電子音楽を中心に、2018年に聴いた音楽、ベスト10曲
◆ドラムマシンが泣けるニューウェーブ歌謡
マーマレード飛行 / 矢野有美(アルファ)
アルバム『ガラスの国境』収録。1985年に出たきりでCD化すらされていないのだけれど、アイドル歌謡の中でも特異な位置にあって他では絶対聞けないので、世界遺産として早くデジタル化してほしい。チープで無機質なドラムマシンの上にアコースティック・ギターがのるところまでは The Durutti Columnのようで、それだけでも驚きに値するが、さらに、うまいわけでもなく、かといって下手でもない歌が絡んでくると、いままで聞いたことのない寂寥感が醸しだされる。時代が時代とはいえ、ずいぶんニューウェーブ臭が濃いと思ったらそれもそのはず、ムーンライダーズの中の人(具体的には鈴木博文先生と岡田徹先生)がプロデュースとのことで納得した。矢野有美先生の存在は、CSで流れていた『パンツの穴』で、東京郊外の兼業農家の娘で、排泄物で栽培した野菜をクラスメートに分け与えるという特異な役柄とともに知り、関連作品を調べていた中でこのアルバムを発見したのだった。一度も再発されていないこともあって、溝の浅~いLPを入手するのに5000円費やしてしまった。Spotifyで換算すると5ヶ月分だが、それでも入手する価値はあると思う。いいまDiscogsで買うと100ドル近くするから、5000円ならなんと半額……。
◆スポークンワード系ハウスの新定番
演説の内容はどうでもよいのだが(ちなみにMarcus Garvey)、演説に音域を優先的に振り分けた結果、ほかの音楽的要素が重低音に絞られることとなり、素晴らしいグルーヴが生まれている。おそろしくシンプルなトラックなのだけれど、1回では足りなくて、よくリピート再生している。
◆トランスの音色でデトロイト風テクノという革新的コンセプト
The Shape Of Trance To Come / Lorenzo Senni (Warp)
Warpがからリリースされ、シーンを一変させたコンピレーション、"Artificial Intelligence"の発売から四半世紀経った。いまではA.I.は小学生でも知っている概念になっているけれども、最近のWarpは元気かしらと思って調べてみたら、気になるタイトルを発見。
音はまさにタイトル通りで、音色がトランスというか最近のEDMというかそんな感じだが、構成はデトロイト・テクノという、コンセプトだけでもごはんが何杯でも食べられそうであるが、トランシーな旋律から自由になったデジタルシンセの音は実に官能的で、聞くたびに胸が高鳴る。
◆これは言葉本来の意味において真のアシッドジャズだ!(5年ぶり3回目)
Koot Works (Feat OR) / Ground (ESP Institute)
何年かに一回、「これは本来の意味でのアシッドジャズだ!!!」と思う瞬間があるのだけれど、去年はこの曲だった。ジャズというジャンルにまったく収まっていないのだけれど、それくらい興奮したということで……。
無国籍なうえに断片化していて、もとの形を辿ることもできず、オッサン諸氏におかれましてはNurse With Woundを髣髴とさせるところがステキと思うかもしれないのだけれど、かろうじてダンスミュージックに踏みとどまっているところが違いで、それゆえ繰り返し聴いて楽しめる。
信頼のレーベル、ESP Instituteの新譜ということで聞いてみたのだけど、調べてみたら大阪のユニットで、なんだか納得してしまった。
◆77年産、アマチュアリズムあふれる夢みたいなバレアリックディスコ
Radio Cosmo 101 (Disco Version) / The One "O" Ones (Best Record Italy)
77年フランス産のゆるくて小粋で素人くさいユーロ・ディスコ。後世からジャンル分けするとバレアリック・ディスコになる。いわゆるレア・グルーヴ、ふつうのサラリーマンにとっては自力で発掘するのは困難で、出世やら家族やらを諦めるだけでは足らず、そのほかのクリエイティブな営みまでも侵食する趣味だと思うので、わたしの場合は発掘作業はしないようにしている。そこで解決策としてあがってくるのは、発掘隊の発掘調査の結果をいただくというもので、"Club Meduse"というコンピレーションは昨年の成果の中でもずば抜けていた。すべての曲について「こんな素晴らしい音楽が埋もれていたなんて!」と驚くとともに、わたしも含む人類の見る目のなさに絶望してしまったりもするけれども、さらにそのコンピレーションの中でも最もすばらしかったのがこの曲。
奇しくも同じタイミングで12インチシングルが再発されていて、しかも各社サブスクリプションでも全部聴ける。わたしは勢い余って物理的なディスクも購入してしまったのだが、ジャケットからも楽しさが伝わってきて最高。センチメンタル満載の電子楽器たちのなかでひとり暴走するノリノリのベース。時折思い出したように素人っぽいコーラスが乗って夢のよう。好きすぎるので特別な時にしか聞かなくなってしまっている。2018年聴いた音楽で1曲だけと言われたら間違いなくこの曲を選ぶ。
◆お好きな人だけどうぞ
I LoVe Your Tits / Christine CJs
音楽を探すルートを意識的に見直していく中で、「Bandcampは?」と思って探してみた結果がこれ。気まぐれにシンセを鳴らして歌っているだけなのだが、いわゆるプロトハウスの時期に試されなかった(というか試す価値もなかった)実験が時間差で繰り広げられているのであった。
ハウスミュージックの草創期には、手作り感満載のチープなトラックが濫造され、それらの屍はたとえばChicago UndergroundやTraxなどで漁ることができるが、現在進行系でのおかしなハウスミュージックは、Bandcampにあるのかもしれない。プロモーションビデオは、記念写真の連続で度肝を抜かれる。
Twitterのフォロワーはわずか33人で、ファンレターを書いたら、こちらが書いた文字の10倍くらいの返事が頂戴できそうなイメージだが、ジャンルそのものがアウトサイダー・アートじみているハウスの中でも、ひときわアウトサイドにある音楽である。
◆入手しておかないと精神衛生上よろしくないデトロイトテクノの傑作
話がややこしくて申し訳ないが、2011年に出た"Back In The Box"シリーズのGrobal Communicationの巻にこの曲が収録されていて、ミックスされているものしかないと思って諦めていたら、なんとミックスされていないアルバムが別に売られていたことを昨年Beatportで発見。しかし、なぜかおま国されてしまったので、物理的なディスクを手に入れるしかなく、血眼になって探し回って入手し、魂の平安が得られたのだった。
◆わりと忠実にOlivia Newton-Johnをカバーしているのに、この哀愁
Olivia Newton-Johnをカバーしてもなお、独特の哀愁が漂っていて、さすがやなと思った。また、ギターおばさんになっても最高にかっこよく、見ていて勇気づけられた。
◆緻密すぎて、電子音楽が好きでない人も感激しそうな傑作
Roter Gitterling / Dominik Eulberg (APUS APUS)
自信をもって万人におすすめできる高級テックハウス。全盛期のPlaidのようなスケールと抒情性があって最高なのだけれど、ジャケットが可愛らしくてこのレコードの存在を知った。白ジャケットだったら気づかないまま通りすぎていたのかと思うと恐ろしい。いい音楽にはいいジャケットがついていてほしい。見つけやすいので……。
ミニマル・テクノ界隈ではすでに大御所のようだけれども、同じテクノでも、少しでも自分の好きなジャンルと違うジャンルだと知らないまま過ごしてしまうもので、今回のように、作風が変わってから初めて「この人すごいけど誰?」と騒ぎはじめてしまい、少々恥ずかしい。ミニマル・テクノで名を馳せてきただけあって、細部の作りこみがすばらしい。
◆ニューウェーブの残党が自分に言い訳しながら聴ける名作
A Winter In Los Angeles (Feat. Private Agenda) / Massimiliano Pagliara (Live At Robert Johnson)
このようにニューウェーブに別時代の音楽を組み合わせてくれると、オッサンとしては「これは懐古趣味ではないんだぞ」と自分に言い聞かせることができて、精神的に非常に助かる。
以上、「2018年はこんな時代だった」などとまとめられるような聴き方はしていなかったのだけれど、今年もすでにいろんな音楽を聴いて感動しているので、楽しい一年になりそうだと思っている。
70年代の若者を気取ってそばの超大盛りを食べて気持ちよかったという話
雑多なデコレーションを見ると、「ここって都内?」という気持ちになる。(注:非都民の方のために解説しておくと、東京都民にとって、都内を感じさない都内は旅行をした気持ちになれて、泣いてしまうのである)
事前に、この店の盛りそばは、並以外に、「メガ盛り」と「ちょいメガ!盛り」があることを把握しており、メガ盛りは8人前と聞いていたので、さすがに無理だなと思ってパスしたのだが、ちょいメガ盛りなら5人前で麺は900グラムとのことで、つけ麺600グラムなどの経験が過去に豊富にあったため、プラス300グラム程度なら食べきれるだろうと高をくくっていたのであった。
札幌&新千歳空港近辺で生成されがちな空き時間の楽しい過ごし方
なお、世代的には、学校で釣り好きが「イトウという幻の魚が……」という話をしていたので、希少であるというイメージを持っており、なぜイトウ先生を別の水槽で紹介しないのかと思ったりもするのだが、最近は養殖されたりしているらしいので、その幻である度合いは、幻の手羽先よりもやや幻という程度なのかもしれない。
ウミネコが装置の意味を理解してそこにいるのか、単に赤い棒の上に立ちたかったのかは謎である。
次回撮るときは、どのタイミングで長い首を収納するのかに気をつけて撮りたい。
巨大な双眼鏡があり、出張のついでなんだからズームレンズなんて持っているわけないじゃんとおっしゃる方もバードウォッチが満喫できる。
出張のついでなのにズームレンズを持ってきてしまったわたしのような準備よしの人も、さらなる高倍率のズームレンズがほしくなってしまうのであった。
とくにサンクチュアリでもなんでもない川べりを歩いていると、黄ばんだ白鳥がたくましく暮らしているところを見かけた。
いまはちょうど補修中で、美しくなっているところのようで、写真のように老朽化しているところが見たいと思っている方は物足りないと思うかもしれない。
間近で見ると水蒸気がすばらしい迫力である。出張だというのに望遠レンズをカバンに忍ばせてしまった方におかれましては、ここが使いどころなので、最大のズームでご撮影のほどお願いいたします。
まるで生き物。
知られざる東京・稲城の名所たち。府中までの散歩道は宇宙コロニーに住んでいる気分になれて最高
プラットホームがゆったりしていて、武蔵小杉に分けてあげたい感じである。
無骨なトンネルの上に高級住宅地が形成されているという絶景
正面は、アミアミがあるので、RX100シリーズなどのコンパクトカメラを網目にくっつけて撮るといいと思う。
電気系統がややこしいけど、これはいろんな種類の電車が通るからかもしれない。
実際一般の車両でも、ホリデー快速鎌倉号(南越谷から鎌倉という夢のようなルート)が通っている。
謎のセンスのオブジェと和製スチームパンクみたいな鉄塔
代々木のNTTドコモのタワーとスカイツリーが並んで見える。
多摩川の橋の中でも異形の並列斜張橋、是政橋
並列でかかっているだけあって、歩道もゆったりしている。
謎の水色部分だけれども、おそらく両側のポールを連結させることで安定させる意図があると思われるし、見ているこちらとしても気持ちが安定する。
黄金都市・府中の公園に歯ぎしりする
江戸東京たてもの園を小さくしたような場所
先端部分が二段になっているのだが、これは石棒としてのデザインとしてこうなのか、それとも男性のそれがこうあってくれたら最高と思われていたのか、タイムマシンに乗って聞いてみたいところである。
無駄に住民票の写しなどを請求してしまいそうなインターフェイスである。
あと外の人がくつろぎすぎて感動した。
町長の間。いまの感覚だとSurface1台置けるスペースがあれば十分だけれど、予算やら何やらの表もすべて手書きの紙になると、これだけゆったりした机が必要なのだろう。
「先日助けていただいたNです」より好きな感じの事件
よくインターネットで「先日助けていただいたN(Nは任意の名詞)です」というネタを見かける。剽窃でないものを見たことがなくて個別に言及したりはしないものの、実際にこんなことがあったらいいのになぁと思いながら笑っている。
しかし、実際に生き物を助けるには、かなりの運が必要である。たとえば、生き物に餌をやるという形で一定の援助はできるけれども、駅前の広場で鳩に給餌している老人が膝の調子がよくない日に休んだとしても鳩が死ぬことはないし、鳩の方も、命拾いしたとまで思っていないはずである。また、鳩の餌への情熱を疑ってしまうこともある。この写真を見ていただきたい。
寂しげな老人が干しトウモロコシand so onを撒いてしばらくしたあと、老人も鳩も去っていってわたしだけが残されたのであるが、かなりの食べ残しの量である。鳩たちが恩を感じ、「先日ご飯をいただきました鳩です」と老人のもとに現れることは、科学的にも非科学的にも絶対ない。鳩からしてみれば老人に生きがいを供給してやったくらいの気持ちでいるのかもしれない。
「先日助けていただいたNです」を実現するためには、やはり、餌を与えるなどではなく、命を落としそうになっているところを救わなければならないのであるが、実現の難度は高い。なぜなら、ある生物が命を落としそうになっているときは、ほかの生物に捕食されそうになっているときのことが多いからである。
ある日、わたしが散歩をしていたら、手負いのカワセミがカラスに繰り返し襲撃されているところだった。放置しておくとカワセミはカラスに食べられてしまう。わたしは反射的にカラスを追い払おうとしたのだが、すぐにその行動が適切ではないことを悟った。たとえばカラスがカワセミ並みにカラフルで愛らしく、カワセミがゴキブリのような外観だったらわたしは同じようにはしていないはずである。結局、カワセミとカラスは食物連鎖に任せることにした。一方を助けることは一方を迫害することと同じなのである。
その地味な事件以後の数年間、チャンスは巡ってこなかったのだが、先日、不意にその時がやってきた。気持ち悪いかもしれないけれども、この写真を見ていただきたい。
真鶴の海岸でこの物体を見かけたが、ふつうの人が見ても汚い雑巾のように見えるかもしれない。しかしわたしは一瞥してそれがアメフラシであると理解した。なぜならアメフラシが大好きだから。幼稚園のころ、父親にアメフラシの図鑑を買ってきてほしいと頼んだほどである。そのとき父親は天気のあれこれみたいな図鑑を買ってきてくれたのだった。わたしは怒らずに天気のあれこれを学んだ。
直前に、保護者ともども善悪の彼岸にお住まいであるとおぼしき小学生たちとすれ違ったのだが、彼らが興味本位にアメフラシを捕らえて、岩の上に放置していたということなのだろう。
そして、わたしをおいてほかに「あ、アメフラシ先生が岩の上で乾いていらっしゃる、これは一大事だ!」などと思う物好きはいないので、アメフラシ先生を救うのはわたししかいない。
小学生たちはわざわざ海から遠い場所にアメフラシ先生を放置していたので、磯に持って行くのは少々面倒だったのだけれども、ちょうど磯には仲間がいたので、この場所に放てば暮らしていけるのではないかと思った。
アメフラシ先生について何の説明もしていなかったのにここまで読んでくださっていることに感謝しつつ解説すると、アメフラシ先生は見てのとおりの軟体生物で、ウミウシの近縁なのだけれども、ルーツは貝。形骸化しているが、体に比べると遙かに小さい貝殻が背中に埋まっている。背中の襞に指を差しこむと貝殻の感触があるのだが、文字にするだけでまずいとわかる触れ方であり、わたしは背中を撫でる程度で我慢することが多い。また、窮地に追いこまれると、煙幕の代わりに、紫の液体を放出するので、人類には不評である。
アメフラシ先生は、磯に放ってすぐに元の形を取り戻されたので安心した。
紫の液体がまだ出ていて、足跡がわかる。
後日、「あのとき助けていただいたアメフラシです」と、ベトベトの何かがうちに来たらどうしようかと思ったが、食物連鎖の話でいうと、アメフラシ先生を殺すことでアメフラシ先生が常食としているアオサが救われ、あの小学生たちのところに「あのとき助けていただいたアオサです」とやってきたのかもしれない……などと空想しながらアメフラシ先生の動きを観察していたのだが、ここで不思議なことが起こった。
アメフラシ先生は人類との接触に懲りて岩陰にでも隠れようとするだろうと思っていたのだが、なんと、苦手なはずの陸に上がろうとしてきたのである。驚いて観察していると、ほとんど水の外に出てきてしまった。
つまり、わたしに向かってきているのだ。後日恩返しにくるのではなくて即座に恩返しにくるとは、人類のみならず軟体生物たちの間でも物事を先延ばしにするのは無能の証であるという風潮があるのかもしれない。
以前、助けられたタコが、助けた人のところに寄ってきた動画を見たのだけれど、アメフラシの知能は、タコに遙かに及ばないはずで、この行動は謎に満ちているが、わたしがいる限り、陸に上がったままでいて、また同じ目に遭うのではないかと思ったので、名残惜しいが磯を去ることにした。
わたしはそれから時々この写真を見てニヤニヤしている。
知られざる世界レベルの古墳地帯、総社&岡山が貸切状態で最高だった
お得感最高の備中国総社宮
東総社駅を出てすぐ、総社市の由来にもなっている総社宮がある。
「総社」とは、その国の神を一箇所に集めて巡礼を簡略化した神社である。四国八十八箇所めぐりを一箇所でできるようなのと同じ考え方だが、そもそも、足を使って巡礼することに意味があるはずで、そこまで簡略化したいなら、そもそも神道を信じるのをやめればいいのでは……などという身も蓋もない考えが浮かんだりもするけれども、巡礼は必要だが本気で巡礼したくないという気持ちも人間らしさというものである。
後円部の頂上からの見晴らし。いまでもすてきだけれども、作られた当時は杉もないので、いまの高層ビルからのような見晴らしだったに違いない。
振りかえって前方部を望む。
古墳の周囲に堀はないため、古墳を支えるかのように民家が隣接している。