ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

花が摘みたくて摘みたくて困ってしまった話

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百合ヶ丘で降りてみようと思ったが、どうせなら新しい方がいいと思って新百合ヶ丘で降りた。大きな目をした色白の人がたくさんいる街だと毎度のことながら思った。この町の住人は自分の写真を撮るときに写真を整形する必要がないのかもしれない。
駅から5分ほど南下したあたりで、ふと、わたしの体が花を摘みたい状況にあることに気づいた。もともとわたしは花を摘むことがさほど嫌いでもなく、純粋に花を摘みたいときだけ花を摘むというより、気分転換として花を摘んでいたりもしてきた。花を摘みたいという気持ちが頂点に達してから花を摘むようにすると、本当に花を摘みたいと思ったときに即座に花を摘む場所に行けないかもしれないという強迫観念もある。ただ、いまの状況について考えると、「花を摘みたい」という気持ちは、その強さが頂点に達するはるか前に感じられる気持ちにすぎず、1時間以内に花を摘むことが望ましいが、いますぐ花を摘まないと悲劇が訪れるという気持ちではないと誤認したのである。そして、わたしの目の前に緑道の入り口が現れた。石碑に、「この付近は細長い沢で……」などと書かれていて、ポジティブに解釈すると、わたしが好きないわゆるひとつの暗渠のようにも読めなくもない。元暗渠・現緑道の果てはどうなっているのか。突然川が登場し、蟹がひしめき、アオサギがそれをつつく……という地味な桃源郷のような世界があるのかもしれない。好奇心が、花を摘みたい気持ちに勝ってしまい、緑道を進むことにしたのである。
 

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緑道を歩く人はいなかった。わたしは椎の木に絡まるみすぼらしい葛や、その葛をよすがにして羽化したセミの抜け殻を見ながら、セミの多くは抜け殻だけが残って自らの死骸は先に形を失ってしまうんだろうな、などと思いながら、ゆっくりと道を下った。そのときも、花を摘みたいという気持ちは徐々にリアリティを増してきたのだが、その増加は無視できるほどのカーブで、遠くから見たらただの直線にすぎず、ここで引きかえすのはタイミングが悪すぎると思い、さらに下ってしまったのだった。
 
花を摘むことより優先した緑道の終わりは、期待とは裏腹に管理社会を思わせるたたずまいであり、自然と意識が花を摘むことにフォーカスされてきた。

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緑道の終わりには上りの階段があり、もしかしたら登った先に別の楽園があるかもしれないと思ったのだが、10段ほどの階段をのぼると交差点があった。

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そこで引き返して駅に戻り、花を摘めばよかったのだが、緑道を越えた先に楽園がなくて焦ったわたしを、交差点の青信号がせっかくだから渡れと誘ってきた。渡った先に何もないことはわかっていたのだが、せっかくの青信号だからと渡ってしまったのだった。その先は上り坂になっていて、一歩前に進むごとに、等比級数的に花を摘みたいという気持ちが高まってきた。わたしの見立てだと、その気持ちはゆっくりと下りのカーブを描くはずだった。グラフにするとこのような違いがある。
 

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 落ちついて考えてみよう。わたしはいま、おそらく昔は谷底となっていたところに立っている。そして、公的に花を摘む場所であると認められている場所は高台にあたる駅付近にあり、どのようなルートを経ようと、何らかの坂をのぼることは避けられない。
実際のところ、上り坂をのぼるにつれて花を摘みたくなる気持ちが強まる傾向があるのかについては寡聞にして知らない。もしそれが真実なら、エベレストに登山するときの準備のほとんどが花を摘みたいと思わないようにするための準備になってしまうだろうし、そんな話は聞いたことがないので、一概に「登ると花を摘みたくなる」とは言えないはずである。ただ、一般論として「登ると必ず花を摘みたくなる」が「偽」だったとしても、わたしのいまの、「花を摘みたい」という切実な気持ちは変わらず、何の慰めにもならない。これが厳然たる事実である。花が摘みたい。とても摘みたい。ぜひ摘みたい。可及的すみやかに摘みたい。
 
―ここまで気持ちが高まって、やっとわたしはそれまで来た道をそのまま引きかえす決断をした。花を摘みたいとはいえ、あと10分程度ならがまんできそうで、ここで駅からさらに遠ざかり、公園、しかも花が摘める公園を探すような賭けをするべきではないと思った。わたしはいつも人生の岐路において、それなりに苦労するが確実にリターンが得られる道を選んできた。参考書でも「速習」などのタイトルがついたものではなく、「詳解」などのタイトルを好んだ。職業も、華やかではないが確実に暮らしていける道を選んだつもりだ。このたびの進路選択についても、手堅くそのまま引き返すのが、わたしらしい生き方である。わたしは花を摘みたいという気持ちが軽減される方法を探りながら引きかえした。
 
まず試したのは、ベルトを緩めることで、ひとつ緩めると、花が摘みたい気持ちが有意に減った。しかしそれは、「いままで感じてきた花を摘みたいという気持ちは、ベルトを強く締めすぎたことなどの外的要因による一時的な感覚にすぎないのかもしれない」という淡い期待を打ち砕きもしたのである。いまさらながら、実際に花を摘まないことには、花を摘みたいという気持ちから逃れることはできないことがわかった。
そして次に試したのは、花を茂みの奥に戻すことである。もちろん、いまわたしが摘もうとしている花は茂みからは一歩も外に出ていないが、茂みのすぐそばにあると、いつ茂みから出てくるかわからない。茂みの奥に戻すのはそれなりに体力を要するのだが、茂みの奥に置けば置くほど、花を摘みたいという気持ちもなくなる。いままでの人生でわずか数回ではあるが、実際に茂みの奥に置こうと努力した結果、茂みの遥か奥のおそらく沼地のようなところに置くことに成功し、花を摘みたいという気持ちが完全に消えたことがあった。それは花を摘みたいという気持ちがいまほど切実ではなかったからこそできたことであることは理解していたものの、ある程度の支援にはなるはずである。ただし、茂みの奥に戻そうと熱中するあまり、花を摘むべき場所への到着が遅れることはあっては元も子もない。
 
わたしは内股気味に早足で坂をのぼり、ショッピングセンターに辿り着いた。ただし、そのショッピングセンターは「センター」と呼んでよいほど中央集権化がなされてはいない自由なセンターで、センターの事務局が、センターの付属設備として花を摘める場所を置いているかどうか、かなり疑わしかった。
センターの脇に思わせぶりな階段があった。中央集権化がなされているセンターであれば、階段を下りた先に、真夏でも暗くて冷たい、不思議な安堵感のある場所で花を摘むことができるかもしれない。しかし、そうだったとしても、中途半端な権力集中の結果、花を摘む場所はなんとか設置できたものの、いつしか花を摘むための用具を補充できなくなってしまった、という事例は事欠かない。わたしはいま、花を摘むための用具はまったく用意していない。そのような生活態度はいかがなものかと思ったたが、そんなことは花を摘んだあとにゆっくり自省すればよいことだ。今考えるべきは、花を摘むことであり、花を摘みたいという気持ちもそろそろ限界に達していた。
 
このショッピングセンターから信号を渡ると、大規模かつ比較的モダンな3階建てくらいのスーパーがあるので、そこで花を摘むことに賭け、ショッピングセンターで花を摘むことは諦めることにした。そのスーパーが花を摘む施設を備えていることは確実なのだが、入館するやいなや花が摘めるかどうかは疑問であった。このような建物では、1階に男性用の花を摘む場所が確実にあるとはいえない。わたしの経験からすると、2階以上の商業施設の場合、1階にあるのは女性用のみで、2階は女性用・男性用、3階は女性用のみで、男性向けの花を摘む場所は偶数階のみであることが多い。可及的速やかに花を摘みたいと思っているわたしに、エスカレーターを探して2階に行き、花を摘む場所を探し、大きな花を摘む場所がすべて埋まっていたら待つことになり、その間に花を摘みたいという気持ちが限界に達してしまう可能性もなくはない。ただ、このスーパーに花を摘む場所があることは確実であり、このあと、確実に花を摘める場所を探して歩きまわるよりも、確実に花を摘める場所で花を摘むための手続きに時間をかける方が得策であると考え、スーパーに足を踏み入れた。
 
スーパーに入るやいなや、わたしは恐ろしいほど低温の冷気に包まれ、花を摘みたいという気持ちは急激に高まった。花を摘みたくなってからずっと―といっても15分ほどだが―炎天下を内股で歩いていたわたしは、花を摘みたいという気持ちと気温の相関関係について、まったくの無関心でいたということに気づいた。
スーパーに入る前のわたしが、花を摘む100秒前だったとしよう。それは内股で歩いたり、花をを茂みの奥に置くために力を込めるなどの不断の努力により、少しずつ稼いできた、なけなしの100秒だったのだが、冷気に包まれたらその100秒は、たちまち30秒ほどになってしまったのである。これで花を摘む場所が2階にあったら、花を摘むべき場所でないところで花を摘んでしまうことになる。
 しかしわたしは運がよく、わたしは1階に男性用の花を摘む場所がある旨の表示をすぐに見つけた。途中でその表示がうやむやにされないよう、天井をなるべく広く見るようにして、花を摘む場所に最短距離で歩き、男性用の花を摘む場所の入口に辿りついた。その場所は狭くはなく、それなりの人数で花を摘めそうに見えたが、わたしいままでの経験から、花を摘む直前に起きる混乱についてよく知っていた。
 
花を摘みたいという気持ちは、摘むまでの時間に概ね換算できるといってよいが、そこでいくら時間を稼いでいたとしても、「今すぐに花が摘める」と気が緩んだ瞬間、残り時間とほとんど関係なく、体が勝手に花を摘む動きをとりはじめることはご存知のとおりである。現代の日本において、「気の緩みによって犯罪を起こしてしまった」という供述をよく聞くけれども、精神主義的にすぎると思う。犯罪の原因は、悪意であり、その悪意を漏らしてしまう精神的物理的構造により、犯罪が起きる。しかし、少なくとも、花を摘みたいという気持ちを我慢する行為において「気の緩み」は確実に存在する。まもなく花が摘めると思った瞬間、花を摘むべき場所の直前の花を摘むべき場所でないところで花を摘んでしまうという事案で、わたしも過去何度もその危機に見舞われていた。そこでわたしが学習したのは、気が緩まないよう、「まだわたしは花を摘むべき場所からは遠くにいる」という嘘を自分の体に信じこませることであり、花を摘むべき場所に来るまでは、花を茂みの少しでも奥に置こうとする努力を続けなくてはならない。それどころか、花を摘むという行為と花を茂みの奥に置こうとする努力を同時にするくらいの気持ちでないと、適切な場所で花を摘むことはままならないのである。
 
その端を摘む場所には花を摘むための部屋が2か所あり、両方ともすぐ摘める状態だった。わたしは手前にある方に入り、花を摘むことにした。花を摘みながら、いま花を摘める場所が2か所も空いていたら、運を無駄遣いしてしまい、次に大きな花を摘みたくなったとき、空きがないという状態になりはしないか、などと思ったりした。
 
 花を摘みおえて、ふだん自分が日常的にしている花を摘むという行為は、実はこんなに爽快なものだったのか、と驚いた。温度が2度ほど下がったように思えるし、視界が開けたように感じられる。せかせかと歩く人たちに、もっとゆっくり生きていきましょうやと、アドバイスしたい気持ちになった。
 
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わたしは花を摘みたくなった話をこのように落ち着いて、まったく花を摘みたいとは思わない状態で書いているが、たとえば道端などで花を摘んでしまった場合、どこにも書くことはできなかっただろうし、恥ずかしくて新百合ヶ丘駅近辺に行くことができなくなってしまったことだろう。新宿から江の島や鎌倉に行こうとすると、かならず新百合ヶ丘を通過してしまうので、そんな要地が鬼門になってしまうなら、いっそのこと千葉にでも引っ越しすべきだと思う。そして千葉で、「しかるべき場所で花を摘む」ということだけを心掛けてつつましやかに暮らすのである。なんなら腕に刺青を彫ってもよいのかもしれない。

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今回は首尾よく花を摘むことができたのであるが、これから外出する際には、突然花が摘みたくならないよう注意が必要であるし、この文を最後まで読んでくださったあなたも、このわたしの体験を他山の石としていただきたいと願っている。