ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

そろそろサンタクロースが嘘であることを明示的に教えるべき

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もうすぐクリスマスで、街にクリスマスソングが流れているはずだけれども、最近は一聴してそれとわかるクリスマスソングが少なくなってきていて過ごしやすい傾向にあると思う。ただ、サンタクロースの実在しない件については明らかには示されていないのが不満で、今回はその話。
 

「いい話なら作り話でも問題ない」論の総本山が、サンタクロース伝説である

「江戸しぐさ」という作り話が教科書に載っている。次の教科書改訂でなかったことにされるだろうとは思うけれども、このような作り話を広める人たちにそれが作り話であることを指摘しても、多くは「いい話なのだから、実話か作り話など、どうでもよいではないか」と開き直る。本当にどうでもよいなら、わざわざ工夫を凝らして実話を騙ったりしなければよいはずだから、本当でも嘘でもどうでもよいと思ってはおらず、嘘を信じさせたいと積極的に細工していることは間違いない。
 
ここまで書けば、「キミのことが好きだった」と言われて「なんで過去の話をするの」と思ってしまうほど鈍感な人だったとしても、サンタクロース伝説がまったく同じことであるとわかるだろう。しかも「江戸しぐさ」をでっちあげた人たちに「まあ作り話なのかもしれないけれど、あなたがこよなく愛するサンタクロースと同じですよ」と言われたら、「江戸しぐさは嘘だし気持ち悪いという偏見を持っていたことを反省します。今日からは傘かしげなどの江戸しぐさの普及に邁進します」と返すしかない。
 
サンタクロースは作り話であって実際のプレゼントは保護者の冬季賞与の一部から支給される旨を子供が生まれた瞬間から明言しつづけているなら、江戸しぐさのようなインチキを唱える者がいても、「これはインチキだから無視しよう」と思えたかもしれない。インチキを批判するのが好きな人たちが、子供がはじめて出会うインチキについて注意喚起しないのはまったく謎である。サンタクロースの存在を疑問視することが野暮だというなら、水素水やEM菌や江戸しぐさの効果を疑ったり歴史修正主義を批判したりすることも、同じくらい野暮なことではないだろうか。
そもそも、幼児にとっては発達段階の重要なタイミングで、プレゼントとともに「いい話なら嘘でも許される」ことがインプットされるのだから、パブロフ先生もびっくりである。思いきって人体実験をすればよかったと思うにちがいない。
 

サンタクロースではなく、忖度ロース

日本には古来から「忖度する」という伝統があり、それが海を渡って訛り、いつしか「サンタクロース」と呼ばれるようになった―もちろんこれは作り話だが、江戸しぐさに比べれば信憑性が感じられるのではないだろうか。
 
子供のころはサンタクロースがいると教わり、周囲が信じている、あるいは信じているふりをしているから、自分が存在を信じていなかったとしても忖度して行動しなくてはならない。また、幼少期にサンタクロースの存在を本気で信じていたとしても、情報が訂正されぬまま成長してしまったら問題である。自分が親になったとき、「クリスマスプレゼントはサンタがくれるものだから親はプレゼントを準備しなくていい」などと涼しい顔で発言したら配偶者に怒られるはずだ。
 
また、サンタが実在しないと気づくきはじめる年齢―幼稚園の年長あたりだろうか―になったとしても、保護者がずばり、「サンタクロースはいないんだよ」と教えてはいけない空気になっている。法的にいないと発言することを禁じられてはいないが、まさに忖度によってそのようにふるまうことになる。サンタクロースがいないことを名言せずとも自然に気づいてくれと願わなくてはならず、そこに言論の自由はない。
 
サンタクロースを信じない子どもはひねくれ者と呼ばれ、サンタクロースを信じる大人は馬鹿と呼ばれる。忖度しながらサンタクロースに対する態度を決めなくてはならないのである。子供のころ、セックスについて一言も言及しない、あるいは禁じていた親が、ある日突然「いい人はいないのか?」と聞いてくる現象と同じである。「いい人」とは、田中正造か誰かのことだろうか。親たちは「セックスしていいよ」といつ言ったのだろうか。
このように、クリスマスは西洋の風習だったけれども、日本に根を張り、それを否定するものを「野暮だ」などと冷笑する土着的な忖度の祭りと化しているのである。
 

サンタクロース伝説には夢もなければ教育的効果もない

「サンタクロースがいないと教えることは、子供の夢を壊すことになるのでよくない」という説が昔から根強くあるが、ではどんな夢なのだろうか。単に日常では手に入らない物品を与えくれる第三者がいるという夢であれば、大人が年末ジャンボ宝くじに見る夢とほぼ同じ夢にすぎない。宝くじは300円で手に入るから、そちらに一本化した方が安くて合理的なのではないだろうか。
そもそも宝くじを買う人が跡を絶たないのも、幼少期にサンタクロースがいないことを明示的に教えなかった弊害なのかもしれないし、単純な物欲を「夢」という言葉で飾っているにすぎない。
 
また、サンタクロースの存在を信じることによって道徳性が増すかというと、それもまた疑問である。「よい子にしているとサンタさんからプレゼントがもらえる」というフレーズは、一見教育的効果があるように思えるが、実際はまったくない。教育的効果を狙うのであれば、保育士に対してセクシャルハラスメントを行ったり、友だちを暴行したような子はプレゼントなしの刑に処されるべきだし、いじめを告発した子などは、いっそう豪華なプレゼントが与えられるべきだが、実際はプレゼントの支給にあたって何の査定もされておらず、おそらく親の収入に比例してプレゼントが豪華になるだけだし、いじめを告発した子は次のいじめのターゲットになるだけなのであった。
 

ほんとうに夢を大事にしたいなら人身売買を糾弾するべき

サンタクロース伝説の発祥は、聖ニコラウスが、身売りされる寸前の3人の娘のために金貨を贈り、身売りを免れた……という伝説から発生しているので、万一その逸話に感銘を受けたのであれば、身売り予定のない自分の子供にプレゼントを献上するのではなく、冬のボーナスの何割かを恵まれない子供に募金する、あるいは、親子でデモ行進をして、外国人実習生をタダ同然で働かせている企業を糾弾するなどした方が、いくらか夢のある話になるのではないだろうかと思うけれども、その種の夢はお好きでない方が多いようで、サンタクロースが嘘であると言って壊れてしまう夢はいったいどんな夢なのか、謎は深まるばかりである。
 

東京から30分の都会の禁足地「八幡の藪知らず」 その異様な風景

この世には、絶対に立ち入ってはならない場所がある。
有名なところだと久高島のフボー御嶽。

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むかし行ったことがあるけれど、最高の聖域とされており、このように絶対的に禁止されていた。看板が新しいことは、いまもなお、強く禁止していることを雄弁に物語っている。誰かが見張っていたりするわけではないし、わたしが神を信じることがあったとしても、少なくともここにいるとされる神ではないと思うのだけれど、住人の「入ってほしくない」という気持ちをないがしろにはできないので入らなかった。強烈に禁止されると、それだけで興奮してしまう。
 
 
現代において、米軍基地や原子力発電所など、国家の安全のために立ち入りが禁止されている区域はともかく、宗教的な理由や言い伝えなどによって立ち入ってはならない地域はほとんどない……はずなのだが、東京から30分、都営新宿線の終着駅の本八幡、JR総武本線の本八幡、あるいは京成八幡のすぐ近くに「八幡の藪知らず」という場所があるという情報をいまさらながらキャッチしたので行ってきた。
東京あるいは千葉育ちなら、超常現象に興味を持ちはじめる小学校高学年あたりにこの名を耳にするのだろうと思うのだけれど、大人になってから上京したので、ここ以外にも、東京の皆があたりまえに知っている興味深い場所の存在を知らないことがあるのかもしれない。実はお台場にヌーディストビーチがあったり……など。ないと思うけれど。
 
 
本八幡は、京王線の沿線住人がゆっくり千葉に行きたいと思ったときには都営新宿線~京成線の乗り換えで使う駅なので、何度か降りたことはあった。しかも、駅名になっているのだからさぞかし大きな神社なのだろうと思って、葛飾八幡宮に行ったこともあった。そのすぐ近くなのにまったく気づかなくて恥ずかしい。
 
 
なお、葛飾八幡宮は晩秋のころ行くと銀杏がいい感じなのでセットでおすすめ。おまけのように言及してしまったけれど、樹齢1200年ともいわれ、国の天然記念物である。

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銀杏の木の向こうにタワーマンションが見える。
こんな都会の中に禁足地があるとはつくづく驚きである。都会の中でどうやって聖域は保たれているのだろう、あるいは破綻しているとしたら、どのような姿なのだろうか。
 

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葛飾八幡宮の参道は京成本線によって分断されているが、地図を見ると、随神門を避けるようにして線路が敷かれている。分断するなりに配慮はしていたのかもしれない。線路を超えて、一の鳥居をすぎると、すぐそばに「八幡の藪知らず」がある。
 
 
地図を見たとき、どうやって全景をおさめようかと思っていたのだが、上から撮ってくださいと言わんばかりの不自然な歩道橋があり、感謝しながら撮影した。
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八幡の藪知らずは、住居や駐車場に囲まれていて、駐車場からよく見える。
駐車場には受付の人がいたけれど、禁足地の隣にいることによる緊張感のようなものはとくに感じられない。
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向かいの道から見ると、その異様さがよくわかる。

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この場所だけ竹が密集しているのである。
 
藪は入れないよう囲われていて、藪の正面は不知森神社という神社になっている。

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「安政」と書いてあるから、江戸時代の最後の10年ほどである。時代名を言われてさらさらっと西暦が出てくるようなオッサンになりたい。
 

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お供え物は毎日されているように見える。

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こういうところのお米、おいしそうに見えるが、キリスト教の聖餐式のぶどうジュースもふだんよりおいしく感じられるのだが、そのことと同じことだろう。
 
 
上を見あげるとうっそうと暗い。

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かつてはさまざまな樹木が生えていたらしく、禁足地であれば、それなりに巨木に育っていたはずだけれど、これだけ竹が多いと、ほかの木が倒れたあとは成長の速い竹に変わってしまい、他の木は生えにくいのだろう。
 
中をよく観察してみると、枯れている竹も多い。

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「自然を守ろう」と書いてあるが、竹以外の木も多く生えていることを「自然」と名付けるなら、すでに自然は過去のものになっている。自然を守った結果、人間が期待する自然の姿と大きく異なってしまうことはよくあることで、荒れはてた自然でもいいっすかねーとこれを描いたお子様に聞いてみたいところであるけれども、知らんがなと返されるだけだろう。
 

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そして、少ないながら、ここにゴミを捨てる人もいる。麦茶のペットボトルを捨てた人は、マナーが悪いとは思うけれど、祟りなどを恐れないのだろうという点においては尊敬する。
 
 
おそらくそれを切らないと倒木が電線を切ったり、通行のじゃまになったりするから、目に余るものは切っているようである。
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切られたとおぼしき竹が積まれている。
つまり誰かは中に入って竹を切ったりしていたのであるが、あまり深く考えないことにする。
 

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パネルでは、この禁足地になぜ入ってはいけないのかが判然としないことについて正直に述べられていてエキサイティングなのだが、なかには神隠しにあったなどという説もあったようである。青木ヶ原樹海などならともかく、この一辺20メートルにも満たない狭い土地の中で神隠しがあったと思いなし、その伝説を維持し続けたというのは驚くべきことだと思う。昔は向こうが見えないほどに木が密集していたのだろう。
 
長い年月が経って、「入ってはならない」という結論だけが残り、根拠がはっきりしないまま守られているというのは滑稽に見えるけれど、おそらく、身近な例でいうと、いじめられっ子がいじめられるに至った原因がなくなったあとも雰囲気でいじめられてしまう現象や、差別されている人の差別される理由(大義名分)がはっきりしないことと同じである。この風景は、ユーモラスであると同時に、恐ろしくもある。
 
 
なお、この藪の向かいでは新しい市川市役所が建設中。できあがったら、さらにこの藪の異様さが際立つに違いない。

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この不思議なたたずまいはほかでは見ることができないので、ぜひ行ってみていただきたいと思う。
 
 

東京版の「モネの池」は小規模だが、人間関係が苦手な人におすすめの穴場である

名もない池が「モネの池」と呼ばれるようになり、観光客でごったがえしていることはご存知のことと思う。モネの『睡蓮』そのものの風景で、モネ先生は、さんざん自分をインスパイアしてくれた国の大衆に、自分の絵が現実の風景に匹敵しているかのように言われ、ローズマリーが繁茂する草場の陰で泣いているのだろうと思うのだけれど、先生の気持ちは脇に置いておくとしても、モネの池は東京人にとっては難攻不落の要塞である。電車とバスなら6時間以上かかってしまう。そして尻の形が変わるほど乗り物に乗ったあと、東京人を待ち受けているのは、美しい風景と、スマートフォンを片手に写真を撮りまくる人々の群れ。これだけ多くの人がいまSNS映えする画像を撮っているのだから、改めて自分が投稿するまでもない、という気持ちになってしまうに違いないし、人間関係が苦手な人にとってみれば、これは仕事とどう違うのかと考えこんでしまうに違いない。

 

―とはいえ、いったん「モネの池」の画像を見てしまうと、一度喚起されてしまった、「池の中で魚が優雅に泳いでいるところを見たい」という欲求をなかったことにするのは難しい。tinyでもいいから、モネの池のような感じの風景が近くにないものか……と思って調べていたら、都内にピッタリとくる場所を見つけた。しかも、2つの池が近接して存在していて、最寄り駅は同じである。
 
前置きが長くなってしまったけれど、今回の首都圏穴場シリーズは、東京のモネっぽい池である。最初に断っておくと、期待しすぎるとがっかりするかもしれないので、不審に思ったら、ただちに「東京なのにすごいなー」と思いなすようにしながらお出かけいただきたい。
 
今回の舞台は東秋留駅。駅を降りて3時間程度の旅になるが、東秋留駅には11時より前に到着していることが望ましい。なぜなら池に行く前にゆかいなお店でブランチをキメるからである。
 

【今回のルート】

(1)花がき(2)秋川ファーマーズ・マーケット(3)二宮神社(4)舞知川(5)八雲神社

 

 
駅を降りて、西に歩いていくと、東京とは思えない大規模な畑がある。

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23区外だと、小規模な田畑を見かけることはよくあるが、ここまでの規模の畑はめったにない。
 
オーナーが多いのか、区画ごとに畑のカラーはまったく異なる。

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新聞の隅っこのおもしろ記事を飾りそうなニンジン。
 
畑に沿って歩いていくと、突然、典型的な「地方にある和食の店」が現れる。オアシスのようである。
この店の名は「花がき」インターネットでの評判はふつうなのだが、この店の桃源郷ぶりはおそらく地元の人には知れ渡っており、ランチタイムには混雑する。だからこそ、遅くともこの店に11時半には着いている必要がある。

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この時間帯であれば、まだ満席になってはおらず、ひとりで入っても気まずさはない。
 
メニューを見ていたら、歩けなくなるくらい食べたいという気持ちになり、肉汁うどんの特盛をお願いした。そして、野菜も摂らないとよくないかなと思い、野菜の天ぷらもお願いした。
先にきたのは野菜の天ぷらで、480円だったので、つまむ程度なのだろうと思って頼んだのに、量がおかしい。
 

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そして、この野菜たちは、言うまでもなくこの近辺で採れた野菜たちだろう。畑の情景はこの店に入るためのプロローグだったのだ。
 
しかし、この時点でかなり満腹に近くなってしまった。
野菜天ぷらのボリュームから肉汁うどんの特盛の量を類推し、震えながら待った。
 

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大きさがよくわからないと思うが、手前の鉢は、ラーメン鉢くらいの大きさである。
ワイルドな肉汁。スープのすみずみまで肉の味がする。そして麺は、量もさることながら、眩しく輝いていて官能的である。
なめらかな喉越し、ほどよいコシが素晴らしく、あっという間に吸いこんでしまった。
 
食べている間にもどんどん席が埋まってきたので、早々に退散。
忘れそうだが、いけてる池(注:駄洒落です)を見たくて来たのであって、ごはんはあくまでもおまけである。
 
食べ終えたら、畑に沿って歩く。
巨大な直売所を発見。秋川ファーマーズマーケット。

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周辺の畑の状況どおり、充実した品揃えである。
 

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ハーヘキューのコーナーもある。
 

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話がそれて申し訳ないが、この店構え、抜群にかっこいい。次はここに寄りたい。
 
 
目的を見失いそうになってきたが、まず目的の1つめは二宮神社の付属の池。
神社自体見どころが多いのだが、話が長くなって終わらないので、二宮考古館の巨大な石棒の様子と、トタンが美しい倉を紹介するにとどめておく。

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この石棒、先端が実物に似ていないことがおわかりかと思うけれども、こういう形状なら、より五穀豊穣になると想像して作ったのかなと思ったのだが、五穀豊穣につながるかどうかは、男であるわたしにはわからないので、倉庫の紹介に移らせていただく。
 

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この倉に何が入っているか知らないし、中を見ても驚くようなものは入っていないだろうけれど、この外観はベスト・トタン・オブ・ザ・イヤーである。
 
横からも見たい……という、わたしの頭の中にいる妄想上の読者の声に応えて、横からの写真も載せておく。

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他がすばらしすぎて本殿に関心が持てず、多少申し訳ない気持ちである。

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創建がいつかは不明だが、いまの本殿は江戸時代で、中は室町時代。

そもそも「二宮神社」は、武蔵国の二ノ宮にあたるので、一ノ宮にあたる、聖蹟桜ヶ丘の小野神社とともに、武蔵国の住人としては一度は訪れておくべき神社である。

 

 二宮神社を出て、道路の向こうに池がある。 f:id:kokorosha:20171107214757j:plain

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池の脇から、水がこんこんと湧いている。写真でもたしかに水が湧いているとわかる。水にありがとうと言っていると、こういういいことがあるのだろう。言ったことはないけれど……。
 
モネの池のように、肝心の睡蓮はないが、武蔵野台地の清水の中を優雅に泳ぐ鯉たち。

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この池、ほとんど人がいない。ごくまれに、餌をやっているファミリーがいるときがあるが、餌を撒き終わったらすぐ帰っている。たしかに、ただ泳いでいるだけで長時間見ても仕方ないのかもしれない。こちらとしては仕方あるのだけれど。

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これだけ影がはっきり映っていたら、自分がカメなら影を見間違えて「ハハーン、オレ様に惚れたカメが水底におるわい……」と思ってしまいそう。
 
わりとどうでもいい扱いを受けがちなミシシッピアカミミガメだが、ここでは爬虫類の代表として優雅に泳いでいる。
インターネットがつながりたてのホヤホヤのころは、女性が珍しく、インターネットレディたちは世の女の代表として男たちに女とはどういう生き物なのかについてあれこれご教示くださったものだが、2017年の今もたまにそれをしている女の人を見かけて感動する。
 
 
 

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写真を撮らせてもらう立場で言うのも申し訳ないが、ちょっと一箇所に集まりすぎ。

 

 

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雨乞いの像があるのだが、局部の枯れ葉がそういうマンガのようで笑ってしまった。
そいうマンガ、一応局部に細い線を引いているのだが、まったく隠されておらず、あれでお咎めなしなのは、いいことだと思うけれども謎である。

 
池が小川になっていて、小川沿いに歩いていると、三島かどこかに来たような気分になる。

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なんだか、さきいかのパッケージがゴミに見えない。
 
この小川を見ながら、次の目的地に向かう。
 

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小学校沿いの舞知川。川に感情移入しすぎて「いつまでもきれいでいたい」と代弁するに至ってしまっていて愛らしい。
 

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そして、モネの池パート2は、八雲神社の池である。こちらをあとにしたのは、よりモネらしいからである。「モネらしい」とか言ってしまってモネ先生ごめん……。
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こちらの神社は公園や休憩所と地続きになっていて、社殿は鉄筋。
しかし池はこのようにモネ状であり、そのギャップに興奮するのであった。
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鯉の中には背中が極端に曲がっている者もいるが、たくましく泳いでいる。

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筆者を筆頭に、猫背率が高いと思われる弊ブログの読者のみなさまにとっても親近感がわくはずだ。
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透明度が高すぎて、鯉の顔もよく見えるが、鼻が目のように見えて気持ち悪いのもたしか。見えすぎるのも考えものである。
 
この池もやはり、ほとんど人がいない。集中力を最高に動員して凝視していると、だんだん、「核戦争後に人類は自分以外のすべてが滅び、下等動物たちの楽園となった……」みたいな気分になれる。なれてうれしいかどうかは別として……。
わたしが近所に住んでいたら毎日遊びに行ってしまうことだろう。
 
ぼんやり見ていたら、近所の親子がパンを撒きにきたので、敬意を表してパンを撮影した。

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岐阜のモネの池に比べると植物成分が不足気味だけれど、何もない週末に中央線にぶらっと乗って行くには最高の楽園である。
 
 
単体で遊びに行くのが不安な方は、朝早めに秋川渓谷に行って、その帰りに寄り道するという手もあるので、ぜひとも行ってみていただきたい。
 
 
 
 
 

「巻きこみリプライ」は、結局どっちが巻きこまれている方なのか

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きょうは誰も疑問に思っていない話について疑問符を投げかけ、一度も蒸されたことのない話題について蒸し返そうと思っている。

「巻きこみリプライ」の定義

Twitterにおいて、「巻きこみリプライ」という行為が存在することはご存知のとおりである。無関係な人を含む複数の人に同時にリプライを飛ばすことを指すのだが、嫌う人も多い。わたしは、腹は立たないものの、巻きこみリプライをする人の心理に興味を持っていたのだが、ある日、わたしが巻き込みリプライについて大きな誤解をしていたことに気づいた。

わたしは、自分のツイートがリツイートされたり、リプライされたあと、自分と他の誰かへのリプライがきた場合、

・元のツイートをした人(つまり自分)へのリプライ…巻きこみリプライ
・誰かのツイートをリツイートしたり、ツイートにリプライした人へのリプライ…本来のリプライ

と思うことが多かったので、わたしと、わたしのツイートに反応してくださった人の両方同時にリプライをもらっても、わたしとしては「あなたは、友だちと仲良くしゃべっていればいいと思いますよ。あなたはどう思っているか知らないけれど、ぼくたちは話が合わないと思います」と書くのを我慢するので精一杯。そもそも、巻きこみリプライさんは、言葉遣いが雑なことが多く、だいたい友達のように話しかけてくるから、そんな失礼な人はわたしの友だちにはおりません、と思ってしまうし、対象であることを認めたら返事することになって面倒……という気持ちもあった。

しかし、おかしなことに、リツイートしてくれた人もまた、その人のリプライを無視していた。その人はその人で、元のツイートをした人、この場合はわたしあてのリプライではないかと思っていたのだろう。

つまり、その巻きこみリプライさんは、リプライを飛ばした両方に「関係ない話に巻きこまないでほしい」と思われてしまっていたことになり、今思うに大変不憫である。少なくともどちらかにあてたメッセージではあるだろうから。

「巻きこみリプライ」とタイムラインの編集権

この段になってやっと、わたしは世間の様子がおかしいことに気づく。そして、だいたい世間の様子がおかしいことに気づいたときは、結果として、世間の様子はおかしくなくて自分がおかしいことが多かったので、念のため、「巻きこみリプライ」で検索してみると、

・元のツイートをした人へのリプライ…本来のリプライ
・誰かのツイートをリツイートしたり、ツイートにリプライした人へのリプライ…巻きこみリプライ

が主流、というか、世間は皆この考えで、孤独のあまりかえって興奮してしまった。
もちろん、元のツイートへのリプライが本来のリプライであったりすることもあるだろうけれど、ここでわたしは反論がしたい。なぜなら、ツイートをリツイートしたりリプライした人には、編集権を行使して自分のタイムラインに載せて示したのだから、自分のフォロワーからのリプライがあったらそれに応じてもいいはずで、「他の人のツイートを載せただけだから、わたしに責任はありません」という主張はできないからである。また、雑なリプライをした人が、どちらに対してリプライをしているかリプライ自体からは判別が困難だが、少なくとも、元のツイートをした人とは互いのツイートを日常的に読み合っている関係ではないのだから丁寧に返事をする義理はないと思うし、仲よしがリツイートやリプライしたのだから、その言論について、仲よしに対して何か言いたくなることもあるはずだ。知っている人同士で仲よくコミュニケーションをとってほしいと思うのが普通ではないだろうか。だから、元のツイートをした人でなく、リツイートした人やリプライした人が応対するのがむしろ自然だと思うのである。

「実は3人で話したいと思っている」説

……などと、巻きこみリプライが誤操作によってなされていることを前提に議論を進めてきたけれど、実は、もともと3人で話したいと思って意図的にリプライをしている人も相当数含まれているのではないかと思っている。その含有率は、飲み会に断りなく別の友だちを連れてくる人の割合と合致するはずである。1000RTされたあたりから湧いてくる巻きこみリプライさんの姿は、実生活で人間関係にまったく無頓着な人と遭遇するのと同じくらいの頻度であるように感じられる。しかも、巻きこみリプライであることを指摘された人を検索して、その後の行動を確認してみると、謝っていない人が多いのである。つまり、巻きこみリプライのほとんどが、実は単に3人で話したいと思っている人なのではないだろうか。
現に、コミュニケーションが好きすぎることでおなじみの英語圏にリツイートされている任意のツイートを見てみると、巻きこみリプライの方は日本よりずっと多い。グローバルな感覚の持ち主こそが巻きこみリプライをしているのかもしれない。そもそも、ふたりで話したいならLINEなどを使えばよいのであって、オープンな場所で発言しているのだから、3人4人の会話が発生しない方が不自然であるともいえるだろう。



ただ、わたしはそのような人種とは相性がよろしくない。自分も人にデリカシーをもって接するので、人にもデリカシーを求めてしまう。
誤操作による巻きこみリプライはあまりうれしいとはいえないものだが、それでも、誤操作でない、過度にオープンな精神の持ち主による巻きこみリプライに比べれば、ありがたみさえ感じられる。だから、巻きこみ状のリプライをした人は、嘘でもいいから「あれは誤操作だった」と言ってほしいと思う。



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中年のための、セミの羽化観察ガイド

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(昆虫が苦手な人のために、トップ画像は、不本意ながら野良猫の写真)

わたしの見立てだと、セミの羽化の一部始終を目にしないで生涯を終える人は全人類の98%前後で、この値は、またしてもわたしの見立てで大変恐縮だが、家にレコードプレーヤーがない人の割合でもあり、家にミルサーがない人の割合でもある。わたしはそのふたつについては、2%の側にいたのだが、セミの羽化を見たかどうかでは、つい先日まで98%の側にいたのだった。

わたしはよくも悪くも、人類の残り2%側に属する人間なので、長年にわたってこのことに苦しんできた。セミの羽化の一部始終を観察してもいない人間が、マイノリティであることの苦しみや喜びについて語る資格はあるのだろうかと自問自答してきたのだが、しかし仕方のないことでもあった。小学生のころは、夏休みの自由研究でセミの羽化を絵にしていた子がいて、うらやましいと思ったものの、何日もそれらしき場所に行って観察し続ける暇と情熱があるなら、つるかめ算が完璧にできるまで演習していた方がなんぼかマシだと思っていた。今思うに、つるかめ算は方程式を習得すれば必要なくなるので、観察していればよかったと思ったが、中学生になったらなったで、パソコンを買ってもらって、セミが羽化する一部始終よりも、当時新しいゲームのジャンルとして華々しく登場した「ロールプレイングゲーム」なるゲーム、具体的には『ザ・ブラックオニキス』だったが、そのキャラクターの経験値をあげてレベルアップすることを優先していた。続編であるところの『ザ・ファイアークリスタル』の激烈な難しさに心が折れて諦めてしまったので、やはりセミの羽化を観察していればよかったと思う。高校や大学のころはセミの脱皮よりも人間の女性の脱皮に興味がつきず、サラリーマンになってからはセミの脱皮している時間は仕事をしていて、しかもセミが羽化しているというのに、とくに出世などはしていない。


前置きが長くなったが、いい歳になってくると、自分の判断ではやく帰ることもでき、ほかの楽しいこともなくなってくるので、セミの羽化の観察でもしようという心の余裕が生まれてくる。98%の側にいる中年のみなさんにとって、Tonight's the nightであるとお知らせしておく。


先に、幼虫の発見~撮影までのポイントをまとめておくので、参考にしていただきたい。

(1)フラッシュつきのカメラを常備する
撮影するぞと思って探しても見つからず、探さないで普通に歩いているときに見つける場合もあるので、コンパクトカメラを常にカバンに入れておくなどして有事に備えておくとよい。フラッシュは必須である。


(2)日没の30分前くらいから公園や神社を巡回する
場所はセミの抜け殻が多い公園や神社で、時間は日没の30分前。
日没後だと、暗くて見つけづらいし、道が暗くなってからターゲットを踏み潰してしまったら寝覚めが悪い。かといって、日中に地上に出てきてみすみすアリのおやつになってしまうようなセミは少ないので、日没前後にターゲットを発見していることが望ましい。
暗くなったらその日はすっぱり諦めて、次の日にすることが望ましい。いたらラッキーくらいの気持ちで……。


(3)虫除けとレジャーシート、夕ごはんを用意する
一箇所にとどまって撮影をするのだから、蚊にとってみればただのパーティタイムである。虫よけを使っておくと、撮影に集中できる。
見つけてから羽化が終わるまで2時間以上はかかるし、セミはせかしても早く羽化してくれはしないので、羽化中におにぎりでも食べるのがよい。
スーツの人はレジャーシートがあると安心。
なお、昆虫を見ると食欲が減退する方については、かっぱえびせんなどはおすすめできない。


(4)自然のままにする
家に持って帰るなどの方法を実践する人もいるが、羽化のプロセスに関与した場合、羽化の責任を幼虫とともに負うことになる。
羽化に失敗して死亡したとき、自分が関与しなければ失わずにいられた命……などと思うと、やはり寝覚めが悪いし、羽化の責任者まで引き受けてしまっては、サラリーマンの仕事と区別がつかなくなってしまう。「あー死んじゃったか」程度の気分でいられる人なら大丈夫だけれど。


(5)補助光を使って状況の確認をする
常にフラッシュを焚くわけにはいかないから、撮影のタイミングを見極めるため、懐中電灯や、スマートフォンの懐中電灯のアプリなどを使う必要がある。

以下は、わたしの体験談である。昨年の8月上旬の話。


セミの羽化において、長年温めていたが、温めすぎて腐ってきた疑問は以下である。


(1)羽化に適した場所をどのように決めているのか
(2)羽化中の落下の危険性に対して、幼虫はどのような対策を講じているのか
(3)タイトな幼虫ウェアをどのようにして脱ぐのか


今回、一部始終を観察して、概ね疑問が解消したため、ストレスフリーな毎日を過ごしている。


そろそろ「公園をぶらぶらして、それらしき幼虫を見つけたら追跡しよう」と思って、仕事を早めにあがって、セミがうるさい公園をうろついていた。


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近くにこんな抜け殻群があったので、高確率で出会えるはずだと思ったのである。

植えこみや道の端を丹念に見て回っていたら、10分もしないうちに見つけた。追跡開始である。
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セミの幼虫の脚は、やはり、土を掘って進むことに最適化されているので、地上、とくにコンクリートなどの上を歩くのは苦手に見える。何かにぶつかったら登ることを試みる→成功したらそのまま登って羽化、失敗したら次の障害物に出会うまで歩く……というフローになっているようである。

ツルツルの手すりを登ろうとするも、滑って登れず断念。
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稀にツルツルの場所に抜け殻が残っていることがあるが、登れてしまったら、あとは運任せにしているのだろう。誰でも登れるような木にしか登れないなら、確実に羽化できる木にしか登らないということになる。木登り技術に中途半端に長けていると、危険な構造物に登ってしまえるため、かえって危険なのかもしれない。高所恐怖症の人が転落死することがないのと同じである。


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細い枯れ草の上を歩くことすらできていなくて不安になってくる。
そんなんで遊んでいるうちに背中が割れてきたらどうすんの……。


試行錯誤の末、これという木を見つけたようである。
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わたしも、この木ならこの子の羽化を支えてくれると確信した。


いったん決めてしまったら、迷いはまったくなく、これ以上進めない、というところまで進む。
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これ以上進むと落下するところまできて、羽化に向けて方向転換をする。
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方向転換が終わったあと、しばらくとどまっている。


背中が割れるまで待つ。
何らかの固定をしないと羽化に耐えられないだろうから、抜け殻側の脚の関節が固まるまでの時間だと思われる。
単にぼんやりしているだけかもしれないけれど……。この間、人類はディナータイムである。
わたしは近くのコンビニに行って、おにぎりと唐揚げ棒を買った。
蝉の幼虫が茶色かったので、唐揚げ……と思ったのだ。


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とどまり始めて40分ほど経過したら、背中が割れた。割れたと思って撮ったらすでに半分近くが露出している。
一生に一回のことなんだから、もっとゆっくりしてもいいじゃない。


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手前の葉に当たって落下しないか心配であるが、落下したとしても、わたしは羽化そのものには関与していないので無罪である。
……と自分に言い聞かせないと平静が保てないほど心配になる。


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このままのけぞりながら殻を脱ぐ。体を震わせながら脱いでいる。風が吹いていなくても木の揺れる音が聞こえる。
だんだん細くなってくるから脱ぎやすいのだろう。


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腹部の先端で殻を掴んで全身を支えているように見える。


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黒目が最高にCawaiiiiiiiiiii!!!!!!!!
セミ嫌いの人もこの瞬間を見たら好きになるのではないだろうか……。
(だいたい昆虫好きのこういう推定は的外れであり、この程度で好きにはならない。)

じゅうぶん脱げたら今度は腹筋を駆使して尾を抜き、殻のうえに戻る。脱出は完了である。
腹部の先端がだらしなく伸びているので、体を支えるのに使っているというのではないかと思う。
むかしは、抜け殻の白い糸みたいなもので支えているのだと思っていたが、それは違うようだ。



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脱ぎ終わったあとは、体が固まり、羽根が伸びるのをじっと待つ。
これで完了である。
一世一代の大仕事を馬鹿にするつもりはないけれど、昆虫好きが見ても、ちょっと腹部の先端が気持ち悪い。
かつて『がきデカ』という漫画で、主人公のこまわり君が、男性器で物を運んでいたりしたが、同じようなことを実在する生き物がしているのである。


先述の疑問については、(1)登れるところに登ってあとは運任せ(2)腹部で支え、最後に脚で殻を抱えるようにする(3)体を震わせる……である。
(2)についてはいまだに100%の自信が持てない。


この小さな生き物が、先天的にこんなややこしい動きをするようインプットされているとは……と、あらためて驚いた。
わたしは、「セミの羽化を見届けた人」になることができて、満足している。


98%の側にいる中年のみなさんも、平日の夜でもできるので、ぜひチャレンジしてみていただきたい。



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今さらながら、渋谷の神座ラーメンが猛烈に楽しくておいしいことを発見した

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もう十年以上前の話になるが、大阪から東京に、「神座ラーメン」というラーメン屋が進出してきた。
武士気取りの名前のラーメン屋でも怖気づいてしまうものだが、よりによって、神様のいる場所である。
そもそも、大阪で一番人気のラーメン屋という触れこみの「人気」は、精査が必要である。「○○で人気の店」が実際に○○ではさほど人気がないということは大阪に限らずよくあることだし、また、大阪出身のわたしが言うのでたしかだと思うのだが、大阪人は店を選ぶとき、おいしさを重視しない瞬間がある。それはdiversityにもつながるので、とてもいいことだと思うのだが、おいしさを求めているときに、おいしさ以外を重視している店に入るのはつらい。
むかしミニコミ紙のコラムで、大阪人に、「◯◯ラーメンって混んでるけど、なんかインスタントラーメンみたいじゃない?」と言ったら、「そこがええんやん」と返されて絶句した……という話を読んだことがあるが、そういう感覚で「一番人気」になっている可能性もなくはない。

東京に何店舗かあるのだが、わたしがよく通る道にある渋谷店には、開店してからしばらくの間、けっこうな行列ができていた。
ある日、もしかして好きな味の店だったりするのかも……と思い、行列が少ないタイミングで入ってみたのだが、鍋のあとのラーメンのようで、わたしが求めているラーメンとは違ったのだった。
おそらく、もっとvividな味わいを期待していたのだろう。



しかし、それから十年以上の時が経った。レコード屋の行き帰りで、ほとんど毎週末、神座ラーメンの前を通っており、時をかけて、ゆっくりとあのときの記憶が改竄され、徐々に「実はあのときは体調がよくなくて、実は好きな味のラーメンだったのかもしれない」という気がしてきて、ついに悠久の時を経て、気持ちがピークに達して入店することにしたのだった。

とくにここ数年、この店は外国人専用のラーメン屋に変化しているなとは思っていた。
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看板はこの調子である。 Shrine of RAMENなどとは言わないようだ。
よく見るとスープwithヌードルズであってヌードルズwithスープではない。これはとても大事なことである。



また、自動販売機まわりも、うっかりしていると日本語の表示が見つからない。日本語の表示は右側にある。
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ほかにもラーメン屋はあるのに、日本の平均的なラーメンから大きく外れているはずのこの店が突出して外国人に最適化された店構えに変わっている。
海外のおすし屋さんはこんな感じなのかな……と思う。海外旅行にきた気持ちだ。


店に入ると両隣が外国人。右隣は、娘に「RAMEN」と言われたらしい母娘で、母親は娘がRAMENを啜るのを退屈そうに見ている。娘はRAMENに夢中で、わたしもはやく食べたいと思う。左隣の若者は、餃子一皿だけを注文して、またたく間に店を後にしていて、この店で餃子だけを頼むとはどういうことか……と思ったのだが、よく考えたら、わたしも海外旅行に行ったとき、現地の人が何それと思ってしまうようなことをしているのかもしれないと思った。
このあと、何度も行ったのだが、両隣ともが日本人になる確率は非常に低い。

両脇を観察しているうちに、注文していた「おいしいラーメン」がやってきた。
ノーマルな店だと、これは「ラーメン」というメニューである。神座ラーメンでは「おいしい」がつく。
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10年ぶりにスープを飲んでみると、醤油ベースのスープの中に甘みが感じられ、ほかで得がたい味だった。
豚骨や魚介の味の濃いスープに飽き飽きしているが、かといって昭和そのままのラーメン屋もチョット……と思っている人にとっては新鮮だと思う。なお、この甘味の源泉は豚肉かなと思ったが、店頭に「スープに豚は入っていない」の英語表示があって、謎が深まるばかりである。
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また、RAMENを食べたことのない外国人たちの驚きを共有しながら食べるとおいしさがアップする。彼らはとてもおいしそうに食べるし、われわれも、初めて外でラーメンを食べたとき、彼らのような反応だったに違いない。初心を思いだしながら食べられる店は他にない。
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たいして興味がなかった「神座ラーメン」だったが、時を超えて、わたしにとっては最高にいい店になっていた。


最近、渋谷に行くことと神座ラーメンに行くことがセットになってきていている。
いまもほとんど満席ではあるものの、待つことはあまりないので、興味を持った人は、ぜひ行ってみて、キョロキョロしながら食べていただきたい。

店のサイトには「違和感のち確信」と書いてあり、直接的な表現に笑ってしまったが、本当にそのとおりなのだからそう書くしかないのだろう。
この店に限らず、最初に好きと思えなかった店も、時間が経つと、自分も店も変わってくるので、ふとしたときに再訪してみるのもおすすめである。


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好きなものについて書くとき、広告と思われないために、少しけなさなければいけないのが面倒

まれに特定の商品の広告記事の依頼をいただくことがあるのだが、いらんことを書いてしまいそうなので、心から素晴らしいと思うものについて依頼が来た場合のみに限って受けている。また、友だちを作ってしまうと、金銭が絡まなくても、つきあいであれこれ紹介しないと気まずい感じになるから、友だちもあまり作らないことにしている。言論の自由について語りながら、つきあいであれこれ紹介している人などを見ると、言論の自由は、実際のところ、そういうところからスポイルされるのだと思うのだが、その話はまた日を改める。

わたしが、「自分の好きでないものの広告記事は書かない」というポリシーを持っていることを知らない人がほとんどだろう。なぜなら、わたしのことを知らない人がほとんどだからであるが、以前、何かについて肯定的に言及したら、「なんだ、宣伝か」というコメントを頂戴して、大変がっかりしたことがあった。その記事は広告記事ではなかったのだけれど、その粗末なコメントからわたしが学んだのは、「何かについて肯定的に言及すると、裏があると思われ、なかなか信用してもらえない」ということである。それからわたしは、すばらしいと思うものを紹介するとき、意識的に貶めることによって、しがらみなしでの発言であることを示すようになってしまった。

たとえば、わたしの脳内に浮かんだテキストがこうだった場合……

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あまりにも有名な辛ラーメンに比べて、別次元にまで強化改良されたはずの「辛ラーメンブラック」は、残念ながらあまり知られていない。


ノーマル型の辛ラーメンとの違いは、かやくの量が多い点、牛骨スープがついている点である。特筆すべきなのは牛骨スープで、ノーマル版の辛ラーメンとの価格差の100円のほとんどは、この濃い牛骨スープの原価なのではないか……と思ってしまうほどの味わい深さなのである。もともと他に替えがたい味でお馴染みの辛ラーメンに牛骨スープが加わるとどうなるかというと、コクが出ると同時に、辛さがまろやかにもなる。あの辛いラーメンをまろやかにするほどのうまみがどれくらい強烈かわかるだろうか……。


韓国料理屋でインスタントラーメンの麺を入れる店があるが、辛ラーメンブラックなら、そのままキムチでも盛ればそこらへんのラーメンよりおいしくなるはずで、インスタントラーメン発祥の国の国民としては、これを超えるラーメンが日本から出ていないことを残念に思う。

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以上を読んで、「なんだ、宣伝か」と思わなかった人も、少なくとも、「なんだ、アフィリエイトか」と思うのである。
なお、上記のアフィリエイトリンクのように見えるものは純粋なjpgである。



「なんだ、宣伝か」と思われるのは本意ではないので、加筆修正を重ねていくと、最終的な仕上がりイメージはこんな感じである。

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日本でもよく売れている辛ラーメンだが、日韓関係が気まずい、というか、日本人の8割近くが韓国を信頼できないとしている状況の中、「辛ラーメンが好き」と言いだしにくい空気を感じる。
もともとメーカーの農心が、日本国民統合の象徴であるところのかっぱえびせんの偽物をしれっと韓国で75億袋も売り、おなじく韓国国民統合の象徴としていたりするところが許せないと思う人もいるかもしれないし、何度か起きている異物混入問題を思い出して尻ごみする人もいるかもしれない。


「辛ラーメンが好き」と言いづらいのだから、いわんや、辛ラーメンの強化改良版である「辛ラーメンブラック」をや、である。そもそも、見た目が辛ラーメンより邪悪だし、「ブラック」という名前をつけておいしくなると思う感性が謎。辛ラーメンの普及版と思う人もいるかもしれない。デラックスという便利な英語があるというのに……色にこだわるならゴールドの方がふさわしいはずだ。


しかし、「辛ラーメンブラック」は、一度口にしてしまうと家に常備しておかないと不安になるほどのおいしさであり、ここまで味わい深いと、インスタントラーメンを食べているというみじめな気分にもなることがない。もともと辛ラーメンのリピート率が他のインスタント麺のリピート率を上回っているという調査結果もあるようだが、一度食べたら中毒のようになってしまう度合いはブラックの方が高い。圧倒的おすすめのインスタント麺である。


……といった具合である。



とくにインターネット界隈で不評なものについては、嫌いという気持ちにわざわざ寄り添わなくてはならず、非常に面倒である。そして、さらに面倒なことに、貶しているうちになんだか筆がのってきて、とくに強調したいと思っていなかったことまでいろいろ書いてしまって自己嫌悪になってしまう。何のために文章を書いているのか自分でもわからなくなる、という境地に達することすらあるのだった。

つまり、わたしは、「なんだ、宣伝か」などと言ってくる人および、「なんだ、宣伝か」的なコンテンツを作っている人のために、いちいち文章をこねくり回す刑に処せられているのである。大変かわいそうである。

そして、それはわたしだけでなく、企業も普通に使う手法でもある。商品名をひたすら連呼するような広告は押しつけがましいと思われがちなので、あえて広告内で、売っているものを貶め、広告のメッセージを受け入れやすくする……という手法である。


銀のさら公式CM【Experiment篇(60秒)】


なお、商品名を連呼する広告でいま一番インパクトがあるのが、渋谷に行くと高い確率で出会ってしまう、「バニラ」の広告。
渋谷に行くときには悪趣味なものにまみれる覚悟をして行っているので、やめてほしいとは言わないが、いちど聞いてしまうとそのことばかり考えてしまってよくない。


Singing truck in Tokyo

お手すきの方はこの投稿の、"VANILLA VANILLA 高収入 (Great Income)"などと律儀に歌詞を翻訳しているところも読んでおいていただければと思う。


すっかり脱線してしまったが、嘘をつくより本当のことを伝えるために労力がかかってしまうという状況について、あまり納得できていない。

嘘つきが多すぎるから、真実を語るためにテクニックが要求されるのだが、新しい嘘つきは、真実を語るテクニックを利用し、真実のように嘘を語るので、まるでいたちごっこである。「いたちごっこ」とはどんな遊びかは知らないけれど、そういう不毛な遊びなのだろう。



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