ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

男の座りションは、快適な便座からしか始まらない

残念ながら、女の人から夫の愚痴のようなものを聞かされることが多い。
わたしは抜群の忍耐力を備えているし、しかも話を聞いているふりがうまいからだ。
わたしの知るかぎり、愚痴子は夫の愚痴と仕事の愚痴を交互にmixするDJ的な存在なのだが、どちらの愚痴が聞きたいかといえば、夫の愚痴である。なぜなら、仕事の愚痴を聞いていると、いわゆるひとつのサービス残業をしているかのような気分になってしまうからで、夫の愚痴なら、私的な時間を愚痴聞きで食いつぶすのはいかがなものかと思うものの、少なくとも、私的な時間を過ごしていることを確信できるという意味において、アドバンテージが感じられる。

便座を上げたままの夫問題

そんなプレミアムでアドバンテージなカンバセーションでよく挙がるのが、夫が便座を上げたままである件で、わたしはそのたび内心驚いている。もちろん便座を上げたままの男性が存在するという事実にではなく、ベンザブロックが痔の薬ではなくて風邪薬であるという事実にでもなく、わたしが愚痴子から「こっち側」と思われていることにである。「こっち側」とは何か。「こっち側」とは、便座が常にセットされている理想郷であり、そこの住人たちは生ハムの原木で組まれた家に住んでいて、テレビは4Kで、加湿器と空気清浄機の機能の機能を併せ持った無難なデザインの白い箱が各部屋に備え付けてあるのだ。
そんな「こっち側」に加えてくださり、少々不安である。なぜならわたしは、彼女らの夫と同じく、本来は、「そっち側」の人だから……。

便座を上げっぱなしであることに異議を唱える人はつまり、便座を元通りにしていれば問題なしとしてくれるのだから、まだ心の広い人物と言えるかもしれない。内心、立ちションを撲滅したいと思っているのに、立ちションを、便座を元通りにする限りにおいて大目に見てやると言っており、大幅な譲歩をしてくれているのである。そもそも、「座りション」という呼び方が不当であると思う方も多いかもしれない。「ションには二種類あって、ションと座りションである」という考えは不当かもしれない。「ションには、ションと立ちションの二種類がある。ションといえば座ってするションのことを指し、立ってするションはイレギュラーなションにあたり、通常のションとは分け、武力行使も視野に入れて対処すべき」と考えるのが正しいのかもしれない。

しかし、少なからずいる、通常のションは立った状態のションであると考える人々にとって、わざわざ便座に座ってションをするのは非常に面倒である。立った状態でのションは、事後に念入りな掃除が必要であるとわかっていたとしてもである。コカイン中毒の患者が逮捕されるとわかっていてもやめられないのと同じであって、抑止するためには発想の転換が必要である。ちょうど、コカインの市場への流入を抑止するためにマリファナを合法化し、「コカインはリスクが大きいしマリファナでもそれなりに愉快な気分になれるから手を打つか……」と常習者たちに思わせ、ある程度のハードドラッグの抑止に成功しているオランダの事例を見習うべきなのである。

マリファナ=便座カバー理論

結論から言うと、立ちション患者であるわたしにとってのマリファナとなったのは、便座カバーであった。立ちションを罹患していたとき、汚れを拭き取りやすいからという理由で便座は生の状態にしていた。しかしこの考えは根本的に間違っていた。ひんやりした便座にわざわざ座りたいと思う変態はいない。「立ちションしても掃除が簡単」というのは、立ちション撲滅の施策としては不十分で、「座りションにして掃除の回数が減る」方が建設的。座りションも悪くないと思えるよう設備を整える必要があったのだった。

いままでの便座カバーは、赤ちゃんのタイツのようなしつらえで、U字状になっている便座に履かせるようにして取り付ける。それがさほど気持ちよいものではないことは周知の通りである。たしかに生便座よりも暖かいことは確実ではあるが、先ほどのコカイン→マリファナの喩えで言うなら、コカイン~ココアシガレット間と同程度の隔たりがある。コカインをココアシガレットで我慢できたら警察はいらない。しかも洗濯したての旧式の便座カバーは縮んでいて、便座に履かせるのが難しく、無理やり履かせるために全体重を便座シートに預けた結果、バランスを崩して便器の泉にあたる部分に手を突っこんでしまう危険性があって、そうなってしまうと、こんなに汚れた人間が使う便器を掃除する必要があるのかと疑わしくなってくるのだが、ある日わたしは、テクノロジーの進歩により、便座カバーが便座カバー2.0に進化していることに気づいた。便座カバー2.0は、便座の上から貼って取り付ける。そのため、厚みを持たせることができるのだった。もしかしてわたしの座りション生活はここから始まるのではないか……と思って注文した。
そしてこれが立ちション派にとってのマリファナの勇姿である。

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どういう仕組みか把握しきれていないが、便座に吸着させることができる。

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従来のカバーの何倍もの厚さである。
調布のとんかつ屋でこんな厚さのカツを出す店があったのだが、いったん閉店して再開後、店はこぎれいになってカツが薄くなってしまっていた。

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その厚さゆえに、便器のふたが完全に閉まらなくなってしまうのはご愛嬌。

この便座カバーの商品名は忘れたし、思い出すことはわたしにとって何の意味もないのだが、ふわふわで、何色か出ていて、スカンジナビアングレーやスカンジナビアンパープルなど、スカンジナビアンで統一されていた。このネーミングのセンスがボディーブローのように効いてくる。北欧モチーフの製品は陳腐化しつつあるにしても、少なくとも便器界隈ではまだまだオシャレな部類に属するし、北欧といえば福祉が充実しているので、便座もふんわりしているようなイメージ。そして、そもそも、寒冷な地域の便座が暖かくないはずがない。

瞬く間に取り付けは完了し、ションもしたくないのに座してみたのだが、いままで体験したことがない快適さだった。

幻の「生尻ソファー」体験が何度もできる

あなたは(突然の読者への呼びかけ)生尻でソファーに座ったことがあるだろうか。
わたしは3回くらいしかなくて、気持ちよかったが、汚れてはいけないと思ったのですぐにパンツを履くことで、かろうじて文明人としてのメンツを保った。
この便座カバーは、合法的に、幻の、伝説の、「生尻でソファー」をノーリスクで好きなだけ体験できる装置なのである。立ちションをやめられなかったわたしが、いまは喜んで座りションをキメており、ときどき、ションの終わったあとも名残り惜しくて、しばらくぼんやりしていたりするほどである。


晴れてわたしは「こっち側」の人間となった。
しかも「こっち側」の中でも幹部候補になっていると自負している。便座を上げたままの夫の話を聞いても「ふーん」と返すのではなく、「便座の上げ下げというより、そもそも座ってしろという話だよね~~」と返せるようになり、幸せを噛みしめている。



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電子音楽を中心に、2016年に聴いた音楽、ベスト10曲

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去年は定額制で聴き放題のサービスが躍進したが、その一方で、聴き放題にすらお金を払わないクレバーな消費者も少なくない。Apple Musicの網羅度は素晴らしいと思うけれど、自由に聴けないので個別に買ってしまう。知人がiPhoneでYoutubeを開いて、Bluetoothを経由してJBLのスピーカーからそれなりにいい音で音楽を流しているのを見て鼻水が出てしまった。わたしのようにコンテンツをちまちま買って聴いているのは変態の部類に入るのかもしれない。
ノーマルな感性を持った音楽ファンは、日本におけるここ20年の生活水準の低下を、もっぱらコンテンツにお金を使わないようにすることでしのいできたと推測しているが、わたしひとりがその流れに取り残されているように感じている。
―とはいえ、自分の好きな音楽が無料で提供されることは少ないので、わたしはずっとコンテンツを購入し続ける側に残るしかないのかなと半ば諦めている。
そんな暗い前置きはともかく、去年聴いた音楽のベスト10を選んだ。

Melody / Plustwo

Melody (1983 Radio Version)

Melody (1983 Radio Version)

  • Plustwo
  • エレクトロニック
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
イタロ・ディスコの1983年のカルトヒット曲の12インチシングルが満を持して去年再発されたのだが、昨年を振りかえってみると、こればかり聞いていた。シンセの各パートの溶け具合が、独自にテクノ的アプローチを発見したようで、Imaginationの"Just An Illusion"に通ずるよさがある。このYoutubeも、このダンスなんなの……と思いつつも100回は見てしまった。

Melody - by Plustwo. The original video
近年、「オリジナルは200€超のレア盤が限定500枚でヴァイナルリイシュー!」みたいなのをよく見かける。わたしとしてはヴァイナルでないリイシューの方がありがたいのだが、このビジネスモデルでないと商売にならないと思われ、それはまあそうなんだろうなと思って購入することにしている。
すでに再発盤も50€くらいするのだが、B面もベースラインが斬新で同じくらい素晴らしいので高くないと思う。ショートミックスならiTunesでも入手できるのだけれど、iTunesには後世のダサミックスバージョンが混入しているので要試聴。


Super Koto / Ponzu Island

Super Koto

Super Koto

  • Ponzu Island
  • ダンス
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
プロモーションビデオがオフィシャルなものでもアレなので紹介できなくて残念。一聴するとスーパーファミコン時代のゲーム音楽のように聴こえるのだが、もしこれが何らかのゲーム音楽だったとするなら、あまりの素晴らしさに、ゲームにまったく集中できないはずだ。タイトル通り、全面的に琴の音がフィーチャーされている。
琴の音って、80~90年代のシンセサイザーのプリセット音として高確率で収録されていたけれど、日本製だったからというだけで、居酒屋のランチタイムに流れる歌のない歌謡曲でしか使われていないイメージだったが、適切なアレンジがされている琴の音の素晴らしさがわかる。これがデビュー作というのだから驚き。


ダンシング / 桑名正博

テキーラ・ムーン

テキーラ・ムーン

マリファナとコカインの使用により絶賛執行猶予中の78年にリリースされた『テキーラ・ムーン』から。ずいぶんとファンキーでドラマチックなAOR。去年は日本のダンス・クラッシックスをたくさん聴いたが、最初の1曲はこれを選ぶことが多かった。78年というと、サタデーナイトフィーバーが流行した年で、日本でも、DJが音楽の間にブツブツ話すスタイルだけれども、レコードを大音量でかけるディスコが流行していたはずだが、歌詞を聞く限り、この曲が想定しているのはどうもライブハウスで、そのへんの時代錯誤的なこだわりも含めてめっちゃ熱いで……。
『テキーラ・ムーン』は、大阪ローカルで定番になっている『月のあかり』を収録していることで有名なのだけれど、そちらはあまりよさがわからない。大阪で過ごしたのが人生の半分以下になってしまったのだから仕方ないのかもしれない。


Awakening / 佐藤博

アウェイクニング スペシャル・エディション

アウェイクニング スペシャル・エディション

同名アルバムのタイトル曲。あまりにも有名だけど、自分には関係ないと思って聴かずに敬遠し続けてきたのだが、関係ありだった。軽快なフュージョンなのだが、イントロを耳にしただけで、この音楽がウルトラ緻密に作りこまれた傑作であることがわかるし、4分にも満たないのに、1時間くらい聴いた気分になる。1本の音楽ファイルにすぎないのに、贅沢な気分になれる逸品だと思う。81年の作品だが、いかんせん当時こちらは小学生。感じる能力がこちらに備わっていなかったので、発見するに機が熟したのだろうと思っている。アルバムの他の曲は歌つきのが多いけれど、ここまでくると音に集中したいので邪魔だなと思ってしまう。



New York New York / Nina Hagen

Fearless

Fearless

いままで、Diamanda Galasを持ってるからNina Hagenは聴かなくてもいいやと思っていたのだが、その分類が間違いであると気づいたのはLindstrom"Late Night Tales"で"African Reggae"を聴いたときだった。欧米でレゲエがさほど普及していない時期なのに、一足飛びに「わたしの考えたレゲエ」をやってのけたのだったが、こちらはそのヒップホップ版と言ってもよいと思う。ヒップホップというジャンルを履き違えすぎて別のジャンルになっている。がなったり朗々と歌いあげたり、聴くたびに失笑を禁じ得ない。
先日、息をしているかどうかが気になってNina Hargenで検索したら、なりすましアカウントを見つけ、Lady GAGAはわたしのパクリと言っていて納得してしまったのだが、Lady GAGAの素晴らしいところは、「見た目はおかしいが音楽は普通」で、保守的であることを恥じている多くのリスナーが脳内音楽革命を経由せずに冒険した気分を味わえるようにした点であり、売れたいのであれば、Nina Hagenみたいに音楽性までおかしくしてしまってはいけないのだった。特に歌い方はちゃんとせなあかん。


Cut Eleven / Innsyter

Cut Eleven

Cut Eleven

  • Innsyter
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Delroy Edwardsのレーベル、L.A. Club ResourceからのデビューLPに収録。のっけから荒れたロウハウスで、Caroline Kが生きていたら、Nocturnal Emissionsがこんな形でダンスフロアを侵略していたのかもと思わせる。この曲以外も荒れ放題でペンペン草も生えていないが、ほかのロウハウスではめったに感じられない肉感的なグルーヴ感に全編覆われている。


Wasser Im Fluss / Thomas Fehlmann

Wasser Im Fluss

Wasser Im Fluss

  • Thomas Fehlmann
  • エレクトロニック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes
The Orbはコンスタントに新譜をリリースしていて、毎回すぐ買って聴いているのだが、だんだんリリースのペースに満足できなくなってきて、そういや片割れのThomas Fehlmannのソロ作品を掘ったら慰めになるのかも……と思って聴いてみたら、2010年のアルバム"Gute Luft"に名曲を発見した。
渋いフィルタリングに彩られた分厚いパッドのシークエンスが、The Orbの"Ripples"の完成版なのかなと想像させるが、彼のキャリアを4分におさめたような完成度で、テクノを代表する曲と言えるのではないかと思う。


Gente Que Aun Duerme / Mono Fontana

Gente Que Aún Duerme

Gente Que Aún Duerme

  • Mono Fontana
  • ジャズ
  • provided courtesy of iTunes
ロスアプソンでめちゃめちゃ押しているのを発見し、在庫がなかったので泣く泣く他で手に入れたのだが、98年作リリースの"Ciruelo"に収録されていて、のちに日本で「アルゼンチン音響派」と呼ばれる流れの源流に位置するらしかった。98年のわたしは、時間もお金もなかったので気づくのがずいぶんと遅れてしまった。よくわからないキーボードの間に現実音が挟まっていて曲の輪郭もつかめないまま11分が過ぎてしまうのだけれど、ポジティブなパワーにあふれかえっており、ポジティブもすぎると音楽の体裁をとることが難しいということがわかる。
聴いたあと、他の音楽を聴いても退屈で悪趣味な音楽にしか聞こえないので、特別な時以外は聴かないようにしている。今年聴いた中で一番印象に残った。


Pleasure Centre (Pharaohs Remix) / CFCF

Pleasure Centre

Pleasure Centre

  • CFCF
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
完成度の高いバレアリックといえばMark BarrottとかJose Padilla、Seahawks、Pacific Horizonsなどがあがると思うけど、最初のひとりを除いてわりと寡作な人たちなので、バレアリック資源の枯渇がぼくの中で切実な問題になっている。そんな中でCFCFの存在に今さら気づいて救世主だと思っている。
特にこの曲、オリジナルもすごくよいのだが、Pharaohs のリミックスが、ぶっちぎりに叙情的で繰り返し繰り返し聴いてしまう。


Qi Xin Mian Guan / Miskotom


ディスクユニオンの試聴用コーナーで、傑作風味のジャケットを発見し、念のために聴いてみたらどこに針を落としても夢のような音が流れてくるのでただちに購入した。なんとデビューEPとのこと。
Mr.Fingersが現代に蘇った(というかMr.Fingers自体、一昨年、いい感じに蘇っているのだが)かのようで、少ない音数で夢のような空間を作っている。2016年にTR909でこんなにときめいてしまっていいのかしら……と思う。レコードのみのリリースだけど、レコードに合った音と、ゆかいなジャケットで、その理由がわかる気がした。今後、リリースのたびに必ず買うことになりそう。



今年は、最高だと思って調べてみたらデビュー作だった……という曲が多かったので、来年いい音楽に出会えることはすでに約束されており、今からとても楽しみである。



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世界共通製品に日本語の説明がないと、日本はもうダメだと思ってしまう症候群

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先日、PC用のグラフィックボードを買った。先日発売になった、"Battlefield 1"を遊びたい、いや、体験したい、という気持ちになったのと、"Fallout 4"のPC版がお手頃価格になっていたからだった。前者は、第一次世界大戦をモチーフにした一人称のシューティングゲームで、第一次大戦といえば、戦車や航空機などの、安全かつ効率のよい殺戮兵器が初めて導入された戦争であり、それらと初めて対峙したときの兵士の絶望を追体験できるかもしれない……と期待したからで、後者は、リリース直後には、全米のアダルトサイトのアクセス数が減ったと言われていることから、女体のイメージよりもエキサイティングなゲームであることが確実だったからだ。


Battlefield 1 とFallout 4が遊びたくなったとして、ノーマルな感性の持ち主ならば、そこでPS4を買うだろう。しかし残念ながらわたしは、ゲーム機を買おうと思ったときに、「パソコンかゲーム機か」という二択で考えてしまう哀れなオッサンである。しかも、「パソコンかゲーム機か」の二択の歴史でいえば、わたしはかなりのベテランであると自負していて、誰に命令されるでもなく、ファミリーコンピュータのときからその二択に常に悩まされてきたのだった。「ファミリーコンピュータはいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいだし、プログラミングの勉強にもなるんじゃない?」と思って、パソコンを手にし、「プレイステーションはいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいだし、プログラミングの勉強にもなるんじゃない?」と思って、常にパソコンを手にしてきた。そして、しばらくして、「ゲームはやっぱり専用機の方がいいね」と思って、ゲーム機を手にすることになってしまうのだった。


今回も同じかもしれないが、今回こそは違うのではないかとも思っている。「PS4はいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいじゃない?」と思った。いつもの自分への殺し文句、「プログラムの勉強にもなるんじゃない?」は、40歳をとうに過ぎてようやく現実の一角が見えてきたこともあって脳裏をかすめることがなくなってしまったが、PS4は秒間のコマ数が30コマ止まりのものが多いのに比べ、同程度の価格のPCで、同じくらいの価格のグラフィックボードを買うと、常に60コマがキープできるとのことである。
秒間30コマといえば、1秒間に30枚の絵が再生されるので、数字だけを見たら十分ではないかと思ってしまうかもしれない。わたしが30年前、その滑らかさに度肝を抜かれた、初期スクウェアの『ウィル~ザ・デス・トラップ2~』のアニメーションが、たしか秒間8コマだったはずで、30コマならありがたく拝受せねばならないはずなのだが、先日、アダルトサイトで、秒間60コマの映像を見たときに、秒間30コマとはまったく違う臨場感というか、特に3D になったりVRだったり4Kでもないのだけれど、そこにいる感じがして、わたしは女性の人権の大切さとともに、秒間コマ数の大切さについても知ることとなった。因果な話で、たいしてコストのかからないハイレゾ音源を聞き分ける能力はない。しかし、オッサンにとって1年があっという間なのだから、1秒なんて検知できもしないはずなのに、1秒に30枚の絵が再生されるのと60枚の絵が再生されるのはすぐわかってしまうのである。なんと贅沢な体だろうか……この体を支えるには年功序列制度という後ろ盾が必要なはずだが、それも風前の灯火である……。


すっかり本題とはそれてしまったが、このような面倒な紆余曲折の末、わたしはグラフィックボードを買ったのだが、説明書が世界共通だったので緊張した。というのも、最近、別の製品で、各国語の説明が載っているが日本語の説明がない、というものを見かけて絶望したことがあったからだ。単純に使い方を知るだけなら英語版を読めばよいのだが、分厚い各国語マニュアルの中に日本語がなかったら、ああ、もう日本は市場であるとも思われてはいないのだな、もう日本は終わりだ、という気持ちになってしまう。昔は、英語とフランス語とドイツ語などの組み合わせで、これなら単純に数として少ない日本語が優遇されていなくて、まあ英語版があるからいいじゃないと考えているのだろうと思うのだが、10ヶ国語以上をサポートしている説明書で日本語なしは非常にこたえる。「あなたの国はもうダメですが、それはそれとして、お買上げありがとうございます」とグローバル社会に言い渡されたような気がしてしまう。

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幸い、今回購入したグラフィックボードは、1分ほど探したら、日本語で説明が書いてあるのを見かけた。重要な説明が抜けていたが、それは英語版でも同じだったので安心した。
しかし、次にわたしがなんとかボードみたいなのを買い求めるときは、いっそう緊張して説明書に日本語がないか探すに違いない。





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『シン・ゴジラ』のどこが抜群に面白かったか、わたしの脳内の動きを検証する

※今回に限らず、このブログはいわゆる「ネタバレ」の宝庫です。このブログは、ネタバレに負けない強靭な精神の育成のための専門サイトですので、ご了承のうえ、ともに切磋琢磨できればと思っております。

『シン・ゴジラ』のリアリティ

『シン・ゴジラ』の何が抜群に面白かったかというと、まず、オバマ先生に対して心からゴメンと思ってしまうほどのリアリティである。
わたしは今まで映画を見ているとき、アメリカの大統領に対して切実な申し訳なさを感じたことはなかったし、これからもずっとないと思っていた。なぜなら映画というのは絵空事なので、誰かに対して切実にゴメンと思うことはほとんどないし、ましてやアメリカの大統領に対して映画館の中で小声ですみませんと呟いてしまうというのは、もはや病的な状態であり通院が望ましいが、多忙のためそれは避けたく、オバマ先生へのゴメンについて丁寧に説明をさせていただきたい。

ゴジラが出てきてしばらくし、アメリカの支援が来たときにこの感情がおのずから発生する。わたしたちは現実に、2011年のアメリカのTomodachi Oprationに感激し、今回のゴジラのときも、若干図々しいが、何かのoperationをしてくださると期待しながら見ていたのだが、今回のoperationにオバマ先生が寄越したのは、なんとB-2だったのだ。しかも3機。日本のTomodachiの話をするのにmoneyの話をするのは大変恐縮だけれども、2000億円✕3機である。われわれとしては、使い古したB-52でも十分ありがたかったはずである。70年前に日本中を焼き払ったB-29にちょっと似ているところが若干気まずいけれども、緊急事態なのでそこは我慢するし、軍靴などと言う人がいたら、わたしが黙らせてやると思ったのだが、オバマ先生は、口笛ひとつで、日本の危機のために、1機作るのにスカイツリー5本分のコストがかかるあのB-2を3機も連れてきてくださったのだった。念のため書き添えておくと、設定ではアメリカの大統領はオバマ先生ではないのだけれど、絵空事だとはいえ、ありがたいという気持ちになってしまうのが人情ではないだろうか。

しかし、こともあろうにゴジラは、その空気をまったく読まずに3機まとめて瞬殺してしまった。ゴジラのことを、いくらガッジーラと英語のように発音したところで、日本が育ててきた怪獣であることは間違いないので、「うちのゴジラが粗相してオバマ先生に申し訳ない」という気持ちになってしまうのも当然であり、自分の中にあるナショナリティがあまりにも意外な形で姿を現し、自分の心の中に登場したゴジラ状の思念に驚いてしまった。

そうもこうも、この作品が、怪獣映画の範疇をはるかに超える地点でリアリティを実現しているから、ややこしい気持ちになってしまうのである。石原さとみ先生の英語が不自然、キャラクターが浮いていた、などという、批判になっていない批判が出てくるのも、この作品の尋常ならざるリアリティが裏目に出た結果にすぎない。たとえば、石原さとみ先生演じるアメリカ特使の鼻が亀頭のようになっていて、放射能を検知すると割れ目ちゃんから黄緑色の膿を勢いよく噴射するが、そのことをまったく恥じることなく、キェーーッという奇声とともに謎の鼻水を周囲の人物になすりつけるようなお茶目なキャラクターだったら……誰も文句は言わなかったはずである。
また、作品の細部をとりあげて、リアリティがないという意見も多く目にする。ゴジラを停止させる方法が嘘くさいなどという主張である。落ちついて考えてみると、ゴジラのような巨大生物が登場することそのものが圧倒的なリアリティの欠如になるはずなのだが、そこに触れられないのは、ゴジラが登場すること自体にはリアリティが感じられていることの証左であり、これ以上リアリティを追求するとゴジラが存在できなくなってしまうかもしれない地点にまではリアリティが突きつめられているということでもある。仮に、ゴジラが登場すらしなかったとしても、わたしは楽しく『シン・ゴジラ』を見ることができるだろうと思うけれど。

『シン・ゴジラ』のファンタジー

『シン・ゴジラ』はまた、日本人専用の、緻密に作りこまれたファンタジー映画でもある。
決まらない会議。責任者は不明。出る杭は打つ。前例のないことはしない。仕事の半分は忠誠心の確認作業……など、怪獣が出てこなくても、戦闘状態がなくても、日常的に、ああ、この調子だと日本はますます「やりがい満載の国」に……と思ってしまう諸問題が、映画上では紆余曲折がありながらも見事に解決されていたのである。

太平洋戦争で日本は数々の失態をおかし、結果として300万人以上の命を失った。なぜ日本軍が負けたのかを分析する文献は多数あるが、たとえば、陸軍と海軍で意思統一がされなかったことや、兵器の設計において人命よりも攻撃力を重視したため、熟練したパイロットのほとんどを亡くしてしまったこと、兵器以外の技術開発を軽視した結果、レーダーや暗号解析の技術で決定的に遅れをとり、アメリカ軍は作戦の詳細について日本軍の現場よりよく把握されてしまっていた点などが挙げられる。きわめつけは、何のために戦争をするのかの認識合わせができていなかったため、どこで戦争を終えればよいかもわからなかったという点だけれども、話すと長くなるのでここで詳細は述べない。『シン・ゴジラ』は、巨大災害に対する対処の方法であるという言及がよくなされるが、先の大戦の反省の上にも立っていると思う。あの戦争は、しないに越したことはなかったが、戦争をするにしてもあれはなかった。終戦から10年もしないうちに公開された『ゴジラ』は、傑作であることは疑いようがないが、あの戦争での失敗をなぞるかのようなストーリー展開がされてしまう点で衝撃的でもある。

突如現れたゴジラに、なすすべはあったのになすすべがないように人々はふるまう。ゴジラがくるとわかっているのに豪華な電車を走らせてしまうし、ゴジラに倒されてしまうとわかっていて鉄塔に登ってレポーターが中継を始める。自衛隊を中心に作戦を立てるが、まったく刃が立たず、なすすべがなさすぎて、ついには少女たちが平和を祈る歌を歌い始めたりする始末。天才科学者が発明した「オキシジェン・デストロイヤー」という、大味な兵器により、なんとかゴジラ討伐はできたのだが、その発明者が科学者をこじらせていて、この技術を広めてはいけないと、設計書を焼き、首尾よくゴジラを骨にしたあと、harakiriしてしまう。正確には、海底で、酸素を送るホースを自ら切断するのだが、最後に、生物学者が、これが最後のゴジラとは思えない的なつぶやきをして、じゃあオキシジェンなんとかを葬ったらアカンかったやないの……と不安になってしまったのだけれど、危機に対して再現性のない方法で対処して、何も引き継がれない点や、非合理的な祈りで問題を解決しようとする点、命と引き換えに問題を解決しようとしつつ、実は問題解決にはあまり関心を持っていないという点などの精神が戦中のそれと大差なく、そういう時代―反戦を誓いつつも、反戦とは具体的に何をすることなのかが未解明であった時代―の映画なのだが、その問題についても、『シン・ゴジラ』の随所に回答が用意されている。

『シン・ゴジラ』において、たとえば、ゴジラを停止させる作戦の遂行を支えたのは、日本の無人在来線爆弾や、アメリカの無人機MQ-9である。無人兵器へのこだわりが涙を誘う。現実の日本なら、あるいは日本の映画なら、コントロールするためには人間が運転する必要があるなどと言って、当初は無人の予定だったのに、運転手が静止を振りきって有人で特攻をかける……という展開で涙を誘ったはずだ。作品中、避難計画の進捗の共有にも時間が割かれていて不思議に思うが、それはどうしても必要な時間なのだ。『ゴジラ』では、話を面白くするために、国民が一丸となってゴジラに殺されようとしており、残念なことに、その生命の無駄遣いぶりが太平洋戦争に似てしまってもいたのだが、ようやくここまできたかと思う。
また、ゴジラが多少暴れた結果として政権機能がまるごと吹っ飛んでしまうのだが、翌日から何の問題もなく引き継がれる点にも感激する。東日本大震災のときに、会社の機能が麻痺しかけていたときに、自分が何をしていたかを思い出した人も多かったと思う。量産型の政権が、属人的でない、再現性をもって問題の処理にあたり、目的を成し遂げた。組織の細部の描写がご都合主義だったのかもしれないが、そう感じられることの異常さに気づかなくてはならない。つまりそれは、サラリーマンの日常生活がリアリティの比較対象となってしまう、恐るべき怪獣映画である、ということでもある。

言うまでもなく、実際の日本国は今なお、このようにはふるまえないし、おそらくそのまま朽ちていくだけだ。この映画のよしあしをめぐる議論ですら小競り合いがおきているほどなのだから、意思統一をして危機にあたることなどできるはずもないのだが、ただ、いままで理想を描くことすらできなかったのに、こういう対処の仕方ができたら最高だよね、という2時間の映像を見せてもらったというだけで幸せだった。


ただ、問題がひとつある。この映画は作品そのものが、パニック映画などのフィクションに対しての批評になっている点で、これから素直に映画を楽しめるのか、大いに不安になってしまう。最近、『パシフィック・リム』を見たのだが、見たのが『シン・ゴジラ』の前でよかった。ヒーローとヒロインが抱き合うラストシーンを、「こういうベタベタなのって、ベタベタなところを楽しむのが……いいんだよね」と戸惑いながら見ていたのだが、「ベタベタがあえていいっていう時代でもないでしょ」と今なら素直に思ってしまうだろうし、製作中であるところの『パシフィック・リム2』や、『シン・ゴジラ』から数週間遅れで公開されている『ゴーストバスターズ』を厳しい目で鑑賞するか、あるいは厳しくなりすぎて鑑賞することもしないかもしれないと思うと、寂しい気もするのである。


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上にぎり寿司と小ラーメンを同時に食べた私の脳内に何が起こったか

東京のはずれの何もなさそうなところを歩いて自分なりに楽しめる場所を探すのが好きだ。
地味なので誰も誘えず、記事にすることもできないことが多いのだけど。
先日も、郊外の街道沿いに歩いていておもしろそうな店を見つけた。いつもは発見と入店がほぼ同時なのだが、たまたまそのときは満腹だったし、先を急いでいたので諦めてしまった。しかし、帰ってから、寝ても覚めてもその店のことが気になって仕方なくなってきたので、改めて行ってきた。


その店は、地方だと当たり前なのかもしれない、クロスオーバーな店だった。ハウス+ヒップホップ=ヒップハウスというジャンルをご存知だろうか。ご存知でなくて一向に構わないけれど、クロスオーバーな店とは、たとえば、ラーメンとカレーの店や、焼肉とお寿司の店のことを指す。
地方は店の数が少ないから、渋谷にありそうな、スリランカ料理専門店やお茶漬けの店など、ジャンルを絞った店は歓迎されない。家族で行って、各々が好きなものを頼めるような店が好まれる。
しかし、その店は、ちょっと違った。ラーメンとお寿司の店だったのだ。東京も端になってくると、クロスオーバーな店くらいはあるだろうと思ったが、ラーメンとお寿司の組み合わせはいかがなものかと思う。この「いかがなものかと思う」の気持ちの源泉は、おそらくお寿司への畏敬の念にあるのだろう。


その店の看板を目にしてから、あの店は、ラーメンとお寿司、どちらがよりおすすめなのだろうか、とか、ラーメンの担当とお寿司の担当は別なのだろうか、などが気になったのだが、それよりも何よりも、「ラーメンとお寿司を同時に食べたら自分はどうなってしまうのだろう」ということが気になってきたのである。何も起きないかもしれないし、翌日に出社したときに勢い余って退職届を出し、そのまま装備らしい装備も持たずにスズメバチの巣に特攻を仕掛けてしまうかもしれない。


わたしもネンネではないので、お寿司とラーメンに近い経験をしたことはある。フレンチのコースをいただいたあと、家の最寄駅の前のコンビニエンスストアで、プリングルスなどを求めたりしたことはあった。いっしょに食事した人と、LINEで「今日はおいしかったねー」などと言いあうのだけれど、野暮だと思われると恥ずかしいので、「いまプリングルス食べてる」とは、指の水かきみたいなところが裂けたとしても書けない。ただ、フォアグラと穴子の焼いたん、りんごソースのせを食べた数時間後に食べているわけだから、焼いたんの余韻は短期記憶から長期記憶へと華麗に転送されているはずであって、必ずしも野暮とは言えないと思っている。
しかし、お寿司とラーメンをしかも同時となると事情は違ってくる。すでに短期記憶の段階で、いくらの軍艦巻きの上を、スープで薄茶色に染まった麺がとぐろを巻いている有様であり、長期記憶の側としても、そのような食べ物を本体が食したという記録を留めざるを得ない。これを野暮と言わずになんと表現すればよいのだろう。


その店は奥深かった。比喩的な意味ではなく、物理的に奥深かった。京都だとうなぎの寝床と評されそうだ。手前が中華ゾーン、奥がお寿司ゾーンに分かれていて、お寿司を上座に置いていたのだった。わたしは手前の席に腰掛けて、上握り寿司と小ラーメンのセット2600イェンを頼んだら、奥を案内された。上にぎり寿司と小ラーメンの組み合わせは「お寿司の人」なのである。ラーメン大盛りに鉄火巻という組み合わせでオーダーしたら、おそらく「中華の人」の扱いを受けたに違いない。
わたしはそのとき、この店で唯一無二の「お寿司の人」になったのだった。はやる気持ちを抑えなくてはならなかった。そもそも、スーパーの半額のお寿司意外のお寿司を食べるのが久しぶりなのに、このような形で「上」のお寿司とご対面するとは思ってもみなかった。
しばらく待っていると、最初に上にぎり寿し、最後に食べる位置づけのような風情で小ラーメンがやってきた。写真のお寿司の右側が少し空いているように見えるかもしれないが、その感覚は正しい。そこにはかつて、ハマチがあった。どうにも我慢できなかったのである。

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完全にお寿司を食べ終わってからラーメンを食べてしまうと、あまりお寿司とラーメンをいっしょに食べた感じがしないと思ったし、麺が伸びてしまうのも麺に対して申し訳ない気がしたので、お寿司の合間に、味噌汁をすするように、ラーメンを啜った。しかしラーメン界ではあっさりした部類に入るこのしょうゆラーメンも、お寿司と比べると味が濃いため、食べたものが即座にラーメンの味に染まってしまう。トロ以外はラーメンの味の濃さに勝てない。
結局、2600円の上寿し小ラーメンセットは、2600円のラーメンを食べた、という記憶に置き換わった。小ラーメンのはずなのに記憶上では特大のラーメンである。


食べた経験が食べながら崩壊していくという貴重な経験をした。
もしあなたが、お寿司とラーメンの店の看板を目にしたら、どんなに満腹でもぜひ立ち寄り、なるべく豪華なお寿司にラーメンをつけてほしい。


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性格の暗い人には除湿機がおすすめ

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気づいたら生まれてずいぶん時が経っていた。物心ついたときから性格が暗かったが、きっと大人になると明るくなるだろうと楽観していた。しかし、「性格の明るい人物を装う術」や「暗いなりに人生を楽しく過ごす術」に長けただけで、もとからの性格の暗さは一切変わらなかった。仕方ないのでそのまま生きている。
きょうはそんな薄暗いオッサンからの四次元経由のアドバイスに耳を傾けてほしい。「除湿機はいいぞ」という話である。申し訳ない。先輩風を吹かせてしまった。「除湿機はいいですよ」という話である。

加湿器は持っていても除湿機は持っていない、という人は多い。加湿器はもともと値段が安いし、ないと風邪をひきやすくなるが、除湿機は安いものでも1万円以上するし、夏は湿って当たり前だと思うなら、特段不自由はない。除湿機のよさは除湿機を手に入れてからではないとわからないのが、すすめる側としても歯がゆいところである。しかし、とくに性格の暗い人間にとって、除湿機から得られるものは多い。なぜ性格の暗い人間にとって、除湿機が福音となるのかを説明していこう。


部屋が清潔になり、ネガティブな雑念が生じにくくなる

性格の暗い人間は、部屋の壁にカビやシミができたりすると、それを凝視し、いままで出会ってきた嫌な人の姿をそこに見出してしまう。なんとも暗いロールシャッハテストである。あのカビは、機嫌が悪くなると、「なぜわたしが怒ってるかわかる?」という珍妙なクイズを出してくる元恋人。その隣のカビは、同意する趣旨のコメントをするときですら、「いやいや、それは」と口を開く元友人。向かいのシミは、仕事のメールの同送を忘れると、仲間はずれにされたと勘違いして逆上する元同僚……。
それだけではない。湿度が高いと害虫が発生する危険性が高まる。特にダニは、発生したらみじめな気持ちになる害虫ナンバーワンだし、布団を天日干ししたくらいでは死なない。某社の、刑事のような名前のダニを吸いこむというのが売り文句だった掃除機も、効果が大してないことを製造元が告白していた。ダニの根絶は難しいが、少なくとも、湿度が低ければ、繁殖しないことはたしかなのである。この「根絶できないが、増加を食い止めることができる」という言い回しは、いかにも性格の暗い人が好きそうなフレーズだし、実際わたしも大好きだ。

サラサラで心地よく、悪夢にうなされる確率が減る

徐々に寝苦しくなってくるこの季節。気温だけでなく、じっとりと汗をかいてしまうとより寝苦しくなる。汗だくで寝ているときに見る夢はろくなものではない。「地味なドッキリ」というコンセプトの番組にはめられて、目覚ましの時間を30分ずらされて遅刻してしまい、しかも視聴者もあまり笑ってくれていないという夢、伝票締め日の翌日に引き出しの奥からアリの大群が請求書を担いで現れる夢、ヒトラーの家に牛乳を配達していたことを理由に戦争責任を問われる夢、公園でちびっことミニカーで遊んでいたら、ミニカーのドアを壊してしまったので、そっと取り付けてごまかしてしまった夢など、ひどい悪夢ばかりである。
いっぽう、除湿機を使っているときにベッドに横たわるのは大変心地よい。ふとんのすみずみまでサラサラ。エアコンと併用するとさらなる快眠が待っている。このときに見る悪夢はせいぜい、「南国のビーチサイドで食べているマンゴーかき氷のマンゴーの量がやや少なかった」という程度の夢なのである。

日々除湿の成果が現れ、不確実な人生のなかで確実に前進しているものがあることで安心できる

長々と除湿機の長所について語ってきたが、ここからが本題である。除湿機を回していると、確実にタンクに水が溜まっていく。しかもそれは、思っているよりもはるかに大量の水で、部屋に帰ってきて、タンクにたまった水を捨てるときには、ちょっとした達成感がある。
たとえばTwitterで攻撃的なコメントをくださった方のプロフィールを見に行ったら「ミサンドリー強め」と書いてあって、「自覚してるなら直してからツイートしてくれよ」と思ったその瞬間も除湿機のタンクには着実に水が溜まりつづけているし、電車で柔軟剤ファミリーに取り囲まれて頭痛がしたその瞬間も、除湿機のタンクには着実に水が溜まりつづけているし、市販のヨーグルトを買って、おいしかったので蓋をなめようとしたらそれを見越したかのようなコメントが蓋の裏に書いてあることを見つけたその瞬間も、除湿機のタンクには着実に水が溜まり続けている。これはまごうことなき事実であり、わたしたちは生きているだけで前進していて、そのことは水の量という形で常に可視化されるのである。


積み上げてきたことが一瞬にして台無しになってしまうことも多い今の世の中。学力やスキルを磨いても、まったく役立たなくなることもざらだし、就職活動や転職活動に一度失敗したら、這い上がるのは困難。除湿機を入手したところで、その現実はまったく変化しないが、そんな世の中を生きていくお守りとして、自分が確実に前進していることが感じられるという、その一点において、除湿機の導入をおすすめする。


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キーボード掃除に使う、キーを引き抜く器具の中毒性について

キーボード掃除の研究家のココロ社です。

いま家で使っているキーボードはダイヤテック社のFILCOというブランドのもので、エンジニアの人がよく使っていて、さすがエンジニアの人が使っているキーボードは、見た目はかっこよさ控えめでも打ちやすさと頑丈さは格別だなぁと自分に言い聞かせながら使っている。もう5年以上は使っていると思うが、おかしな動作をしたことが一度もなく、デザインに飽きても買い替える言い訳ができなくて残念なほどである。

最近の電子機器は、中途半端に洗練されていて魅力が感じられない。キーボードなどは、あれだけキーが並んでいてスタイリッシュになれるはずもなく、その道を選んでもあまりいいところに行けるはずがなくて、昔そうだったように、無骨さで突き抜ける方向しかないと思う。
デザインという概念に乏しかったころのデザインの方が美しく感じられるというのは皮肉なもので、PC9801のキーボードなどは最高にすてきだし、Dos/V機用なら、いまもオークションで高値で取引されているIBMのものは、買うのを我慢するのが大変である。現役のキーボードなら、東プレが作っているもののいくつかのデザインは魅力的だけれど、2万円くらいする。これはデザイン料ではなく、その機能に見合った金額なのだが、わたしはFILCOのキーボードの打ちやすさには満足しているし、もっと言うと、東プレのお世話になるほどにはキーボードを使っていないのだった。
そうなってくると、ますます、キーボードが壊れてもいないのに、2万円のものを買うことに、超人的なこじつけ力を要するようになる。

このように買い替える理由を奪われ、わたしの命令どおりに時折珍妙な文字列を入力しつづけるキーボードだが、5年も使っていると、底にゴミが溜まってくる。気のせいかもしれないが、ホコリがクッション状になってふんわりした感触が指を伝ってくることもあり、そんなときは背中がゾクゾクして不快なので、掃除をしてみたいという気がしてきたのだった。汚れたキーボードの中は便座より菌が多いという話もある。「便座より汚い」という比較は、これに限らずあらゆるところでされていて、むしろ便座のイメージアップになっているように思うが、それはともかく、実際、掃除にチャレンジしてみるとわかるのだが、キーをうまく抜くことができない。台形のものを上からつまんでも指が虚しく滑るだけである。文章だけではわからないかもしれないと不安になり、図解してみたので、適宜ご参照いただきたい。

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しかたないので、キーの隙間に紙を挟んでホコリを取り除いたりしていたのだが、より徹底して掃除したいと思い、調べていたら、キーボードのキーを抜くための器具が、ほかでもないFILCOブランドから出ていて、さっそく取り寄せた。(なお、メカニカルキーボード用のようなので、ノートパソコンなどによく使われているパンタグラフ型には向かないようなのでご注意くださいませ)

わたしはインターネットをよく見ていて、さまざまなビフォーアフターの記事と、その反応を見てきたが、ほとんどの場合、アフターの美しさよりも、ビフォーの汚らしさに人は注目してしまうという法則を発見した。例外なのが洋服で、ビフォーとアフターの差がほとんどなかったり、アフターの方がビフォーよりも醜くなっていたりするのだが、この事象はおそらく、ビフォーでもあまりけなされると心が折れてしまうと思って、ついついそれなりによい身なりにしてしまうからこのようなことになるのだと推察するが、それはともかく、汚いキーボードの写真を載せても何もいいことはないので、どのようにキーを引き抜くかについて示すにとどめたい。

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この器具、何もしていないときは嫌がるハムスターなどに強制的に薬を飲ませるための器具のように見える。実際そういう目的で使えるかもしれないが、ハムスターに薬を飲ませるために口をこじ開けるというシチュエーションが実際に発生するかどうかは知らない。
キーを、この輪で挟んで、軽く捻って引き上げれば、簡単にキーが抜けるのである。

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スペースキーなど、面積の広いキーについては、別に針金を仕込んであるものもある。軽く引っ張ってから、長辺にあたる部分をずらすことで外すので注意が必要になる。抜いたキーは石鹸でもみ洗いをして、タオルの上に置いて乾し、その間に、丸裸になったキーボードを綿棒や掃除機で丹念に掃除すればよい。

問題なのは、抜くときに絶妙な清涼感が発生することである。歯磨きをしているときに、「おお神よ……歯の仕様はおかしくないと思われませんか。まったく痛みがなくて抜き差しできる仕様だったら一気に抜いてジャブジャブ洗えてよかったのに……」と祈ったことがある人にはたまらない作業なのだ。歯磨きではできないことが、キーボード掃除ではできる。わたしも、100個以上のキーを抜いた感触が手に残り、いまやキーボードが汚れていないか粗探してしまう有様なので、キーボードの掃除をしたいと思っている方は、それなりの覚悟をもって取り掛かるべきだと思う。特に安いキーボードを使っている方は、掃除する時間をコストに直すと、新品を買い直した方がよいこともあるだろうし、なるべくならこの気持ちよい器具からは遠ざかった方が身のためである。