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ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

村上春樹(以下長いので「村」)

蓮實重彦が『小説から遠く離れて』で引用しているのを見ただけで、「?」と思ったのだけれど、まあ、一応通しで読んだ方がいいのかなと思って、ずいぶん前に『風の歌を聴け』を読んだことがあるのだけれども、「なんで何もないのに何かあるような言い方をするのかなぁ」と、ずっと思いながら読んだ記憶がある。なので、id:pqr:20031010に禿同なんだけど、村が好きな人は、たぶん「何もない」とは思っておらず、その「何か」に対して文学気分をかきたてられたりしているのかもしれない。実際、「何かあって、何かある」場合は、その「何か」によって、テクストが変容するはずだと思うんだけど、村のテクストは、変容どころか安定しまくりに見える。

よく、旅番組で田舎に行って、レポーターが「あー都会生活で失った『何か』がここにある」的な言い方をよくするけれども、そこにおける「何か」と、村の「何か」は似ているように思う。レポーターに「『何か』って何だかわからなかったので具体的に説明してもらえます?」と聞けば、「いや、別に何か言いたいわけじゃなくて、いいまとめ方かなと思って言っただけ」と言って口ごもってしまうか、あるいは、「うーん、のんびり過すこと、かな」とか、普通の答えが返ってくるはずだけれど、村も同じ反応をするように思う。たぶん前者の答え方が近い。

あえてわかっていないふりをし、簡単に言語化できるもの、あるいは、最初から言語化どころか存在すらしないものを、崇高すぎて言語化できないかのように振舞う。だいたい言語化しづらいものを本気で言語化しようとする場合、わかりにくくて、醜いものになりがちだと思う。村のテクストがわかりやすいカッコよさ(ソニーのCMみたいな)に満ちているのは「何か」に対して向き合う気が最初からないからではないのかなぁ。

あー小説書きたくなってきた。週末にいっぱい書こうっと。