ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

街中にある平和や自由や平等を表すオブジェをそういう視線でしか見られない症候群

公園や公共のスペースなどにある人物を象ったオブジェたち。オブジェの台座にはきまって平和や自由や平等などを意味するメッセージが記してある。平和!自由!平等!結構なことである。太平洋戦争では数百万の日本人が亡くなったというのに、今もなお、あの戦争は間違ってはいなかったと主張する人が跡を絶たないし、人間としての権利を主張することが悪だと考える人も少なからず存在するので、広範に平和や自由や平等を祈念する像を立てておかないと、また日本が焼け野原になったり、あるいは、物理的にはそれなりに繁栄していても、精神的に焼け野原になったりするからである。

 

これらの平和・自由・平等を象徴するオブジェたちは、平和・自由・平等そのものがそうであるのと同様、日常の風景に溶けこんでいて、写真を撮る人もいなければ見向きする人もいないものだけれど、ノーマルな人生を送っている人は、仕事や家庭のことで頭がいっぱいなのだし、悪いことであるとは思わない。むしろ悪いのはわたしなのだ。

 

―というのも、わたしはこれらの像を、ついついそういう視線でしか見ることができないからである。順にわたしの視線がどうなっているかがわかるように撮影したので、ご笑納いただきたいと思う。


たとえば東京・新宿では、都庁舎の前の都民広場に彫刻が並べてある。

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この像は艶と色味がよく、ついついそういう視線で見てしまう。

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これは着衣でありながら、衣が意味をなしていない。衣服の下にあるものを強調するための衣で、西瓜における塩のごとき存在であり、やはりそういう視線で見てしまう。

 

都庁前の広場で一番好きなものを選べと言われたら、この『天にきく』である。

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この角度から見ると、東京都庁はそういう気分を引きたてるためのオブジェに見えてしまう。

 

また、都庁の近くの新宿中央公園の彫刻も、目立たない場所にあるものの、そういう気分で見てしまいがちである。

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先日、新橋で見かけた盲導犬の銅像は、着衣であったので、そういう視線で見ることはないなと思っていたのだが、念のために近づいてみると、このような状況だった。

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わたし自身、これらのオブジェをそういう視線で見たところで、得をした気持ちになったりはしない。とくにそういう気分でもないときにそういう風にしか見えないものを見かけたところでそういう気分が高まったりもしないし、もともとそういう視線で見たとしても極端にそういう気分になってしまうほどそういう感じではないからである。もしわたしと同じく、ついそういう視線で見てしまう人が仮にいたとしても、ごく一部を除いては、そういう気分が高まるほどではないはずで、たとえば、そういう視線でオブジェを見ることはよろしくないので撤去し、幾何学的なオブジェを新しく配置することになったとしても、「そうですか」としか思わないだろう。

 

不思議なのは、平和や自由や平等の象徴として設置される芸術作品が、作者の性別を問わず、裸婦像に偏っていることである。これは先人たちが、アートの名のもとにそういう気分にさせる創作物を開陳する権利を守るために戦い抜いた成果かもしれないのだが、その貴重な成果をここで使ってしまってもいいのかという戸惑いがある。あるいは、その成果たちは、使えば使うほど増えるものかもしれず、それなら、そういう視線で見ていることを隠しつつ、何食わぬ顔で暮らしていったほうがよいのかもしれないとも思うのだが、やはりわたしは、そういう視線で見てしまうことを誰かに言わずにはおれないのである。

 

 

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