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ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

モーニング娘(id:twistedさん編)〜一言で言うと「ベタな方が泣けるし、スッキリするのですが…」という話です〜

ということでモーニング娘については、事態が収束に向かってきた気がしますので、ゆっくりお話ししていきたいと思います。まずid:twistedさん。すみません。2回に分けますね…ちなみに、id:type99さん、遅くなって申し訳ないのですが、後日、感想書きます。id:hentaiさんもすみません…

(1)カタルシスについて

「潜在的な抑圧が言語化、劇化されることによって解消される」という意味で、ぼくが『世界ウルルン滞在記』で得るカタルシス(スッキリ感)について再定義してみようと思います。
前回お話しした通り『世界ウルルン滞在記』でぼくはカタルシスを得ていますが、カタルシスを得たあとの応対は、なんだか背中が丸まった感じです。「え〜ぼくこんなのでスッキリしてていいの?」と、涙しながらも自分自身思ったりする感じ。
あの番組で扱っているのは、主に「未開の地にタレントが行き、失ってきた『何か』を見つける話」という一言で片づけてしまえるようなツマラン話です。日本での生活で失っていた「何か」みたいな言い方を時折出演しているタレント自身もするのですが、深刻ぶりたいのか、それとも本当に知能が低いのか、あるいは単に台本を棒読みしているのかわかりませんが、「失ってきた『何か』」なんて、言語化できないふりなんてしなくてもいいのに…たかだか「時間をあまり気にしないマイペースな暮らし」とかそういうものが『何か』に相当するんだろうな…とか何とか思いながら見るわけです。しかも、都会・田舎という二項対立で話は進行し、日本文化とアフリカ先住民の文化の差異に関してはあまり考慮されないのが常です。「心のふるさと」をアフリカに感じるなんて、もうファシズムなんじゃないかと。アホかと。バカかと。そこまで思いながら見るのですが、やはり泣いてしまうのです。で、一時的なスッキリ感を得て翌日出社するわけです。もう欺瞞に満ちたスッキリ感だと自覚しているので、あんまり泣いている自分を肯定しようとは思いません。(面倒なので否定もしませんが…)
言語化、劇化する作用って、それが常に何らかの不満がつきまとうものだろうと思います。人間の存在が言語化・劇化されることは本質的には不可能だから、というのはid:twistedさんも重々承知されていると思います。『世界ウルルン滞在記』の例で言うなら「せかせかと生きる日本人とマイペースなアフリカ先住民」という二項対立からこぼれ落ちるものがいっぱいあります。この例で言うとこぼれ落ちすぎで、アフリカ先住民に対しても失礼だろうと思うくらいです。
ただ、id:twistedさんが「強度」という言葉で表しているように、物事に関して、相対的に言語化がうまくいっているかどうかという指標は当然あると思います。id:twistedさんの場合、言語化の強度が高ければ高いほどカタルシスが強いと感じられているようですが、あえて図式化しやすいように言いますと、ぼくは逆です。その意味で、長渕剛が「日本が好きだぁ〜」と、これ以上想定できないほど大ざっぱな台詞をライブで吐き、その言葉にファンが泣くという構図は、一応理解はできます。そこまで行くと犯罪の匂いすら感じるので、一緒に泣くことはできませんが…
で、モーニング娘のよさがわかっていないぼくでも、たまたまテレビをつけたらライブのシーンが映っており、そこで誰かが卒業するとかいう話になって、ライブのMCで、今までの思い出とか語られた日には、たやすく泣いてしまうと思うし、幾分スッキリすると思うのですが、だからといって非凡だという話にはならないです。
なんか、考察を続けるうちに「凡庸だけど泣いちゃう」よりも「凡庸だから泣いちゃう」の方が近い気がしてきました…
もしかしたらカタルシスに関してはもう平行線を辿るレベルに話が進んでいるのかもしれませんね。今日か明日、(2)について書きますね。