中原昌也の面白さについて、続きを書きます。(前回はid:kokorosha:20051219#p2です。そういえば、『新潮』2月号に中原昌也の中編が載ってますよ!)
- 作者: 中原昌也
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2004/09
- メディア: 単行本
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で、『分泌業』、まだ途中なのですが、印象に残ったのは椹木野衣との対談です。『あらゆる場所に花束が…』について積極的に触れているのですが、椹木野衣がドゥルーズの『文学機械』という概念を援用しながら語っていました。ドゥルーズは何冊か持っているのですが、難解すぎて最後まで読み通したことがありません。何冊か読んだ解説書の印象と中原昌也の小説を照らし合わせてみると、彼の小説はドゥルーズの言う文学機械などと合致するように思えます。ただ、途中で挫折したドゥルーズの『差異と反復』で、ザ・形而上学であるプラトンは、実は形而上学批判の言い出しっぺだったのだ、くらいの勢いで書いてあって、その部分は「ちょwwwおまwwww」と思いながら楽しく読んだのですが、この強引さを持ってすれば、何を読んでもドゥルーズを援用できそうに思えます。(それって、「常に漱石は新しい」的なのにつながるような気もするのですが、これについては、芽ネギなどを食べて盛り上がったタイミングででも書きたいと思います。)
ぼくが中原昌也を面白いと思うのは、単にどの一瞬をとっても読むに耐える文章を書いているからだと思います。極端に言うと、誠意の問題かなぁという感じです。これは現代とか近代とか関係ないんじゃないか?と思うのです。ぼくがあまり読まないタイプの小説として、いわゆる「エンターテインメント」というジャンルがあります。なぜ読まないかというと、エンターテインメントと銘打ちながら、あまりエンターテインしてくれてなさそうだからです。オチがあるところがエンターテインできない理由だと思います。オチという一点を目指して書かれた文は弱いです。なぜなら、読んでいる横で「あーこの小説の続きはね…」と語られたらたちまち興ざめしてしまうからです。単純に考えて、一言発しただけで崩壊してしまうような小説は脆弱だと思うのです。ネタバレされて萎えてしまうような小説は、つまり読んでいる瞬間はすべてオチの前ふりにすぎず、読んでいる瞬間瞬間が楽しいわけではない小説だということだからです。まあ、「エンターテインメント」のすべてがそうであるとは言えないし、本当にエンターテインしてくれるものもたくさんあるかと思いますが、その意味において、中原昌也は読者を常に楽しませてくれる努力を怠っていないと思います。彼の小説のすごいところは、ネタバレしても小説の面白さが変わらないところです。
…ということで、次回は、『あらゆる場所に花束が…』の面白さについて書こうと思います。