ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

【作り話】ヒッチハイクで日本縦断を試みた小学生の話

小学4年生の大翔くんの、Twitterで実況しながらヒッチハイクで日本を縦断する計画は青森駅から始まった。
 縦断と称するなら、宗谷岬からとはいわないまでも札幌などから始めるべきだったが、北海道は熊がいて危ないから青森からにしなさいと父親に言われ、青森駅から出発することになったのだった。熊に遭遇する確率よりもペドフィリアに遭遇する確率の方が高いのだから、ヒッチハイクで日本縦断すること自体についても止めればよかったのかもしれないが、父親は父親で、使っていない部屋の電気が灯っていることについて口うるさく注意して家を出、その足で競馬場に行って部屋の電気代に換算して数年分を使い果たして帰宅するなどしていたことから考えると、大翔くんの行動を部分的であっても止めることができたというだけでも上出来だったのかもしれない。
 

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大翔くんの最初のツイートは写真を添えるわけでもなく、ただ「行ってきますぅ!」としか書いていなかったから、誰の注目も浴びることはなかった。発達途上の彼の知能のほとんどは「ぅ」を入力することに費やされ、大翔くんは自分が打ちこんだ「ぅ」の小ささに満足した。彼のプロフィールには「みんな見てるかな?」としか書いておらず、見ている人を「みんな」と定義するのであればみんな見ていたことになるのかもしれないが、たまたま見かけた人でも、それが小学生の(ほぼ)日本縦断計画の最初のツイートだとはわかるはずもなかった。大翔くんは親と話すときも親が知らないクラスメイトの話を注釈なしで始めてしまうので、ツイートをするときも、第三者にわかるように表現するという発想がなかったのだが、それも小学4年生なので無理はない。
 
その後も彼は、「宮城 ずんだもち」など、地名と食べた名物をツイートするのがせいぜいだったが、ヒッチハイクを始めて5日後に栃木県を通過したとき、彼が撮った腕の怪我の写真が尻に見え、画像を探している大人たちに見つかったのがきっかけで、彼が小学生であること、ヒッチハイクで日本を縦断しようとしていることが知られるようになった。しかし大翔くんは平均的な小学4年生の語彙力しか持ち持ちあわせておらず、ヒッチハイクの楽しさを伝えるようなツイートはできなかった。退屈していた大人たちは大翔くんの女性経験を聞き出そうとし、大翔くんは正直に、上級生の女の子に無理やりキスされたことを告白したのだが、大人たちの一部は返り討ちに遭ったような気持ちになった。ツイートを見ていた大翔くんの父親は、その件がいじめにあたるのではないかと懸念したのだが、やはりそこでもヒッチハイクそのものの実施については懸念は持たなかったのだった。
 
ツイートに異変があったのは、彼が西日本にさしかかってきたときだった。これからXに行きますとツイートしたとたん、それまで大翔くんの下半身についての質問に終始していたフォロワーたちから、Xはガラがよくないから行かない方がよい、わざわざ危ないXを通らないようにしても日本縦断できるんじゃないの、などのリプライが殺到した。
それを見て怒ったのはXの住人。東京都民に悪口を言われたと早合点し、東京の方がよほど危険であると統計とともに反論し、それに対して東京都民も、やはり田舎には陰湿な風土があるなどと反撃を始めて、大翔くんのツイートにはXと東京の戦争がぶら下がっていった。
 
Xは大翔くんの父親の出身地でもあった。父親はX出身であることについて誇りを持っているつもりはなかったが、大翔くんがXにさしかかってきたときは嬉しい気持ちになったし、小学校の運動会で、地域に伝わる河内音頭を逆回転させたような伝統的な踊りをした思い出が頭をよぎったりもしたので、Xが誹謗中傷されることに耐えられなくなって大翔くんに電話し、ヒッチハイクをやめて帰ってくるように言ったのだった。
 
大翔くんは志半ばで帰ることになった。新幹線で帰途についたが、近くの席の後期中年群の、あんな子供がひとりで新幹線に乗っているなんてどうなのかしら、親の顔が見てみたい……などのヒソヒソ話を耳にし、居心地が悪くなって寝たふりをしたら本当に寝てしまい、新横浜で降りるべきところを品川で降りる羽目になってしまったのだった。(了)
 
 

首都圏の冬の絶景。「三十槌の氷柱」と「あしがくぼの氷柱」で、天然と人工の氷柱を見て自然の小ささを知るの巻

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先に、忙しい人(お仕事無理せんといてね……)のためにまとめておいたので参考にしてほしい。このまとめ以下は単なるポエムなので読む必要はない。
  • 2019年の三十槌の氷柱の公開期間は2月17日(日)、あしがくぼの氷柱の公開期間は2月24日(日)まで
  • 急行バスに合わせて特急を予約すると楽
  • 「三十槌の氷柱+三峯神社」のセットより、「三十槌の氷柱+あしがくぼの氷柱」の方が楽しいかもしれない
  • あしがくぼの氷柱だけでもお釣りがくる(何のお釣りか知らんけど)感じがある
 
在学中にスクールカースト上位で、就職してからも会社カースト上位にいるような人でも、冬になると、ふと三途の川の向こう岸がどうなっているのかについて興味を持ってしまうことがあるという……などと微妙なデマから書き始めてみたのだが、誰しも部屋にこもりがちな季節であることは事実だろう。コミュニケーション界におけるカースト上位の人であれば、「最近引きこもりみたいでさぁ……」などと語り始めるかもしれない。彼はきっと、土曜の午前中家にいただけで、夜の飲み会で「引きこもっていた」などと表現して同情を誘うのだろう。それはただの「在宅」であり、引きこもりをナメるな!……と言ってやりたいところだが、わたしもそこまで引きこもっていないので偉そうなことは言えない。人々が部屋にこもりがちなこの季節に、わたしが首都圏在住の皆様に訴えたいことといえば、「冬には冬なりの楽しいお出かけがある」ということである。
 
首都圏在住の者にとって「冬ならではのお出かけ」は困難を窮めることはご存知のとおりである。たとえば高尾山に行こうと思って行ってみても、そこにあるのは、秋と変わり映えのしない、単に気温が低くなっているだけの世界であり、冬に行くメリットといえば、人が少ないことくらい。高尾山以外の名所、たとえば上野動物園などでも同じことである。やはり豪雪地帯の雪かき体験に参加し、もしかしてこれってただの無賃労働ではないかと首を傾げながら雪かきをしたりするしかないのだろうか……と思っていたら、首都圏にあるのにあんまり首都圏にある感じがしないゾーン、つまり埼玉・秩父で、冬ならではの氷柱「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」を鑑賞できると知り、さっそく向かうことにした。
 

西武特急は前日でも窓際席の予約がとれて穴トレインである

「三十槌の氷柱」は、秩父駅や三峰口駅から三峯神社に向かう途中にある。関東で最も重要な聖地とみなす人も多い三峯神社とセットで訪れる人も多いようだけれど、神社の奥の院に行くことを冬季は推奨されていないこともあり、神社と奥の院を合わせては春や秋に訪れるのが適切かもしれない。奥の院に行かなくても三峯神社をコンプリートしたという実感が得られる方ならこの機会にあわせて行ってもよいかもしれない。そういう方は、高野山の奥の院にも、金刀比羅宮の奥の院にも行かなくても平気なのだろう。分別なく何でもコンプリートしたいと思ってしまう人よりも、やめどきを正確に見極められる人の方が幸せに暮らせるのかもしれない。
 
電車で行く場合は、池袋から特急に乗って、終点の西武秩父で降り、そこから急行バスに乗る。西武特急は前日の夜でも窓際の席が確保できるほどで楽勝。その楽勝の背景には運賃と特急料金がほぼ拮抗しているアンバランスさにあるのかもしれないが、そんなことはどうでもよろしい。急行バスは昼に近くなってくると混雑してくるので、最初のバスに間に合うように特急の手配をすればスムーズである。
 

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今回乗ったのはニューレッドアロー。見た目あまりレッドでないのが少々寂しかったのだが、ニューなのはよいし車内は快適だったので大満足。
3月からは宇宙的デザインで、窓が足元まで及ぶラビューが運行され、次回三峯神社に行くときは乗って報告させていただきたいと思っている。車窓の風景が抜群かというとそこまでではないのだが、大きな窓によって開放感を満喫できることは間違いなさそうで、楽しみである。
 
 

三十槌の氷柱は二種類ある。比較的すごい氷柱と、すごい氷柱。

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池袋から西武秩父までは約80分。急行バスには45分程度乗るので、座れた方がらくだけれど、急いでバス停に向かわないと座れないかもしれない。このような「駅に着きました~」的な写真は帰りのときに撮った方がいいかもしれない。
 
バス停「三十槌」に到着。

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入場には200円必要。観音開きになっていて、間違って拝んでしまいそうだがpayするところである。観音もpayするところだから同じか。
「環境整備協力金」とのことで、この名前のものものしさが、徴収する側の後ろめたい気持ちを言い表しているように思う。シンプルに「入場料」でイイっすよと思う。
 
 

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バス停から川辺に降りると、向こう岸がもう氷柱の世界である。
始発の急行バスに乗ると、9時半について、このように人も少ない、
すばらしいねーと思いながら撮る。
 
 

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ふと振り向くと、「天然氷柱ゾーン」の看板。
つまり、人工の氷柱もあるということか……と思って先を見ると……。
 
 

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人工ゾーンの看板。

説明で「人類の叡智を絞って天然よりも豪華な造形を!」などとしてほしかったが、人工だけどほとんど自然だよ的なアピールに終始している。
氷柱をわざわざ人工で作ってどうするのと思ったのだが、実物を見て思わず納得。

 

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オォ……神よ……人工氷柱の方が面積が広くて氷柱も厚い。雑にまとめると「人工氷柱の方がいい」ということになる。
 
ここで天然の氷柱が霞んでしまったが、では天然の氷柱の引き立て役として小規模にした人工の氷柱を公開してはどうかと考えた。しかし、それでは人工の氷柱を公開する意味がまったくなく、つまり今のあり方が正解である。
 
鑑賞の順番として、「天然の氷柱→人工の氷柱」の順番で徐々にビルドアップしていく流れになっているのは大変ありがたい。もし逆の順番で「人工の氷柱→天然の氷柱」となっていたら、「自然って大したことないな……」という感想になってしまうからだし、「天然の氷柱→人工の氷柱」の順番で見たとしても、気をしっかり持っていないと、ついつい、「自然はつまらない、人間ってすごい」などという傲慢な思念に意識を支配されてしまう。
 
そして今回、新しいレンズを導入した。
話せば長くなるが、約20年前に作った住友銀行のカードが部屋の片隅で発見され、念のためATMに差してみたら……という経緯でレンズを手にした。
シグマの150mm~600mmのレンズなのだが、10万円しなかった。レンズの性能を考えれば軽いレンズだが、見た目の極まっている感は隠しようがない。
 
 

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想像してほしい。気軽なお出かけと思って集合場所に来たのは、こんなごついレンズを携帯しているオッサンだったら……どんなにのんびり屋さんでも急用を思い出すに違いない。
手持ちでじゅうぶん撮影可能なのだが、注意して扱わないと手首を傷めそうである。
撮影に負荷がかかりはしたが、導入の効果は抜群で、川の向こうにある氷柱の泡のひとつひとつも捉えることができ、なぜもっと早く買っておかなかったのかと激しく後悔している。一般的に600mmのレンズは、鳥か航空ショーなどを撮りたい人のためのものかもしれないが、わたしのように、何でも拡大したいという性癖の持ち主なら、風景写真でも多用することになるだろう。
 
レンズを購入したことを正当化するために少々お付き合いいただきたい。
 
 

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これは川を隔てた向こう岸を、105mmで撮った写真。
 
 

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川面すれすれのつららを600mmで撮った。これはトリミングしていない写真。

 この時点でも、こんなに近くまで!と思うのだが(思っていない方は思っていただきたい)、さらに等倍でトリミングすると……。

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まるで顕微鏡のごとくである。

水に接するとやはり溶けてしまうのだなあ~と思ったが、そんなことは写真を見るまでもなくわかることなのかもしれない。

 

 

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大自然……と思ったかもしれないが、こちらも人工であり、褒めたたえないと気が済まないという場合は、「人類の叡智の結晶」のような言い方が適切かもしれない。

 

 

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こうやってアップで見ると、まっすぐではないことがわかる。

 

 

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寄っていって手の平でシャーっとやりたい感じがする。

 

 

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そういう性癖の方のために、特別にハイヒール状の氷柱も用意しております。

 

 

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中央の氷柱は完全犯罪などに使われる感じの尖り方である。左の方も地表についてしまって丸くなってしまったが、昔はブイブイ言わしてたんやろな……。

 

 

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地表に達した瞬間の氷柱は先端が尖っているが、達したあともずっと水が流れてくると、柱のようになるということなのだろう。

 

 

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どことなく不潔感の漂う氷柱である。

 

 

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日が昇るとともに、どんどん溶けていくのがわかる。なので行くとしたらやはり朝早めがよいと思う。

 

 

人工氷柱の仕組みがよくわかるゾーンもこっそり用意

自然の驚異を感じたいと思ったのに、人工物の雄大さに感激してしまった……と打ちのめされながら、帰りのバスに乗ろうとしたが、何やら川下の方にもうひとつ氷柱がある模様。

 

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この氷柱もまた人工の氷柱で、これがほぼ全景なのでかなり小規模だが、それを補って余りあるほど扇情的である。わざわざ枯木を持ってきて氷柱を形成させているのである。
そして、近くまで寄り、触ることが可能。

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この氷柱には寄れるので、スマートフォンしかお持ちでない方も、ばっちりコーティングされた氷柱の写真が撮れる。

 

 

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こちらの氷柱は女体を想像させる。

 

 

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 これはジュンサイを想起させる。大きなお世話かもしれないが、光合成とかそのへんは大丈夫なんだろうか。
 
 

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急坂の上には、きっと氷柱のジェネレーターがあるのではないかと思って上ってみたら、案の定である。

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思ったより水の量は少ない。そして、霧状に水を出すほうがよいようである。

 

 

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近くにはボロボロのボートが置いてあっていい味。
 
 

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まわりには水撒きをしたときならではの形状の不思議な形状の氷たち。
湧水が氷柱になる場合は、偶然が重ならないとここまで複雑な図形にはならないのだろう。天然の氷柱が人工に勝つのは難しい。
 
 
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人工の氷柱の方が天然の氷柱よりもすぐれていることに、人類の一員として喜ぶべきだと思うのだが、なぜかうつむき加減になってバスに乗って西武秩父駅に向かった。このあと、さらなる衝撃を受けることになることを予感してはいなかった。
 
 

実は本命かもしれない「あしがくぼの氷柱」

早めに出発すれば、午前中に西武秩父駅に戻ってくることができるのだが、せっかくと思い、2014年からはじまって最近話題になっているらしい人工の氷柱、「あしがくぼの氷柱」も見て帰ることにした。
 

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池袋駅でも冬の西武はあしがくぼと心中するくらいの推し方であるが、モデルの女の人が引き立ちすぎていて、本末転倒のように思うかもしれない。しかし、行く人はみなこのような写真をInstagramに載せたりすることを考えると、地味ながら活用イメージがわかりやすく、稼げる広告だと思う。
 
こちらは西武秩父駅から西武秩父線で二駅の芦ヶ久保駅から歩いて10分というアクセス良好な場所にある。さすが人工、「氷柱の方から来い」を地でいく設計である。
 
 

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芦ヶ久保駅を降りると、休業中のそば屋に車少なめの駐車場。繁忙期なのに大丈夫なのかと思ったが、この下の道の駅にすべてのリソースを集結させているようなので心配無用である。
 
 

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斜面に家が建っているのを見ると興奮するタイプである。
 
 

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駅から順路が指定されていて、その道中も、木を細かく切ったものを詰めていて、天然がいいとは言わせないという迫力が感じられる。
 
また、氷柱の紹介も潔い。
 

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見栄えのする氷柱を作ろうという強い意思が感じられてすばらしい。
こちらの入場料は300円。三十槌と同じく、名目が漢字6文字くらいだったと思う。
 
 

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中に入ると、富士浅間神社の鳥居がある。
もちろん飾りではなくて、この先の神社の第一の鳥居なのだが、冬季は氷柱制作のため、このルートからは神社には行けないようである。
 

 

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入口から一面が氷で、すばらしい迫力である。
 
 

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ここの氷柱は触ることを推奨しているところもあるのだが、「さわれる氷柱」と言えばいいところを、POP体で「おさわり氷柱」と表現していて、その無自覚な風俗感に感動した。
 

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この日の前日に雪が少し降ったこともあり、得体の知れなさに拍車がかかっている。

 
 

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奥に行くと、記念写真に最適なスポットがあるのだが、記念写真に興味がないため、黙々と撮影させていただいた。
 
 

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これは笹の葉だと思うのだが、ジュンサイ度が極まっていて感動した。
 
 

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人工だけあって、昼間は日当たりがよく、生き生きとした氷柱が撮れる。
もう人工の氷柱でないと見た気がしないという気分。
 
また、丘を登っていけば、展望ゾーンに行くことができる。

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 スケール感をお伝えできていれば幸甚である。
 
電車といっしょに撮れるようにもなっていて、電車が通っていないときは「ここに電車が通ったらめっちゃいい絵になるのでは?」と期待してしまったのだが……。

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氷を蹴散らすくらいの勢いで来てもらえないと満足できないなーという感想を抱かざるを得なかったのだが、運行の妨げになるものを置くわけにはいかず、これが精いっぱいのサービスで、ありがたいと思うべきである。
 
 
この「あしがくぼの氷柱」は、三十槌の人工氷柱よりもさらに一歩進め、氷柱を美しく見せるために木を伐採していることが見てとれる。

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ここが山との境界線。わかりやすい。
 
 

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線路を挟んで反対側では山肌に海苔のように太陽光発電装置が張り付いている。自分が山だったら、冬だけ氷柱ゾーンにされるより太陽光発電に使われた方がいいかな……遠くから見たらハゲてない感じに見えるところがいいから……。
 
 
 

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「木を横に置いておくとニュラ~となってかっこいい」という知見が得られた。
 
 

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「こんなん絶対天然の氷柱なら不可能やろ」という氷のまとわりつき方をしているところを見かけて観察するのも一興である。
 
 

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スプリンクラーを発見。自らも氷に囲まれながらも獅子奮迅の活躍であります。
 
冬の絶景を堪能した~と思って帰りの特急に乗り、池袋駅に着いたのが16時。思ったよりもずいぶん楽に行けた。北国へ行けばよりダイナミックな風景を堪能できるのだろうけれど、首都圏で思い立ってすぐ行けて、帰りに池袋で中華を食べて帰る……というのができるところがありがたい。
 
もしあなたが天然の氷柱にこだわらないのであれば、アクセスも容易なので、あしがくぼの氷柱だけを見て帰ってもいいかもしれない。もし三十槌の氷柱とセットで見るなら、必ず三十槌の氷柱を先に見るようにすべきである。あしがくぼの氷柱を見てから三十槌の氷柱を見て、「やっぱり天然がいいね~」と言える人がいたとしたら、おそらく天才である。
 
自然のちっぽけさ、人類の叡智について実感できてたいへん有意義な時間を過ごすことができた。 莫大な想像力を消費するため、日帰りでも数日旅行したときのような満足感が得られるのだが、ロールシャッハテストでいろいろ思いつきすぎてしんどくなるタイプの人は「これはただの氷だから」と自分に言い聞かせながら見ると大丈夫なのかもしれない。
 
 
なお、ここまで書いて言うべきことではないかもしれないが、当て字みたいなのが大嫌いなので、「氷柱=つらら」を書き続けるのがつらかった。
 
 

男として靴を尖らせるべきかどうかの話

5年ほど前からわたしのなかで「靴尖り男子」が大きな話題になっている。悩みごとが少ないときは、脳内の半分以上をこの話題が占めている瞬間があるほどで、靴先は丸ければ丸いほどよいと考えているわたしとしては、靴尖り男子を見るたび、ほんとうに自分はこれでいいのかとその靴先に詰問されているような妄想に陥ってしまうのである。

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以前、何かのフォーマルな集いがあり、渋々求めたのが左の靴。そのとき店の中にあった革靴のなかでもっとも靴先がマイルドだったのがこの靴だったが、これでも自分にフィットするものであるとは思えず、よほどのことがない限り、このような靴を履くことはないだろう。右の靴がわたしにとって理想的である。
同じ衣服の中でも、たとえばカーディガンの色が好みでないとか、袖が余ったりなどであれば、まあ安ければいいやと思いつつ着るのだが、靴の先だけは尖らせるわけにいかないという強い信念がある。この信念はどこからきてどこに行くのか……。取材班は自らの心の中にあるジャングルに分け入った。
 
わたしのイメージでは、「靴先が尖っている=男性的」であり、それをよい男性性とみなすか、よくない男性性とみなすかはさておき、男性性との密接な関係を見出する人は多いと推測している。靴尖り男子は、尖った靴がフェミニンで素敵だとは思って履いてはいないはずである。尖った靴は、牙や角、より直截にいうならファルスを連想させるし、そう思ってほしい男性が装備するもののはずである。
わたしの、人間と接した数少ない体験から推測すると、マジョリティーが男に求める要素に乏しい男性、たとえば優柔不断であったり、声が小さい男性と接したとき、さすがにこの人の靴先は丸いに決まっていると思って足元に目を遣ると、見事に尖っていて、仲間だと思っていたのに……という気持ちになる。まあ仲間だと思っても飲みに行ったりはしないのだけれども……。
 
また、驚くべきことに、自分より歳上の、つまり社会から男性的な機能を期待される濃度がより薄まっているはずの壮年男性の靴の尖っている率も非常に高く、もしかすると若者より高くなっている可能性もある。彼らは、雄でありたいと願いつつ、雄として求められる要件が足りていないと自覚し、それを補填するために靴を尖らせているのだろうか。それとも、大多数の男性がスカートではなくズボンを履くような感じで、丸い靴を履くという選択肢が意識にのぼることもないくらいになっているのか。あるいは、血液型と性格の関係と同様、関係が深いかのような言説が常識のようになっているものの、実のところまったく関係がなく、ジェンダーとは無関係な要素、たとえば、「とろろ昆布の酸っぱさが苦手な人は靴が尖る傾向にある」など、意外な関連性があったりするのかもしれない。
 
なお、わたしの知る限りにおいて、尖った靴は女性の評判はよろしくない。しかし、少なくともわたしが「靴先が丸いから抱いてほしい」と言われたことは一度もなく、靴先について女性から聞くのは、「恋人が尖った靴を履くのが不満」という、どうでもよい愚痴である。それが原因で別れるわけでもなし、そういう話はキミの家の窓際に置いてあるサボテンにでも聞かせてあげたら、じきに小ぶりでグロテスクな花を咲かせるんじゃないのと思う。女性の靴についてもときどき尖った形状のものを発見することすらある。金髪にしていると変質者に絡まれなくてすむというライフハックが話題になったが、おそらく先が尖っている靴を履いていても似たような効果が得られるのではないかと推測する。変質者がターゲットの靴先までをも観察しているかどうかは定かではないが、「女性=か弱い」というイメージとは正反対にある造形であることはたしかである。「か弱い」の「か」は婉曲の接頭語だけれども、形容詞の前に「か」をつけてマイルドにしたいなら、「か臭い」「か汚い」などの用法が今では使いでがあると思うのに、まったく聞いたことがないのは不思議な話。
 
―などと適当に考察した結果、今世紀に入って、日本の男たちは、靴先で男性性を主張しはじめた……という仮説が浮かんだ。男はアクセサリーが少ない。ブレスレットなどをするのは気恥ずかしいし、かといって会社にアクセサリーをジャラジャラ持っていくわけにもいかず、「靴を尖らせればいいんじゃね?」という結論に至ったのであった。男性性を保証する最後の聖域が、この推定110cc✕2の領域なのかもしれない。
 
ちかごろリストラクチャーされがちな男性性が、戦艦大和のごとく、最後の決戦のために全势力を靴の先に集結させているのであれば、わたしはその波に乗り遅れていることになり、まずい状態なのかもしれない。丸い靴は、風船爆弾の表面を丈夫にするために塗るこんにゃくの効率のよい栽培方法を研究しているような感じかもしれない。ただ、戦艦大和の乗組員か、風船爆弾工場の農夫か、どちらがより自分らしいかというと、圧倒的に後者だろうと思うので、あれはあれで当時は必要とされていたわけだし……と思うことにし、今日のわたしの靴先も丸いのだった。
 
 
 

絶滅寸前の「ビニール剥がさない」人(じん)に贈る言葉

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スマートフォンの登場により、進行方向を見ずに歩く人が飛躍的に増えた。
それまで進行方向以外を見ながら歩く人といえば二宮金治郎くらいしかいなかったし、その金治郎が読書しながら歩いたところで、道ゆく人たちは咎めるどころか、むしろその勤勉さを褒めたたえていたが、本当に勤勉だったのだろうか。もしかすると、金治郎は農業技術の本の表紙にポルノ小説をくるんでいたのかもしれない。小説に挿入されていた春画の結合部分に目を凝らし、よりよく見えるよう、本を斜めにして覗きこんだりしているうちに蛇行して藪に突入してしまったこともあったかもしれない。そうしなくてもよく見えるよう、当時の画家は男性器も女性器も実際の人体の比率より大きめに描いていたはずだが、偉人の代表ともいえる金治郎のような男でも、それがエロスという領域になってくると、「見る角度を変えたところで、描かれたもの以外が見えることはない」という単純な事実を理解できなくなってしまうのである。
彼が本当に歩きながらポルノ小説を熟読しているかどうかは定かではない、むしろ、熟読していないことが定かなのだが、もし彼が灌漑技術の本の表紙に肥料の本を仕込んで熟読しながら曲がりくねって歩いたとしても、人々は金治郎の一挙手一投足に夢中だから、誰かと衝突したりすることもなかったのであった。
 
 
江戸時代の「ながら歩き」はこのようにブルーオーシャンにあったが、およそ200年後の現代においては、携帯情報端末を閲覧しながらの歩行は、その是非はさておき、すでに国民的な娯楽へとのぼりつめていた。もし紅白性癖歌合戦のようなものが存在したら、2014年度から「スマートフォンを見ながら歩く」が大トリとして登場することとなり、お茶の間の視聴者はスマートフォン片手に大喜びしたはずである。
 
 
スマートフォンを見ながら歩く行為が、その是非はともかく浸透した一方で、ひとつの楽しみが失われつつある。それは、「電子機器の液晶画面に貼られたビニールをボロボロになっても貼ったままでいる」という快楽である。すでに過去のことになっているので、念のために解説しておくと、つい10年ほど前までは電子デバイスのユーザーインターフェイスは物理的ボタンとディスプレイという組み合わせが主流だった。ディスプレイは工場出荷時には、破損防止のためにビニールが貼ってあり、操作は物理的ボタンで行う関係上、ディスプレイにビニールを貼ったまま端末を利用することが可能だったのである。そして一部のマニアたちは、画面が汚れることを恐れるがあまり、ビニールを貼ったまま使ったのだった。
あのビニールは包皮の延長であるとわたしは認識している。いつか陰核あるいは亀頭が直接触れられ、のけぞるような快感が全身を走るその日を夢見つつ、まだまだ、と永遠に自分を焦らし続けるという、すばらしく変態的な行為であり、おそらく日本特有と思われるこの習慣は、世界に誇れるものであったはずだ。
 
 
しかし残念なことに、スマートフォンの時代になってからは、工場出荷時には透明なフィルムが貼ってあり、画面に直接触れる関係上、ビニールを貼ったままにする種族も、透明なフィルムを剥がす、つまり割礼をする種族にならざるを得ず、購入したスマートフォンにフィルムを貼りつけるのがせいぜいなのだが、残念ながらそれはパンツであり、包皮であるとは到底認めがたい。
 
 
わたしがいままでに見た、もっとも高貴な人類は、折りたたみ式の携帯電話のヒンジが壊れていて、折りたたみの状態を維持するのが困難な状態であるにもかかわらず、ディスプレイのビニールについては貼ったままにしていたという中年女性の事例である。たとえるなら、首の皮一枚で首と胴体がつながっているのに、依然として包皮だけは、陰核あるいは亀頭を外界の刺激から保護している状態で、人体に喩える必要もないほどわかりやすく、本末転倒という概念を具現化していた。わたしはそれを傍から見ていて剥きたい気持ちになったのだが、行動に移してしまったら器物損壊で逮捕されたに違いない。
 
 
そんな彼女もいまは、らくらくスマートフォンか、特に楽でもないスマートフォンに機種変更したことだろうと思う。携帯電話のタッチパネル化によって、ビニール剥がさない人たちは、どんな代償行為で満足しているのだろうか。エアコンのリモコンをいくつも買ってビニールを剥がさないまま我慢していたりするのかもしれない。いずれにせよ、傷つくことを恐れてビニールを剥がさないまま、視認性や操作性や美観を損ね、ビニールが剥がれるより前に他の部分が故障して新しいものを買ったりするのは、あまり得な生き方とはいえないので、自分でそれをしたいとはまったく思わないが、そのいっぽうで、ときどきは、他人のビニール貼りっぱなしのアイテムを傍から見て、「是が非でも剥がしたいが絶対に剥がしてはいけない」という葛藤を楽しみたい気持ちもなくはないので、少し寂しい。ビニール剥がさない人に代わって台頭してきた、歩きながらスマートフォンを見る人を傍から見ていても、あの心地よい葛藤に匹敵する快感が得られることは決してないのである……。
 
 
なお、冒頭の写真は出張先のホテルで対峙したエアコンのリモコンである。誰も見張ってはいないし、ビニールを剥がしたところで咎められるはずもなかったので、剥がすこともできなくはなかったが、ふと、このリモコンの歴史について考えてみたら、到底それはできないと悟った。
見たところ設置から十年は経過しているそのリモコンは、のべ3000人以上に触れられているはずなのに、ビニールはいまだ剥がされてはいない。つまり、100人に1人がビニール剥がさない人と仮定すると、30人は、自分の家のリモコンと同じだと思って安堵し、2970人は、剥がしたい気もするが我慢しようとしてきたのであり、このビニールは人類の理性と気遣いと忍耐の歴史なのである。この壮大な人類の歴史の中でわたしができることといえば、ビニールの浮いたところを指でなぞることくらいなのであった……。
 
 
 

電子音楽を中心に、2018年に聴いた音楽、ベスト10曲

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去年は音楽を自由に聞くことが難しくなってきたと感じることが多かった。サブスクリプションモデルが浸透し、好きなときに好きなだけ音楽が聞けるようになった反面、聴取システムを構築した設計者たちが、ロックンロール的な音楽観のもとにUIを設計しているので、ロックやポップスとは音楽のフォーマットや接し方が異なる音楽を聴くことが多いわたしとしては、少々窮屈な気分である。具体的に言うと、音楽を聴くうえで一番重要な「レーベル」がタグになっていないことだったり、ミックスCDの曲が別のバージョンに入れ替わっていたり……。
先日、初代iPhone発表のプレゼンテーションを見たのだが、そのときサンプルとして流れたのはビートルズだった。最新のテクノロジーを使って聞く音楽はクラシカルなロックンロールという皮肉めいた話だが、その話はまた別の機会にするとして、2018年に発見した音楽を10曲あげていく。なるべくすぐ聴けるようにさせていただいたが、リンクを貼れないものについてはご自身で探していただければと思う。
 
 

◆ドラムマシンが泣けるニューウェーブ歌謡

マーマレード飛行 / 矢野有美(アルファ)

アルバム『ガラスの国境』収録。1985年に出たきりでCD化すらされていないのだけれど、アイドル歌謡の中でも特異な位置にあって他では絶対聞けないので、世界遺産として早くデジタル化してほしい。f:id:kokorosha:20190110192531j:plainチープで無機質なドラムマシンの上にアコースティック・ギターがのるところまでは The Durutti Columnのようで、それだけでも驚きに値するが、さらに、うまいわけでもなく、かといって下手でもない歌が絡んでくると、いままで聞いたことのない寂寥感が醸しだされる。時代が時代とはいえ、ずいぶんニューウェーブ臭が濃いと思ったらそれもそのはず、ムーンライダーズの中の人(具体的には鈴木博文先生と岡田徹先生)がプロデュースとのことで納得した。矢野有美先生の存在は、CSで流れていた『パンツの穴』で、東京郊外の兼業農家の娘で、排泄物で栽培した野菜をクラスメートに分け与えるという特異な役柄とともに知り、関連作品を調べていた中でこのアルバムを発見したのだった。一度も再発されていないこともあって、溝の浅~いLPを入手するのに5000円費やしてしまった。Spotifyで換算すると5ヶ月分だが、それでも入手する価値はあると思う。いいまDiscogsで買うと100ドル近くするから、5000円ならなんと半額……。 
 


◆スポークンワード系ハウスの新定番

Héritage/ DJ Oil(Les Disques De La Mort)
ハウスミュージックの愛好家は、ときどき演説入りの音楽が聞きたくなってしまう生き物で、同じくミュージシャンもときどき演説入りの音楽を作ってしまいたくなる生き物なのだろうと思っているが、わたしの場合、そのときに選ぶのは"Preacher Man"か、"Can You Feel It"の演説入りバージョン。20年以上変わっていないことにひそかに危機感を抱いていたのだが、昨年はこの曲に出会えて本当によかった。

演説の内容はどうでもよいのだが(ちなみにMarcus Garvey)、演説に音域を優先的に振り分けた結果、ほかの音楽的要素が重低音に絞られることとなり、素晴らしいグルーヴが生まれている。おそろしくシンプルなトラックなのだけれど、1回では足りなくて、よくリピート再生している。
 


◆トランスの音色でデトロイト風テクノという革新的コンセプト

The Shape Of Trance To Come / Lorenzo Senni (Warp)
Warpがからリリースされ、シーンを一変させたコンピレーション、"Artificial Intelligence"の発売から四半世紀経った。いまではA.I.は小学生でも知っている概念になっているけれども、最近のWarpは元気かしらと思って調べてみたら、気になるタイトルを発見。

音はまさにタイトル通りで、音色がトランスというか最近のEDMというかそんな感じだが、構成はデトロイト・テクノという、コンセプトだけでもごはんが何杯でも食べられそうであるが、トランシーな旋律から自由になったデジタルシンセの音は実に官能的で、聞くたびに胸が高鳴る。

 


◆これは言葉本来の意味において真のアシッドジャズだ!(5年ぶり3回目)

Koot Works (Feat OR) / Ground (ESP Institute)
何年かに一回、「これは本来の意味でのアシッドジャズだ!!!」と思う瞬間があるのだけれど、去年はこの曲だった。ジャズというジャンルにまったく収まっていないのだけれど、それくらい興奮したということで……。

Koot Works (Feat or)

Koot Works (Feat or)

  • Ground
  • ハウス
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 無国籍なうえに断片化していて、もとの形を辿ることもできず、オッサン諸氏におかれましてはNurse With Woundを髣髴とさせるところがステキと思うかもしれないのだけれど、かろうじてダンスミュージックに踏みとどまっているところが違いで、それゆえ繰り返し聴いて楽しめる。

信頼のレーベル、ESP Instituteの新譜ということで聞いてみたのだけど、調べてみたら大阪のユニットで、なんだか納得してしまった。

 

◆77年産、アマチュアリズムあふれる夢みたいなバレアリックディスコ

Radio Cosmo 101 (Disco Version) / The One "O" Ones (Best Record Italy)

77年フランス産のゆるくて小粋で素人くさいユーロ・ディスコ。後世からジャンル分けするとバレアリック・ディスコになる。いわゆるレア・グルーヴ、ふつうのサラリーマンにとっては自力で発掘するのは困難で、出世やら家族やらを諦めるだけでは足らず、そのほかのクリエイティブな営みまでも侵食する趣味だと思うので、わたしの場合は発掘作業はしないようにしている。そこで解決策としてあがってくるのは、発掘隊の発掘調査の結果をいただくというもので、"Club Meduse"というコンピレーションは昨年の成果の中でもずば抜けていた。すべての曲について「こんな素晴らしい音楽が埋もれていたなんて!」と驚くとともに、わたしも含む人類の見る目のなさに絶望してしまったりもするけれども、さらにそのコンピレーションの中でも最もすばらしかったのがこの曲。

奇しくも同じタイミングで12インチシングルが再発されていて、しかも各社サブスクリプションでも全部聴ける。わたしは勢い余って物理的なディスクも購入してしまったのだが、ジャケットからも楽しさが伝わってきて最高。センチメンタル満載の電子楽器たちのなかでひとり暴走するノリノリのベース。時折思い出したように素人っぽいコーラスが乗って夢のよう。好きすぎるので特別な時にしか聞かなくなってしまっている。2018年聴いた音楽で1曲だけと言われたら間違いなくこの曲を選ぶ。 

 

◆お好きな人だけどうぞ

I LoVe Your Tits / Christine CJs
音楽を探すルートを意識的に見直していく中で、「Bandcampは?」と思って探してみた結果がこれ。気まぐれにシンセを鳴らして歌っているだけなのだが、いわゆるプロトハウスの時期に試されなかった(というか試す価値もなかった)実験が時間差で繰り広げられているのであった。
ハウスミュージックの草創期には、手作り感満載のチープなトラックが濫造され、それらの屍はたとえばChicago UndergroundやTraxなどで漁ることができるが、現在進行系でのおかしなハウスミュージックは、Bandcampにあるのかもしれない。プロモーションビデオは、記念写真の連続で度肝を抜かれる。


Twitterのフォロワーはわずか33人で、ファンレターを書いたら、こちらが書いた文字の10倍くらいの返事が頂戴できそうなイメージだが、ジャンルそのものがアウトサイダー・アートじみているハウスの中でも、ひときわアウトサイドにある音楽である。

 

◆入手しておかないと精神衛生上よろしくないデトロイトテクノの傑作

Serena X (InnerZone Mix) / Yennek
デトロイト・テクノに詳しくない人が見たら「誰?」と思うかもしれないが、Kenny LarkinのCarl Craigによるリミックスで、その文字列から期待される何倍ものすばらしい音世界が広がっていて、この曲を知っているデトロイト・テクノ好きなら、これをベストに挙げる人も多いのではないかと思われるのだが、それほどの傑作でありながらも、長らくデジタル化から漏れていた。

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話がややこしくて申し訳ないが、2011年に出た"Back In The Box"シリーズのGrobal Communicationの巻にこの曲が収録されていて、ミックスされているものしかないと思って諦めていたら、なんとミックスされていないアルバムが別に売られていたことを昨年Beatportで発見。しかし、なぜかおま国されてしまったので、物理的なディスクを手に入れるしかなく、血眼になって探し回って入手し、魂の平安が得られたのだった。
 
 

◆わりと忠実にOlivia Newton-Johnをカバーしているのに、この哀愁

Physical / Juliana Hatfield (American Laundromat Records)
かれこれ20年以上、Juliana HatFieldを聞き続けている。アメリカン・ロックなのに薄暗い感じがするところが好きで、そういうのが聞きたいと思ったとき、Juliana HatField以外を知らないからかもしれない。いつもCDのブックレットには歌詞が記してあり、おそらく歌詞を作りこんでいらっしゃると思うのだが、わたしには残念ながら歌詞を読む習慣がないので、なんか歌ってるね~くらいの印象しかない。
そんなJuliana HatField先生が一枚まるごとOlivia Newton-Johnのカバーアルバムをお作りになった。以前からファンだったようなのだけど、Olivia Newton-Johnのどこが好きなのかは謎。いままで歌詞を読み続けていたらわかったかもしれない。


Olivia Newton-Johnをカバーしてもなお、独特の哀愁が漂っていて、さすがやなと思った。また、ギターおばさんになっても最高にかっこよく、見ていて勇気づけられた。

 

◆緻密すぎて、電子音楽が好きでない人も感激しそうな傑作

Roter Gitterling / Dominik Eulberg (APUS APUS)

自信をもって万人におすすめできる高級テックハウス。全盛期のPlaidのようなスケールと抒情性があって最高なのだけれど、ジャケットが可愛らしくてこのレコードの存在を知った。白ジャケットだったら気づかないまま通りすぎていたのかと思うと恐ろしい。いい音楽にはいいジャケットがついていてほしい。見つけやすいので……。


ミニマル・テクノ界隈ではすでに大御所のようだけれども、同じテクノでも、少しでも自分の好きなジャンルと違うジャンルだと知らないまま過ごしてしまうもので、今回のように、作風が変わってから初めて「この人すごいけど誰?」と騒ぎはじめてしまい、少々恥ずかしい。ミニマル・テクノで名を馳せてきただけあって、細部の作りこみがすばらしい。

 

 

◆ニューウェーブの残党が自分に言い訳しながら聴ける名作

A Winter In Los Angeles (Feat. Private Agenda) / Massimiliano Pagliara (Live At Robert Johnson)

ディスコ・ダブ特有の躍動感満載のベースのうえに、グルーヴという言葉とは無縁の、モラトリアム臭のきっついボーカルが乗っていて斬新。歌モノはこうでなくちゃと思った。


このようにニューウェーブに別時代の音楽を組み合わせてくれると、オッサンとしては「これは懐古趣味ではないんだぞ」と自分に言い聞かせることができて、精神的に非常に助かる。

 

 

以上、「2018年はこんな時代だった」などとまとめられるような聴き方はしていなかったのだけれど、今年もすでにいろんな音楽を聴いて感動しているので、楽しい一年になりそうだと思っている。


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70年代の若者を気取ってそばの超大盛りを食べて気持ちよかったという話

70年代でもっとも有名なテレビドラマ『俺たちの旅』の再放送を見ていて、ひとつ気になるシーンがあった。なんと、主人公たちがごちそうを食べそこねて、文句を言いながら街のそば屋で大盛りの盛りそばを食べていたのであった!しかも上の口では文句を言いつつも、同じく上の口でおいしそうに食べており、ぼくは激しい嫉妬に身を焦がした。
 
―などと書くと、この筆者の頭は大丈夫なのかと思われてしまうかもしれないので、なぜ嫉妬に身を焦がしたのかについて、くわしく説明させていただきたい。
いま、「若者が大盛りを食べる」といえば、牛丼・ラーメン・カレーあたりだろう。そばは、江戸時代から戦前までは大盛りの主役だったかもしれないが、いまでは少し高級な、少ししか出てこないイメージ。立ち食いそばというジャンルはあるけれども、立ち食いそばと立ち食わないそばの間には大きな隔たりがあり、後者には高級な、通にしかわからない食べ物というイメージがあり、とくにわたしのような関西出身者には遠く感じられる。
 
定年後のオッサンがそば打ちに没頭するのは、そもそも在職中のワークライフバランスが適切だったのかという疑問は残るにせよ、それ自体はおかしなことではないが、彼らはめったにラーメンやうどんを打ったりすることはない。70年代では、吉野家が73年にフランチャイズ展開を始め、74年に家系ラーメンが創業し、庶民のカジュアルな食べ物としては普及してきていたが、近世から東国の庶民の手軽な食事として君臨してきたそば屋もまだその一角を担っていたはずで、きっといまの若者がラーメン二郎に行くように、街のそば屋で大盛りを頼んだに違いないのである。いまの感覚でいうと、下の写真と同じポジションに、そばの大盛りがいたはずなのである。
 

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……前置きが長くなったが、わたしは、残念なことに、「昔の若者のそば大食い」をしないまま中年になってしまったのであった。
しかし、今からでも遅くはないと勇気をふりしぼり、店を探した。
調べはじめてすぐに出てきたのが、調布市の「若松屋」。わたしにとっては意外だった。というのも、わたしが昔住んでいた家から徒歩1分もしないところにあったからで、店の前は毎週のように通っていたにもかかわらず、住んでいた10年以上の間、一度も寄ったことがなかった。

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若松屋は昭和初期から営業している老舗だったが、外から見るとそこまでスペシャルな存在には見えない。だから寄ったことがなかったのだけれど、中に入ってみると非常によい雰囲気で、ここで「昔の若者の大食い」ができるなんて幸せ……と思う。

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雑多なデコレーションを見ると、「ここって都内?」という気持ちになる。(注:非都民の方のために解説しておくと、東京都民にとって、都内を感じさない都内は旅行をした気持ちになれて、泣いてしまうのである)

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 事前に、この店の盛りそばは、並以外に、「メガ盛り」と「ちょいメガ!盛り」があることを把握しており、メガ盛りは8人前と聞いていたので、さすがに無理だなと思ってパスしたのだが、ちょいメガ盛りなら5人前で麺は900グラムとのことで、つけ麺600グラムなどの経験が過去に豊富にあったため、プラス300グラム程度なら食べきれるだろうと高をくくっていたのであった。

 
ほどなくして、ちょいメガ盛りが出てきたのだが、「ちょい」="a little"の解釈が間違っていたかもしれないと思った。

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「メガ」の小さいものという意味ではなく、ワッショイのような、「メガ盛り」につける、それ自体は自立した意味を持たない愉快なかけ声にすぎず、実質的に「ちょいメガ!盛り」≒「ワッショイメガ!盛り」なのかもしれないと思ってしまうほどである。
なお、実際のメガ盛りは、この写真のさらに倍ほどになるようだった。

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―とはいえ、やはり老舗のそばはいい味で、この味なら、スムーズに最後まで食べきれるかもしれない……などと思いながら最初の半分くらいは普通に食べていたのだが、たちまち食べるスピードが遅くなってきた。
 

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この写真、いま見るとそば100%に見えるし実際にそば100%である。
 
……が、そのときははやく食べきってしまいたいという気持ちから、折り重なったそばの奥から、せいろの幻覚が見えていた。
ちょうど砂漠なかで街を見つけたと思ったら蜃気楼であるように、せいろだと思ったらそばだったのである。
 
ちょいメガ!盛りについては、とくに完食する義務はないのだが、わたしはどうしても完食したいと思っていた。なぜなら、若者のそば大食いにチャレンジして敗北してしまうと、自分はもう若くないという事実を、みずから積極的に証明するために休日のランチタイムを費やしたことになってしまう。本物の愚か者である。
若くないことは自覚してはいるのだが、せめて、そばをモリモリ食べるくらいの元気はあると自分で思いたい。

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そして、休み休み食べた末、ようやくあとふた口のところまでこぎつけた。

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さらに5分ほどして、ようやく完食……したかに見えた。
 
しかし、これには小規模なからくりがある。

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不自然になみなみとつがれたそばつゆだが、この奥に一口分のそばを隠している。
 
このテクニックは、奇しくも、わたしが11年も前、亀田大毅先生の試合中に話しかけてくる亀田興毅先生という設定で披露したテクニックであり、芸は身を助けるというが、まさか自分のネタを参考にすることになろうとは……と驚いた。

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これでしめて1000円。夕飯は食べ(られ)なかったから、リーズナブルで、まさに若者の大食いを地で行く1日だった。
 

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店を出て、歩くのが苦しかったので、近くの国領神社のベンチでしばらく休憩した。この神社、いつもわたしが苦しいときに休む場所になっていて、神道はとくに信じていないけれども、わたしの守り神なのかなと勝手に思っている。
 
このとき撮ったそばの写真をときどき見返しているのだが、自分はこんな大盛りを(ほぼ)食べつくしたのだ……という謎の自信がみなぎってきて、気分が高揚する。
 
みなさんも、カレーでもラーメンでもなく、そばの大食いを体験してみてほしい。かつての若者の大食いがどんなものだったか、身をもって体験できるはずである。
 
 
 

札幌&新千歳空港近辺で生成されがちな空き時間の楽しい過ごし方

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日本の航空便の利用者数は、羽田~札幌の航路が常にトップである。夏などは、軽井沢などの避暑地が、気候の変化によってすでに避暑の機能を持たなくなったいま、避暑地として北海道が選ばれることが多くなってきているという理由もあるのかもしれない。ただ、道内の観光地が互いに離れていて、いくつもの観光地を網羅することが難しく、旅行の最終日は、帰途で通過する札幌や新千歳空港で微妙な待ち時間が発生しがちなことはご存知のとおりである。
 
さらに悩ましいのは、札幌に出張した場合。札幌は日本有数の都市であり、サラリーマンは、東京や福岡と同じような頻度で札幌出張が発生する。週末や週明けに札幌出張が絡んだときには旅行がオギャーと誕生してしまったりもするのだが、問題なのは、火曜日や木曜日などに「14時から札幌で会議」や「午前中で任務完了」となった場合。中途半端な自由時間では、函館や小樽、登別などに行くわけにもいかない。
 
北海道という、名所や名物満載の広大な土地にいながら、時間を持て余しているという状態に人はストレスを感じ、ススキノのジンギスカンの店などでお茶を濁してしまう生き物である。当然ながら下調べが不十分で、東京よりおいしくないジンギスカンと向き合う羽目になってしまう……どちらかというと、わたしがそうだっただけかもしれない。
 
長い間日本人を悩ませてきた札幌近辺での空き時間だが、空き時間に楽しめる新千歳空港~札幌近辺のスポットを3つ発見したので、次の北海道旅行あるいは札幌出張に備えて銘記しておいていただけると、わたしもやりがいをもってブログを続けることができる。
 
 
(1)千歳にある、淡水魚だけの水族館
新千歳空港~札幌の間の南千歳駅は、本州から来た者は必ずといっていいほど通るが、時間がある場合は途中下車することを推奨する。駅から15分程度歩いたところに「サケのふるさと 千歳水族館」という水族館がある。
何も北海道で水族館に行かんでも……と思うかもしれないが、わたしは2時間程度の空き時間が発生したらダッシュでこの水族館に行っている。

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この水族館の面白さは、淡水魚だけの水族館であること。
 
とくにサケ関係は手厚く、成長の途中の様子も展示している。

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これはシロザケの若いの。サケといえば、大人になって川を激しく遡上しボロボロになって震えながら精の子を撒き散らしているイメージしかないのだが、こんなに可愛い時期があったとは……。そこは人間と同じである。
 

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ふつうの水族館のサメ的なポジションはチョウザメが占めているので、チョウザメを見たら、人を襲うことはないと知っていても、「怖いねぇ……」と言わなければならない。
 
幻の魚として知られるイトウも泳いでいたが、奥の方や上の方にいて、こちらに来てくれなかった。

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なお、世代的には、学校で釣り好きが「イトウという幻の魚が……」という話をしていたので、希少であるというイメージを持っており、なぜイトウ先生を別の水槽で紹介しないのかと思ったりもするのだが、最近は養殖されたりしているらしいので、その幻である度合いは、幻の手羽先よりもやや幻という程度なのかもしれない。

 

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深海魚などの異常な状況下に生きる魚類を除くと、魚類で一番気持ち悪いのはゴールデンスポッティッドナイフではないかと思っている。頭の形状だけでじゅうぶんショッキングだけど、トドメと言わんばかりに側面に斑点がついていて、許してくださいという気持ちになる。
 

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そして淡水エイもおります。ポルカドットスティングレイ。
かわいいなぁ~淡水へようこそと思うけれど、ブツブツしたのが苦手な人はこういうのも結構ギリギリなのかもしれない。
 
淡水魚だけでちびっこが号泣したりすることのないよう、おさわりコーナーもある。
f:id:kokorosha:20180812195159j:plainただし、スタイリッシュな水槽なのでおさわりが憚られる。
 
もちろんピラニアもご用意しております。

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顔がカミカミすることに特化されすぎると、口先がとがるのではなく、受け口になって政治家のような風貌になっているところが興味深い。
 
そして、この水族館の群をぬいてすばらしいところは、千歳川と合体して、千歳川の中が見えるようになっていること。

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グラスボートのように主体的に動き回る感じではなく、ただ自然の一部がそこにあるといった趣きで、わたしはこの水族館の大半の時間をここで過ごしている。
 
窓になっている部分は流れが緩やかになるようで、わりと積極的に魚がやってくる。これはウグイかな?

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千歳川沿いにある施設なので、もちろん外から千歳川を見ることもできる。

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以前は、ここに、インディアン水車という、自動サケ捕獲装置があってときめいたのだけれど、今は撤去されていて、水族館の前に置いてあるのみである。アメリカ原住民との関係は不明。
 

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再稼働することを願いつつ、捕獲装置が現役だったころの写真を載せておこう。

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ウミネコが装置の意味を理解してそこにいるのか、単に赤い棒の上に立ちたかったのかは謎である。

 
(2)空港からバスで15分のサンクチュアリ、ウトナイ湖
さらに時間がある人は、バスの時刻表を確認しつつ、ウトナイ湖に行くことをおすすめする。空港からあっという間に着くのに、北海道にきたことをしみじみ感じることができる。「ネイチャーセンター入口」で降りると、徐々に湖畔に向かって気持ちを高めていけるのでおすすめ。
 
コンテナが野ざらしになっている風景を見ただけで「北海道最高やな~」と思ってしまう。

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近くには最高に楽しそうな研究所もある。
(数年前に行ったときは開いていたが、先日行ったときには閉まっており、詳細は不明)

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なお、ラムサール条約批准のリアル湿地帯なので、もし出張だったとしても、防水の靴を履いてくることが望ましい。

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ここは日本初のバード・サンクチュアリなのだけれども、季節によっては鳥と出会うのに運と努力が必要になる。

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とはいえ、なんとなく歩くだけでも北海道の湿原やね~という気持ちになれるので動体視力に自信がなくても楽しめる。

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緑がいっぱいで、通路も緑に染まって見える。
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そういう撮り方をしたからそうなんだろうと言われたら何も言えないが……。
 
ここでは鳥が主役でありますがゆえ、鳥を観察したいと思った者は、いくつかある小屋にこっそり隠れて観察せねばならない。

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最近、山岳ベース事件の映画を見たから、林の奥に小屋を発見したとき緊張してしまった。
 

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こちらはさきほどの山岳ベースとは違うベースなのだが、どこも自分で窓を開け、満足したら閉めて帰るシステム。
 

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次回撮るときは、どのタイミングで長い首を収納するのかに気をつけて撮りたい。

 
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なお、雲台なども装備されているので、手の震えが心配なお年頃の方におかれましても、三脚をご用意いただくには及びません。
 
 
湖と小屋だけでなく、野生鳥獣保護センターがある。

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巨大な双眼鏡があり、出張のついでなんだからズームレンズなんて持っているわけないじゃんとおっしゃる方もバードウォッチが満喫できる。

 

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出張のついでなのにズームレンズを持ってきてしまったわたしのような準備よしの人も、さらなる高倍率のズームレンズがほしくなってしまうのであった。

 

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白鳥の重さを体験したのだが、ずいぶんと重くて、暴れられたらすぐ逃げられるだろうと思ったのだが、もしかしていま白鳥を誘拐する想定で考えていたのか……と自分に驚いた。立派な犯罪者予備軍である。
 
二次元に限りなく近づいた剥製なども用意しておりますので、すみずみまでご覧くださいませ。

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湖畔はとても静かで、ああ、北海道に来たという実感でいっぱいになる。
 
なお、仕事の前にこのような風景を目にしてしまったら、「売上目標未達くらいどうでもいいやん……」みたいな気持ちになってしまうので注意が必要。よく考えたら動物たちの多くは売上目標未達の日がザラであり、それゆえ死亡率が人間よりはるかに高く、大自然にインスパイアされた結果としてもたらされるのは「死」なのである。
 
空港から近いだけあって、低空で飛行機が通り、自然とのギャップに驚いてしまう。

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ここが渡り鳥の休息地であることを考えると、わりと鳥もたくましいのね……と安心する。
 
なお、近くには道の駅があり、お食事も可能。

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「海鮮パークかにの寿司」でカニ玉丼を頼んでみた。

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道の駅のイートインスペースで外を眺めながらいただく。
 
観光地なのに盛大に盛っていて、やはり北海道は懐が深い……と、北海道全体への愛情が高まるのであった。
 
 
時間があるなら、湖畔から室蘭本線の沼ノ端駅まで歩くと楽しい。

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とくにサンクチュアリでもなんでもない川べりを歩いていると、黄ばんだ白鳥がたくましく暮らしているところを見かけた。

鴨なども目立たないだけで実は汚いのだろうけど、白鳥が汚いとエッ……と思ってしまう。これもまた差別である。また足のお行儀が悪すぎる。
 
ウトナイ湖には二度ほど行ったが、バスや電車の本数が限られているので、綿密な計画が必要であることを念のため記しておく。
 
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沼ノ端駅は人が少ないけれど、本州の人の少ない駅とは植生が違うので興味深く、ついつい駅前広場でも長居してしまう。
 
 
(3)苫小牧の製紙工場も熱い
北海道は、自然が大嫌いなサラリーマンにも優しい。なぜなら苫小牧に製紙工場があるから。
新千歳空港から、札幌に遠ざかる方向に電車でおよそ30分で苫小牧に着く。1時間もいれば満足できるので、3時間程度空きができたら検討していただきたい。
 
苫小牧は、空港から登別や洞爺方面の電車に乗ると巨大な煙突が見えてきて、ちょっと途中下車したいかも……でもこのあと行く温泉やら何やらのことを考えると、煙突を見るために途中下車するのはどうなのという気持ちになり、結局車窓から眺めるだけになってしまいがちなのだが、まさに札幌出張などの際に落穂拾い的に歩いてみたいところである。
 

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ルートは簡単。駅から降りて煙突に向かって歩くだけ。お好みのルートでアプローチしてほしい。
 
駅から少し歩くとこのようにフォトジェニックな3人組が現れる。

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いまはちょうど補修中で、美しくなっているところのようで、写真のように老朽化しているところが見たいと思っている方は物足りないと思うかもしれない。

間近で見ると水蒸気がすばらしい迫力である。出張だというのに望遠レンズをカバンに忍ばせてしまった方におかれましては、ここが使いどころなので、最大のズームでご撮影のほどお願いいたします。

 

 地上に近いところにある太いパイプたちも見逃せない。

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まるで生き物。
なお、ここでいう「生き物」とは、『デューン 砂の惑星』に出てくるサンドウォームの意味である。
この中を木と水が混じった甘酒みたいな感じのものが流れているのだろうか。それともまた違うものが流れているのだろうか。
 
もっと製紙工場らしいところを撮りたいなーと思っていたら、小川と思っていたところからどんどん材木が送られてきて、意外に原始的な輸送方法で地味な感動が体を駆け抜ける。

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たとえばこれが豚肉工場で、豚がブーブー言いながら通路を歩かされていたら、自責の念etc.に苛まれそうだが、川を材木が流れている分には、へぇ~すごいねぇ~で済むのでよかったと思う。
 
駅に戻ると見慣れない銅像があった。
アイスホッケーの聖地ならではである。

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見るに値する工場群は全国のあちこちにあるが、駅から徒歩で満喫できるという点において、苫小牧はおすすめである。
 
 
広大な北の台地、新千歳空港~札幌のまわりだけでも、これだけ楽しいところがある。
札幌近辺で「空き時間が発生したなぁ」と思ったら、繁華街で時間を潰すのではなく、積極的に動き回ってみることを強くおすすめする。