ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

「巻きこみリプライ」は、結局どっちが巻きこまれている方なのか

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きょうは誰も疑問に思っていない話について疑問符を投げかけ、一度も蒸されたことのない話題について蒸し返そうと思っている。

「巻きこみリプライ」の定義

Twitterにおいて、「巻きこみリプライ」という行為が存在することはご存知のとおりである。無関係な人を含む複数の人に同時にリプライを飛ばすことを指すのだが、嫌う人も多い。わたしは、腹は立たないものの、巻きこみリプライをする人の心理に興味を持っていたのだが、ある日、わたしが巻き込みリプライについて大きな誤解をしていたことに気づいた。

わたしは、自分のツイートがリツイートされたり、リプライされたあと、自分と他の誰かへのリプライがきた場合、

・元のツイートをした人(つまり自分)へのリプライ…巻きこみリプライ
・誰かのツイートをリツイートしたり、ツイートにリプライした人へのリプライ…本来のリプライ

と思うことが多かったので、わたしと、わたしのツイートに反応してくださった人の両方同時にリプライをもらっても、わたしとしては「あなたは、友だちと仲良くしゃべっていればいいと思いますよ。あなたはどう思っているか知らないけれど、ぼくたちは話が合わないと思います」と書くのを我慢するので精一杯。そもそも、巻きこみリプライさんは、言葉遣いが雑なことが多く、だいたい友達のように話しかけてくるから、そんな失礼な人はわたしの友だちにはおりません、と思ってしまうし、対象であることを認めたら返事することになって面倒……という気持ちもあった。

しかし、おかしなことに、リツイートしてくれた人もまた、その人のリプライを無視していた。その人はその人で、元のツイートをした人、この場合はわたしあてのリプライではないかと思っていたのだろう。

つまり、その巻きこみリプライさんは、リプライを飛ばした両方に「関係ない話に巻きこまないでほしい」と思われてしまっていたことになり、今思うに大変不憫である。少なくともどちらかにあてたメッセージではあるだろうから。

「巻きこみリプライ」とタイムラインの編集権

この段になってやっと、わたしは世間の様子がおかしいことに気づく。そして、だいたい世間の様子がおかしいことに気づいたときは、結果として、世間の様子はおかしくなくて自分がおかしいことが多かったので、念のため、「巻きこみリプライ」で検索してみると、

・元のツイートをした人へのリプライ…本来のリプライ
・誰かのツイートをリツイートしたり、ツイートにリプライした人へのリプライ…巻きこみリプライ

が主流、というか、世間は皆この考えで、孤独のあまりかえって興奮してしまった。
もちろん、元のツイートへのリプライが本来のリプライであったりすることもあるだろうけれど、ここでわたしは反論がしたい。なぜなら、ツイートをリツイートしたりリプライした人には、編集権を行使して自分のタイムラインに載せて示したのだから、自分のフォロワーからのリプライがあったらそれに応じてもいいはずで、「他の人のツイートを載せただけだから、わたしに責任はありません」という主張はできないからである。また、雑なリプライをした人が、どちらに対してリプライをしているかリプライ自体からは判別が困難だが、少なくとも、元のツイートをした人とは互いのツイートを日常的に読み合っている関係ではないのだから丁寧に返事をする義理はないと思うし、仲よしがリツイートやリプライしたのだから、その言論について、仲よしに対して何か言いたくなることもあるはずだ。知っている人同士で仲よくコミュニケーションをとってほしいと思うのが普通ではないだろうか。だから、元のツイートをした人でなく、リツイートした人やリプライした人が応対するのがむしろ自然だと思うのである。

「実は3人で話したいと思っている」説

……などと、巻きこみリプライが誤操作によってなされていることを前提に議論を進めてきたけれど、実は、もともと3人で話したいと思って意図的にリプライをしている人も相当数含まれているのではないかと思っている。その含有率は、飲み会に断りなく別の友だちを連れてくる人の割合と合致するはずである。1000RTされたあたりから湧いてくる巻きこみリプライさんの姿は、実生活で人間関係にまったく無頓着な人と遭遇するのと同じくらいの頻度であるように感じられる。しかも、巻きこみリプライであることを指摘された人を検索して、その後の行動を確認してみると、謝っていない人が多いのである。つまり、巻きこみリプライのほとんどが、実は単に3人で話したいと思っている人なのではないだろうか。
現に、コミュニケーションが好きすぎることでおなじみの英語圏にリツイートされている任意のツイートを見てみると、巻きこみリプライの方は日本よりずっと多い。グローバルな感覚の持ち主こそが巻きこみリプライをしているのかもしれない。そもそも、ふたりで話したいならLINEなどを使えばよいのであって、オープンな場所で発言しているのだから、3人4人の会話が発生しない方が不自然であるともいえるだろう。



ただ、わたしはそのような人種とは相性がよろしくない。自分も人にデリカシーをもって接するので、人にもデリカシーを求めてしまう。
誤操作による巻きこみリプライはあまりうれしいとはいえないものだが、それでも、誤操作でない、過度にオープンな精神の持ち主による巻きこみリプライに比べれば、ありがたみさえ感じられる。だから、巻きこみ状のリプライをした人は、嘘でもいいから「あれは誤操作だった」と言ってほしいと思う。



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中年のための、セミの羽化観察ガイド

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(昆虫が苦手な人のために、トップ画像は、不本意ながら野良猫の写真)

わたしの見立てだと、セミの羽化の一部始終を目にしないで生涯を終える人は全人類の98%前後で、この値は、またしてもわたしの見立てで大変恐縮だが、家にレコードプレーヤーがない人の割合でもあり、家にミルサーがない人の割合でもある。わたしはそのふたつについては、2%の側にいたのだが、セミの羽化を見たかどうかでは、つい先日まで98%の側にいたのだった。

わたしはよくも悪くも、人類の残り2%側に属する人間なので、長年にわたってこのことに苦しんできた。セミの羽化の一部始終を観察してもいない人間が、マイノリティであることの苦しみや喜びについて語る資格はあるのだろうかと自問自答してきたのだが、しかし仕方のないことでもあった。小学生のころは、夏休みの自由研究でセミの羽化を絵にしていた子がいて、うらやましいと思ったものの、何日もそれらしき場所に行って観察し続ける暇と情熱があるなら、つるかめ算が完璧にできるまで演習していた方がなんぼかマシだと思っていた。今思うに、つるかめ算は方程式を習得すれば必要なくなるので、観察していればよかったと思ったが、中学生になったらなったで、パソコンを買ってもらって、セミが羽化する一部始終よりも、当時新しいゲームのジャンルとして華々しく登場した「ロールプレイングゲーム」なるゲーム、具体的には『ザ・ブラックオニキス』だったが、そのキャラクターの経験値をあげてレベルアップすることを優先していた。続編であるところの『ザ・ファイアークリスタル』の激烈な難しさに心が折れて諦めてしまったので、やはりセミの羽化を観察していればよかったと思う。高校や大学のころはセミの脱皮よりも人間の女性の脱皮に興味がつきず、サラリーマンになってからはセミの脱皮している時間は仕事をしていて、しかもセミが羽化しているというのに、とくに出世などはしていない。


前置きが長くなったが、いい歳になってくると、自分の判断ではやく帰ることもでき、ほかの楽しいこともなくなってくるので、セミの羽化の観察でもしようという心の余裕が生まれてくる。98%の側にいる中年のみなさんにとって、Tonight's the nightであるとお知らせしておく。


先に、幼虫の発見~撮影までのポイントをまとめておくので、参考にしていただきたい。

(1)フラッシュつきのカメラを常備する
撮影するぞと思って探しても見つからず、探さないで普通に歩いているときに見つける場合もあるので、コンパクトカメラを常にカバンに入れておくなどして有事に備えておくとよい。フラッシュは必須である。


(2)日没の30分前くらいから公園や神社を巡回する
場所はセミの抜け殻が多い公園や神社で、時間は日没の30分前。
日没後だと、暗くて見つけづらいし、道が暗くなってからターゲットを踏み潰してしまったら寝覚めが悪い。かといって、日中に地上に出てきてみすみすアリのおやつになってしまうようなセミは少ないので、日没前後にターゲットを発見していることが望ましい。
暗くなったらその日はすっぱり諦めて、次の日にすることが望ましい。いたらラッキーくらいの気持ちで……。


(3)虫除けとレジャーシート、夕ごはんを用意する
一箇所にとどまって撮影をするのだから、蚊にとってみればただのパーティタイムである。虫よけを使っておくと、撮影に集中できる。
見つけてから羽化が終わるまで2時間以上はかかるし、セミはせかしても早く羽化してくれはしないので、羽化中におにぎりでも食べるのがよい。
スーツの人はレジャーシートがあると安心。
なお、昆虫を見ると食欲が減退する方については、かっぱえびせんなどはおすすめできない。


(4)自然のままにする
家に持って帰るなどの方法を実践する人もいるが、羽化のプロセスに関与した場合、羽化の責任を幼虫とともに負うことになる。
羽化に失敗して死亡したとき、自分が関与しなければ失わずにいられた命……などと思うと、やはり寝覚めが悪いし、羽化の責任者まで引き受けてしまっては、サラリーマンの仕事と区別がつかなくなってしまう。「あー死んじゃったか」程度の気分でいられる人なら大丈夫だけれど。


(5)補助光を使って状況の確認をする
常にフラッシュを焚くわけにはいかないから、撮影のタイミングを見極めるため、懐中電灯や、スマートフォンの懐中電灯のアプリなどを使う必要がある。

以下は、わたしの体験談である。昨年の8月上旬の話。


セミの羽化において、長年温めていたが、温めすぎて腐ってきた疑問は以下である。


(1)羽化に適した場所をどのように決めているのか
(2)羽化中の落下の危険性に対して、幼虫はどのような対策を講じているのか
(3)タイトな幼虫ウェアをどのようにして脱ぐのか


今回、一部始終を観察して、概ね疑問が解消したため、ストレスフリーな毎日を過ごしている。


そろそろ「公園をぶらぶらして、それらしき幼虫を見つけたら追跡しよう」と思って、仕事を早めにあがって、セミがうるさい公園をうろついていた。


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近くにこんな抜け殻群があったので、高確率で出会えるはずだと思ったのである。

植えこみや道の端を丹念に見て回っていたら、10分もしないうちに見つけた。追跡開始である。
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セミの幼虫の脚は、やはり、土を掘って進むことに最適化されているので、地上、とくにコンクリートなどの上を歩くのは苦手に見える。何かにぶつかったら登ることを試みる→成功したらそのまま登って羽化、失敗したら次の障害物に出会うまで歩く……というフローになっているようである。

ツルツルの手すりを登ろうとするも、滑って登れず断念。
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稀にツルツルの場所に抜け殻が残っていることがあるが、登れてしまったら、あとは運任せにしているのだろう。誰でも登れるような木にしか登れないなら、確実に羽化できる木にしか登らないということになる。木登り技術に中途半端に長けていると、危険な構造物に登ってしまえるため、かえって危険なのかもしれない。高所恐怖症の人が転落死することがないのと同じである。


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細い枯れ草の上を歩くことすらできていなくて不安になってくる。
そんなんで遊んでいるうちに背中が割れてきたらどうすんの……。


試行錯誤の末、これという木を見つけたようである。
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わたしも、この木ならこの子の羽化を支えてくれると確信した。


いったん決めてしまったら、迷いはまったくなく、これ以上進めない、というところまで進む。
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これ以上進むと落下するところまできて、羽化に向けて方向転換をする。
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方向転換が終わったあと、しばらくとどまっている。


背中が割れるまで待つ。
何らかの固定をしないと羽化に耐えられないだろうから、抜け殻側の脚の関節が固まるまでの時間だと思われる。
単にぼんやりしているだけかもしれないけれど……。この間、人類はディナータイムである。
わたしは近くのコンビニに行って、おにぎりと唐揚げ棒を買った。
蝉の幼虫が茶色かったので、唐揚げ……と思ったのだ。


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とどまり始めて40分ほど経過したら、背中が割れた。割れたと思って撮ったらすでに半分近くが露出している。
一生に一回のことなんだから、もっとゆっくりしてもいいじゃない。


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手前の葉に当たって落下しないか心配であるが、落下したとしても、わたしは羽化そのものには関与していないので無罪である。
……と自分に言い聞かせないと平静が保てないほど心配になる。


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このままのけぞりながら殻を脱ぐ。体を震わせながら脱いでいる。風が吹いていなくても木の揺れる音が聞こえる。
だんだん細くなってくるから脱ぎやすいのだろう。


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腹部の先端で殻を掴んで全身を支えているように見える。


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黒目が最高にCawaiiiiiiiiiii!!!!!!!!
セミ嫌いの人もこの瞬間を見たら好きになるのではないだろうか……。
(だいたい昆虫好きのこういう推定は的外れであり、この程度で好きにはならない。)

じゅうぶん脱げたら今度は腹筋を駆使して尾を抜き、殻のうえに戻る。脱出は完了である。
腹部の先端がだらしなく伸びているので、体を支えるのに使っているというのではないかと思う。
むかしは、抜け殻の白い糸みたいなもので支えているのだと思っていたが、それは違うようだ。



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脱ぎ終わったあとは、体が固まり、羽根が伸びるのをじっと待つ。
これで完了である。
一世一代の大仕事を馬鹿にするつもりはないけれど、昆虫好きが見ても、ちょっと腹部の先端が気持ち悪い。
かつて『がきデカ』という漫画で、主人公のこまわり君が、男性器で物を運んでいたりしたが、同じようなことを実在する生き物がしているのである。


先述の疑問については、(1)登れるところに登ってあとは運任せ(2)腹部で支え、最後に脚で殻を抱えるようにする(3)体を震わせる……である。
(2)についてはいまだに100%の自信が持てない。


この小さな生き物が、先天的にこんなややこしい動きをするようインプットされているとは……と、あらためて驚いた。
わたしは、「セミの羽化を見届けた人」になることができて、満足している。


98%の側にいる中年のみなさんも、平日の夜でもできるので、ぜひチャレンジしてみていただきたい。



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今さらながら、渋谷の神座ラーメンが猛烈に楽しくておいしいことを発見した

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もう十年以上前の話になるが、大阪から東京に、「神座ラーメン」というラーメン屋が進出してきた。
武士気取りの名前のラーメン屋でも怖気づいてしまうものだが、よりによって、神様のいる場所である。
そもそも、大阪で一番人気のラーメン屋という触れこみの「人気」は、精査が必要である。「○○で人気の店」が実際に○○ではさほど人気がないということは大阪に限らずよくあることだし、また、大阪出身のわたしが言うのでたしかだと思うのだが、大阪人は店を選ぶとき、おいしさを重視しない瞬間がある。それはdiversityにもつながるので、とてもいいことだと思うのだが、おいしさを求めているときに、おいしさ以外を重視している店に入るのはつらい。
むかしミニコミ紙のコラムで、大阪人に、「◯◯ラーメンって混んでるけど、なんかインスタントラーメンみたいじゃない?」と言ったら、「そこがええんやん」と返されて絶句した……という話を読んだことがあるが、そういう感覚で「一番人気」になっている可能性もなくはない。

東京に何店舗かあるのだが、わたしがよく通る道にある渋谷店には、開店してからしばらくの間、けっこうな行列ができていた。
ある日、もしかして好きな味の店だったりするのかも……と思い、行列が少ないタイミングで入ってみたのだが、鍋のあとのラーメンのようで、わたしが求めているラーメンとは違ったのだった。
おそらく、もっとvividな味わいを期待していたのだろう。



しかし、それから十年以上の時が経った。レコード屋の行き帰りで、ほとんど毎週末、神座ラーメンの前を通っており、時をかけて、ゆっくりとあのときの記憶が改竄され、徐々に「実はあのときは体調がよくなくて、実は好きな味のラーメンだったのかもしれない」という気がしてきて、ついに悠久の時を経て、気持ちがピークに達して入店することにしたのだった。

とくにここ数年、この店は外国人専用のラーメン屋に変化しているなとは思っていた。
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看板はこの調子である。 Shrine of RAMENなどとは言わないようだ。
よく見るとスープwithヌードルズであってヌードルズwithスープではない。これはとても大事なことである。



また、自動販売機まわりも、うっかりしていると日本語の表示が見つからない。日本語の表示は右側にある。
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ほかにもラーメン屋はあるのに、日本の平均的なラーメンから大きく外れているはずのこの店が突出して外国人に最適化された店構えに変わっている。
海外のおすし屋さんはこんな感じなのかな……と思う。海外旅行にきた気持ちだ。


店に入ると両隣が外国人。右隣は、娘に「RAMEN」と言われたらしい母娘で、母親は娘がRAMENを啜るのを退屈そうに見ている。娘はRAMENに夢中で、わたしもはやく食べたいと思う。左隣の若者は、餃子一皿だけを注文して、またたく間に店を後にしていて、この店で餃子だけを頼むとはどういうことか……と思ったのだが、よく考えたら、わたしも海外旅行に行ったとき、現地の人が何それと思ってしまうようなことをしているのかもしれないと思った。
このあと、何度も行ったのだが、両隣ともが日本人になる確率は非常に低い。

両脇を観察しているうちに、注文していた「おいしいラーメン」がやってきた。
ノーマルな店だと、これは「ラーメン」というメニューである。神座ラーメンでは「おいしい」がつく。
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10年ぶりにスープを飲んでみると、醤油ベースのスープの中に甘みが感じられ、ほかで得がたい味だった。
豚骨や魚介の味の濃いスープに飽き飽きしているが、かといって昭和そのままのラーメン屋もチョット……と思っている人にとっては新鮮だと思う。なお、この甘味の源泉は豚肉かなと思ったが、店頭に「スープに豚は入っていない」の英語表示があって、謎が深まるばかりである。
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また、RAMENを食べたことのない外国人たちの驚きを共有しながら食べるとおいしさがアップする。彼らはとてもおいしそうに食べるし、われわれも、初めて外でラーメンを食べたとき、彼らのような反応だったに違いない。初心を思いだしながら食べられる店は他にない。
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たいして興味がなかった「神座ラーメン」だったが、時を超えて、わたしにとっては最高にいい店になっていた。


最近、渋谷に行くことと神座ラーメンに行くことがセットになってきていている。
いまもほとんど満席ではあるものの、待つことはあまりないので、興味を持った人は、ぜひ行ってみて、キョロキョロしながら食べていただきたい。

店のサイトには「違和感のち確信」と書いてあり、直接的な表現に笑ってしまったが、本当にそのとおりなのだからそう書くしかないのだろう。
この店に限らず、最初に好きと思えなかった店も、時間が経つと、自分も店も変わってくるので、ふとしたときに再訪してみるのもおすすめである。


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好きなものについて書くとき、広告と思われないために、少しけなさなければいけないのが面倒

まれに特定の商品の広告記事の依頼をいただくことがあるのだが、いらんことを書いてしまいそうなので、心から素晴らしいと思うものについて依頼が来た場合のみに限って受けている。また、友だちを作ってしまうと、金銭が絡まなくても、つきあいであれこれ紹介しないと気まずい感じになるから、友だちもあまり作らないことにしている。言論の自由について語りながら、つきあいであれこれ紹介している人などを見ると、言論の自由は、実際のところ、そういうところからスポイルされるのだと思うのだが、その話はまた日を改める。

わたしが、「自分の好きでないものの広告記事は書かない」というポリシーを持っていることを知らない人がほとんどだろう。なぜなら、わたしのことを知らない人がほとんどだからであるが、以前、何かについて肯定的に言及したら、「なんだ、宣伝か」というコメントを頂戴して、大変がっかりしたことがあった。その記事は広告記事ではなかったのだけれど、その粗末なコメントからわたしが学んだのは、「何かについて肯定的に言及すると、裏があると思われ、なかなか信用してもらえない」ということである。それからわたしは、すばらしいと思うものを紹介するとき、意識的に貶めることによって、しがらみなしでの発言であることを示すようになってしまった。

たとえば、わたしの脳内に浮かんだテキストがこうだった場合……

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あまりにも有名な辛ラーメンに比べて、別次元にまで強化改良されたはずの「辛ラーメンブラック」は、残念ながらあまり知られていない。


ノーマル型の辛ラーメンとの違いは、かやくの量が多い点、牛骨スープがついている点である。特筆すべきなのは牛骨スープで、ノーマル版の辛ラーメンとの価格差の100円のほとんどは、この濃い牛骨スープの原価なのではないか……と思ってしまうほどの味わい深さなのである。もともと他に替えがたい味でお馴染みの辛ラーメンに牛骨スープが加わるとどうなるかというと、コクが出ると同時に、辛さがまろやかにもなる。あの辛いラーメンをまろやかにするほどのうまみがどれくらい強烈かわかるだろうか……。


韓国料理屋でインスタントラーメンの麺を入れる店があるが、辛ラーメンブラックなら、そのままキムチでも盛ればそこらへんのラーメンよりおいしくなるはずで、インスタントラーメン発祥の国の国民としては、これを超えるラーメンが日本から出ていないことを残念に思う。

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以上を読んで、「なんだ、宣伝か」と思わなかった人も、少なくとも、「なんだ、アフィリエイトか」と思うのである。
なお、上記のアフィリエイトリンクのように見えるものは純粋なjpgである。



「なんだ、宣伝か」と思われるのは本意ではないので、加筆修正を重ねていくと、最終的な仕上がりイメージはこんな感じである。

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日本でもよく売れている辛ラーメンだが、日韓関係が気まずい、というか、日本人の8割近くが韓国を信頼できないとしている状況の中、「辛ラーメンが好き」と言いだしにくい空気を感じる。
もともとメーカーの農心が、日本国民統合の象徴であるところのかっぱえびせんの偽物をしれっと韓国で75億袋も売り、おなじく韓国国民統合の象徴としていたりするところが許せないと思う人もいるかもしれないし、何度か起きている異物混入問題を思い出して尻ごみする人もいるかもしれない。


「辛ラーメンが好き」と言いづらいのだから、いわんや、辛ラーメンの強化改良版である「辛ラーメンブラック」をや、である。そもそも、見た目が辛ラーメンより邪悪だし、「ブラック」という名前をつけておいしくなると思う感性が謎。辛ラーメンの普及版と思う人もいるかもしれない。デラックスという便利な英語があるというのに……色にこだわるならゴールドの方がふさわしいはずだ。


しかし、「辛ラーメンブラック」は、一度口にしてしまうと家に常備しておかないと不安になるほどのおいしさであり、ここまで味わい深いと、インスタントラーメンを食べているというみじめな気分にもなることがない。もともと辛ラーメンのリピート率が他のインスタント麺のリピート率を上回っているという調査結果もあるようだが、一度食べたら中毒のようになってしまう度合いはブラックの方が高い。圧倒的おすすめのインスタント麺である。


……といった具合である。



とくにインターネット界隈で不評なものについては、嫌いという気持ちにわざわざ寄り添わなくてはならず、非常に面倒である。そして、さらに面倒なことに、貶しているうちになんだか筆がのってきて、とくに強調したいと思っていなかったことまでいろいろ書いてしまって自己嫌悪になってしまう。何のために文章を書いているのか自分でもわからなくなる、という境地に達することすらあるのだった。

つまり、わたしは、「なんだ、宣伝か」などと言ってくる人および、「なんだ、宣伝か」的なコンテンツを作っている人のために、いちいち文章をこねくり回す刑に処せられているのである。大変かわいそうである。

そして、それはわたしだけでなく、企業も普通に使う手法でもある。商品名をひたすら連呼するような広告は押しつけがましいと思われがちなので、あえて広告内で、売っているものを貶め、広告のメッセージを受け入れやすくする……という手法である。


銀のさら公式CM【Experiment篇(60秒)】


なお、商品名を連呼する広告でいま一番インパクトがあるのが、渋谷に行くと高い確率で出会ってしまう、「バニラ」の広告。
渋谷に行くときには悪趣味なものにまみれる覚悟をして行っているので、やめてほしいとは言わないが、いちど聞いてしまうとそのことばかり考えてしまってよくない。


Singing truck in Tokyo

お手すきの方はこの投稿の、"VANILLA VANILLA 高収入 (Great Income)"などと律儀に歌詞を翻訳しているところも読んでおいていただければと思う。


すっかり脱線してしまったが、嘘をつくより本当のことを伝えるために労力がかかってしまうという状況について、あまり納得できていない。

嘘つきが多すぎるから、真実を語るためにテクニックが要求されるのだが、新しい嘘つきは、真実を語るテクニックを利用し、真実のように嘘を語るので、まるでいたちごっこである。「いたちごっこ」とはどんな遊びかは知らないけれど、そういう不毛な遊びなのだろう。



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東京・武蔵御嶽神社の彫刻の修理が、東照宮より断然かっこよい仕上がりだったので度肝を抜かれた

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まずこの兔を見ていただきたい。うさぎというより兔と書きたい、獣の躍動感。
写真だけでも釘付けになってしまう。何回か行っていたのだけど、こんなに素晴らしいとは知らなかった。あまりにも驚いたので、他の記事を準備中だったのだけれど、今回は奥多摩にある武蔵御嶽神社の彫刻の話。

日光東照宮の修繕が賛否両論だが、目指しているものはリアリティでもかっこよさでもない

日光東照宮の塗り直しが賛否両論である。賛否両論というのは、想定以上に非難されていることの婉曲表現なのだけれど、たしかにだいぶ違うよねと思いながら、そうはいっても、実物を見ないことには……と思って特急けごんに飛び乗った。実際には前日に東武線の自販機で買って翌日早起きして乗った。
日光自体はとても魅力的で、今回の修繕もまったくダメだとは思わないし、それは実際に行けばわかる。後日日光の特集をしたいのだけれど、500枚以上撮ってしまって、写真の整理から始めないといけないので、取り急ぎ、何枚か、東照宮のよさがわかる彫刻たちを紹介する。

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とくにおもしろ系の彫刻を見ると、リアリズムなどはどうでもいいんだなと思える。江戸のディズニーランドのようでいい。
東照宮は、まめに補修されていて色遣いが鮮やかであることが大事なのであって、以前のものとデッサンが変わっているものについては、どうなのかと思わなくもないが、ひとつひとつの彫刻が精細であることはあまり重要ではない。もともと徳川家による平和な治世を表現することがテーマなので、彫刻に行きすぎた躍動感や、生き物としての正しさがあってはむしろ問題。当時、象など見たことはないはずである……。
というか、何なの……この微妙な間隔で生えている金髪は……。

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その意味で、眠り猫はあの小さな体で東照宮のすべてを象徴しているといえる。


なお、ひさしく補修されていないところはこんな感じ。
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これを見ると、細部はいいので修理を急いでほしいと思うはずだ。そして厚塗りしていると言われた塗装も、このように早晩剥げてしまうことだろう。
わびさびどころではない姿で、東照宮にとってはこの状態はふさわしくない。


武蔵御嶽神社の彫刻は、躍動感がすばらしく、見るべき彫刻である

東照宮の修理を擁護した舌の根の乾かぬうちから申し訳ないけれど、今回紹介したいのは、東照宮よりも早く修理が終わった武蔵御嶽神社である。十二年ごとの秘仏開帳に合わせて、昨年拝殿の補修をしていたので、できたての拝殿を見ることが可能である。東照宮の修理が賛否両論であるとの話を聞いて、東照宮にわびさびを求めてどうするかなどと思っていたのだが、同じく修理が終わった武蔵御嶽神社の彫刻たちの躍動感が素晴らしい。規模が東照宮には遠く及ばないものの、東京から近く、かつ、さほど混雑していないというところもありがたい。

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これが拝殿の全景。
上から、鳳凰、龍、虎、雀の順番。

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屋根を飾る鳳凰。一瞥するとどういう姿勢なのかわかりにくいが、どうなってるのやと思いながら見ていると時が過ぎてしまう。

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龍は、毛か炎かわからない物体の流れるさまが木彫りとは思えず、そのまま出てきそう。

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鳳凰と龍はもちろんだけれど、虎もおそらくは見たことがないのに彫っていると思われる。
この背中の泡みたいなのなんだよ……。
「虎=猫を最強にした生き物」と思って作ったのかもしれないが、だいたい合っている。

猫好きの人はこれだけだと物足りないかもしれないので、念のためもうちょっとアップにしたものも掲載させていただくことにする。
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おでこがマドレーヌ状になっていて食欲をそそる。

東照宮の彫刻について、実際の動物と毛の生え方が違うという批判があったが、実物に似ていることと、彫刻としての素晴らしさはあまり関係がないということがよくわかる。


やっとこさ、実際に見た生き物のコーナーである。
自分のことを鷹か何かと勘違いして自在に飛び回る雀たちの姿も見逃せない。
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波の埋めこみ方がセンス爆発である。
壁紙の素材になりそうで、見に行く人は要望遠レンズである。

ちょっと麒麟を挟んでから、改めて脇から迫っていこう。
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ビッグウェイブを乗りこなすう筋骨隆々の兔たち。
古今東西、かわいい兔のオブジェはよく見かけるが、こんなかっこいいのは見たことがなかった。

そして、正面では控えめだった雀も、所狭しと大活躍。
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波の表現、変態じみた執念が感じられ、波だけでもご飯が何杯も食べられそうだ。


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お賽銭ボックスの修繕も抜かりがなく、感謝の気持ちを込めて大目に入れておいた。
まあこれ見せてもらって、タダで家に帰るわけにはいかんよねー。



ただ、ここで紹介したものが武蔵御嶽神社のほとんどすべてなので、彫刻だけを見に行くのもしんどいかもしれないが、ハイキングのついでに見たら、じゅうぶんにお釣りがくるほどの彫刻たちであることは間違いない。
神社の彫刻がこんなに素敵だとは思わなかったし、創建当初の姿を目指して塗りまくっても、いいものはいいのかなと思った。
なお、武蔵御嶽神社の拝殿は、文化財としての価値は、国宝でもなく、重要文化財でもなく、青梅市の指定文化財である。
文化財としてのランクは、見たときの気持ちと比例しないものもあるので、国宝や重要文化財などのブランドに惑わされない強い心があれば、世の中はもっと楽しくなると思った。

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狛犬も規格外の強さでずいぶん洋風だなと思ったら、昭和末期の彫刻だった。とくに胸毛がトゲになっているところがいい。
作者の名前かな……と思ってみたら北村正望先生。
長崎の平和祈念像よりも断然こっちの方がいいと思ってしまった。

なんだか動物だらけだが、この神社は狼が祀られていることから、愛犬の健康を祈る人が訪れる。
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犬用の清めコーナーもご用意してお待ちしております。


日光東照宮は、平和な治世をイメージさせることにより、徳川家の永代にわたる反映を体現するものでないといけない。いっぽう、武蔵御嶽神社は、修験道の神社なので、まったりするわけにもいかない。おさめられている彫刻のコンセプトは両者で当然異なる。
技術の差ではないのだが、もし、数は少なくてもいいからかっこいい彫刻を楽しみたいと思うのであれば、修理したての武蔵御嶽神社は今が見ごろ。「日本文化=わびさび」と思っている人にこそ見にいっていただきたいと思う。



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サーフィンに興味のない文化系のオッサンにとっても、茅ヶ崎の海辺は面白い

東京の西の方に住んでいるのだが、「可及的速やかに海を見たい」と思った場合、どこに行くのが一番よいのかを模索中である。いくつか候補があるのだが、そういえば、江ノ島や三浦半島には行ったことがあるが、茅ヶ崎に行ったことがなかったということに気づき、取材班(わたしとカメラとレンズ3本)は茅ヶ崎へと向かった。

茅ヶ崎へのルートは、可能であれば京王線で橋本まで行って、相模線に乗り換えるのがおすすめである。よく地方にある、ドアの開け閉めを自分たちでやるタイプの電車で、かつ、単線で、いくつかの駅で待ち合わせが発生し、おまけに茅ヶ崎が終着駅なので、旅行をしている気分になれるのだ。

駅から海岸への道は大変わかりやすい。南口から出て南下するだけである。

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神奈川の海沿いの街はあまりにも健康的で性格の暗い者にとっては眩しすぎるのだが、この、自分がお呼びでない感じも好きだ。

レストランのような民家がたくさんあって紛らわしいのだが、ひとつ気になる店を発見した。「コッペ屋」という、コッペパン専門の店である。店内は日本向けにローカライズされたサブウェイのようなたたずまいで、「コッペパン=給食のパン」という記憶を持っている人にはとくにおすすめの店である。ワンコインでコッペパンの記憶をまるごと塗り替えるのだ。さまざまなオプションがあり、その数30種類以上なのだが、わたしはマーガリン&いちごジャムと、そして、焼きそばパンを購入した。マーガリン&いちごジャムは破格の190円である。
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これがコッペパンのご尊顔。昔食べていた茶色い見かけとまったく違い、ビニール越しにもふんわり感が伝わってきて、もっとよく見たいと焦れてしまう。

防風林が見えたらそこは海岸である。
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そして、防風林には砂よけのネットが張ってあり、キミたち防砂林の役もしてくれるんちゃうのと思ってしまった。

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そして、想像していたよりもサーフィンをしている人が多かった。
海岸というよりもサーフィン場である。

ここで、可及的速やかに海を見たいと思ったときに行く場所として考えるのは諦めることとした。
ここは、心を落ち着ける場所ではなく、文化系のオッサンにとっては完全に外国であると思った方がよくて、海外旅行のような気持ちで楽しみたい。
そして、買っておいたコッペパンを取り出す。
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これが焼きそばパンである。焼きそばにピントが合ってなくて焼きそばに申し訳ない。
ずいぶんと白い。焼きそばパンといえば、体育会系の部活の先輩が後輩に買ってこいと命ずることでお馴染みのアイテムで、わたしはそのような部活に入ってはいなかったのだが、焼きそばパンのことが嫌いになってしまった人は多いのかもしれない。あるいは、上級学年になってからは、焼きそばパンを買ってくる立場から華麗に転身を遂げて、焼きそばパンを買ってくるように命ずる立場になり、卒業するころには、ふたたび焼きそばパンのイメージがよくなっているのかもしれない。

給食のときに食べていたコッペパンはパサパサしていたが、これはふっくらと柔らかい。香ばしさやクリスピーな食感を求めるのではなく、ソフトな食感を楽しむためのものであると理解した。給食のパンがこれなら、おそらく肥満児になっていただろうから、あのときのパンはあの味でよかったのだと思う。

……などと思いながら食べていたら、突然背後から衝撃を受けて、パンが消滅した。
あまりの速さに何が起きたのかがわからなかったのだが、わたしが手に持っていたパンが2メートルほど先の砂地の上にあるということ、右手が少し痛いということから、トンビに背後から襲撃されて奪われたことを悟り、これは面白いと思い、急いでカメラを構えた。襲撃から30秒もしないうちに撮影したのがこれである。
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どうやら、トンビが一部を持って行ったらしく、残りが砂の上にあり、それをカラスが狙っている。
薄々、朝からコッペパンを二つも食べるのってどうなのと思ってもいたので、トンビに奪われたなら、納得度は高い。

家に帰って写真をよく確認してみたら、犯人のトンビが手にしたのは、焼きそば1本にすぎなかった。
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危険を冒した報酬として太めとはいえ焼きそば1本とはご愁傷様である。

カラスは頭がよいといわれる。少なくとも、このパンの所有権は1分ほど前にはここにいる茶色いシャツを着た人間に所属していたことは認識しているのだが、その人間にとってこのパンの残骸が今も大事なものであると思っているようで、じりじり間合いを詰めながらパンを奪おうとする。つまり、「人は砂だらけのパンを食べたりはしない」ということまでは学んでいないのであった。
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しかし、このパンの汚れぶりを見ると、本当にさっき食べていたパンなのかと思ってしまう。

このまま次のパンを食べるとまた奪われてしまうと思ったので、ゆかいな食事はいったん中止し、観光を始めることにした。
海沿いに、江ノ島の方向に歩き、茅ヶ崎の隣の辻堂から帰るプランである。

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茅ヶ崎から辻堂まで、まんべんなくサーフィンをしている人がいる。
サーフィンの中にボディーボードも混じっていると思うが違いがわからない。


そして、この、通称「ヘッドランド」は、上空から見るとシュモクザメの頭のようになっているところで、ここより沖にサーファーが行くことはない。

ここから海を眺めると、江ノ島などにいるのとほとんど同じ気持ちになれる。
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見覚えのあるタワー……と思ったら江ノ島。
遠くから見ると人がいないように見えるものだなぁ……。

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案外、奥まで入っていいんだな……と思ってしまった。
しかし、過去に死亡事故があったらしい。

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海岸には、かなりの頻度で掃除のボランティアの人がいる。
おかげでゴミをほとんど見ることはない。
人だらけなのにゴミがない、不思議な風景である。

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ゴミらしきゴミといえばこれくらい。
昔はこういうのを見ると、無条件に外国から流れてきたと思ってロマンを感じていたが、最近は外国からの観光客が多く、単にマナーの問題にすぎないのかもしれない。


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サーフィンに来る人の何割かは、このような自転車で来る。
U字型の金具の意味が最初はわからなかったが、これはサーフボードを挟むものである。
ここに自転車で来ている人の中には、サーフィンをするために茅ヶ崎に住んでいるのだろう。
来世では趣味のために居住地を定めるような暮らしをしたいと思う。

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アサガオのような花はハマヒルガオで、毛みたいな実のついた植物はコウボウムギ(弘法麦)である。
触ってみると毛のところが脆く、筆として使える感じがしなかったのだが、馬の毛などは高級だったので使いづらい筆を使って習字をしていたのだろうか。タイピングが主となっている今となってみれば、そんなに必死にならなくてもいいのでは……という気持ちになってしまう。

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中華料理が好きなので「黄ニラ……?」と思ってしまった。

浜辺に飽きたら適宜防風林に移動して、防風林に飽きたら浜辺に戻る……を繰り返す。
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トンネルのアートワークの主旨がわからないものがあって面白い。
こういう絵を見ると、いわゆるグラフィティの方がよほど保守的だと思う。

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ここでわたしが見出した唯一の自然がこれなのだが、とくに珍しくもない魚の骨なのだろうと思う。

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来て2時間くらい経って、「ふつうの海よりも波が高いな……これはサーフィンなどに向いているのでは?」と当たり前のことにやっと気づいた。



人を見すぎたと思ったら、海浜自然生態園に行くとよい。
入り口が難しいのだが、土木事務所から入る。

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太陽光パネルが無造作に置いてあると、環境に配慮した結果置いたはずなのに、「環境問題……」と思ってしまう謎。

生態園には、防風林や砂地の植物が植えてあるのだが、あまり整備に積極的ではないらしく、実際どこに何があるかわからない。ここにあるパネルの
内容を記憶してすぐそばにある防風林や砂地をwatchすれば事足りるように思うのだが、人が少なくて落ち着くのでありがたい場所である。
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奥にはラブホテルがある。
こういう何もない感じの植物コーナーに行ったあとに立ち寄ると獣のようになれていいのかもしれない。

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大きな日除けで、サーフィンをする人、走る人を思い浮かべ、ろくな運動もしていないのに残りのパンを食べた。
太るための食事……劣等感にまみれながら食べるマーガリンとジャムのコッペパンは柔らかくておいしかった……。

さらに東京側へ向かうと、辻堂海浜公園がある。
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ここは、あまりにもファミリーが多すぎて、ひとりだと大変居づらい。居づらさにエンターテインメント性を見いだせる方におすすめである。

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芝生があるが、テントが多すぎて、せっかく公園に来たのにマンションに住んでるみたいになっていて楽しい。
実際のところ、広いところがそんなに好きでもない人も多いのだろう。


そして、公園内には「交通展示館」があり、ここには昭和のちびっこたちの夢がそのままの形で保存されていて、未来の展示というよりも考古学のようで、ゆかいな気持ちになれる。

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たとえば、この超電導電磁推進船「ヤマト1」は、実用化に失敗してしまったし、神戸に飾ってあった実物すら撤去されてしまった。しかし、昭和のちびっこがかっこいいと思う要素が凝縮されていてほれぼれする。

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自動車を半分に割って立てるという斬新な展示方法に感激する。

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これと同じような構図を見たことがある……と思って記憶の糸を辿ってみると、靖国神社の就遊館に展示してある特攻機「桜花」だった……。




通称「サーファー通り」を通って辻堂駅から東京へ向かった。およそ5時間の旅だった。
サーフィンや海水浴に興味のない文化系の人にとって、茅ヶ崎はピンと来ないかもしれないが、行ってみるとパラレルワールドに迷いこんでしまったような心地よい戸惑いに包まれて、また行きたいと思った。

千葉・佐倉のチューリップ祭りに行って、「チューリップが好き」と言いにくい謎について考えた

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大人になると、チューリップが好きな人も、堂々と「チューリップが好きです」と言えなくなってくる。
内心、チューリップが大好き、死んだら棺桶の中をチューリップで満たしてほしい、と願っている人でもそうだろう。
亡くなったあとも、菊に囲まれ棺に収められながら、「これじゃないんだけど言い出せなかったし、棺桶の花以外についても言いたいことを言わないで過ごしてきた人生だった……」という残留思念が葬儀場の中をさまよっているのかもしれない。

わたしはチューリップのことはほどほどに好きだが、大人にとって、チューリップが好きだとは言いにくいムードがあることは承知している。
意中の女性の誕生日に100本の薔薇の花束を贈ったら嫌な顔をされる確率はおよそ80%ほどかと思う。では20%は喜ぶのかと思った方もいるかもしれない。愛情の押しつけが嫌いな人は、得てして愛情の押しつけが嫌いなあまり、世界中が愛情の押しつけを嫌っていると思いがちなのだが、それはそれで冷静さを失っており、実際のところ、押しつけがましいくらいの方がちょうどいいと思っている人はそれなりにいるものである。
それはともかく、100本の薔薇の花を喜んだ20%の女性も、100本のチューリップの花を贈られたら、全員がうれしくないと思うはずで、なぜならそんな子供っぽい花を2~3本ならともかく、100本も部屋に置いた日には、ファンシーも度を越して窒息死してしまいかねない。

とはいえ、よく考えてみると、チューリップそのものは子供ではない。チューリップの花には雄しべと雌しべがあり、その雌しべのぬめり具合ときたら、もしかしてあなたは雄しべなのかと思えるほどなのだが、そこまで成熟し欲望を露わにしているにもかかわらず、世間からは子供っぽいと思われているのはなぜだろうか……その謎を解くべく、取材班は千葉県へと向かった。(ひとりでも「班」を自称するのは、わたしの五感がそれぞれバラバラの結論を出すことが多いからである)


前置きが長くなったが、以前から存在を知っていた千葉県の「佐倉チューリップフェスタ」に行ってきた。今年(2017年)は、4月23日(日)までである。
「春になったら行こう」と思いながら放置して10年あまり経ってしまったが、おびただしい数のチューリップに囲まれることにより、真理に辿りつけるのではないかと思ったからである。


ここに東京から電車で行く人はほとんどいないようである。電車で行く場合、最寄り駅の京成臼井駅から、およそ30分歩くことになる。隣の佐倉駅からバスが出てはいるのだが、このチューリップ祭りの存在根拠を握っている印旛沼沿いに歩いてこそ、このチューリップ祭りのありがたさが身にしみるのである。


印旛沼は濁っていて、日本の湖沼の中でもだいぶん茶色い部類に入るのだが、ふつうに「沼」と聞いて想像する広さとはまったく異なる。
向こう岸が遠すぎてよく見えず、湖のようであり、忙しくてチューリップにも興味がないという人は、印旛沼だけを見て帰ってもいいかもしれない。
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有害な外来種といえども、カミツキガメがガオーと言いながら沼から出てきたらうれしいと思ってしまうだろう。
なお、注意喚起したいあまり「注意喚起」と書いてあるが、「注意」と書くだけで事足りる。

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誰もいない沼のほとりを15分も歩き続けると、風車が見えてきて感激した。チューリップフェスタの会場である。

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会場の駐車場は1000円で使えるのだが、車がひしめき合っていて、チューリップ祭りと同時に車祭りをしているのかと思ってしまった。そして1000円を払えない者たちは、近くの路上に無料で停めている。

印旛沼近辺は、かつては氾濫がひどかったのだが、干拓により、水の量をコントロールできるようになり、いまは広大な水田が広がっている。
印旛沼の干拓といえば、江戸時代に田沼意次が行ったことで知られているが、ご存知のとおり失脚して計画も頓挫し、干拓が完遂されたのは戦後になってから。ここのチューリップは、住民の自然に対する勝利宣言のようである。

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祭りの中心には風車がある。オランダ製らしいのだが、近くに見ると羽に帆が張っておらず、今日は回す気がないことがわかる。チューリップ祭りのときに回さずしていつ回すのだろうかと思ったが、風車が回っていると夢中になってチューリップのことなどどうでもよくなってしまうから、あえて集中させるために風車を止めているのかもしれない。一蘭の「味集中システム」を想起してしまう。

風車に関心がない人は、風車を、巨大な羽根が回っているのを見てオーガズムに達するという、地味な娯楽施設だと思っている人もいるかもしれないが、風車は風の力で歯車を回して、水汲みや粉挽きに使っている。
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ここの風車では、その仕組みが垣間見える。

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風車に至る道には小さいながら跳ね橋があって、ノーマルな日本人が西洋に求めるものが凝縮されている。ゲイシャの背景にフジヤマ的な……。

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風車を囲む堀には淡水のゴキブリの異名をとる鯉たちが餌はまだかと跳ね回っていて賑やかであるが、今日はチューリップを見にきたのだった、

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おびただしいチューリップ群を見て最初に気になったのは、一様に東向き、午後だとちょうど太陽に背を向けた格好になるところ。
たとえば自分が面接官だとしよう。面接に来た人が笑顔で熱意をアピールするが、足先だけは真横を向いていたら……。合否を決めるにあたっては考慮には入れないと思うけれど、戸惑うことはたしかである。
チューリップは屈光性であると思っていたが、太陽の位置にリアルタイムに応対するようにはできていないらしい。そこまでまめに応対しなくても暮らしていけるのだろう。
1本2本ならともかく、何万本もが一斉に太陽に背を向けていて、まるで無言の抗議を受けているような気になってしまった。

また、チューリップ畑の撮り方にはコツがあった。上や横から撮ると、畑に花が咲いているように見えてしまうが、チューリップと同じ高さで撮ると、チューリップに満たされてているように見える。
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しかし、花・花・花……。
葉も茎も印象に残らない。
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葉も茎も、単に花を支えるだけの存在である。たとえば薔薇の葉は可憐で、茎には棘があり、互いの存在を引きたてあっているが、チューリップにはそのような相互関係はない。「植物といえば花」という、シンプルな自然観を表しているところに子供っぽさを感じてしまうのかもしれない。

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チューリップの原種の花冠はほどほどの大きさだが、人類が花を大きくすることに執念を燃やして交配に交配を重ね、巨大な花冠を持つ、観賞用として都合のよい花に仕立てあげた。そんなチューリップが一面に植えられているのを見ると、人類の圧倒的勝利を実感するし、完璧に自然を支配できるのではないかという気がする。その一方で、人類の欲望を正直に体現しすぎていて、我にかえってしまい、好きと言いづらい気持ちにもなったりもするが、そんなところも含めて素晴らしいと思う。


1時間ほど歩きまわり、推定3年分のチューリップを堪能したので、会場をあとにした。
人間として生まれたからには、チューリップという花について一度くらいは真剣に考えた方がよいと思うので、今年が無理でも来年はぜひ訪れていただきたいと思う。

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なお、会場のすぐ近くの地すべり防止のコンクリートの崖が未来都市のよう。上の建物は病院なのだが、チューリップ畑とのコントラストが素晴らしい。


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