくねらせながら彼らの『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』の初体験を根こそぎ奪っていきたいと思っている。遅かれ早かれ聞くことになると思えば、最初の体験は絶対楽しい方がいいに決まっている。彼らは残りの人生の約80年間、その次代のミュージシャンによってカバーされた『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』を耳にするたび、身をくねらせて踊るわたしの姿を思い出してくれるはずなのだ。