やはりブロガーたるもの、人気が出ないとわかっていても、思いついたことはどんどん実行していき、ブログを進化させるべきなのであります!…ということで鼻息も荒く始める新コーナー、何回続けるかわかりませんが、おつきあいくださいませ。
今回の企画は、古今東西の名作小説の冒頭の2ページ分だけを精読、徹底分析し、その優れた手法をブログで実践してしまおうという、野望に満ちた企画です!
二つの前提
この企画を、二つの前提のもとにすすめていこうと思います。
(1)「小説を読む」ことの本質は「細部を読む」ことにある
たとえば、あらすじレベルで言うのであれば、漱石の『吾輩は猫である』は「猫が行ったり来たりして最後に溺れ死ぬ話」に過ぎません。面白さゼロですね。小説の面白さは細部にあります。極論すれば、筋なんてどうでもよいのです。あれは飾りです。偉い人にはそれがわからないのです!同じ1000字読むなら、あらすじを読むよりも、冒頭の2ページ分だけをネチネチと精読する方が絶対に面白いです。斜め読みで読破しても、まったく意味がありません。
(2)面白いものの面白さについて語るだけでなく、自分自身も面白くなるべきである
面白いものの面白さについて言葉を尽くして語っていても、何だか寂しい気持ち…面白いものにあこがれながら、決して到達できない悲しさよ…いやいや、拙くてもいいから実践していけばいいと思うのですがどうでしょう。「名作なんて畏れ多い」という思いも脳裏をよぎりますが、名作のエッセンスの1パーセントでも我がものにできればとても幸せだと思います。名作を読めば読むほど、自分のブログが面白くなる…これが正しい読書のあり方だと思います。
第一回は、奇書『トリストラム・シャンディの生涯と意見』
第一回は、奇書として知られる、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生涯と意見』です。
- 作者: ロレンス・スターン,朱牟田夏雄
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18世紀の小説で、3冊セットというボリュームなのですが、最初の2ページだけでも十分にすばらしさを実感できます。
では早速、読んでみましょう。
私めの切な願いは、今さらかなわぬことながら、私の父か母のどちらかが、と申すよりもこの場合は両方とも等しくそういう義務があったはずですから、なろうことなら父と母の双方が、この私というものをしこむときに、もっと自分たちのしていることに気を配ってくれたらなあ、ということなのです。
冒頭の3行で、いかにこの小説の語り手(=トリストラム・シャンディ)がクレイジーかというのがおわかりかと思います。野暮ったくて申し訳ないですが、面白さについて説明すると、
1.読者に向けて語りかけるという形式
近代以降の小説の語り手は、「自分が語っている」ということそれ自体については何も言わない、というのが暗黙のルールになっています。そのことで「話者の透明化=物語内容の現前」がおきて、読者は、あたかも話者を媒介せずにじかに物語に接しているような気持ちになります。ちょうど、映画においてカメラマンの存在を意識しないのと同じです。(たとえば、「彼は歩いた」と小説に書いてあっても「彼の話はいいから、お前はどうしたか言えよ!」とつっこむ人はいませんよね)
しかし、この作品は、小説のフォーマットというものがいまより緩い時代のものだったということもあって、言いたい放題で話者が出演しまくって読者に直接語る形式を取っています。もちろん、現在でも、面白ければ何でもよいので、近代小説のフォーマットを無視してしまうのもよいのですが、中身が面白くなかったら、奇異な手法ばかりが目立ってしまい、あざといと感じられるので注意が必要です。
2.語り始めて一行もしないうちに無駄な挿入句が入る
冒頭の数行を読んだだけで「ダラダラしゃべるなよ」と思った人も多いかと思います。「と申すよりも、この場合は〜なろうことなら父と母の双方が」は明らかに無駄ですよね。でもこの話者は、自分の思っていることを正確に語りたい、そして正確に語るためなら、話の筋がどうなってもいいとさえ思っているようです。事実、この小説は、『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』という題名でありながら、主人公である私が出てくるのは、2巻目の終わりくらいです。しかも横道にそれすぎて未完。それまで延々と話が横道にそれたり戻ったり、またそれたりします。もちろん、話が横道にそれればよいというものではないです。そこらへんのオバハンの井戸端会議は話が横道にそれまくりでしょうけど、面白くないことが多い。要は、そのとき思いついたことが面白ければ、本筋と関係ないからという理由で我慢などしたりしない方がよい、という話かと思います。
3.冒頭から親に責任転嫁するダメさ加減
話が要領を得ないだけだけでも十分におかしいのですが、要は「今自分がこんなに不遇なのは親の責任」と言っているようです。小説の書き出しなんだから、もうちょっと格好をつけようよ…と思います。そもそも、いい年して自分の親を呪っても状況は何も変わらないのに!自叙伝を不毛な嘆きから始めるこの話者が、このあと、どんなどうしようもない話をするのか、期待が高まります。
続けますね。
あの時の自分たちの営みがどれだけ大きな影響を持つことだったかを二人が正当に考慮していたら―(中略)―その生き物の一家全体の将来の運命までもが、その二人の営みの時に一番支配的だった体液なり気分なりによって方向をきめられるかも知れないのだろういうことまでもふくめて―(中略)この私という人間が、これから読者諸賢がだんだんとご覧になるであろう姿とは、まるでちがった姿をこの世にお示しすることになっただろうと、私は信じて疑わないものです。
略したところは、冒頭の調子と同様に長くなっているところですが、「1」で言い尽くしたので割愛しています。ここのエッセンスは、
4.妄説をもっともらしく語る
妄説が爆発してますね。セックスをしたときの状態によって、生まれてくる子供の状態が変わってくると言っています。そんなアホな…
しかも、どうやら、あまりよくない状態で両親が交わったから彼がおかしくなった、ということのようですね。じゃあ、どういう状態で交わったのか。長くなるので途中は飛ばして2ページ目の終わりに行きます。
「ねぇ、あなた」私の母が申したのです。「あなた時計をまくのをお忘れになったのじゃなくて?」―「いやはや、呆れたもんだ!」父はさけびました。さけび声はあげながらも、同時にその声をあまり多くしないように気をつけてはいました―「天地創造の時このかた、かりにもこんな馬鹿な質問で男の腰を折った女があったろうか?」(後略)
チンチンを出し入れしている最中に、時計のねじについて質問する女…これがトリストラム・シャンディの母親です。空気が読めてない。この一言のせいで、トリストラム・シャンディは不幸な生まれ方をしてしまうことになるのです。また、
5.極まったように見せて妙にリアルな気遣いを見せる
激怒したと見せかけて、世間体を気にして声を潜めます。日常的にはよくあることですが、夫婦げんかを描く場合、二人の対立を際だたせるために、あえて日常的な気遣いの部分は描かないでおくものですが、妙なみみっちさがリアルかつユーモラスです。
抽出した要素を使って書いてみました
以上、抽出した5つの要素、これを実際に生かしてみたいと思います。プロットなんでもいいいのですが、「コーヒーを頼んだら紅茶が出てきた」という話にしましょうか。
コーヒーを頼んだら紅茶が出てきたのです
「コーヒー」の語源は「人生に似ているもの」だということを皆様はご存じですか。まったくもってうまく言ったものです!たしかに、コーヒーの苦みは、皆さんはどうだか知りませんが、少なくとも私の人生の苦みにはよく似ています。でも、私ならもっとうまく、この苦くて黒い飲み物を名付けられるのではないかと自負しております。まあ、ここでうまく言い表したところで、みなさんは悔し紛れに無関心を装い、「だから何?」とおっしゃるだけでしょうからここでは言いません。「出る杭を打つ」のがこの日本社会の特徴です。まったく、日本に来る外国人観光客のために、なけなしの貯金をはたいて成田空港の管制塔に垂れ幕でも盛大に垂らしてやりたい気持ちです。もちろんそこには「ようこそ!この国で愛されるための秘訣は一つだけ―『目立たない』ことです。冬に半袖のシャツなんてもってのほかですよ」と豪華な飾り文字で―たとえば"love"のLは無限にとぐろを巻くアナコンダを思わせるくらいに―書いてあるのです。
喫茶店に入り、とりあえずその「人生に似ているもの」を頼んだのですが、きたのは人生に似ていない琥珀色の液体でした。口にすると、明らかに苦みが足りませんでした。私は自分の人生が否定されているような気がしました。つまり、私の苦い人生は単なる無駄であり、私たちはもっと楽な人生を送っている。要領の悪いお前はつまり馬鹿であると。正直に生きている人間に対してこのような言い方はないんじゃないしょうかね?
私は頭にきたので、テーブルをひっくり返しました―正確に言いますと、砂糖を入れた壺などを割ると、壺のお金も代金に加えられてしまいそうなので、割らないように椅子に置いてから、そうっとテーブルを30度ほど傾け、マスターにほほえみかけることで、抗議の意を示したのです。
くどい…まあうちのブログのヘビーユーザーの方はむしろこういうのがいいと思われるかも知れませんが、それだと人が来ないので、もうちょっと薄めて出すのが適切かもしれません。
第二回は、やるかやらないか迷っていますが、ガルシア・マルケスを考えています。