ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

岩宿遺跡は、考古学に関係ない中年でも勇気づけられる名所だった

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最高に地味なタイトル画像なのに、弊ブログを見に来てくださってありがとう……。
 
 
日本の遺跡といえば、まず最初に挙がるのは岩宿遺跡。しかし、そこを訪れる人は少ないし、わたしも行ったことがなかった。わたしが岩宿遺跡の存在を知ったのは小学校の社会で、「日本のあけぼの」的な章で初めて日本人の文明の記述として出てくる史実としてだった。東京に暮らして25年経つが、「群馬県岩宿遺跡」と記憶してはいるものの、群馬県のどこにあるのか、そもそも、群馬県はどこからどこまでなのかもはっきり認識しないまま過ごしてきた。
少し昔の話になるが、「そろそろ岩宿遺跡を確かめないといかん」と意を決し有休をとったときの話をしたい。最寄り駅は岩宿駅でたいへんわかりやすく、その名前なら駅から遺跡まで近そうだなと思ったのが、問題なのは都内から岩宿までの道のり。同じ関東だから片道2時間程度なのかなと思っていたが3時間近くかかった。
 
岩宿駅はこじんまりとした駅だが、 大間々駅の名前で1889年開業。

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この電気関係の建物も注記はないけれど、とても可愛らしく、東京にあったらライトアップされていたに違いない。
 
 
岩宿駅の前にはみやげもの屋があり、石器を象った黒くて硬いおせんべいなどが駅前の土産物屋で売っていて……と想像していたのだが、そんなことはなく、いまは電車よりも自家用車を前提としてインフラが構築されている模様。

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駅から徒歩20分ほどで岩宿遺跡に到着。
 

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遺跡は「A地点」と「B地点」などというかっこいい名称で呼ばれており、ぼんやりと散歩をしているだけでも本格的な学術調査をしているような錯覚が得られて気持ちいい。最初に相沢忠洋先生が旧石器時代のものと思われる黒曜石を発見したのがB地点。彼からの知らせを受けて本格的な学術調査が行われ、A地点で粗めて石器が確認された。A地点は稲荷山という小さな山のふもとにある。稲荷山には岩宿稲荷神社がある。由来などは書いていないが、遺跡発見の1946年よりも前からあるように見える。

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もう何も出ないとは思いつつも、ついうつむき加減で捜索しながら歩いてしまう。
 
そして歴史的発見の舞台であるB地点には、岩宿ドームがあり、中には地層が展示してある。

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ローム層=火山灰=灰色のイメージだったのだけど、赤い色が関東ローム層=旧石器時代の地層である。ライトのせいもあり、どの地層も関東ローム層に見えてしまった。絶対考古学者に向いていないと思った。
 
遺跡の発見者である相沢忠洋先生は、発見当時は桐生市に住んでおり、行商の傍ら、赤城山山麓に焦点をしぼり、仕事の傍らで発掘活動に勤しんでいた。のちに岩宿遺跡と呼ばれるこの場所では、当時は崖の断面に土が露出していたのだが、何度か通っていくなかで徐々に謎を解いていったのだった。さきほどのように、表面を見ていても何も見つからないのは当然で、注意を払うべきは断面が露出しているところだったのだ。

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最近になって、石器を発見した瞬間の相沢忠洋先生の像が建立された。このシーンは、彼が以前からここの赤土の層(関東ローム層)から、いくつも細かい石器のような、そうでもないようなアイテムたちを、土器を伴わない形で発見していて、これってもしかして縄文時代よりも前に人が住んでいたことの証拠かも……と、うすうす気づきはじめた中、どうみても人工のものと思われる黒曜石が、崖の断面の赤土の部分から出てきて、推測が確信へと変わった瞬間と思われる。まさに彼はこのとき、この像のように固まってしまったのだろうと想像する。とても素敵な像である。また土の色になっているところも可愛らしい。実際に学術調査が実施され、日本に旧石器時代があると証明されたのはこの発見の3年後であった。

 

このあたりの経緯は自伝『岩宿の発見』に詳しいが、遺跡と関係ない彼の身の上話が大変面白く、半ば遺跡のことはどうでもよくなってしまうほどである。

わたしは遺跡に行ってから読んだのだが、読んでから行ったら何倍も楽しかっただろう。次に行ったときは、『岩宿の発見』という物語に出てくる聖地を巡礼するような気持ちになれると思う。

日本の考古学史上、最大級の発見は、学者ではない行商人が成し遂げた。特に画期的な発見をしたわけでもないが趣味の世界を持つサラリーマンにとっては勇気づけられる話である。

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて (講談社文庫)

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて (講談社文庫)

 

 

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近くには「岩宿人の広場」があり、旧石器時代の住居のようすがわかるようなそうでもないような感じである。発見されている中で日本最古といわれる、はさみ山遺跡の住居跡を復元したものがあるが、屋根の材質が違いすぎて、旧石器時代の人の息吹を感じることは困難である。なお、はさみ山遺跡の一部は当時近鉄バファローズに在籍していた梨田昌孝先生の住居兼ビルの建設予定地だった。
竪穴式住居というと、茅葺きの屋根のイメージが強いが、最近では土で覆っているものもあったと推測されている。恐竜に毛が生えていたという話に似ている。
 
 
また、さらに関係が薄まってくるのだが、マンモスの骨の模型で作られた家もある。

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似たものが東京国立博物館にもあるが、こちらは野ざらしになっていて迫力がある。当然ながらこのままだとスースーするので動物の毛皮で覆っていたようだが、骨で家を作るなんてヤンキー的な世界観だなと思わなくもない。丈夫で石より軽い物質といえば骨しかないので、消去法で選ばれたのだろう。あるいは初期の人類はみなヤンキーなのかのもしれない。
 
近くに「岩宿博物館」というモダンな建物がある。

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中では、遺物を並べて、岩宿遺跡の住人の暮らしを推定しているのだが、そもそも遺跡で出土するものが限られているので、興味を惹く展示が難しい。わたしの場合、芸術的価値が見いだせるものでもっとも古いものは土偶で、縄文時代。やはり土を捏ねて作るくらいの創作性がないと芸術性を感じることが難しい。もしかすると旧石器時代の人々の中には石器を必要以上に尖らせる者がいたり、切れ味を犠牲にしても、造形上の好みで、あえて丸い形に仕上げたりる者がいたりしたかもしれない。前者の末裔は、現代において先の尖った靴を好んで履いているに違いないが、残念ながら現代人には打製石器はどれも同じものに見えてしまう。
 
なお、打製石器は思いのほか使いやすかったことをここに記しておきたい。

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細かいコントロールが現代のカッターナイフと同程度に効くのは意外だった。
 
ここにも住居の模型があるのだが、さきほど見た、はさみ山遺跡の住居よりもリッチである。

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狩猟・採集で生活の糧を得ていた旧石器時代の人々は移動を前提とした家を作らざるを得ず、骨組みと毛皮だけの家なら移動が簡単なはずなので、毛皮を屋根代わりに使ったという説には説得力がある。毛皮の服が暖かいのだから、毛皮の家もさぞかし暖かいに違いない。
 
鹿が30頭必要だったとして、それを狩るにはどれくらいかかるのかわからないが、数ヶ月がんばれば達成できただろうと思う、現代において数ヶ月がんばって家が経つということはあり得ず、何十年もローンを組むのが普通である。当時の住にかけるコストはかなり低かったに違いない。
 
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岩宿遺跡の調査によって、日本に旧石器時代があった事実が確認されたのだが、以後、日本のあちこちで見つかることとなる。1951年には、板橋区で黒曜石の石器がローム層中に発見された。同じく切通しの断面から見つかり、茂呂遺跡と呼ばれている。発見者は当時中学生だった瀧澤浩先生で、もし岩宿に切り通しの崖の断面がなかったら、中学生が旧石器時代の存在を発見したとの記述が山川の日本史の教科書などに載っていたかもしれない。それもまた夢のある話だけれど、都内の中学生よりも、仕事の傍ら趣味で研究をしていた苦労人が関東平野の端で旧石器時代の遺跡を初めて発見した世界の方がわたしは好きだ。
一見すると単なる切通しにしか見えないこの場所だが、ただの中年であるわたしにとって、岩宿は最高にロマンチックな聖地であった。