ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

知られざる東京・稲城の名所たち。府中までの散歩道は宇宙コロニーに住んでいる気分になれて最高

首都圏在住の人でも、稲城に遊びに行ったことのある人はかなり少ないのではないかと思う。住んでいる人に聞いても「何もないとこだよ」と返ってくる。地図上で見てもないように見えていたこともあり、わたしも最近までは失礼ながらそう思っていたのだが、ある日の夕方、散歩する場所に事欠いて思いつくまま歩いていたら、素晴らしいトンネルに出会い、そのとき以来、「ちょっと稲城に行くか」と思うようになった。そして、他にもすばらしい場所をいくつも発見し、稲城から府中へのウキウキお散歩ルートを開拓したので、ここで報告させていただきたい。
 
今回のルートはこちら。
(1)宇宙コロニーみたいなトンネル(2)城山公園 竜の池(3)城山公園 ファインタワー(4)是政橋展望スポット(5)是政橋(6)郷土の森公園(7)このへんに出店があるときはある(8)府中市郷土の森博物館(9)旧府中町役場庁舎(10)旧府中尋常高等小学校校舎(11)まいまいず井戸

 

 
もし1日で上記コースを歩きたい場合は、(3)のファインタワーは5~10月の日曜祝日のみ営業で、開門が12時半。最後の郷土の森博物館は16時が最終入館時間なのでご注意いただきたい。(orファインタワーは別の日にするとか……)
 
今回の起点は稲城駅。

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プラットホームがゆったりしていて、武蔵小杉に分けてあげたい感じである。
駅のまわりに繁華街のようなものはない。住居に特化されているから飲食店はあまり必要ないのだろう。
 
駅の北口を出て道なりに進む。
ここには電車は通っていないのに、上にあげた地図上には線路がある。武蔵野貨物線である。
 

無骨なトンネルの上に高級住宅地が形成されているという絶景

わたしが最初にこの風景に出会ったのは、夜に調布から都道19号線を歩いていたときのことである。暗闇の中に得体の知れないトンネルが忽然と現れた。しかも、トンネルの上は家族団らんを思わせる住宅街の温かい光。まったく予期しないタイミングですてきな風景に出会えて驚いた。

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昼間も昼間でよござんす。無骨なトンネルが唐突に現れるこの感じ……。
銀河鉄道とかそういうのが出てきそう。
この感動を十分にお伝えできているか不安である。

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ただ無骨なトンネルがあるだけでも素敵なのだが、その上で、何事もないかのように―実際何事もないのだけど―人々の平和な暮らしがある。このコントラストは少なくとも都内では見かけたことがない。
 
トンネルの脇の階段のようなものがあるので、ここを歩けるのではという期待が醸成されてしまう。

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まわりを一周してみたのだが、すべて入り口は封鎖されていた。

 正面は、アミアミがあるので、RX100シリーズなどのコンパクトカメラを網目にくっつけて撮るといいと思う。

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電気系統がややこしいけど、これはいろんな種類の電車が通るからかもしれない。

実際一般の車両でも、ホリデー快速鎌倉号(南越谷から鎌倉という夢のようなルート)が通っている。

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 ふと振り向くとナイスな鉄塔もある。これは夕方に行ったとき撮ったもの。

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ひとしきり、トンネルのまわりを歩き回ったら次の名所へ行こう。駅からさらに離れる方向に進んでいく。
 

謎のセンスのオブジェと和製スチームパンクみたいな鉄塔

次に訪れたのは城山公園。

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この写真だけを見ると壁が唯一のセールスポイントである寂しい公園に見えてしまうかもしれないが、わたしの中では都内の公園の中でもトップクラスのプレイスポットである。(ここでのプレイ=歩くor観察する)
 
まず、「龍の池」がよい。謎のアジア風のオブジェがあしらってある。f:id:kokorosha:20180605205305j:plain
 
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昔は水がたっぷり引いてあったはずだが、今は干からびそうである。
この池が実際どうなのかは知らないが、東日本大震災後、節電のために噴水などが止まってしまい、大震災からかなり経って復興はしたものの、噴水だけは停止したままで、もしかして噴水を止める口実がほしかったのかなと思う。
 

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池の裏側に、この苦境でも職務をなんとか果たそうと奮闘している龍がおり、応援したくなる。
 

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この池から謎のタワーへの長い階段が通じている。
ファミコン時代のゲームの世界を歩いているような喜びに満たされる。
 
 

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このタワー、デザインがさきほどのトンネル並みに無骨で惚れ惚れする。しかも、いつ行ってもほとんど人がいないから、高いところが好きならゆっくりできるし、高いところが苦手なら恐怖感が倍増する。
 
階段も、風通しがよすぎてスリル満点。

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展望台は、当然ながら柵が用意されているものの、あまり高くないし、ガラスで保護されているわけでもないので、なかなかにスリリングである。そのかわり、写真が撮りやすい。
 
こちらは東京の東部。

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代々木のNTTドコモのタワーとスカイツリーが並んで見える。

 

反対側は多摩ニュータウンである。
ニュータウンといえば、同じ建物の団地が横一列というイメージだが、近年は、このように地形を活かした建物が多い。

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このあと、多摩川方面に向かうが、公園と呼ぶにはあまりにもありのままの自然で、東京都だよね、と自問するはずだ。

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にぎやかしにシマヘビも登場。つやつやしていて、脱皮したてなのか、単にきれい好きなのかどっちだろう。

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多摩川の橋の中でも異形の並列斜張橋、是政橋

公園を出て、多摩川方面に目をやると、白っぽい巨大建築が見える。先ほどのトンネルやタワーとはずいぶん雰囲気が違う。

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奥の橋は是政橋。斜張橋が並列で並んでいるので迫力満点である。
城山公園から見下ろせるので、インスタ映えすると思う。(「インスタ映え」を履き違えた意見)
 
手前の橋は南武線。是政橋の前にあるから注目されていない風味だけれど、コンクリートだけの橋だと不思議な印象である。

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並列でかかっているだけあって、歩道もゆったりしている。
 

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謎の水色部分だけれども、おそらく両側のポールを連結させることで安定させる意図があると思われるし、見ているこちらとしても気持ちが安定する。

 

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黄金都市・府中の公園に歯ぎしりする

橋を渡り終えたら黄金の都、府中市である。何が黄金かというと、「府中郷土の森」が、さきほどの城山公園のたたずまいとは異なる、坂のない、水に満ちた公園だからで、たとえばこのように噴水はやりたい放題。

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また、黄金の国の市民たちの憩いの場としても使われていて、いくつか屋台も出ている。近辺にご飯を食べるところが少なめなので、ここで何か買って公園で食べるのも楽しい。
 

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なお、先日訪問した折に、二郎系まぜそばの店を発見した。実はそこまで空腹ではなかったのだけれども、二郎系まぜそばを公園で食べることができるチャンスを逃すわけにはいかなかった。
 

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全体的に茶色い絵柄になってしまった。
 

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麺はさすがにすみやかに提供するため平麺であるが、濃い味つけは予想を裏切らなかった。
 
いつもいるとは限らないので、もし、好みの屋台に出会えなければ、公園内にある「レストランけやき」などに行ってみるのもいい。公園のレストランなのに結構なメニューの数でびっくりするはずである。
 
 

江戸東京たてもの園を小さくしたような場所

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そしてこの旅のクライマックスは府中市郷土の森博物館。
 
ここは屋内展示と、移築された建築のどちらも見逃せない。
 
 
屋内展示は、大国魂神社のくらやみ祭を中心に、府中の今昔がわかる。
ちなみに昔は石器時代から始めていただけるのであった。
 

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土器なども紹介しているが、石棒を見つけるとついつい撮影してしまう。

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先端部分が二段になっているのだが、これは石棒としてのデザインとしてこうなのか、それとも男性のそれがこうあってくれたら最高と思われていたのか、タイムマシンに乗って聞いてみたいところである。
 
また、現代編では、三億円事件の展示もある。
ただ、犯人が捕まっていたりはしないので、展示物があんまりない……。

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この博物館の特徴は広大なジオラマ。23区では体験できない迫力。
この風景を脳裏に焼きつけてJR府中本町駅or京王線府中駅までの道を歩くと楽しい。
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博物館のトリはサイノカミ。邪悪なものが入ってこないようにする結界のような働きをするとされるが、結界としての効力を実感させるためか、ド迫力の大きさで、アール・ブリュットのようである。

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また、博物館内に移築された建物が豪華で、江戸東京たてもの園に行った気分になれる。
 

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これは府中尋常高等小学校。

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このタイプの机、むかし、机の上を開けていろいろ収納できていいなーと思ってアンティークショップで買いそうになったが、原稿を書いたりしたら肩が凝りそうなので諦めたという経緯がある。2in1タイプの机、わたしなら、隣に好きな子がいたら勉強にならないと思う。昔の子供たちはそのへんはどうしていたんだろう。
 

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紫外線や湿度の管理を完璧にしていたせいか、昨日書かれたかのような錯覚に陥る。
美しい字というのはそれだけで説得力を持つもので、よし竹槍でB29を撃墜や……みたいな気持ちになってしまう。
 
 
府中町役場の和洋折衷ぶりも見逃せない。

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入ると広々としたカウンターがある。

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無駄に住民票の写しなどを請求してしまいそうなインターフェイスである。

あと外の人がくつろぎすぎて感動した。

 

町長の間。いまの感覚だとSurface1台置けるスペースがあれば十分だけれど、予算やら何やらの表もすべて手書きの紙になると、これだけゆったりした机が必要なのだろう。

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床や天井など、細かいところまでよく見ると意外な発見がある。

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天井に……孔雀!
 
最後にまいまいず井戸で〆

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復元した井戸なのだけれども、ぐるぐる回って降りていくと、関東ロームを掘って掘ってもなかなか水が出てこない大変さを実感することができて最高。
 
 
わたしの歩くペースで紹介したけれど、そこまで歩かない人は前半後半で分けて別の日に行ってみるのもいいかもしれない。
稲城に行ったことがない人は、東京にこんな面白い場所があるなんて、と感激するはず。わたしは稲城駅に降り立った途端に胸が高鳴る体になってしまった。みなさんにもぜひ行ってみていただきたい。
 
 
 

「先日助けていただいたNです」より好きな感じの事件

よくインターネットで「先日助けていただいたN(Nは任意の名詞)です」というネタを見かける。剽窃でないものを見たことがなくて個別に言及したりはしないものの、実際にこんなことがあったらいいのになぁと思いながら笑っている。
しかし、実際に生き物を助けるには、かなりの運が必要である。たとえば、生き物に餌をやるという形で一定の援助はできるけれども、駅前の広場で鳩に給餌している老人が膝の調子がよくない日に休んだとしても鳩が死ぬことはないし、鳩の方も、命拾いしたとまで思っていないはずである。また、鳩の餌への情熱を疑ってしまうこともある。この写真を見ていただきたい。

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寂しげな老人が干しトウモロコシand so onを撒いてしばらくしたあと、老人も鳩も去っていってわたしだけが残されたのであるが、かなりの食べ残しの量である。鳩たちが恩を感じ、「先日ご飯をいただきました鳩です」と老人のもとに現れることは、科学的にも非科学的にも絶対ない。鳩からしてみれば老人に生きがいを供給してやったくらいの気持ちでいるのかもしれない。

 

「先日助けていただいたNです」を実現するためには、やはり、餌を与えるなどではなく、命を落としそうになっているところを救わなければならないのであるが、実現の難度は高い。なぜなら、ある生物が命を落としそうになっているときは、ほかの生物に捕食されそうになっているときのことが多いからである。

ある日、わたしが散歩をしていたら、手負いのカワセミがカラスに繰り返し襲撃されているところだった。放置しておくとカワセミはカラスに食べられてしまう。わたしは反射的にカラスを追い払おうとしたのだが、すぐにその行動が適切ではないことを悟った。たとえばカラスがカワセミ並みにカラフルで愛らしく、カワセミがゴキブリのような外観だったらわたしは同じようにはしていないはずである。結局、カワセミとカラスは食物連鎖に任せることにした。一方を助けることは一方を迫害することと同じなのである。

 

その地味な事件以後の数年間、チャンスは巡ってこなかったのだが、先日、不意にその時がやってきた。気持ち悪いかもしれないけれども、この写真を見ていただきたい。

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真鶴の海岸でこの物体を見かけたが、ふつうの人が見ても汚い雑巾のように見えるかもしれない。しかしわたしは一瞥してそれがアメフラシであると理解した。なぜならアメフラシが大好きだから。幼稚園のころ、父親にアメフラシの図鑑を買ってきてほしいと頼んだほどである。そのとき父親は天気のあれこれみたいな図鑑を買ってきてくれたのだった。わたしは怒らずに天気のあれこれを学んだ。

直前に、保護者ともども善悪の彼岸にお住まいであるとおぼしき小学生たちとすれ違ったのだが、彼らが興味本位にアメフラシを捕らえて、岩の上に放置していたということなのだろう。
そして、わたしをおいてほかに「あ、アメフラシ先生が岩の上で乾いていらっしゃる、これは一大事だ!」などと思う物好きはいないので、アメフラシ先生を救うのはわたししかいない。

小学生たちはわざわざ海から遠い場所にアメフラシ先生を放置していたので、磯に持って行くのは少々面倒だったのだけれども、ちょうど磯には仲間がいたので、この場所に放てば暮らしていけるのではないかと思った。

 

アメフラシ先生について何の説明もしていなかったのにここまで読んでくださっていることに感謝しつつ解説すると、アメフラシ先生は見てのとおりの軟体生物で、ウミウシの近縁なのだけれども、ルーツは貝。形骸化しているが、体に比べると遙かに小さい貝殻が背中に埋まっている。背中の襞に指を差しこむと貝殻の感触があるのだが、文字にするだけでまずいとわかる触れ方であり、わたしは背中を撫でる程度で我慢することが多い。また、窮地に追いこまれると、煙幕の代わりに、紫の液体を放出するので、人類には不評である。

 

アメフラシ先生は、磯に放ってすぐに元の形を取り戻されたので安心した。

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紫の液体がまだ出ていて、足跡がわかる。

 

 後日、「あのとき助けていただいたアメフラシです」と、ベトベトの何かがうちに来たらどうしようかと思ったが、食物連鎖の話でいうと、アメフラシ先生を殺すことでアメフラシ先生が常食としているアオサが救われ、あの小学生たちのところに「あのとき助けていただいたアオサです」とやってきたのかもしれない……などと空想しながらアメフラシ先生の動きを観察していたのだが、ここで不思議なことが起こった。

アメフラシ先生は人類との接触に懲りて岩陰にでも隠れようとするだろうと思っていたのだが、なんと、苦手なはずの陸に上がろうとしてきたのである。驚いて観察していると、ほとんど水の外に出てきてしまった。

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つまり、わたしに向かってきているのだ。後日恩返しにくるのではなくて即座に恩返しにくるとは、人類のみならず軟体生物たちの間でも物事を先延ばしにするのは無能の証であるという風潮があるのかもしれない。

 

以前、助けられたタコが、助けた人のところに寄ってきた動画を見たのだけれど、アメフラシの知能は、タコに遙かに及ばないはずで、この行動は謎に満ちているが、わたしがいる限り、陸に上がったままでいて、また同じ目に遭うのではないかと思ったので、名残惜しいが磯を去ることにした。

 

わたしはそれから時々この写真を見てニヤニヤしている。

 

 

 

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知られざる世界レベルの古墳地帯、総社&岡山が貸切状態で最高だった

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アイキャッチの画像から地味すぎて、キャッチできるのか不安なのだけれど、これを読んでくださっている方のアイにおかれましては、キャッチさせていただいたということになり、感謝の気持ちでいっぱいである。
 
今回は岡山の話。
中国地方への旅行といえば、宮島や広島市内を思い浮かべる人が多いはずだ。あるいは山口の秋芳洞を想う人もいるかもしれない。岡山に旅行に行こうと思う人は少なく、たしかに観光客の数は広島の1/3に満たない。わたしも、岡山に旅行に行ったことはなかったのだが、念のため、地図を調べてみると思いのほか見どころが多いことを発見し、この2年間で3度ほど行ってきた。3回に分けて紹介していきたいと思う。
 
今回の行程は、東総社駅から降りて、岡山駅方面に戻るように歩いていく。東総社は岡山駅から電車でわずか30分程度のところにある。
考えなしに行ったのだが、地図の情報からは想像できないほどの感動があり、史跡が好きな人は一生の思い出になるので、ぜひとも行ってみていただきたいと思う。
足が棒になるまで歩くのは勘弁と思う方=ノーマルな方は、総社駅からレンタサイクルも用意されている。
 
(1)備中国総社宮(2)作山古墳(3)備中国分寺(4)こうもり塚古墳(5)千足古墳(6)国指定史跡 造山古墳

 
この地域のいちばんの魅力は、
 
敷地内に入れる墳墓としては世界最大級の、「造山古墳」がある
 
……という点である。
 
日本最大にして、世界最大でもある大仙古墳(a.k.a.仁徳天皇陵)。ピラミッドも大きいが、体積でなく長さではかると日本の前方後円墳の独擅場なのだけれども、やんごとなき方の墓にあたるため、立ち入りは禁止。その大きさを感じるためには、古墳の近くの歩道橋から眺めたり、柵の外を一周するしかないのである。古墳にラブホテル街が隣接しているさまも興味深くて、大仙古墳は大仙古墳で訪問すべきなのだが、日本で4番目の規模である造山古墳には柵がないので、前方後円墳の巨大さを足で確かめることができるのである。
また、世界三大墳墓の残り2つと比較しても、造山古墳はクフ王のピラミッドをしのぐ大きさで、また、秦の始皇帝陵とほぼ同じ長さである。敷地内に入れる墳墓としては世界最大級ということになる。それが貸し切り状態で楽しめるなんて夢のようである。
 
―以上の文により、こちらをご覧になったみなさまに、総社の風景に興味を持っていただけたと確信したので、東総社駅から歩きながら順に紹介していこう。
 

お得感最高の備中国総社宮

東総社駅を出てすぐ、総社市の由来にもなっている総社宮がある。

「総社」とは、その国の神を一箇所に集めて巡礼を簡略化した神社である。四国八十八箇所めぐりを一箇所でできるようなのと同じ考え方だが、そもそも、足を使って巡礼することに意味があるはずで、そこまで簡略化したいなら、そもそも神道を信じるのをやめればいいのでは……などという身も蓋もない考えが浮かんだりもするけれども、巡礼は必要だが本気で巡礼したくないという気持ちも人間らしさというものである。

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ふつうの椅子が置いてあるところを見ながらお賽銭をチャリンと入れるのが楽しい。
 
ずいぶんマンガ的な表現だと思ってよく見たら鳥の糞だった。

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総社宮そのものはさほど大きくはないのだが、得られる(とされる)霊験に比例して、回廊~拝殿に立派な屋根がついていて、初詣の時期などには混雑すると思われる。霊験と神社の物理的大きさは必ずしも比例しないのであった。
 
 
総社宮を出たら、田畑と住宅地がミックスされた中を歩く。
古い蔵のような建物を見かけた。

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壁が剥がれていて、土壁の建物の解剖図のようになっていてありがたい。
 
 
そして次は古墳。今回は3つの古墳を訪問するのだが、最初は作山古墳。この古墳は日本で10番目の規模の前方後円墳である。このあと4番目の前方後円墳にも行くのだから、もし大仙古墳に行ったことのある人なら、あとは総社に来ただけで、前方後円墳のことはわかったと言えるのではないだろうか。まあ、前方後円墳をわかっていることにどんなメリットがあるか知らんけど……。
 
前座にして日本で10番目の古墳、作山古墳
作山古墳、日本有数の大規模古墳でありながら、観光客はいなかった。

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原型はとどめているものの、松が植えてあって、一見すると登ってはいけないように見えるけれども、道らしきものが用意されていた。ただし、どれが公式ルートなのかがわからなくてちょっと不安。
さすがに日本で10番目の古墳の後円部は傾斜がきつい。

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後円部の頂上からの見晴らし。いまでもすてきだけれども、作られた当時は杉もないので、いまの高層ビルからのような見晴らしだったに違いない。

 
後円部から前方部へと歩く。

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前方後円墳の石室は後円部にある。石室は後円部にあるので、前方部から徐々に気持ちを高めながら後円部へのアプローチなどもよいのだが、後円部から登るときのちょっとした登山のような気分も捨てがたい。
 
ここで枯葉を踏みしめる音がして、観光客かなと思ったら、ランナーだった。つまり豪族の墓も、いまや足腰を鍛えるためのトレーニング施設なのであり、栄枯盛衰を実感した。そのランナーが亡くなったときのお墓はこの古墳の1万分の1くらいだろう。
 
 
田畑の中に屹立する五重塔が当時のままのように見えて感動的
作山古墳を降りたら、つぎは備中国分寺。

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田畑の中を歩いていくと、五重塔が見えてくる。ちょうど六本木駅から南下したときに東京タワーが現れる、あの感じである。
国分寺というと、いまや廃寺になっていて礎石しかないところが多い。武蔵国国分寺に至っては、駅が残っていて周辺の開発は進んでいるのに、寺は礎石のみ。しかし当時、特に仏塔などは地域のランドマークも兼ねていたはずで、ここにはそのころの姿がおそらくそのままで残っており、タイムスリップしたような錯覚を受ける。
 
ただ、この国分寺も、重要文化財である五重塔以外はほとんど残っていない。

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塔の彫刻も彩色が残っていないのだが、動物のフォルムがゆるくて可愛らしい。

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とくに左の兔は、何か別の意図があって面白い顔にされているのかしらと思ってしまう。
 
こうもり塚古墳は石室が丸見え
備中国分寺から近いところに、こうもり塚古墳がある。さきほど見てきた作山古墳、このあと見る造山古墳は石室の収納具合が見えない。どちらも日本有数の古墳なのに残念だが、「石室を見たい&入りたい」という本日の渇望は、この古墳で満たされるので安心していただきたい。

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やはりここも貸し切りのような状態で見学することができる。古墳の脇では夫婦でない高齢の男女が身の上話をしており、このあとどうなるんやろというのが気になったが石室に集中しなくてはならない。
 

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石棺は、部分的に欠けたせいか、いやらしい裂け目が形成されている。
わたしが古代人なら、これを女陰だと思って崇めたりしていたと思う。 

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せっかくの古墳密集ゾーンなのだから、クライマックスの造山古墳の前にもうひとつ古墳をキメたいという気持ちになって、千足古墳に寄ってみた。
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……が、工事中で入れなかった。むしろラッキーなことに、修理中の古墳の姿を拝むことができてラッキーだった。
 
円墳のようなのだが、途中までトラックで乗りつける……想像していたよりもずっとワイルドである。
 
草木のない、より当時の雰囲気に近くなるよう修復するようなので、完成したら見に行こうと思う。
 
造山古墳は規模が大きすぎてもはや展望台だった
造山古墳の入り口は後円部にあるが、古墳の説明はもはや防犯の看板を支える役割しか担っていない。

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古墳と犯罪が結びつかないが、ここまでの規模になってくるともはや山で、山奥で恐喝されたり変質者が登場することは田舎では時々発生すると考えると、たしかに注意が必要なのかもしれない。どんな古墳やねん。

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変質者に気をつけながら、あるいは自分が変質者であることが露呈しないように気をつけながら後円部を登っていくと、頂上には荒神社があった。

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古墳が神社になっているのが大好物なので最高の気分である。
石棺も無造作に置いてある。

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実はこの古墳のものなのか、別の古墳から持ってきたものなのかは不明である。被葬者が見たらめちゃくちゃ怒りそうだけれども、触り放題なのは現代人にとっては大変ありがたい。大きな岩を削って作っているが、当然ながら手作業だし、設計ミスなども許されなかっただろうと思うと、被葬者よりも工人の苦労を偲んでしまう。この岩は阿蘇から運んできたらしいので、どの古墳のものであれ、被葬者はかなり豊かだったと思われる。
 

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枕状になっているが、そのまま横になると痛そうである。
 
 
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立派な鐘もあり、神仏習合やねーと思ったのだけれど、廃仏毀釈も古墳の頂までには及ばなかったということなのかもしれない。
 

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また、神社の脇には石棺の蓋があるのだが、よく見ると彩色が残っていて、こんなすばらしい遺物が触り放題なんてサービスにもほどがあると思う。観光地としての知名度が低い地域の醍醐味である。
 
ハイキングコースにしか見えないが、前方部に進んでいこう。

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最前部からの見晴らしは、先ほどの作山古墳とは別次元のスケール感。

 

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先ほど見た千足古墳の全貌も上から見るとよくわかる。千足古墳は造山古墳の陪塚にあたる。

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振りかえって前方部を望む。

古墳の周囲に堀はないため、古墳を支えるかのように民家が隣接している。

 
被葬者には申し訳ないが、小さなテーマパークのようで、最高の古墳だった。
この古墳の全長は350メートルで、大山古墳の486メートルには及ばないが、ピラミッドの一辺の大きさをはるかに凌いでおり、古墳のスケール感を体感するには、世界随一といってもいいのではないかと思う。
 
帰りは田園地帯を歩いて備中高松駅まで歩くのだが、用水路が太くて興奮した。

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古墳を振り返ると、ここで死にたいと思える感じになっていた。

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古墳は観光地として面白みがないと思う人も多いかもしれないけれど、風景とも合わせて、総社~岡山には、ぜひ訪れてみてほしいと思う。
 
 

街中にある平和や自由や平等を表すオブジェをそういう視線でしか見られない症候群

公園や公共のスペースなどにある人物を象ったオブジェたち。オブジェの台座にはきまって平和や自由や平等などを意味するメッセージが記してある。平和!自由!平等!結構なことである。太平洋戦争では数百万の日本人が亡くなったというのに、今もなお、あの戦争は間違ってはいなかったと主張する人が跡を絶たないし、人間としての権利を主張することが悪だと考える人も少なからず存在するので、広範に平和や自由や平等を祈念する像を立てておかないと、また日本が焼け野原になったり、あるいは、物理的にはそれなりに繁栄していても、精神的に焼け野原になったりするからである。

 

これらの平和・自由・平等を象徴するオブジェたちは、平和・自由・平等そのものがそうであるのと同様、日常の風景に溶けこんでいて、写真を撮る人もいなければ見向きする人もいないものだけれど、ノーマルな人生を送っている人は、仕事や家庭のことで頭がいっぱいなのだし、悪いことであるとは思わない。むしろ悪いのはわたしなのだ。

 

―というのも、わたしはこれらの像を、ついついそういう視線でしか見ることができないからである。順にわたしの視線がどうなっているかがわかるように撮影したので、ご笑納いただきたいと思う。


たとえば東京・新宿では、都庁舎の前の都民広場に彫刻が並べてある。

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この像は艶と色味がよく、ついついそういう視線で見てしまう。

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これは着衣でありながら、衣が意味をなしていない。衣服の下にあるものを強調するための衣で、西瓜における塩のごとき存在であり、やはりそういう視線で見てしまう。

 

都庁前の広場で一番好きなものを選べと言われたら、この『天にきく』である。

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この角度から見ると、東京都庁はそういう気分を引きたてるためのオブジェに見えてしまう。

 

また、都庁の近くの新宿中央公園の彫刻も、目立たない場所にあるものの、そういう気分で見てしまいがちである。

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先日、新橋で見かけた盲導犬の銅像は、着衣であったので、そういう視線で見ることはないなと思っていたのだが、念のために近づいてみると、このような状況だった。

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わたし自身、これらのオブジェをそういう視線で見たところで、得をした気持ちになったりはしない。とくにそういう気分でもないときにそういう風にしか見えないものを見かけたところでそういう気分が高まったりもしないし、もともとそういう視線で見たとしても極端にそういう気分になってしまうほどそういう感じではないからである。もしわたしと同じく、ついそういう視線で見てしまう人が仮にいたとしても、ごく一部を除いては、そういう気分が高まるほどではないはずで、たとえば、そういう視線でオブジェを見ることはよろしくないので撤去し、幾何学的なオブジェを新しく配置することになったとしても、「そうですか」としか思わないだろう。

 

不思議なのは、平和や自由や平等の象徴として設置される芸術作品が、作者の性別を問わず、裸婦像に偏っていることである。これは先人たちが、アートの名のもとにそういう気分にさせる創作物を開陳する権利を守るために戦い抜いた成果かもしれないのだが、その貴重な成果をここで使ってしまってもいいのかという戸惑いがある。あるいは、その成果たちは、使えば使うほど増えるものかもしれず、それなら、そういう視線で見ていることを隠しつつ、何食わぬ顔で暮らしていったほうがよいのかもしれないとも思うのだが、やはりわたしは、そういう視線で見てしまうことを誰かに言わずにはおれないのである。

 

 

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電子音楽を中心に、2017年に聴いた音楽、ベスト10曲

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2017年もすばらしい音楽に出会えた。毎年毎年何十万円も音楽を買うのに費やしていて、あまり振り返りたくない気もするのだけれど、こうやってアウトプットするとわたしの気持ちが多少は落ち着くのだった。
今回選んだものは、2017年に出会った音楽なので、昔のものも含んでいるけれど、5000曲以上は聞いた中から選んでいるので、参考にしていただければありがたい。

◆ディスコ歌謡の最高峰かもしれない

Sentimental Hotel / 中原理恵 (CBS Sony)

SENTIMENTAL HOTEL

SENTIMENTAL HOTEL

  • 中原 理恵
  • 歌謡曲
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
中年にとっての中原理恵先生は、欽ちゃんの番組で、「よい妻悪い妻普通の妻」をひとりで演じていた、たまに歌のコーナーで歌うこともあるコメディエンヌという印象なのかもしれない。しかし、あるとき、夏木マリ先生の『裏切り』聴きたさに"Lovin' Mighty Fire"というコンピレーションを買い、そこに収録されていたこの曲がこの上なくハイセンスな歌謡ディスコで衝撃を受けたのだった。吐息のコーラスから始まり、軽快なギター、腰に迫ってくるベースにセンシャルなボーカル……。ディスコグラフィーを漁ってみたのだが、吉田美奈子先生や山下達郎先生など強力なメンバーが参加していて、当時は時代を象徴する歌姫であることを期待されていたことがわかる。2013年に一部のファンの熱烈な要望にこたえ、10枚組のオリジナルアルバム集が出たのもうなずける。まだ在庫があったので急いで入手した。とくに初期の"Touch Me"などはすばらしい。
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ジャケットもご覧のとおりで、LPもほしくなっている。
なお、先述の"Lovin' Mighty Fire"も強烈におすすめ。
LOVIN' MIGHTY FIRE: NIPPON FUNK * SOUL * DISCO 1973-1983

LOVIN' MIGHTY FIRE: NIPPON FUNK * SOUL * DISCO 1973-1983

ピンク・レディーのシングルB面、『事件が起きたらベルが鳴る』など、まさかそんなところに……という傑作たちをおさめていて、少なくとも収録曲の確認だけでもしておいていただきたい。

◆フロアが冷めていくのが想像できる、冷えきったエレクトロディスコ


Drain The Club / Torn Hawk (Unknown To The Unknown)
数年前からL.I.E.S.のいくつかのリリースで、Torm Hawkという鬼才の存在を把握していたのだけれども、最近L.I.E.S.からのリリースがなく、ある日ふと思い出して、廃業したのかな?息してるの?と思って検索したら、息をしているかどうかは不明だが、常軌を逸した傑作がゾロゾロと出てきた。中でもこの"Drain The Club"は、徹頭徹尾腐っていて、80年代末期のボディ・ミュージックを模しているようなのだけれど、腐敗した音楽ならではの生々しいグルーブ感があり、まちがいなく傑作。冒頭から喘ぎ声のループで頭が痛く、Torn Hawk関係は毎回買うと心に誓った。プロモーションビデオも本人が作っているのだけれど、ご覧のとおり、いろいろ大丈夫かしら……と思ってしまう傑作で、この曲の魅力をよく伝えている。

◆Salsoul Orchestraが現代に蘇ったかのような傑作

The Pathways of Our Lives

The Pathways of Our Lives

  • Mark Barrott
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
The Pathways of Our Lives / Mark Barrott (International Feel)
2017年も大活躍したMark Barrottの新機軸。電子音楽から離れて、Salsoul Orchestraがディスコ・ダブ化したかのような傑作をリリース。
今様のゆったりとしたリズムに、美しいストリングスとピアノがかぶさり、人類の歴史を7分に凝縮したかのようなスケール感がある。アフロっぽい冒頭に、 人類のアフリカ単一起源説を想起してしまう。
今年も来年も何度も聞くだろうと思う。

◆"Starchild"は実質この人だけで作ったのではないか……という疑惑さえ生む傑作フュージョンの再発

BACK TO SCALES TO-NIGHT

BACK TO SCALES TO-NIGHT

Back To Scales Tonight / Wally Badarou (Love Vinyl)
ジャケットを見ただけだと聴こうと思わないかもしれないけれど、ゆったりと涼しげなフュージョンで、すべての音がいとおしい。80年リリースのオリジナル版は2万円近くするが、2016年にやっとCD になった。こんなクラッシック然とした傑作がつい最近までデジタル化されずにいたことが驚きだし、今年もこのような音楽に出会いたいと願っている。
調べてみると初期Level42のサポートメンバーで、かの傑作"Starchild"のソングライターに名を連ねていて、たしかにこの曲も、ベースをMark King先生の手数の多いアレに変えたら、そのままLevel42の曲だし、この曲もStarchildに匹敵する傑作だと思う。

◆最近、暴力が足りない……とお嘆きの貴兄に贈る2017年型の暴力系サウンド

Sanfte Grüsse

Sanfte Grüsse

  • Voigt & Voigt
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Sanfte Grusse / Voigt&Voigt (Kompakt)
そういえば昨年ひっそりと、DAFの”Der Mussolini”が、なんとGiorgio Moroder先生のミックスでまろやかに復活しており、まあそういう時代なのだろうと思ったのだが、シンセサイザーのシークエンスで暴力を表現する方法はあまりアップデートされていないように思っていたのだが、KompaktのSpeicherシリーズの99番目のリリースで、久しぶりに斬新な音楽に出会うことができた……といっても超ベテランで電子音楽でのバイオレンスを探求し続けて25年のMike Ink先生とその弟の作品。しかも調べてみたらKompaktレーベルのオーナーだったのか……。
DAFをネバネバにして減速させたようなシークエンスに、薄気味悪いSEが重なっていて、それだけといえばそれだけなのだけれど、他では得難くて、よく聞いた。

◆PILのベーシストが描いていた21世紀音楽の青写真

East

East

  • ジャー・ウォブル
  • オルタナティブ
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes
East / Jah Wobble (Emotional Rescue)
ズバ抜けてハイセンスな再発レーベル、Emotional Rescueから、元P.I.L.のJah Wobbleの過去のレアトラック集"The Lago Years"が出ていた。
彼のことを全然知らなかったのだけれど、初めて聞いて衝撃を受け、急いでレアでないトラックたちも購入した。
ダブが中心になっているように聞こえるが、架空の国の民族音楽のようで、何度も聞いてしまう。今聞いても斬新。
そして、いままでちゃんと効いたことがなかったP.I.L.も聞いてみたのだが、ニューウェーブという枠では語れないほど多彩で、もっと早く聞いておくべきだったと反省した。

◆ビデオが秀逸で音楽も好きになってしまう、MTV時代の音楽のレプリカ


Com Truse / Propagation (Ghostly International)
冒頭から官能的なシンセが鳴りわたっていて気持ちいいが、手堅ささえ感じさせる。80年代すぎて、ユーモアのようなものももはや感じられなくなってきているが、ビデオがとてもよい。女優がデボラ・ハリーに似ているのもうれしい。最初の30秒で話がどうなるのかはわかってしまうけれども、ミュージックビデオが好きで曲を好きになる、というの、MTV時代にはよくあったけど、ずいぶんご無沙汰していた。そういうワクワクする気持ちを思い出させてくれて感謝している。ビデオの再生数は100万を超えていて、同じように感じた人が多かったのだろうと思う。

◆大音量に包まれるように聴きたい、壮大なバレアリック・ロック

City of Glass

City of Glass

  • L.A. Takedown
  • オルタナティブ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
City of Glass / L.A. Takedown (Ribbon Music)
イントロのシロフォンのポリリズムを耳にしただけで傑作との出会いを確信できる。
わずか5分とは思えないほど壮大なバレアリックロックで、オシャレかダサいかと言われたらダサいのだけれど、喜多郎がロックを始めていたらこうなったのでは……という魅力があり、聴くたびに心の底から感動する。
2017年デビューで今回が3作目と寡作なのだけれども、今後も新譜は必ず聞きたい。

◆シカゴの下品なアシッドハウスの現代版


Succhiamo / Succhiamo (Antinote)
先進的かつ絶対に外さないレーベル、Antinoteのリリースなので心して聞いたが、去年聞いた中で一番下品だった。
電子ノイズの隙間で、すごい男性経験が豊富そうな女の声で「スキヤモ~」と連呼するだけなのだけれど、すばらしい中毒性があって何度も聞いてしまう。80年代末期の徒花、シカゴのアシッドハウスの現代版といった感じである。聞いたら頭が悪くなりそうで、お子様にはおすすめできない。
他の曲も聞きたいが、1回リリースして終わりになってしまいそうな雰囲気がムンムンしている。
ビデオも眉をひそめてしまう出来栄え。

◆無駄なスケール感でお送りするエロ・コズミック・シンフォニー

Espacial

Espacial

  • Susana Estrada
  • ファンク
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Espacial / Susana Estrada (Espacial Discos)
ジャケットの籐椅子とレッグウォーマーだけでお腹がいっぱいになるかもしれないけれども逃げてはいけない。
この曲、歌らしい歌はほとんど入っていなくて、前半はやる気のないコーラスで、後半はうってかわってやる気100%のエロティックな囁きになるのだが、それはともかく、緻密に作りこまれたエロティック・コズミック・ディスコ・シンフォニーで、他では聞けない魅力がある。
シンガーの位置づけはSamantha Fox先生と同じようで、画像検索をすると彼女のすべてを見ることができるが、スタッフに恵まれていたらしく、音楽性が非常に高い。彼女名義でリリースされた2枚のアルバムをリマスターのうえコンパイルした"The Sexadelic Disco Funk Sound of... Susana Estrada"はゴキゲンでセクシーなディスコミュージックが目白押しで重宝する。


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そろそろサンタクロースが嘘であることを明示的に教えるべき

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もうすぐクリスマスで、街にクリスマスソングが流れているはずだけれども、最近は一聴してそれとわかるクリスマスソングが少なくなってきていて過ごしやすい傾向にあると思う。ただ、サンタクロースの実在しない件については明らかには示されていないのが不満で、今回はその話。
 

「いい話なら作り話でも問題ない」論の総本山が、サンタクロース伝説である

「江戸しぐさ」という作り話が教科書に載っている。次の教科書改訂でなかったことにされるだろうとは思うけれども、このような作り話を広める人たちにそれが作り話であることを指摘しても、多くは「いい話なのだから、実話か作り話など、どうでもよいではないか」と開き直る。本当にどうでもよいなら、わざわざ工夫を凝らして実話を騙ったりしなければよいはずだから、本当でも嘘でもどうでもよいと思ってはおらず、嘘を信じさせたいと積極的に細工していることは間違いない。
 
ここまで書けば、「キミのことが好きだった」と言われて「なんで過去の話をするの」と思ってしまうほど鈍感な人だったとしても、サンタクロース伝説がまったく同じことであるとわかるだろう。しかも「江戸しぐさ」をでっちあげた人たちに「まあ作り話なのかもしれないけれど、あなたがこよなく愛するサンタクロースと同じですよ」と言われたら、「江戸しぐさは嘘だし気持ち悪いという偏見を持っていたことを反省します。今日からは傘かしげなどの江戸しぐさの普及に邁進します」と返すしかない。
 
サンタクロースは作り話であって実際のプレゼントは保護者の冬季賞与の一部から支給される旨を子供が生まれた瞬間から明言しつづけているなら、江戸しぐさのようなインチキを唱える者がいても、「これはインチキだから無視しよう」と思えたかもしれない。インチキを批判するのが好きな人たちが、子供がはじめて出会うインチキについて注意喚起しないのはまったく謎である。サンタクロースの存在を疑問視することが野暮だというなら、水素水やEM菌や江戸しぐさの効果を疑ったり歴史修正主義を批判したりすることも、同じくらい野暮なことではないだろうか。
そもそも、幼児にとっては発達段階の重要なタイミングで、プレゼントとともに「いい話なら嘘でも許される」ことがインプットされるのだから、パブロフ先生もびっくりである。思いきって人体実験をすればよかったと思うにちがいない。
 

サンタクロースではなく、忖度ロース

日本には古来から「忖度する」という伝統があり、それが海を渡って訛り、いつしか「サンタクロース」と呼ばれるようになった―もちろんこれは作り話だが、江戸しぐさに比べれば信憑性が感じられるのではないだろうか。
 
子供のころはサンタクロースがいると教わり、周囲が信じている、あるいは信じているふりをしているから、自分が存在を信じていなかったとしても忖度して行動しなくてはならない。また、幼少期にサンタクロースの存在を本気で信じていたとしても、情報が訂正されぬまま成長してしまったら問題である。自分が親になったとき、「クリスマスプレゼントはサンタがくれるものだから親はプレゼントを準備しなくていい」などと涼しい顔で発言したら配偶者に怒られるはずだ。
 
また、サンタが実在しないと気づくきはじめる年齢―幼稚園の年長あたりだろうか―になったとしても、保護者がずばり、「サンタクロースはいないんだよ」と教えてはいけない空気になっている。法的にいないと発言することを禁じられてはいないが、まさに忖度によってそのようにふるまうことになる。サンタクロースがいないことを名言せずとも自然に気づいてくれと願わなくてはならず、そこに言論の自由はない。
 
サンタクロースを信じない子どもはひねくれ者と呼ばれ、サンタクロースを信じる大人は馬鹿と呼ばれる。忖度しながらサンタクロースに対する態度を決めなくてはならないのである。子供のころ、セックスについて一言も言及しない、あるいは禁じていた親が、ある日突然「いい人はいないのか?」と聞いてくる現象と同じである。「いい人」とは、田中正造か誰かのことだろうか。親たちは「セックスしていいよ」といつ言ったのだろうか。
このように、クリスマスは西洋の風習だったけれども、日本に根を張り、それを否定するものを「野暮だ」などと冷笑する土着的な忖度の祭りと化しているのである。
 

サンタクロース伝説には夢もなければ教育的効果もない

「サンタクロースがいないと教えることは、子供の夢を壊すことになるのでよくない」という説が昔から根強くあるが、ではどんな夢なのだろうか。単に日常では手に入らない物品を与えくれる第三者がいるという夢であれば、大人が年末ジャンボ宝くじに見る夢とほぼ同じ夢にすぎない。宝くじは300円で手に入るから、そちらに一本化した方が安くて合理的なのではないだろうか。
そもそも宝くじを買う人が跡を絶たないのも、幼少期にサンタクロースがいないことを明示的に教えなかった弊害なのかもしれないし、単純な物欲を「夢」という言葉で飾っているにすぎない。
 
また、サンタクロースの存在を信じることによって道徳性が増すかというと、それもまた疑問である。「よい子にしているとサンタさんからプレゼントがもらえる」というフレーズは、一見教育的効果があるように思えるが、実際はまったくない。教育的効果を狙うのであれば、保育士に対してセクシャルハラスメントを行ったり、友だちを暴行したような子はプレゼントなしの刑に処されるべきだし、いじめを告発した子などは、いっそう豪華なプレゼントが与えられるべきだが、実際はプレゼントの支給にあたって何の査定もされておらず、おそらく親の収入に比例してプレゼントが豪華になるだけだし、いじめを告発した子は次のいじめのターゲットになるだけなのであった。
 

ほんとうに夢を大事にしたいなら人身売買を糾弾するべき

サンタクロース伝説の発祥は、聖ニコラウスが、身売りされる寸前の3人の娘のために金貨を贈り、身売りを免れた……という伝説から発生しているので、万一その逸話に感銘を受けたのであれば、身売り予定のない自分の子供にプレゼントを献上するのではなく、冬のボーナスの何割かを恵まれない子供に募金する、あるいは、親子でデモ行進をして、外国人実習生をタダ同然で働かせている企業を糾弾するなどした方が、いくらか夢のある話になるのではないだろうかと思うけれども、その種の夢はお好きでない方が多いようで、サンタクロースが嘘であると言って壊れてしまう夢はいったいどんな夢なのか、謎は深まるばかりである。
 

東京から30分の都会の禁足地「八幡の藪知らず」 その異様な風景

この世には、絶対に立ち入ってはならない場所がある。
有名なところだと久高島のフボー御嶽。

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むかし行ったことがあるけれど、最高の聖域とされており、このように絶対的に禁止されていた。看板が新しいことは、いまもなお、強く禁止していることを雄弁に物語っている。誰かが見張っていたりするわけではないし、わたしが神を信じることがあったとしても、少なくともここにいるとされる神ではないと思うのだけれど、住人の「入ってほしくない」という気持ちをないがしろにはできないので入らなかった。強烈に禁止されると、それだけで興奮してしまう。
 
 
現代において、米軍基地や原子力発電所など、国家の安全のために立ち入りが禁止されている区域はともかく、宗教的な理由や言い伝えなどによって立ち入ってはならない地域はほとんどない……はずなのだが、東京から30分、都営新宿線の終着駅の本八幡、JR総武本線の本八幡、あるいは京成八幡のすぐ近くに「八幡の藪知らず」という場所があるという情報をいまさらながらキャッチしたので行ってきた。
東京あるいは千葉育ちなら、超常現象に興味を持ちはじめる小学校高学年あたりにこの名を耳にするのだろうと思うのだけれど、大人になってから上京したので、ここ以外にも、東京の皆があたりまえに知っている興味深い場所の存在を知らないことがあるのかもしれない。実はお台場にヌーディストビーチがあったり……など。ないと思うけれど。
 
 
本八幡は、京王線の沿線住人がゆっくり千葉に行きたいと思ったときには都営新宿線~京成線の乗り換えで使う駅なので、何度か降りたことはあった。しかも、駅名になっているのだからさぞかし大きな神社なのだろうと思って、葛飾八幡宮に行ったこともあった。そのすぐ近くなのにまったく気づかなくて恥ずかしい。
 
 
なお、葛飾八幡宮は晩秋のころ行くと銀杏がいい感じなのでセットでおすすめ。おまけのように言及してしまったけれど、樹齢1200年ともいわれ、国の天然記念物である。

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銀杏の木の向こうにタワーマンションが見える。
こんな都会の中に禁足地があるとはつくづく驚きである。都会の中でどうやって聖域は保たれているのだろう、あるいは破綻しているとしたら、どのような姿なのだろうか。
 

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葛飾八幡宮の参道は京成本線によって分断されているが、地図を見ると、随神門を避けるようにして線路が敷かれている。分断するなりに配慮はしていたのかもしれない。線路を超えて、一の鳥居をすぎると、すぐそばに「八幡の藪知らず」がある。
 
 
地図を見たとき、どうやって全景をおさめようかと思っていたのだが、上から撮ってくださいと言わんばかりの不自然な歩道橋があり、感謝しながら撮影した。
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八幡の藪知らずは、住居や駐車場に囲まれていて、駐車場からよく見える。
駐車場には受付の人がいたけれど、禁足地の隣にいることによる緊張感のようなものはとくに感じられない。
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向かいの道から見ると、その異様さがよくわかる。

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この場所だけ竹が密集しているのである。
 
藪は入れないよう囲われていて、藪の正面は不知森神社という神社になっている。

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「安政」と書いてあるから、江戸時代の最後の10年ほどである。時代名を言われてさらさらっと西暦が出てくるようなオッサンになりたい。
 

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お供え物は毎日されているように見える。

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こういうところのお米、おいしそうに見えるが、キリスト教の聖餐式のぶどうジュースもふだんよりおいしく感じられるのだが、そのことと同じことだろう。
 
 
上を見あげるとうっそうと暗い。

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かつてはさまざまな樹木が生えていたらしく、禁足地であれば、それなりに巨木に育っていたはずだけれど、これだけ竹が多いと、ほかの木が倒れたあとは成長の速い竹に変わってしまい、他の木は生えにくいのだろう。
 
中をよく観察してみると、枯れている竹も多い。

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「自然を守ろう」と書いてあるが、竹以外の木も多く生えていることを「自然」と名付けるなら、すでに自然は過去のものになっている。自然を守った結果、人間が期待する自然の姿と大きく異なってしまうことはよくあることで、荒れはてた自然でもいいっすかねーとこれを描いたお子様に聞いてみたいところであるけれども、知らんがなと返されるだけだろう。
 

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そして、少ないながら、ここにゴミを捨てる人もいる。麦茶のペットボトルを捨てた人は、マナーが悪いとは思うけれど、祟りなどを恐れないのだろうという点においては尊敬する。
 
 
おそらくそれを切らないと倒木が電線を切ったり、通行のじゃまになったりするから、目に余るものは切っているようである。
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切られたとおぼしき竹が積まれている。
つまり誰かは中に入って竹を切ったりしていたのであるが、あまり深く考えないことにする。
 

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パネルでは、この禁足地になぜ入ってはいけないのかが判然としないことについて正直に述べられていてエキサイティングなのだが、なかには神隠しにあったなどという説もあったようである。青木ヶ原樹海などならともかく、この一辺20メートルにも満たない狭い土地の中で神隠しがあったと思いなし、その伝説を維持し続けたというのは驚くべきことだと思う。昔は向こうが見えないほどに木が密集していたのだろう。
 
長い年月が経って、「入ってはならない」という結論だけが残り、根拠がはっきりしないまま守られているというのは滑稽に見えるけれど、おそらく、身近な例でいうと、いじめられっ子がいじめられるに至った原因がなくなったあとも雰囲気でいじめられてしまう現象や、差別されている人の差別される理由(大義名分)がはっきりしないことと同じである。この風景は、ユーモラスであると同時に、恐ろしくもある。
 
 
なお、この藪の向かいでは新しい市川市役所が建設中。できあがったら、さらにこの藪の異様さが際立つに違いない。

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この不思議なたたずまいはほかでは見ることができないので、ぜひ行ってみていただきたいと思う。