ココロ社

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絶滅寸前の「ビニール剥がさない」人(じん)に贈る言葉

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スマートフォンの登場により、進行方向を見ずに歩く人が飛躍的に増えた。
それまで進行方向以外を見ながら歩く人といえば二宮金治郎くらいしかいなかったし、その金治郎が読書しながら歩いたところで、道ゆく人たちは咎めるどころか、むしろその勤勉さを褒めたたえていたが、本当に勤勉だったのだろうか。もしかすると、金治郎は農業技術の本の表紙にポルノ小説をくるんでいたのかもしれない。小説に挿入されていた春画の結合部分に目を凝らし、よりよく見えるよう、本を斜めにして覗きこんだりしているうちに蛇行して藪に突入してしまったこともあったかもしれない。そうしなくてもよく見えるよう、当時の画家は男性器も女性器も実際の人体の比率より大きめに描いていたはずだが、偉人の代表ともいえる金治郎のような男でも、それがエロスという領域になってくると、「見る角度を変えたところで、描かれたもの以外が見えることはない」という単純な事実を理解できなくなってしまうのである。
彼が本当に歩きながらポルノ小説を熟読しているかどうかは定かではない、むしろ、熟読していないことが定かなのだが、もし彼が灌漑技術の本の表紙に肥料の本を仕込んで熟読しながら曲がりくねって歩いたとしても、人々は金治郎の一挙手一投足に夢中だから、誰かと衝突したりすることもなかったのであった。
 
 
江戸時代の「ながら歩き」はこのようにブルーオーシャンにあったが、およそ200年後の現代においては、携帯情報端末を閲覧しながらの歩行は、その是非はさておき、すでに国民的な娯楽へとのぼりつめていた。もし紅白性癖歌合戦のようなものが存在したら、2014年度から「スマートフォンを見ながら歩く」が大トリとして登場することとなり、お茶の間の視聴者はスマートフォン片手に大喜びしたはずである。
 
 
スマートフォンを見ながら歩く行為が、その是非はともかく浸透した一方で、ひとつの楽しみが失われつつある。それは、「電子機器の液晶画面に貼られたビニールをボロボロになっても貼ったままでいる」という快楽である。すでに過去のことになっているので、念のために解説しておくと、つい10年ほど前までは電子デバイスのユーザーインターフェイスは物理的ボタンとディスプレイという組み合わせが主流だった。ディスプレイは工場出荷時には、破損防止のためにビニールが貼ってあり、操作は物理的ボタンで行う関係上、ディスプレイにビニールを貼ったまま端末を利用することが可能だったのである。そして一部のマニアたちは、画面が汚れることを恐れるがあまり、ビニールを貼ったまま使ったのだった。
あのビニールは包皮の延長であるとわたしは認識している。いつか陰核あるいは亀頭が直接触れられ、のけぞるような快感が全身を走るその日を夢見つつ、まだまだ、と永遠に自分を焦らし続けるという、すばらしく変態的な行為であり、おそらく日本特有と思われるこの習慣は、世界に誇れるものであったはずだ。
 
 
しかし残念なことに、スマートフォンの時代になってからは、工場出荷時には透明なフィルムが貼ってあり、画面に直接触れる関係上、ビニールを貼ったままにする種族も、透明なフィルムを剥がす、つまり割礼をする種族にならざるを得ず、購入したスマートフォンにフィルムを貼りつけるのがせいぜいなのだが、残念ながらそれはパンツであり、包皮であるとは到底認めがたい。
 
 
わたしがいままでに見た、もっとも高貴な人類は、折りたたみ式の携帯電話のヒンジが壊れていて、折りたたみの状態を維持するのが困難な状態であるにもかかわらず、ディスプレイのビニールについては貼ったままにしていたという中年女性の事例である。たとえるなら、首の皮一枚で首と胴体がつながっているのに、依然として包皮だけは、陰核あるいは亀頭を外界の刺激から保護している状態で、人体に喩える必要もないほどわかりやすく、本末転倒という概念を具現化していた。わたしはそれを傍から見ていて剥きたい気持ちになったのだが、行動に移してしまったら器物損壊で逮捕されたに違いない。
 
 
そんな彼女もいまは、らくらくスマートフォンか、特に楽でもないスマートフォンに機種変更したことだろうと思う。携帯電話のタッチパネル化によって、ビニール剥がさない人たちは、どんな代償行為で満足しているのだろうか。エアコンのリモコンをいくつも買ってビニールを剥がさないまま我慢していたりするのかもしれない。いずれにせよ、傷つくことを恐れてビニールを剥がさないまま、視認性や操作性や美観を損ね、ビニールが剥がれるより前に他の部分が故障して新しいものを買ったりするのは、あまり得な生き方とはいえないので、自分でそれをしたいとはまったく思わないが、そのいっぽうで、ときどきは、他人のビニール貼りっぱなしのアイテムを傍から見て、「是が非でも剥がしたいが絶対に剥がしてはいけない」という葛藤を楽しみたい気持ちもなくはないので、少し寂しい。ビニール剥がさない人に代わって台頭してきた、歩きながらスマートフォンを見る人を傍から見ていても、あの心地よい葛藤に匹敵する快感が得られることは決してないのである……。
 
 
なお、冒頭の写真は出張先のホテルで対峙したエアコンのリモコンである。誰も見張ってはいないし、ビニールを剥がしたところで咎められるはずもなかったので、剥がすこともできなくはなかったが、ふと、このリモコンの歴史について考えてみたら、到底それはできないと悟った。
見たところ設置から十年は経過しているそのリモコンは、のべ3000人以上に触れられているはずなのに、ビニールはいまだ剥がされてはいない。つまり、100人に1人がビニール剥がさない人と仮定すると、30人は、自分の家のリモコンと同じだと思って安堵し、2970人は、剥がしたい気もするが我慢しようとしてきたのであり、このビニールは人類の理性と気遣いと忍耐の歴史なのである。この壮大な人類の歴史の中でわたしができることといえば、ビニールの浮いたところを指でなぞることくらいなのであった……。