ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

なぜ石立鉄男先生はわかめの出身を聞いたのか

「わかめラーメン」について、35年以上疑問に思っていた案件が解決した(ような気がする)ので共有させていただきたい。
 
わかめラーメン。言わずと知れたエースコック社のロングセラー商品である。

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今も販売され、ラベルにはsince 1983と誇らしげに記してある。乾燥重量にして5グラムにも満たないわかめが健康にもたらす効果はいかほどかと思わなくもないが、安価な具を加えるだけで、当時不健康な食べ物の象徴的存在だったインスタントラーメンのイメージを変えたのはアイデアの勝利と言わざるをえない。
発売から35年を経ているが、有機丸大豆を使ったり、食物繊維を表示したり、健康をイメージさせる施策に余念がないし、健康に無頓着な人にも、優しい味のインスタントラーメンとして一定の支持がある。
本題とは話がそれるが、ゴマを増量してさらにゴマ油を増量するとさらに天国に近づくのでお試しいただきたい。
 

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実際のわかめラーメンは、ビジュアル的においしいと思えるかどうかはさておき、ほぼわかめに覆われている。これも当時としてはエポックメイキングな出来事であった。当時のインスタント麺は、薬味のネギがまばらに浮いていて、紙のような薄さの真円のチャーシューが浮いているのが精一杯。その状況下で、標準的なカップラーメンの価格帯で、「具が多すぎて麺が見えない」という状態を作りだしてしまったのだ。
 
わかめラーメンがヒットした理由は商品のコンセプト以外にもうひとつある。40代以上の人は忘れられないと思うけれども、あの石立鉄男先生が出演するCMである。のちに柳沢慎吾先生により再演されたことから、エースコック社もあのCMが傑作であったと評価していることがわかる。
 
まず軽快な歌に感動する。聞いているだけで元気になりそうである。主演の石立鉄男先生は、当時ごはんをおいしそうに食べるタレントのおそらくナンバーワンだっただろうし、レオタード姿の女性がわかめ状のテープを振り回すというややシュールな演出。わずか15秒の間に、わかめに対する圧倒的にポジティブな情報が詰めこまれていて、わかめにさしたる興味を持たない子供(including わたし)もわかめに興味を持たざるを得なかった。わかめラーメンのCMは、その圧倒的な存在感ゆえに、エースコック社のカップ麺のみならず、わかめ全体について市場にポジティブな評価を与えたと推測するが、それはともかく、最後のセリフがまったく意味不明だった。
 
「おまえはどこのわかめじゃ?」
 
当時の小学生が食卓にわかめが登場するたびに発し、おそらく親はそのたびわかめパッケージに書いてある原産地を読みあげることでその都度対処していたと思われるが、面倒だと思っていたに違いない。そもそも、石立鉄男先生が、わかめラーメンのわかめに人類の言葉でよびかけているのが謎めいている。人間の言葉を解するのは、せいぜい哺乳類の一部であって、「花に話しかけると花がしおれない」というのはただの妄説である。そもそも花が枯れることはライフサイクルの次のステージに移ることでもあるから、万が一、話しかけるという行為が植物に対してポジティブな効果をもたらすことがあったとしても、花が長く咲き続けるという形ではないはずであるし、植物よりもいっそう原始的な藻類であるわかめに話しかけることにいかほどの意味があるのだろうか……。
 
もしかして、「おまえはどこのわかめじゃ?」と聞いているカップはわかめに向けられたものではなく、視聴者に向けられたメッセージかもしれない。たとえば米が魚沼産であったりするように、ブランド感のある産地のものを使っていることをほのめかしているのかもしれない。わたしはしばらくその説を採っていたのだが、実際にわかめラーメンを買ってみても、わかめの産地はどこにも書いていなかったし、そもそも書く義務もないので、話は振り出しに戻った。ここでわたしは20年ほど立ち止まっていたのであった……。
 
このように失意のどん底で毎日を過ごしていたのだが、ある日、いつものようにわかめラーメンのCMを閲覧していたら、ふと、なぜ石立鉄男先生が出ているのだろうという疑問が浮かんできた。原田大二郎先生でもよかったのではないか。コミカルでありつつも男前で、また別のCMになっただろうけれど、すてきなCMができたはずである。あのCMに石立鉄男先生があまりにもマッチしていたため、疑問にすら思ったことはなかったのである。考えながらCMをリピート再生していると、レオタードの女性が振っているわかめ状のリボンがだんだん石田鉄男先生のモジャモジャした髪とオーバーラップして、なるほど、こんな単純なことになぜ気づかなかったのだろうと思った。
CMのディレクターは、おそらく、単においしそうに食べるタレントとして起用されたのではなく、そのヘアスタイルがわかめをイメージさせるから起用されたのである。平常心で見ていればすぐにわかるはずのことに35年経って気づくとは……。おそらく「ひじきラーメン」だったらすぐ気づいたのだろうと思う。
 
そして、わかめ=石立鉄男先生のつながりを発見したら、最後のセリフの謎も一瞬で解決した。
つまり、石立鉄男先生はこのCMにおいてわかめの化身を演じているのであり、ラーメンの中にいるわかめに同じわかめとして話しかけているのである。人間が出ていれば人間の役をしているに違いないという、非常につまらない思いこみのため、なかなか気づくことができなかった。私生活ではケンカが強くて気が短いことで知られていた石立鉄男先生が、わかめ番長を演じ、「お前、何中出身やねん」と聞いているのとまったく同じ感覚で「おまえはどこのわかめじゃ?」と聞いているのである。
 
墓場まで持っていくことになると思っていた謎が解け(たような気がし)て自分でも驚いてしまったが、これで安心してわかめラーメンをいただくことができてよかったと思ったし、わかめラーメンが好きであのCMのセリフの謎が解けなかった人も、これからは穏やかな気持ちでわかめラーメンと向き合ってほしい。
 

「いかがでしたか」とブログの崇高な理念

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「いかがでしたか」という、もともとは不快な意味を持っていないはずのフレーズが、いつしか読む価値のない、読者を苛立たせるコンテンツの代名詞になってしまった。さらに丁寧なはずの「いかがでしたでしょうか」については、その丁寧さとは裏腹に、いっそう腹立たしいと思われている。
いったい、いつからこのような状況になってしまったのだろう。そもそも、無意味な情報を書き連ねるにしても、なぜ最後に読者に質問するのかと不思議に思う人も多いかもしれないが、その謎について記憶をたどってみた。
 
わたしの記憶がたしかならば、オンラインの文章の末尾につく「いかがでしたか」の決まり文句は、ブログの草創期に、ブログの理念とともに誕生していた。
ブログの登場により、読者と作者の関係が大きく変わった。雑誌やホームページを読んだ人は、その文章に対して感想や批評を述べたくなったとしても、読者ハガキに書くか、電子メールをしたためるかくらいしかなく、読者は筆者の主張を受け取る客体にすぎなかったが、00年代前半に現れたweblogは、そこで書かれた記事はパーマリンクにより記事ごとに読者に開かれていて、反論や認識不足などがあれば、自由にコメントを書いたりトラックバックを飛ばすことができ、ブログ世界の中で応答を含めた全体がひとつの記事となる。
その記事の起草者の知識が不十分であったり、主観性の強いものであったとしても、それに伴う反応で最終的には高度な知識が完成するのである。
 
―「ブログ」という言葉が一般に普及しはじめたころ、ある編集者から上記のような話を伺い、インターネットを通して徹頭徹尾自らの主観を垂れ流すことしか考えていなかったわたしはカルチャーショックを受けた。
たとえばハウスミュージックにおいて、時折発生する無意味とも思えるブレイクや、音数の非常に少ない小節などは、単体で聞くと、音楽としての完成度を下げているように聞こえてしまうが、前の曲や次の曲とスムーズに接続するために必要な「間」である。それと同じで、一読して不完全と感じられる文章も、その不完全さゆえに開かれているのかもしれない。オンラインの文章が開かれていることを保証するため、最後の一節に「いかがでしたか」が挿入された。その一言によって、筆者は文章における絶対的な主権者の地位から降り、読者に対して、読者のポジションから発言の主体という立場をとるよう促すのである。
 
長々と書いてしまったが、「いかがでしたか」というフレーズは、かつては、「作者=作品における神」という古典的な作品概念を破壊するための、インターネット時代の文章を飾る輝かしいエンブレムとなるはずであった。しかし、文芸復興が、「ルネッサンス東中野」(注:実在しない)のような、崩壊していないがゆえに復興することもないアパートの名称に使われたりするのと同様、「いかがでしたか」もまた、起草者の書いたものこそが他のブログからの転載であるなど、まったく言及するに及ばないような品質のもので、ただ、情報をもとめて検索した人々を苛立たせる結果となってしまった。
 
いまとなっては、自分も含めて、文章が開かれている状況に耐えられる人がどれほどいるのかと思う。
成功しているのはWikipediaくらいのもので、それにしても、読み手がうれしいだけかもしれない。書き手は記事の完成度を高めるための人柱でしかなく―どんなにすばらしい項目があったとしても、その筆者の名前は憶えていないどころか確認しもしないのが常である―モチベーションは上がらない。
一方でTwitterなどのミニブログでは剽窃が横行し、自分の作品でなくてもいいから神になりたいと思う人の巣窟になってしまったし、ツイートにコメントしただけで怒る人種もいる始末で、開かれた文章どころではない。
 
人類には「いかがでしたか」は早すぎたのかもしれない。
わたしは「いかがでしたか」を見かけるたび、インターネットの理想が潰えてしまったことを想い、せつない気分になるのだった。
 

人類でも惚れてしまう、かっこいい模様のあさりについての報告

先日、あさりのホニャホニャうどんをいただいたときの話。
実際のメニューの名前は、たしか単に「あさりうどん」だったはずだが、あさりの味が薄かったので、あさりとうどんの間に「ホニャホニャ」という緩衝地帯を設けておかないとわたし的におさまりがつかない。そもそも味がしないのに殻だけは一人前につけているところが少々気に入らなかった。漁港のそばで定食とともに供される蟹の味噌汁と概ね同罪で、罪名は「海っぽい気分だけを味わせた罪」。ただひとつだけよいことに、あさりのうちの一匹の模様がまるで水墨画のようだったのだ。
 

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念のため書き添えておくと、あさりの模様のすべてがこのように美しいわけではない。わたしはあさりをいただくときは、ひとつひとつ模様を確認しながらいただくという、人畜無害だが悪趣味な習性を持っているのだが、そのわたしの経験上、ほとんどのあさりの模様は退屈である。

 

念のため白黒にして、より水墨画度を高めさせていただきたい。

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人類においては、風景の入れ墨を背中に施している人はいなくもないが、不良とみなされてあまり異性の評判はよろしくない。それと比べてこのあさりの模様は天然のもので、少なくとも誰かを威嚇しようとする意図はないので、このあさりに金をせびられたり、因縁をつけられることもないのである。ありがたい話である。

 
一説によると、ストレスなどが貝殻の模様に影響を与えることもあるらしい。ストレスがかかると、貝殻が白くなるのか、それとも茶色くなるのかは知らない。人類はストレスを受けると髪が白くなるが、それと同じで白くなるのかもしれない。あるいは、正反対だけれど、人類においては経験の多い人体は経験した部分が早く黒ずむという俗説があるが、貝においてはそれは俗説ではなく、実際に経験を積むと濃い茶色の模様が刻まれるのかもしれない。
 
おもにわたしが感情移入したいというお気持ちからこの貝が雄であると断定するが、彼はよりよい模様を殻に刻むべく、白い模様を入れたいときには、ストレスを与えるため、貝の硬い殻を割るような歯を備えているフグ科の魚のそばに自分から近づいていって、給水管を器用に操りながらダンスを踊り、魚のターゲットになることで生命の危機を感じるように自らを仕向けたのかもしれない。また、茶色い模様を入れたいときには、摂取した栄養のほとんどを精の子の製造に割り当て、盛んに女の貝がいるところで放出し、精の子を引き取ってもらったりしたりしたのかもしれない。あるいは、人間として生まれたかったのに貝に生まれてしまったことそのもののストレスで模様を身につけた可能性もある。いずれにせよ、涙ぐましい努力を何年も続けることで、彼はついに自らの身体に理想的な模様を身につけたに違いない。
 
この模様を完成させた彼はきっと、たいそう女の貝たちにモテたことだろう。砂の上に気になる模様があると思って近づいたら、本体が現れ、彼は模様の説明を始める。お嬢さん、この模様、何の模様か気になったことでしょう。この模様な、ぼくたちがいる海底よりずっとずっと高いところ、陸地という、水のない場所の風景なのですよ。われわれはそこで暮らすことはできないのだけれど、そうであるがゆえに、われわれは陸地の情景に心惹かれてしまうのかもしれません……などと口走り、女の貝が彼の紡ぐ物語に夢中になって卵子が漏れ出した瞬間、彼は急いで精の子を撒き散らし、確実に受精させるのであった。その手口に気づく貝もいれば、気づかずに妊娠してしまう貝もいたようだが、貝の世界では男女平等などの概念は希薄だったし、それを性暴力とみなすアサリもおらず、彼はやりたい放題だった。
 
ある日、彼がいつものように自分の巣で砂に抱かれながら通り過ぎていった女の貝たちの夢の中でまどろんでいたところ、ベッドもろとも鉄のスコップで掬われた。
彼はそれまでの努力も虚しく人間に捕らえられ、不適切な調理方法を経て自らの屍について大した味でないと罵られることとなった。
 
これを非業の死と言わずに何と言おうか。しかし、彼の体に刻まれた圧倒的なスケール感のある模様は、われわれ人類の心に深く刻まれたのである。
 
 

中年女性を揶揄するフォークソングとハンバーグ定食の間で

ラーメン屋などでオリコンのヒットチャートが有線でかかっていることはよくある。音楽にこだわりがないなら無難な音楽をかけてほしいと思うのだが、まさにマジョリティーにとっての「無難な音楽」がオリコンのヒットチャートなのだろうから耐えるしかない。わたしは正確にオリコンのチャートを把握してはいないので、もしかすると店主の心のオリコンチャートの上位にランキングした音楽をかけているのかもしれない。それならそれで、使用料を支払わずに流していることになるため、わたしの心のJASRACが黙っていないはずだが、それはともかく、そのような体験をするたびに、お口に広がるおいしさと内耳に広がるつらさが極まった状態になったらどうなるだろうかと思っていたのだけれど、先日、その暫定的な答えを得た気がしたので報告させていただきたい。

 
仕事が早く終わったある日のこと。まっすぐ帰宅するのも味気ないので、ほとんど降りたことのない駅で下車してみた。よさそうな店を見つけて夕食をいただこうと思ったのだ。その店はビル街にある定食屋で、こういう店はランチタイムには行列ができるが夜はゆっくりできることが多い。実際に入ってみると、お客さんが少なめなのもよかったのだが、入り口からは想像ができないほどゆったりしたつくりで、席と席の間が1メートル近く離れていて、定食屋というよりレストランと呼ぶ方がふさわしいかもしれない。店に入ったとたん「再訪したい」と思ったのだった。メニューは普通だけれど、夕食のあと、コーヒーでも頼んでゆっくり読書できたりしそうだ。ざっとメニューを見て、単価の高いほうがゆっくりする言い訳になるかと思い、いちばん高かったデミグラスソースとチーズのハンバーグ定食を頼んだ。
 
ここで状況は一変する。わたしの注文が終わるのを合図にしたかのように、ポロロンと奥の方からアコースティック・ギターの音が聞こえた。まず奥があったことに驚いた。ふつうの店は奥がないのに奥があるように見せるために鏡を置くなどの工夫をするのに、この店は奥があるのに奥があることをアピールしないとは……。しかもこの臨場感、録音された音ではない。
つまりここは、世にも珍しい、生演奏が聴ける定食屋だったのだ。すぐに演奏は終わり、「どんなのが好きですか、なんでもやりますよ。」という声が聞こえた。少ない客のひとりが、「N」という、愛国的なアティテュードでおなじみのミュージシャンを挙げた。わたしの主観を語ることが許されるとするなら、生では最も聞きたくないとわたしが思っているタイプの演奏で、つまり地獄へのプロローグである。ここで「Nさんの音楽だけはやめてください」と叫ぶわけにもいくまい。ここはNの音楽が好きな人のための専門店かもしれず、それを調べなかったわたしの責任であるし、ここにいるうちはNが大好きであるかのようにふるまわないと失礼にあたる。
 
このように覚悟を決めたのだが、驚くべきことに彼はリクエストには応えず、謎のオリジナルソングを歌い始めた。それが真にNを愛するミュージシャンの態度であると思っていたのかもしれない。一瞬、(個人の感想として)「助かった」と思ったのだが、彼が始めたのは(個人の感想として)助かったとは到底思えない歌だった。歌が意識に流れてくるのを阻止すべく、心の弾道ミサイル迎撃システムを起動したが、実際の弾道ミサイル迎撃システムがそうであるように、インパクトのあるフレーズのすべてを遮断するのは困難だった。
その歌は、あろうことか、サビのところで、「ちょっと年増は遠慮させてください〜」というフレーズを何回も繰り返す歌だったのである。コミカルな歌という位置づけなのだろうけれど、いまこの店は、「年増」の定義に合致する客と店員がいるのに、コミックソングとして聴くことができるかはなはだ疑問である。少なくとも、キッチンに見え隠れしていた「年増」にあたる店員さんは、ハンバーグをこねる手が震えたのではないだろうか。
 
しかも、よく磨かれた鏡に反射されたミュージシャン自身の姿も50を過ぎているように見えた。若気の至りで歌っているのではなく、自分もそれなりに「年増」だというのに、自分だけに選ぶ権利があるかのごとく歌えるなんて、大した自信である。
そもそも、フォークソングというものは、「女は若さこそが命」という保守的なイデオロギーなどに対して異議を唱えたりもする音楽が多いことを考えると、無駄に斬新でもある。
 
……などと考えているうちに、デミグラスソースとチーズのハンバーグ定食がきて、わたしは直ちに食べはじめた。

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ジューシーな肉汁やデミグラスソースやチーズとのマッチング具合などのおいしさ情報が舌から伝わってくるのだが、まったくその情報が心を打たない。

 

よく、「料理は見た目が何割」などという言い方があるが、聴覚情報もおいしさに関与することを自分の口と耳で確かめることができた。飲み終わるころには次の歌の演奏を始めていたのだが、お会計を済ませて「ごちそうさまでした」と言って店を出た。
長居しようとは思えなかったものの、味覚と聴覚が引き裂かれるという得がたい経験をさせてもらったことについては感謝していて、そのあとも何度か引き裂かれに行っている。
 
たとえば有線で日本のヒットチャートをかけているフレンチがもしあれば行ってみたい。「フォアグラとアナゴのソテーの赤ワインソース 季節の野菜を添えて」などをいただきながら聞いたら精神にどのような変調が生じるのか、実際に体験してみたいと思っている。
 

韓国の茶色い粉 おいしくてヤバい

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ドラッグに類する粉の多くはエクスペンシブであり、気持ちよくてエクスペンシブなものに囚われてしまったら、その気持ちよさを追求するためエクスペンシブ性に目をつぶり続々とその粉を購入し、やがて破産してしまうという危険性をはらんでいるので、粉を見たときにわれわれは以下の点に気をつけなくてはならない。
 
①その粉はエクスペンシブなものではないか
→エクスペンシブであるかどうかの目安は人によるが、借金をしてその粉を購入していたら、その粉はどう考えても身の丈に合わずエクスペンシブである。
 
②その粉に常習性はないか
→常習性とは、「それを摂取しないと禁断症状が出て、生活が困難である」ということ。仕事の疲れを粉で癒やすことがあってもよいが、その粉を入手するために仕事をするようになってしまうと、主従関係が逆転してしまい、人生を粉に支配されているということになる。
 
③その粉はファッショナブルでないか
→たとえば映画でその粉をファッショナブルに摂取しているシーンがあれば、若者たちはゲーム感覚で摂取してしまうので危険である。もしその粉が映画に登場したとしても、その粉を常用しているがゆえに異性に相手にされない……などの描写を伴うことが必須であり、不良男女が集まって摂取したあと事に及ぶような粉であってはならない。
 
たとえばコカインについて確認すると、見事に①②③すべて「×」である。さすが幾多の有名人を天国へ導いただけのことはある。アンフェタミンは③については「シャブ」という、聞くからに面白い俗名がついていることから「○」であるが、①②は「×」でありお勧めできないし、そもそも持っていたらブタ箱行きである。
では、桂花ラーメンのスープを飲み干したあとに器の底に鎮座している例の粉末はどうだろう。
 

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(ご存じない方のために完飲して撮影してきたので労ってほしい)
おそらく①②③とも「○」であり、適当ではないかと思ってしまうが、カルシウムが摂取できるかもしれないにせよ、肝心のおいしさという点では疑問が残るし、常習性という意味においてはむしろマイナスである。
 
―ここまで書くと、そんな都合のよい粉があるのかしらと思うかもしれないが、①②③とも「○」になるものは存在する。今回紹介する韓国の茶色い粉である。世の中には基本的にうまい話はないが、「めちゃくちゃ勉強して偏差値の高い大学に入ると、就職活動が少々楽になる」という程度のうまい話なら存在するし、諸国のおいしいものに目を光らせていれば、おいしいものにありつける確率は上がるのである。
 
 
ここまでのまとめは「おいしい粉があるよ」の一言で要約可能で大変申し訳ないが、本題に入りたい。
韓国の茶色い粉が、上記にあてはまるありがたい粉であり、そのすばらしさをお伝えしたく、筆を執った次第である。
 
その茶色い粉はエゴマの粉。韓国料理で登場するのは、おもにカムジャタン(じゃがいもと豚の背骨の鍋)で、提供されるとき、あらかじめ上に振ってあることが多い。日本の食べ物で近い位置づけのものはゴマだけれど、ゴマより素朴な香りがする。以前より、この粉は何だろうと思っていたのだが、単体で簡単に入手できることを知って驚いた。値段もゴマと同じくらいで、手頃な値段で入手できる。首都圏在住の方なら、大久保の韓国料理の食材の店―といってもわたしが知っているのは「ソウル市場」のみなのだが―の、出汁や調味料のコーナーに置いてある。

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これがわたしが買ってきたエゴマの粉。500グラムで750円。コカインの約1/13000の値段である。(念のためだけれど、コカインの安さを強調するコーナーではない)
 
種の殻が入っていない粉末も売られているが、種の殻のモサモサした感じや苦味も魅力なので、このようにまだらになっている粉を選びたい。
 

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パッケージの女性のお召し物を見て、襞になっているところに粉が入ってザラザラしそうだなと余計な心配をしてしまう。
 
成分は、エゴマの粉だけでなく、もち米が入っている。大量に使うと独特のとろみが出てくるのだが、おそらくこのもち米によるものだろうと思われる。
 
用途であるが、家でカムジャタンを作りたい場合はもちろん、インスタントラーメンの上にかけると、飛躍的においしさがアップするのでお試しいただきたい。
 
もっとも相性がよいのは、インスタントラーメンの中でもカムジャタン寄りの辛ラーメン。特に辛ラーメンの兄貴分にあたる辛ラーメンブラックと組み合わせると最高である。
 

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辛ラーメンブラックは辛ラーメンの上位互換で、その増額分のすべてにあたる牛骨スープがすばらしく、経験してしまうとふつうの辛ラーメンは食べられなくなってしまう。上位モデルであることをわかりやすくするために「辛ラーメンゴールド」にしたらいいのにと思うのだが、韓国における「黒」というのは豊かであることを象徴する色なのかもしれない。
 

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このように大量にかけるとスープがマイルドかつ豊かになる。マッチングの度合いが著しく、毎度入れていたらなしでは過ごせなくなってしまう。
 

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よく混ぜて食べると最高なのだが、絵柄的にまずそうに見えることは承知している。
 
「じゃあ、セブンイレブンに置いてある中本はどうなんだ?」という声が聞こえた気がする。明らかに幻聴であるが、試してみると同じ効果が得られる。

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器が小さいのでエゴマの粉にすべて隠れてしまっているけれども、入手した暁にはこれくらい盛っていただきたい。
 
また、辛ラーメンや中本のラーメンは辛すぎて苦手な人や、近所で入手が難しいという人には塩ラーメンがおすすめ。塩ラーメンにはゴマがついていて、それが魅力的であることはご存知かと思うけれど、あのゴマが装いも新たに無限増殖してやってきたと思っていただければ素晴らしさが伝わるかもしれない。
 

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念のため先住民であるところのゴマを一番上に載せてみたけれどもゴマへの敬意は伝わっているだろうか……。
 
なお、韓国風味を高めてくれるこのスプーンは東京蚤の市で購入したアンティークで、1枚の真鍮の板から作られたようである。

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何百年前のものかしらと思うかもしれないが、この黒ずみのほとんどは、恥ずかしながらわたしが買ってからついたものである。
Instagramなどで、白い壁をバックに撮ると当世風になることを学んで実践してみたのだが、ちょっと違う感じ……やはりオッサンがすると違うのかもしれない。
 
見た目からはそのおいしさがまったく伝わってこないと思うけれども、こんな簡単で安くておいしい粉が、韓国のスーパーでも端っこに追いやられているのは大きな謎である。わたしはこの粉を常備しているし、仕事がうまくいかない日があっても、「まあ家に帰ったら茶色い粉があるし」と思えて心の支えにもなるのである。
 
インスタントラーメンを食べると負けた気分になると思いつつもインスタントラーメンがやめられない中年の皆様におかれましては、エゴマを盛りさえすれば、堂々と胸を張って食べられ、自己肯定感も高まるはずなので、強くおすすめする。
 
 
 
 
 

【作り話】ヒッチハイクで日本縦断を試みた小学生の話

小学4年生の大翔くんの、Twitterで実況しながらヒッチハイクで日本を縦断する計画は青森駅から始まった。
 縦断と称するなら、宗谷岬からとはいわないまでも札幌などから始めるべきだったが、北海道は熊がいて危ないから青森からにしなさいと父親に言われ、青森駅から出発することになったのだった。熊に遭遇する確率よりもペドフィリアに遭遇する確率の方が高いのだから、ヒッチハイクで日本縦断すること自体についても止めればよかったのかもしれないが、父親は父親で、使っていない部屋の電気が灯っていることについて口うるさく注意して家を出、その足で競馬場に行って部屋の電気代に換算して数年分を使い果たして帰宅するなどしていたことから考えると、大翔くんの行動を部分的であっても止めることができたというだけでも上出来だったのかもしれない。
 

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大翔くんの最初のツイートは写真を添えるわけでもなく、ただ「行ってきますぅ!」としか書いていなかったから、誰の注目も浴びることはなかった。発達途上の彼の知能のほとんどは「ぅ」を入力することに費やされ、大翔くんは自分が打ちこんだ「ぅ」の小ささに満足した。彼のプロフィールには「みんな見てるかな?」としか書いておらず、見ている人を「みんな」と定義するのであればみんな見ていたことになるのかもしれないが、たまたま見かけた人でも、それが小学生の(ほぼ)日本縦断計画の最初のツイートだとはわかるはずもなかった。大翔くんは親と話すときも親が知らないクラスメイトの話を注釈なしで始めてしまうので、ツイートをするときも、第三者にわかるように表現するという発想がなかったのだが、それも小学4年生なので無理はない。
 
その後も彼は、「宮城 ずんだもち」など、地名と食べた名物をツイートするのがせいぜいだったが、ヒッチハイクを始めて5日後に栃木県を通過したとき、彼が撮った腕の怪我の写真が尻に見え、画像を探している大人たちに見つかったのがきっかけで、彼が小学生であること、ヒッチハイクで日本を縦断しようとしていることが知られるようになった。しかし大翔くんは平均的な小学4年生の語彙力しか持ち持ちあわせておらず、ヒッチハイクの楽しさを伝えるようなツイートはできなかった。退屈していた大人たちは大翔くんの女性経験を聞き出そうとし、大翔くんは正直に、上級生の女の子に無理やりキスされたことを告白したのだが、大人たちの一部は返り討ちに遭ったような気持ちになった。ツイートを見ていた大翔くんの父親は、その件がいじめにあたるのではないかと懸念したのだが、やはりそこでもヒッチハイクそのものの実施については懸念は持たなかったのだった。
 
ツイートに異変があったのは、彼が西日本にさしかかってきたときだった。これからXに行きますとツイートしたとたん、それまで大翔くんの下半身についての質問に終始していたフォロワーたちから、Xはガラがよくないから行かない方がよい、わざわざ危ないXを通らないようにしても日本縦断できるんじゃないの、などのリプライが殺到した。
それを見て怒ったのはXの住人。東京都民に悪口を言われたと早合点し、東京の方がよほど危険であると統計とともに反論し、それに対して東京都民も、やはり田舎には陰湿な風土があるなどと反撃を始めて、大翔くんのツイートにはXと東京の戦争がぶら下がっていった。
 
Xは大翔くんの父親の出身地でもあった。父親はX出身であることについて誇りを持っているつもりはなかったが、大翔くんがXにさしかかってきたときは嬉しい気持ちになったし、小学校の運動会で、地域に伝わる河内音頭を逆回転させたような伝統的な踊りをした思い出が頭をよぎったりもしたので、Xが誹謗中傷されることに耐えられなくなって大翔くんに電話し、ヒッチハイクをやめて帰ってくるように言ったのだった。
 
大翔くんは志半ばで帰ることになった。新幹線で帰途についたが、近くの席の後期中年群の、あんな子供がひとりで新幹線に乗っているなんてどうなのかしら、親の顔が見てみたい……などのヒソヒソ話を耳にし、居心地が悪くなって寝たふりをしたら本当に寝てしまい、新横浜で降りるべきところを品川で降りる羽目になってしまったのだった。(了)
 
 

首都圏の冬の絶景。「三十槌の氷柱」と「あしがくぼの氷柱」で、天然と人工の氷柱を見て自然の小ささを知るの巻

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先に、忙しい人(お仕事無理せんといてね……)のためにまとめておいたので参考にしてほしい。このまとめ以下は単なるポエムなので読む必要はない。
  • 2019年の三十槌の氷柱の公開期間は2月17日(日)、あしがくぼの氷柱の公開期間は2月24日(日)まで
  • 急行バスに合わせて特急を予約すると楽
  • 「三十槌の氷柱+三峯神社」のセットより、「三十槌の氷柱+あしがくぼの氷柱」の方が楽しいかもしれない
  • あしがくぼの氷柱だけでもお釣りがくる(何のお釣りか知らんけど)感じがある
 
在学中にスクールカースト上位で、就職してからも会社カースト上位にいるような人でも、冬になると、ふと三途の川の向こう岸がどうなっているのかについて興味を持ってしまうことがあるという……などと微妙なデマから書き始めてみたのだが、誰しも部屋にこもりがちな季節であることは事実だろう。コミュニケーション界におけるカースト上位の人であれば、「最近引きこもりみたいでさぁ……」などと語り始めるかもしれない。彼はきっと、土曜の午前中家にいただけで、夜の飲み会で「引きこもっていた」などと表現して同情を誘うのだろう。それはただの「在宅」であり、引きこもりをナメるな!……と言ってやりたいところだが、わたしもそこまで引きこもっていないので偉そうなことは言えない。人々が部屋にこもりがちなこの季節に、わたしが首都圏在住の皆様に訴えたいことといえば、「冬には冬なりの楽しいお出かけがある」ということである。
 
首都圏在住の者にとって「冬ならではのお出かけ」は困難を窮めることはご存知のとおりである。たとえば高尾山に行こうと思って行ってみても、そこにあるのは、秋と変わり映えのしない、単に気温が低くなっているだけの世界であり、冬に行くメリットといえば、人が少ないことくらい。高尾山以外の名所、たとえば上野動物園などでも同じことである。やはり豪雪地帯の雪かき体験に参加し、もしかしてこれってただの無賃労働ではないかと首を傾げながら雪かきをしたりするしかないのだろうか……と思っていたら、首都圏にあるのにあんまり首都圏にある感じがしないゾーン、つまり埼玉・秩父で、冬ならではの氷柱「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」を鑑賞できると知り、さっそく向かうことにした。
 

西武特急は前日でも窓際席の予約がとれて穴トレインである

「三十槌の氷柱」は、秩父駅や三峰口駅から三峯神社に向かう途中にある。関東で最も重要な聖地とみなす人も多い三峯神社とセットで訪れる人も多いようだけれど、神社の奥の院に行くことを冬季は推奨されていないこともあり、神社と奥の院を合わせては春や秋に訪れるのが適切かもしれない。奥の院に行かなくても三峯神社をコンプリートしたという実感が得られる方ならこの機会にあわせて行ってもよいかもしれない。そういう方は、高野山の奥の院にも、金刀比羅宮の奥の院にも行かなくても平気なのだろう。分別なく何でもコンプリートしたいと思ってしまう人よりも、やめどきを正確に見極められる人の方が幸せに暮らせるのかもしれない。
 
電車で行く場合は、池袋から特急に乗って、終点の西武秩父で降り、そこから急行バスに乗る。西武特急は前日の夜でも窓際の席が確保できるほどで楽勝。その楽勝の背景には運賃と特急料金がほぼ拮抗しているアンバランスさにあるのかもしれないが、そんなことはどうでもよろしい。急行バスは昼に近くなってくると混雑してくるので、最初のバスに間に合うように特急の手配をすればスムーズである。
 

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今回乗ったのはニューレッドアロー。見た目あまりレッドでないのが少々寂しかったのだが、ニューなのはよいし車内は快適だったので大満足。
3月からは宇宙的デザインで、窓が足元まで及ぶラビューが運行され、次回三峯神社に行くときは乗って報告させていただきたいと思っている。車窓の風景が抜群かというとそこまでではないのだが、大きな窓によって開放感を満喫できることは間違いなさそうで、楽しみである。
 
 

三十槌の氷柱は二種類ある。比較的すごい氷柱と、すごい氷柱。

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池袋から西武秩父までは約80分。急行バスには45分程度乗るので、座れた方がらくだけれど、急いでバス停に向かわないと座れないかもしれない。このような「駅に着きました~」的な写真は帰りのときに撮った方がいいかもしれない。
 
バス停「三十槌」に到着。

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入場には200円必要。観音開きになっていて、間違って拝んでしまいそうだがpayするところである。観音もpayするところだから同じか。
「環境整備協力金」とのことで、この名前のものものしさが、徴収する側の後ろめたい気持ちを言い表しているように思う。シンプルに「入場料」でイイっすよと思う。
 
 

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バス停から川辺に降りると、向こう岸がもう氷柱の世界である。
始発の急行バスに乗ると、9時半について、このように人も少ない、
すばらしいねーと思いながら撮る。
 
 

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ふと振り向くと、「天然氷柱ゾーン」の看板。
つまり、人工の氷柱もあるということか……と思って先を見ると……。
 
 

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人工ゾーンの看板。

説明で「人類の叡智を絞って天然よりも豪華な造形を!」などとしてほしかったが、人工だけどほとんど自然だよ的なアピールに終始している。
氷柱をわざわざ人工で作ってどうするのと思ったのだが、実物を見て思わず納得。

 

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オォ……神よ……人工氷柱の方が面積が広くて氷柱も厚い。雑にまとめると「人工氷柱の方がいい」ということになる。
 
ここで天然の氷柱が霞んでしまったが、では天然の氷柱の引き立て役として小規模にした人工の氷柱を公開してはどうかと考えた。しかし、それでは人工の氷柱を公開する意味がまったくなく、つまり今のあり方が正解である。
 
鑑賞の順番として、「天然の氷柱→人工の氷柱」の順番で徐々にビルドアップしていく流れになっているのは大変ありがたい。もし逆の順番で「人工の氷柱→天然の氷柱」となっていたら、「自然って大したことないな……」という感想になってしまうからだし、「天然の氷柱→人工の氷柱」の順番で見たとしても、気をしっかり持っていないと、ついつい、「自然はつまらない、人間ってすごい」などという傲慢な思念に意識を支配されてしまう。
 
そして今回、新しいレンズを導入した。
話せば長くなるが、約20年前に作った住友銀行のカードが部屋の片隅で発見され、念のためATMに差してみたら……という経緯でレンズを手にした。
シグマの150mm~600mmのレンズなのだが、10万円しなかった。レンズの性能を考えれば軽いレンズだが、見た目の極まっている感は隠しようがない。
 
 

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想像してほしい。気軽なお出かけと思って集合場所に来たのは、こんなごついレンズを携帯しているオッサンだったら……どんなにのんびり屋さんでも急用を思い出すに違いない。
手持ちでじゅうぶん撮影可能なのだが、注意して扱わないと手首を傷めそうである。
撮影に負荷がかかりはしたが、導入の効果は抜群で、川の向こうにある氷柱の泡のひとつひとつも捉えることができ、なぜもっと早く買っておかなかったのかと激しく後悔している。一般的に600mmのレンズは、鳥か航空ショーなどを撮りたい人のためのものかもしれないが、わたしのように、何でも拡大したいという性癖の持ち主なら、風景写真でも多用することになるだろう。
 
レンズを購入したことを正当化するために少々お付き合いいただきたい。
 
 

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これは川を隔てた向こう岸を、105mmで撮った写真。
 
 

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川面すれすれのつららを600mmで撮った。これはトリミングしていない写真。

 この時点でも、こんなに近くまで!と思うのだが(思っていない方は思っていただきたい)、さらに等倍でトリミングすると……。

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まるで顕微鏡のごとくである。

水に接するとやはり溶けてしまうのだなあ~と思ったが、そんなことは写真を見るまでもなくわかることなのかもしれない。

 

 

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大自然……と思ったかもしれないが、こちらも人工であり、褒めたたえないと気が済まないという場合は、「人類の叡智の結晶」のような言い方が適切かもしれない。

 

 

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こうやってアップで見ると、まっすぐではないことがわかる。

 

 

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寄っていって手の平でシャーっとやりたい感じがする。

 

 

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そういう性癖の方のために、特別にハイヒール状の氷柱も用意しております。

 

 

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中央の氷柱は完全犯罪などに使われる感じの尖り方である。左の方も地表についてしまって丸くなってしまったが、昔はブイブイ言わしてたんやろな……。

 

 

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地表に達した瞬間の氷柱は先端が尖っているが、達したあともずっと水が流れてくると、柱のようになるということなのだろう。

 

 

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どことなく不潔感の漂う氷柱である。

 

 

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日が昇るとともに、どんどん溶けていくのがわかる。なので行くとしたらやはり朝早めがよいと思う。

 

 

人工氷柱の仕組みがよくわかるゾーンもこっそり用意

自然の驚異を感じたいと思ったのに、人工物の雄大さに感激してしまった……と打ちのめされながら、帰りのバスに乗ろうとしたが、何やら川下の方にもうひとつ氷柱がある模様。

 

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この氷柱もまた人工の氷柱で、これがほぼ全景なのでかなり小規模だが、それを補って余りあるほど扇情的である。わざわざ枯木を持ってきて氷柱を形成させているのである。
そして、近くまで寄り、触ることが可能。

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この氷柱には寄れるので、スマートフォンしかお持ちでない方も、ばっちりコーティングされた氷柱の写真が撮れる。

 

 

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こちらの氷柱は女体を想像させる。

 

 

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 これはジュンサイを想起させる。大きなお世話かもしれないが、光合成とかそのへんは大丈夫なんだろうか。
 
 

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急坂の上には、きっと氷柱のジェネレーターがあるのではないかと思って上ってみたら、案の定である。

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思ったより水の量は少ない。そして、霧状に水を出すほうがよいようである。

 

 

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近くにはボロボロのボートが置いてあっていい味。
 
 

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まわりには水撒きをしたときならではの形状の不思議な形状の氷たち。
湧水が氷柱になる場合は、偶然が重ならないとここまで複雑な図形にはならないのだろう。天然の氷柱が人工に勝つのは難しい。
 
 
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人工の氷柱の方が天然の氷柱よりもすぐれていることに、人類の一員として喜ぶべきだと思うのだが、なぜかうつむき加減になってバスに乗って西武秩父駅に向かった。このあと、さらなる衝撃を受けることになることを予感してはいなかった。
 
 

実は本命かもしれない「あしがくぼの氷柱」

早めに出発すれば、午前中に西武秩父駅に戻ってくることができるのだが、せっかくと思い、2014年からはじまって最近話題になっているらしい人工の氷柱、「あしがくぼの氷柱」も見て帰ることにした。
 

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池袋駅でも冬の西武はあしがくぼと心中するくらいの推し方であるが、モデルの女の人が引き立ちすぎていて、本末転倒のように思うかもしれない。しかし、行く人はみなこのような写真をInstagramに載せたりすることを考えると、地味ながら活用イメージがわかりやすく、稼げる広告だと思う。
 
こちらは西武秩父駅から西武秩父線で二駅の芦ヶ久保駅から歩いて10分というアクセス良好な場所にある。さすが人工、「氷柱の方から来い」を地でいく設計である。
 
 

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芦ヶ久保駅を降りると、休業中のそば屋に車少なめの駐車場。繁忙期なのに大丈夫なのかと思ったが、この下の道の駅にすべてのリソースを集結させているようなので心配無用である。
 
 

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斜面に家が建っているのを見ると興奮するタイプである。
 
 

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駅から順路が指定されていて、その道中も、木を細かく切ったものを詰めていて、天然がいいとは言わせないという迫力が感じられる。
 
また、氷柱の紹介も潔い。
 

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見栄えのする氷柱を作ろうという強い意思が感じられてすばらしい。
こちらの入場料は300円。三十槌と同じく、名目が漢字6文字くらいだったと思う。
 
 

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中に入ると、富士浅間神社の鳥居がある。
もちろん飾りではなくて、この先の神社の第一の鳥居なのだが、冬季は氷柱制作のため、このルートからは神社には行けないようである。
 

 

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入口から一面が氷で、すばらしい迫力である。
 
 

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ここの氷柱は触ることを推奨しているところもあるのだが、「さわれる氷柱」と言えばいいところを、POP体で「おさわり氷柱」と表現していて、その無自覚な風俗感に感動した。
 

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この日の前日に雪が少し降ったこともあり、得体の知れなさに拍車がかかっている。

 
 

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奥に行くと、記念写真に最適なスポットがあるのだが、記念写真に興味がないため、黙々と撮影させていただいた。
 
 

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これは笹の葉だと思うのだが、ジュンサイ度が極まっていて感動した。
 
 

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人工だけあって、昼間は日当たりがよく、生き生きとした氷柱が撮れる。
もう人工の氷柱でないと見た気がしないという気分。
 
また、丘を登っていけば、展望ゾーンに行くことができる。

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 スケール感をお伝えできていれば幸甚である。
 
電車といっしょに撮れるようにもなっていて、電車が通っていないときは「ここに電車が通ったらめっちゃいい絵になるのでは?」と期待してしまったのだが……。

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氷を蹴散らすくらいの勢いで来てもらえないと満足できないなーという感想を抱かざるを得なかったのだが、運行の妨げになるものを置くわけにはいかず、これが精いっぱいのサービスで、ありがたいと思うべきである。
 
 
この「あしがくぼの氷柱」は、三十槌の人工氷柱よりもさらに一歩進め、氷柱を美しく見せるために木を伐採していることが見てとれる。

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ここが山との境界線。わかりやすい。
 
 

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線路を挟んで反対側では山肌に海苔のように太陽光発電装置が張り付いている。自分が山だったら、冬だけ氷柱ゾーンにされるより太陽光発電に使われた方がいいかな……遠くから見たらハゲてない感じに見えるところがいいから……。
 
 
 

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「木を横に置いておくとニュラ~となってかっこいい」という知見が得られた。
 
 

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「こんなん絶対天然の氷柱なら不可能やろ」という氷のまとわりつき方をしているところを見かけて観察するのも一興である。
 
 

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スプリンクラーを発見。自らも氷に囲まれながらも獅子奮迅の活躍であります。
 
冬の絶景を堪能した~と思って帰りの特急に乗り、池袋駅に着いたのが16時。思ったよりもずいぶん楽に行けた。北国へ行けばよりダイナミックな風景を堪能できるのだろうけれど、首都圏で思い立ってすぐ行けて、帰りに池袋で中華を食べて帰る……というのができるところがありがたい。
 
もしあなたが天然の氷柱にこだわらないのであれば、アクセスも容易なので、あしがくぼの氷柱だけを見て帰ってもいいかもしれない。もし三十槌の氷柱とセットで見るなら、必ず三十槌の氷柱を先に見るようにすべきである。あしがくぼの氷柱を見てから三十槌の氷柱を見て、「やっぱり天然がいいね~」と言える人がいたとしたら、おそらく天才である。
 
自然のちっぽけさ、人類の叡智について実感できてたいへん有意義な時間を過ごすことができた。 莫大な想像力を消費するため、日帰りでも数日旅行したときのような満足感が得られるのだが、ロールシャッハテストでいろいろ思いつきすぎてしんどくなるタイプの人は「これはただの氷だから」と自分に言い聞かせながら見ると大丈夫なのかもしれない。
 
 
なお、ここまで書いて言うべきことではないかもしれないが、当て字みたいなのが大嫌いなので、「氷柱=つらら」を書き続けるのがつらかった。