ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

写真はもう著作物ではないのだろうか

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無料なら絶賛されるが、売るとこき下ろされる写真たち

少し前に、インターネットの安達祐実さんのギャラリーの写真がすばらしいと話題になった。アクセスが集中していたが、そういえば、安達祐実さん、同じようなタッチの写真集を出していたような気がする……と思って調べてみたら、その写真を撮った写真家と同じ写真家が撮っていた。しかし、その写真集は、その芸術性というより、もっぱら安達祐実さんのセミヌードが載っていたことで話題になっていたし、Amazonでも酷評する人が多く、ブログの写真への圧倒的賞賛がまるで嘘のようだ。
なぜ、同じ写真の評価にここまで差がついてしまったかというと、ブログの写真を見た人は、「(スマートフォンで無料で流し見するには)素敵な写真」と言い、写真集を買った人は、「(ヌードが見たくて金を出したのに被写体の露出度が足りなくて)よくない写真」と酷評したのだった。芸術性を認めた人がお金を払わず、芸術性を認めない人がお金を出す、という珍妙な状況であるが、写真が芸術的表現としてあまり高い価値が与えられていない状況を象徴している。

著作者すら写真を盜んでしまう始末である

人物写真の多くは、被写体の人気で価値が測られてしまうので、著作物であると捉えられていないのかもしれないが、では、風景や生物が被写体なら、著作物として評価されるのかといえば、これもまた怪しい。任意のライターさんのTwitterを何人か見てみると、報道写真などを、あたりまえのように載せている事例を見つけることができるだろう。自分の文章が剽窃されたと訴えていたライターさんですらそうしているのを見たことがある。自分の書いた文章には著作権があるが、他人が撮った写真には著作権がないと思っているのであった。いわんやアマチュアをや、で、自分の作品が「パクられた」とツイートしている人の過去のツイートを見ると、ほとんどの場合、10ツイートも遡れば、どこかから「拾ってきた」写真を載せていて、どの口で……いや上の口しかないよねと思ってしまう。
著作物を「拾う」ことなどできず、鑑賞するか批評するか剽窃するしかないのだが、写真は、現実のコピーと考えているために「拾う」という行動が可能だと考えられているのである。

写真とは、そもそも著作物ではないように見えてしまうものでもある

写真は著作物であるはずだし、「著作権」という抽象的な概念を媒介せずとも、その写真の構図を描く能力を磨くための努力、撮りに行くための旅費、シャッターチャンスを捉えるまでの待ち時間などのことを考えると、気軽に拾ったり貼ったりはできないはずだ。ただ、カメラマンは透明な存在でないと、見た者がその場にいる気持ちになりづらい。湾岸戦争を象徴する写真のひとつとなった、ドロドロになった鳥の写真。あの写真を撮ったのは誰だかわれわれは知らないし、あの写真を撮った人はほかに何を撮ったのかも知らない。あの写真にカメラマンが写りこんでいたら、写真家の存在を意識することはできたにしても、ここまで湾岸戦争を象徴できなかったことはたしかである。写真に結果として映っているのは現実でしかないので、想像力が足りない人からすると、道端の石ころと同じく、インターネットに落ちているものに見えてしまうのかもしれない。
気軽に剽窃されてしまい、著作権者も自分の写真が盗まれていることに気づきにくく、そもそも、別ジャンルの芸術家にも写真を著作物だとは認めていない人がたくさんいる。
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カメラがフィルムや印画紙から開放され、好きなだけシャッターを押せるようになったことで、誰もが簡単に鑑賞に堪えうる写真を撮れるようになつた。インターネットによって、誰もが公開できるようになってきたこととも相まって、写真の価値は下落した。しかも、いままで写真家に支払われていたはずのギャランティーは、二束三文の広告収入を得ようとする無数の泥棒の懐に入る。法的には問題があるにもかかわらず、慣習としてこのビジネスモデルが許容されてしまったので、事実上、写真は著作物ではなくなってしまったのだった。
音楽について、著作権管理がうるさいからCDが売れなくなったという説をよく見かけるのに、著作権管理が十分にされていないから写真集の売れ行きが伸びたという話は残念ながら聞いたことがない。

著作物の最底辺と見做された写真たち……写真の精がかわいそうなので写真工業発祥の地に行って写真の精を慰めてきた。
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写真が工業化された時点でいつかこうなることは予想されていたのかもしれない。「カメラを買って写真を撮って写真屋で現像してもらえば、誰でも写真家になれる」と言われた時代もあっただろう。
なお、この碑は新宿中央公園の片隅にあるので、ヨドバシカメラに寄ったあとに行くと味わい深いかもしれない。


昔はまだ、いいカメラやレンズを買い、作品として写真を撮ろうという前向きな気持ちもあったのだが、いい写真を撮っても盗られるだけだと思うようになり、記録程度の写真でいいやという気持ちになってしまった。
自分にとって、写真が一番やりたいこととでもないのだが、剽窃された写真が人気ツイートになっているのを見るたび、寂しく思う。

おいしくもまずくもない店の見分け方

記事のタイトルをご覧になったあなたは、「おいしい店の見分け方ならともかく、おいしくもまずくもない店を見分けてどうするんだ?ド変態とちゃうか」と思ったことだろう。ド変態とのご指摘については残念ながら反論できる材料を持っていないのだが、おいしくもまずくもない店という存在は実はかなり重要であり、あなたもあなたで、おそらく、おいしくもまずくもない店について、独自のノウハウを無意識に集積中のはずである。改めて、おいしくもまずくもない店を知ることのメリットと、その判別方法について考えてみよう。


「おいしくもまずくもない店」を知ることのメリット

(1)おいしくもまずくもない店は、すぐに入れ、リスクもない優良店である

見知らぬ土地にいて、空腹だが店を選ぶのが面倒で、「何でもいいからとりあえず食べたい」と思ったとしよう。考えなしに入った店で、豚の臓物のシロップ漬けなどが供されたら、これは食べたいものとは違うと思うはずだ。口中に広がる生臭くて甘い味わいに吐き気を催すが、マスターは「サービスで量を増やしておいたよ」と笑顔で言うので残すわけにもいかない。そこであなたは気づく。「何でもいい」というのは「おいしいものであることは必須条件ではないにせよ、まずいものだけは食べたくない」という意味で「何でもいい」と思ったのだ。これからは、人に「何食べる?」と聞かれても、「何でもいいよ」と、リベラルを装いながら店の選択の仕事を丸投げしたりはしない、と……。
おいしくもまずくもない店は、おいしすぎないので予約でいっぱいになることはない。しかも、まずくもないために安心して入れるのである。

(2)おいしくもまずくもない店は、値段がリーズナブルである

おいしい店はそれなりの値段がする、ということは広く知られているが、実はまずい店もいい値段であることが多い。味のアウトプットが満足にできない店は、価格の付け方にもバランス感覚を欠いている。「味に自信がないから安くしておこう」などと思う殊勝さがあれば、そもそもまずい料理を提供しない。また、客が来ない分を、顧客単価を上げることで生存している店もある。
その一方で、おいしくもまずくもない店は、先述の気軽さと、こなれた価格で生き延びているのだ。

(3)おいしくもまずくもない店は、気が進まない相手と食事をするとき都合がよい

好きでも嫌いでもない相手と食事するとき、せめておいしい店にして時間の無駄遣いを補填したいという出来心が発生する場合があるが、相手に楽しんでいると勘違いされたら面倒である。気が乗らない相手と二度三度とお付き合いしてしまうと、さらなる時間の無駄遣いを招くことになる。かといって豚の臓物のシロップ漬けを供する店に案内してしまうと失礼にあたってしまう。
失礼にならない店を選ぶ時間も面倒なので、こんなときは、手近なおいしくもまずくもない店を知っておくと便利なのである。

(4)おいしくもまずくもない店は、心のバランスを保ちたいときによい

金曜や土曜の夜においしいものを食べる…… 不亦楽乎。しかし、月曜や火曜はどうだろう。わたしは恐ろしくてほとんど試みたことがない。「世の中にはこんなおいしいものがあるのに、わたしは明日からも仕事をしなければならない」と思って希死念慮でビンビンになってしまうからである。翌日に仕事がある日の夜に寄りたい店は、やはり、人生に絶望することのないような、おいしくもまずくもない店であってほしいのである。


おいしくもまずくもない店の特徴

以下、わたしのおいしくもまずくもない店の遍歴から抽出した特徴を列挙させていただく。

(1)最近オープンしたのに老舗を装っている

誹謗中傷をしているわけではなく、おいしくもまずくもないと言っているだけだから名誉毀損になりはしないのだろうけれども、たまに行く店なので明かさずにおく。最近躍進中のこのチェーン店の看板のアップである。
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開店して1年も経っていないのにこの有様。
わたしはたまたま、この店のオープン直前の状況を見たことがあるが、オープン時にすでにこれらの傷はついていた。マリア様が処女でイエス・キリストを産んだという伝説とは正反対で、開店する前から海千山千なのだった。あざとさに唖然としてしまうが、このような店は、料理についても同じ程度にあざとさを発揮してくれるので、まずいゾーンを越えることはないのである。

(2)原材料を売る店の名前がついている

「~水産」「~牧場」「~製麺所」などは、鮮度が高いことを示したり専門性を際立てたりするための月並みな表現であり、そのようなアイデアを採用する店はアイデンティティを確立できていないことも多いのだが、少なくとも最低限のトレンドを取り入れる能力は持っているため、おいしくない料理を出すこともない。
ただ、この手法は流通しすぎたため、まずい店を展開しようという意欲に満ちた資本家にも気づかれてしまった。このことをもって「おいしくもまずくもない」と必ずしもいえなくなってきたし、これからは、おいしくない店の特徴になってくるのかもしれない。

(3)がんこな職人がいそうな名前である

老舗を装う手段として古めかしい名前をつけることが多いが、古いだけでは不適切で、頑固な職人か、あるいは武士などをイメージさせるネーミングが、おいしくもまずくもない店になるためには必要である。
たとえば「丁稚奉公」のような名前の店はやめたほうがよい。「がんこ寿司」はあっても「言いなり寿司」がないのと同じ理由である。実際は、ネタをもっと厚くなどリクエストできるのだから「言いなり寿司」の方も悪くないはずなのに……。もし、「益荒男漁港」という名前の店が実在したとしたなら……確実においしくもまずくもない店になるはずである。
なお、本当においしい店は、オーソドックスな名前をつけていることが多く、おいしくない店と見分けがつかないものである。

(4)メニューが手書きである

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手作り感を出すためにメニューが手書きであるのも、おいしくもまずくもない店の特徴である。「手作り=おいしい」という雑な観念は批判すべきであるが、観念を持たずにメニューを作っている店より、はるかにおいしいはずである。
また、筆字のフォントで印字した方が楽なのに、あえて手書きにし、メニューを作るのに手間をかける店は、調理も同じく丁寧である。

(5)流行のメニューがある

まずい店はメニューが不変であるか、謎のアイデアに満ちあふれているかのどちらかであり、おいしい店は自分で流行を作ることができる。謎のアイデアで驚いたのは、トコブシをカレーで煮て冷やしたものを出してきた寿司屋であり、そのときのガッツ石松似のマスターの得意げな顔が忘れられない。いっぽう、店先のメニューに「ローストビーフ丼」などがある店は、おいしくもまずくもない店の王道だといえるだろう。


おいしくもまずくもない店……それは不確かなことこの上ない人生において、数少ない確かな存在であり、大事にしていきたい存在なのである。

スーパーのお寿司でも専用のステージを与えれば魂のレベルが上がる

そこそこ残業し、仕事を終えて立ち寄ったスーパーマーケットでわれわれを待ち受けているものといえば、半額のお寿司。定時であがった場合に待ち受けているのは10%オフのお寿司であり、そこそこを超える時間帯まで労働力を販売してしまった場合は、お寿司コーナーは空になっている。なお、あってはならないことだが、労働力を販売することなく退社時間が遅くなってしまった場合は、財布の中が空なので、そもそもお寿司コーナーを確認する必要がなくなる。これはお寿司に限った話ではなく、人生に共通するひとつの概念が、かわいらしいお寿司の形をとってわれわれの前に姿を現しているのだが、その話をすると長くなってしまうので、ここでは、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という使い古された教訓を復唱するにとどめておく。


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半額のお寿司を見かけてしまうと、われわれは自動的にカゴの中に入れてしまう。半額のシールが10%などの中途半端な値引きのシールの上にズレた状態で貼ってあると色気さえ感じられる。
もともと安いお寿司をさらに半額で求めるのか、あるいは、上のお寿司を、並のお寿司並みの価格で求めるのかは自由だが、問題はトレイおよび、それにあしらわれた模様である。
たとえば、肉たちは檜をイメージした木目調のトレイにのせられていることが多い。


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これは国産の牛肉の例である。同じ売場の、牛豚の合挽肉は白のトレイだった。別の種族と運命をともにしたうえに、無機質なトレイにのせられるなんて、とてもかわいそうだ。
中央にあるサラダ菜の写真が気になるかもしれない。思いだしてみると、かつてこのポジションにあったのは、生のパセリだった。つまり、本来はサラダ菜を置きたかったのだが、すぐに茶色くなってしまうなどの理由でパセリが起用されることになったものの、昭和が平成になり、そもそも鮮度の優等生であるパセリですら、永遠不滅のプラスチック片の鮮度と比べるまでもないという事実に気づき始めた精肉業者が、サラダ菜の写真の採用を始めたのだった。パセリがかわいそうである……。と嘆きつつも、サラダ菜の写真をもっとよく見て野菜不足を解消したいと思っていらっしゃる方のために、正面から撮った写真も掲載しておこう。
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サラダ菜の写真の件はともかく、お寿司についても、トレイにのるなら木目のトレイにのっていてほしいのだが、実際、どのグレードのお寿司を求めたとしても、持ち帰りのお寿司は、yosakoi模様があしらわれた漆黒のトレイに鎮座している。


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この事象には理由があり、出前のお寿司のお盆を模しているからだと思われ、さらに出前のお寿司のお盆はなぜ黒なのかというと、むかしは漆器が使われていたからで、さらになぜ漆器を使っていたのかというと、無垢材のお盆だと汚れやすいからだと思われる。
根拠らしいものがあるにせよ、あまりにもyosakoiである。たとえ半額のお寿司であったとしても、食卓はyosakoi的であってはならないし、少なくとも、文化的にニュートラルな状態であってほしいと願うわれわれの感覚からすると、端的に言って、食欲の湧かない模様である。
わたしも最近までは、「この模様はどうなの」と上の口で不満を述べながら、同じく上の口で食べていたのだが、このままではいけない……やはりお寿司にはお寿司のアレが必要なのではないかと思いはじめた。

参考までに述べておくと、北欧ナントカ市で購入した古めのお皿に載せると、カフェ風味になるが、カフェごはんの欠点―しゃれているだけであまりおいしくないことが多い―も含めて、カフェ風味になってしまうので、あまりおすすめできない。
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犬には犬用のガムが必要なように、やはりお寿司にはお寿司のアレが必要である。
これがスーパーマーケットで求めたお寿司を、お寿司のアレの上に載せた状態である。
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やはりしっくりくるし、お寿司屋で食べているような気分になる。口に入れてしまえば同じだと思っていたが、味覚というのはいいかげんなもので、見た目が変わると気分が変わり、味までよくなったような気がするものである。スーパーマーケットで買ったお寿司がおいしくないのなら、せめて見た目には気遣うべきだと気づいた。

なお、お寿司のアレはAmazonなどでも買えて、およそ1,200円で入手可能。半額のお寿司を2回買ったらペイできる金額であり、半額のお寿司が半額でないお寿司のような気持ちで食べられると思えば、あっという間に元がとれる。


お寿司のアレが正式にどう呼ばれているかは知らないし、知る必要もないが、やはりお寿司にはお寿司のアレが必要なのだ。


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男の座りションは、快適な便座からしか始まらない

残念ながら、女の人から夫の愚痴のようなものを聞かされることが多い。
わたしは抜群の忍耐力を備えているし、しかも話を聞いているふりがうまいからだ。
わたしの知るかぎり、愚痴子は夫の愚痴と仕事の愚痴を交互にmixするDJ的な存在なのだが、どちらの愚痴が聞きたいかといえば、夫の愚痴である。なぜなら、仕事の愚痴を聞いていると、いわゆるひとつのサービス残業をしているかのような気分になってしまうからで、夫の愚痴なら、私的な時間を愚痴聞きで食いつぶすのはいかがなものかと思うものの、少なくとも、私的な時間を過ごしていることを確信できるという意味において、アドバンテージが感じられる。

便座を上げたままの夫問題

そんなプレミアムでアドバンテージなカンバセーションでよく挙がるのが、夫が便座を上げたままである件で、わたしはそのたび内心驚いている。もちろん便座を上げたままの男性が存在するという事実にではなく、ベンザブロックが痔の薬ではなくて風邪薬であるという事実にでもなく、わたしが愚痴子から「こっち側」と思われていることにである。「こっち側」とは何か。「こっち側」とは、便座が常にセットされている理想郷であり、そこの住人たちは生ハムの原木で組まれた家に住んでいて、テレビは4Kで、加湿器と空気清浄機の機能の機能を併せ持った無難なデザインの白い箱が各部屋に備え付けてあるのだ。
そんな「こっち側」に加えてくださり、少々不安である。なぜならわたしは、彼女らの夫と同じく、本来は、「そっち側」の人だから……。

便座を上げっぱなしであることに異議を唱える人はつまり、便座を元通りにしていれば問題なしとしてくれるのだから、まだ心の広い人物と言えるかもしれない。内心、立ちションを撲滅したいと思っているのに、立ちションを、便座を元通りにする限りにおいて大目に見てやると言っており、大幅な譲歩をしてくれているのである。そもそも、「座りション」という呼び方が不当であると思う方も多いかもしれない。「ションには二種類あって、ションと座りションである」という考えは不当かもしれない。「ションには、ションと立ちションの二種類がある。ションといえば座ってするションのことを指し、立ってするションはイレギュラーなションにあたり、通常のションとは分け、武力行使も視野に入れて対処すべき」と考えるのが正しいのかもしれない。

しかし、少なからずいる、通常のションは立った状態のションであると考える人々にとって、わざわざ便座に座ってションをするのは非常に面倒である。立った状態でのションは、事後に念入りな掃除が必要であるとわかっていたとしてもである。コカイン中毒の患者が逮捕されるとわかっていてもやめられないのと同じであって、抑止するためには発想の転換が必要である。ちょうど、コカインの市場への流入を抑止するためにマリファナを合法化し、「コカインはリスクが大きいしマリファナでもそれなりに愉快な気分になれるから手を打つか……」と常習者たちに思わせ、ある程度のハードドラッグの抑止に成功しているオランダの事例を見習うべきなのである。

マリファナ=便座カバー理論

結論から言うと、立ちション患者であるわたしにとってのマリファナとなったのは、便座カバーであった。立ちションを罹患していたとき、汚れを拭き取りやすいからという理由で便座は生の状態にしていた。しかしこの考えは根本的に間違っていた。ひんやりした便座にわざわざ座りたいと思う変態はいない。「立ちションしても掃除が簡単」というのは、立ちション撲滅の施策としては不十分で、「座りションにして掃除の回数が減る」方が建設的。座りションも悪くないと思えるよう設備を整える必要があったのだった。

いままでの便座カバーは、赤ちゃんのタイツのようなしつらえで、U字状になっている便座に履かせるようにして取り付ける。それがさほど気持ちよいものではないことは周知の通りである。たしかに生便座よりも暖かいことは確実ではあるが、先ほどのコカイン→マリファナの喩えで言うなら、コカイン~ココアシガレット間と同程度の隔たりがある。コカインをココアシガレットで我慢できたら警察はいらない。しかも洗濯したての旧式の便座カバーは縮んでいて、便座に履かせるのが難しく、無理やり履かせるために全体重を便座シートに預けた結果、バランスを崩して便器の泉にあたる部分に手を突っこんでしまう危険性があって、そうなってしまうと、こんなに汚れた人間が使う便器を掃除する必要があるのかと疑わしくなってくるのだが、ある日わたしは、テクノロジーの進歩により、便座カバーが便座カバー2.0に進化していることに気づいた。便座カバー2.0は、便座の上から貼って取り付ける。そのため、厚みを持たせることができるのだった。もしかしてわたしの座りション生活はここから始まるのではないか……と思って注文した。
そしてこれが立ちション派にとってのマリファナの勇姿である。

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どういう仕組みか把握しきれていないが、便座に吸着させることができる。

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従来のカバーの何倍もの厚さである。
調布のとんかつ屋でこんな厚さのカツを出す店があったのだが、いったん閉店して再開後、店はこぎれいになってカツが薄くなってしまっていた。

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その厚さゆえに、便器のふたが完全に閉まらなくなってしまうのはご愛嬌。

この便座カバーの商品名は忘れたし、思い出すことはわたしにとって何の意味もないのだが、ふわふわで、何色か出ていて、スカンジナビアングレーやスカンジナビアンパープルなど、スカンジナビアンで統一されていた。このネーミングのセンスがボディーブローのように効いてくる。北欧モチーフの製品は陳腐化しつつあるにしても、少なくとも便器界隈ではまだまだオシャレな部類に属するし、北欧といえば福祉が充実しているので、便座もふんわりしているようなイメージ。そして、そもそも、寒冷な地域の便座が暖かくないはずがない。

瞬く間に取り付けは完了し、ションもしたくないのに座してみたのだが、いままで体験したことがない快適さだった。

幻の「生尻ソファー」体験が何度もできる

あなたは(突然の読者への呼びかけ)生尻でソファーに座ったことがあるだろうか。
わたしは3回くらいしかなくて、気持ちよかったが、汚れてはいけないと思ったのですぐにパンツを履くことで、かろうじて文明人としてのメンツを保った。
この便座カバーは、合法的に、幻の、伝説の、「生尻でソファー」をノーリスクで好きなだけ体験できる装置なのである。立ちションをやめられなかったわたしが、いまは喜んで座りションをキメており、ときどき、ションの終わったあとも名残り惜しくて、しばらくぼんやりしていたりするほどである。


晴れてわたしは「こっち側」の人間となった。
しかも「こっち側」の中でも幹部候補になっていると自負している。便座を上げたままの夫の話を聞いても「ふーん」と返すのではなく、「便座の上げ下げというより、そもそも座ってしろという話だよね~~」と返せるようになり、幸せを噛みしめている。



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電子音楽を中心に、2016年に聴いた音楽、ベスト10曲

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去年は定額制で聴き放題のサービスが躍進したが、その一方で、聴き放題にすらお金を払わないクレバーな消費者も少なくない。Apple Musicの網羅度は素晴らしいと思うけれど、自由に聴けないので個別に買ってしまう。知人がiPhoneでYoutubeを開いて、Bluetoothを経由してJBLのスピーカーからそれなりにいい音で音楽を流しているのを見て鼻水が出てしまった。わたしのようにコンテンツをちまちま買って聴いているのは変態の部類に入るのかもしれない。
ノーマルな感性を持った音楽ファンは、日本におけるここ20年の生活水準の低下を、もっぱらコンテンツにお金を使わないようにすることでしのいできたと推測しているが、わたしひとりがその流れに取り残されているように感じている。
―とはいえ、自分の好きな音楽が無料で提供されることは少ないので、わたしはずっとコンテンツを購入し続ける側に残るしかないのかなと半ば諦めている。
そんな暗い前置きはともかく、去年聴いた音楽のベスト10を選んだ。

Melody / Plustwo

Melody (1983 Radio Version)

Melody (1983 Radio Version)

  • Plustwo
  • エレクトロニック
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
イタロ・ディスコの1983年のカルトヒット曲の12インチシングルが満を持して去年再発されたのだが、昨年を振りかえってみると、こればかり聞いていた。シンセの各パートの溶け具合が、独自にテクノ的アプローチを発見したようで、Imaginationの"Just An Illusion"に通ずるよさがある。このYoutubeも、このダンスなんなの……と思いつつも100回は見てしまった。

Melody - by Plustwo. The original video
近年、「オリジナルは200€超のレア盤が限定500枚でヴァイナルリイシュー!」みたいなのをよく見かける。わたしとしてはヴァイナルでないリイシューの方がありがたいのだが、このビジネスモデルでないと商売にならないと思われ、それはまあそうなんだろうなと思って購入することにしている。
すでに再発盤も50€くらいするのだが、B面もベースラインが斬新で同じくらい素晴らしいので高くないと思う。ショートミックスならiTunesでも入手できるのだけれど、iTunesには後世のダサミックスバージョンが混入しているので要試聴。


Super Koto / Ponzu Island

Super Koto

Super Koto

  • Ponzu Island
  • ダンス
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
プロモーションビデオがオフィシャルなものでもアレなので紹介できなくて残念。一聴するとスーパーファミコン時代のゲーム音楽のように聴こえるのだが、もしこれが何らかのゲーム音楽だったとするなら、あまりの素晴らしさに、ゲームにまったく集中できないはずだ。タイトル通り、全面的に琴の音がフィーチャーされている。
琴の音って、80~90年代のシンセサイザーのプリセット音として高確率で収録されていたけれど、日本製だったからというだけで、居酒屋のランチタイムに流れる歌のない歌謡曲でしか使われていないイメージだったが、適切なアレンジがされている琴の音の素晴らしさがわかる。これがデビュー作というのだから驚き。


ダンシング / 桑名正博

テキーラ・ムーン

テキーラ・ムーン

マリファナとコカインの使用により絶賛執行猶予中の78年にリリースされた『テキーラ・ムーン』から。ずいぶんとファンキーでドラマチックなAOR。去年は日本のダンス・クラッシックスをたくさん聴いたが、最初の1曲はこれを選ぶことが多かった。78年というと、サタデーナイトフィーバーが流行した年で、日本でも、DJが音楽の間にブツブツ話すスタイルだけれども、レコードを大音量でかけるディスコが流行していたはずだが、歌詞を聞く限り、この曲が想定しているのはどうもライブハウスで、そのへんの時代錯誤的なこだわりも含めてめっちゃ熱いで……。
『テキーラ・ムーン』は、大阪ローカルで定番になっている『月のあかり』を収録していることで有名なのだけれど、そちらはあまりよさがわからない。大阪で過ごしたのが人生の半分以下になってしまったのだから仕方ないのかもしれない。


Awakening / 佐藤博

アウェイクニング スペシャル・エディション

アウェイクニング スペシャル・エディション

同名アルバムのタイトル曲。あまりにも有名だけど、自分には関係ないと思って聴かずに敬遠し続けてきたのだが、関係ありだった。軽快なフュージョンなのだが、イントロを耳にしただけで、この音楽がウルトラ緻密に作りこまれた傑作であることがわかるし、4分にも満たないのに、1時間くらい聴いた気分になる。1本の音楽ファイルにすぎないのに、贅沢な気分になれる逸品だと思う。81年の作品だが、いかんせん当時こちらは小学生。感じる能力がこちらに備わっていなかったので、発見するに機が熟したのだろうと思っている。アルバムの他の曲は歌つきのが多いけれど、ここまでくると音に集中したいので邪魔だなと思ってしまう。



New York New York / Nina Hagen

Fearless

Fearless

いままで、Diamanda Galasを持ってるからNina Hagenは聴かなくてもいいやと思っていたのだが、その分類が間違いであると気づいたのはLindstrom"Late Night Tales"で"African Reggae"を聴いたときだった。欧米でレゲエがさほど普及していない時期なのに、一足飛びに「わたしの考えたレゲエ」をやってのけたのだったが、こちらはそのヒップホップ版と言ってもよいと思う。ヒップホップというジャンルを履き違えすぎて別のジャンルになっている。がなったり朗々と歌いあげたり、聴くたびに失笑を禁じ得ない。
先日、息をしているかどうかが気になってNina Hargenで検索したら、なりすましアカウントを見つけ、Lady GAGAはわたしのパクリと言っていて納得してしまったのだが、Lady GAGAの素晴らしいところは、「見た目はおかしいが音楽は普通」で、保守的であることを恥じている多くのリスナーが脳内音楽革命を経由せずに冒険した気分を味わえるようにした点であり、売れたいのであれば、Nina Hagenみたいに音楽性までおかしくしてしまってはいけないのだった。特に歌い方はちゃんとせなあかん。


Cut Eleven / Innsyter

Cut Eleven

Cut Eleven

  • Innsyter
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Delroy Edwardsのレーベル、L.A. Club ResourceからのデビューLPに収録。のっけから荒れたロウハウスで、Caroline Kが生きていたら、Nocturnal Emissionsがこんな形でダンスフロアを侵略していたのかもと思わせる。この曲以外も荒れ放題でペンペン草も生えていないが、ほかのロウハウスではめったに感じられない肉感的なグルーヴ感に全編覆われている。


Wasser Im Fluss / Thomas Fehlmann

Wasser Im Fluss

Wasser Im Fluss

  • Thomas Fehlmann
  • エレクトロニック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes
The Orbはコンスタントに新譜をリリースしていて、毎回すぐ買って聴いているのだが、だんだんリリースのペースに満足できなくなってきて、そういや片割れのThomas Fehlmannのソロ作品を掘ったら慰めになるのかも……と思って聴いてみたら、2010年のアルバム"Gute Luft"に名曲を発見した。
渋いフィルタリングに彩られた分厚いパッドのシークエンスが、The Orbの"Ripples"の完成版なのかなと想像させるが、彼のキャリアを4分におさめたような完成度で、テクノを代表する曲と言えるのではないかと思う。


Gente Que Aun Duerme / Mono Fontana

Gente Que Aún Duerme

Gente Que Aún Duerme

  • Mono Fontana
  • ジャズ
  • provided courtesy of iTunes
ロスアプソンでめちゃめちゃ押しているのを発見し、在庫がなかったので泣く泣く他で手に入れたのだが、98年作リリースの"Ciruelo"に収録されていて、のちに日本で「アルゼンチン音響派」と呼ばれる流れの源流に位置するらしかった。98年のわたしは、時間もお金もなかったので気づくのがずいぶんと遅れてしまった。よくわからないキーボードの間に現実音が挟まっていて曲の輪郭もつかめないまま11分が過ぎてしまうのだけれど、ポジティブなパワーにあふれかえっており、ポジティブもすぎると音楽の体裁をとることが難しいということがわかる。
聴いたあと、他の音楽を聴いても退屈で悪趣味な音楽にしか聞こえないので、特別な時以外は聴かないようにしている。今年聴いた中で一番印象に残った。


Pleasure Centre (Pharaohs Remix) / CFCF

Pleasure Centre

Pleasure Centre

  • CFCF
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
完成度の高いバレアリックといえばMark BarrottとかJose Padilla、Seahawks、Pacific Horizonsなどがあがると思うけど、最初のひとりを除いてわりと寡作な人たちなので、バレアリック資源の枯渇がぼくの中で切実な問題になっている。そんな中でCFCFの存在に今さら気づいて救世主だと思っている。
特にこの曲、オリジナルもすごくよいのだが、Pharaohs のリミックスが、ぶっちぎりに叙情的で繰り返し繰り返し聴いてしまう。


Qi Xin Mian Guan / Miskotom


ディスクユニオンの試聴用コーナーで、傑作風味のジャケットを発見し、念のために聴いてみたらどこに針を落としても夢のような音が流れてくるのでただちに購入した。なんとデビューEPとのこと。
Mr.Fingersが現代に蘇った(というかMr.Fingers自体、一昨年、いい感じに蘇っているのだが)かのようで、少ない音数で夢のような空間を作っている。2016年にTR909でこんなにときめいてしまっていいのかしら……と思う。レコードのみのリリースだけど、レコードに合った音と、ゆかいなジャケットで、その理由がわかる気がした。今後、リリースのたびに必ず買うことになりそう。



今年は、最高だと思って調べてみたらデビュー作だった……という曲が多かったので、来年いい音楽に出会えることはすでに約束されており、今からとても楽しみである。



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世界共通製品に日本語の説明がないと、日本はもうダメだと思ってしまう症候群

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先日、PC用のグラフィックボードを買った。先日発売になった、"Battlefield 1"を遊びたい、いや、体験したい、という気持ちになったのと、"Fallout 4"のPC版がお手頃価格になっていたからだった。前者は、第一次世界大戦をモチーフにした一人称のシューティングゲームで、第一次大戦といえば、戦車や航空機などの、安全かつ効率のよい殺戮兵器が初めて導入された戦争であり、それらと初めて対峙したときの兵士の絶望を追体験できるかもしれない……と期待したからで、後者は、リリース直後には、全米のアダルトサイトのアクセス数が減ったと言われていることから、女体のイメージよりもエキサイティングなゲームであることが確実だったからだ。


Battlefield 1 とFallout 4が遊びたくなったとして、ノーマルな感性の持ち主ならば、そこでPS4を買うだろう。しかし残念ながらわたしは、ゲーム機を買おうと思ったときに、「パソコンかゲーム機か」という二択で考えてしまう哀れなオッサンである。しかも、「パソコンかゲーム機か」の二択の歴史でいえば、わたしはかなりのベテランであると自負していて、誰に命令されるでもなく、ファミリーコンピュータのときからその二択に常に悩まされてきたのだった。「ファミリーコンピュータはいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいだし、プログラミングの勉強にもなるんじゃない?」と思って、パソコンを手にし、「プレイステーションはいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいだし、プログラミングの勉強にもなるんじゃない?」と思って、常にパソコンを手にしてきた。そして、しばらくして、「ゲームはやっぱり専用機の方がいいね」と思って、ゲーム機を手にすることになってしまうのだった。


今回も同じかもしれないが、今回こそは違うのではないかとも思っている。「PS4はいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいじゃない?」と思った。いつもの自分への殺し文句、「プログラムの勉強にもなるんじゃない?」は、40歳をとうに過ぎてようやく現実の一角が見えてきたこともあって脳裏をかすめることがなくなってしまったが、PS4は秒間のコマ数が30コマ止まりのものが多いのに比べ、同程度の価格のPCで、同じくらいの価格のグラフィックボードを買うと、常に60コマがキープできるとのことである。
秒間30コマといえば、1秒間に30枚の絵が再生されるので、数字だけを見たら十分ではないかと思ってしまうかもしれない。わたしが30年前、その滑らかさに度肝を抜かれた、初期スクウェアの『ウィル~ザ・デス・トラップ2~』のアニメーションが、たしか秒間8コマだったはずで、30コマならありがたく拝受せねばならないはずなのだが、先日、アダルトサイトで、秒間60コマの映像を見たときに、秒間30コマとはまったく違う臨場感というか、特に3D になったりVRだったり4Kでもないのだけれど、そこにいる感じがして、わたしは女性の人権の大切さとともに、秒間コマ数の大切さについても知ることとなった。因果な話で、たいしてコストのかからないハイレゾ音源を聞き分ける能力はない。しかし、オッサンにとって1年があっという間なのだから、1秒なんて検知できもしないはずなのに、1秒に30枚の絵が再生されるのと60枚の絵が再生されるのはすぐわかってしまうのである。なんと贅沢な体だろうか……この体を支えるには年功序列制度という後ろ盾が必要なはずだが、それも風前の灯火である……。


すっかり本題とはそれてしまったが、このような面倒な紆余曲折の末、わたしはグラフィックボードを買ったのだが、説明書が世界共通だったので緊張した。というのも、最近、別の製品で、各国語の説明が載っているが日本語の説明がない、というものを見かけて絶望したことがあったからだ。単純に使い方を知るだけなら英語版を読めばよいのだが、分厚い各国語マニュアルの中に日本語がなかったら、ああ、もう日本は市場であるとも思われてはいないのだな、もう日本は終わりだ、という気持ちになってしまう。昔は、英語とフランス語とドイツ語などの組み合わせで、これなら単純に数として少ない日本語が優遇されていなくて、まあ英語版があるからいいじゃないと考えているのだろうと思うのだが、10ヶ国語以上をサポートしている説明書で日本語なしは非常にこたえる。「あなたの国はもうダメですが、それはそれとして、お買上げありがとうございます」とグローバル社会に言い渡されたような気がしてしまう。

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幸い、今回購入したグラフィックボードは、1分ほど探したら、日本語で説明が書いてあるのを見かけた。重要な説明が抜けていたが、それは英語版でも同じだったので安心した。
しかし、次にわたしがなんとかボードみたいなのを買い求めるときは、いっそう緊張して説明書に日本語がないか探すに違いない。





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『シン・ゴジラ』のどこが抜群に面白かったか、わたしの脳内の動きを検証する

※今回に限らず、このブログはいわゆる「ネタバレ」の宝庫です。このブログは、ネタバレに負けない強靭な精神の育成のための専門サイトですので、ご了承のうえ、ともに切磋琢磨できればと思っております。

『シン・ゴジラ』のリアリティ

『シン・ゴジラ』の何が抜群に面白かったかというと、まず、オバマ先生に対して心からゴメンと思ってしまうほどのリアリティである。
わたしは今まで映画を見ているとき、アメリカの大統領に対して切実な申し訳なさを感じたことはなかったし、これからもずっとないと思っていた。なぜなら映画というのは絵空事なので、誰かに対して切実にゴメンと思うことはほとんどないし、ましてやアメリカの大統領に対して映画館の中で小声ですみませんと呟いてしまうというのは、もはや病的な状態であり通院が望ましいが、多忙のためそれは避けたく、オバマ先生へのゴメンについて丁寧に説明をさせていただきたい。

ゴジラが出てきてしばらくし、アメリカの支援が来たときにこの感情がおのずから発生する。わたしたちは現実に、2011年のアメリカのTomodachi Oprationに感激し、今回のゴジラのときも、若干図々しいが、何かのoperationをしてくださると期待しながら見ていたのだが、今回のoperationにオバマ先生が寄越したのは、なんとB-2だったのだ。しかも3機。日本のTomodachiの話をするのにmoneyの話をするのは大変恐縮だけれども、2000億円✕3機である。われわれとしては、使い古したB-52でも十分ありがたかったはずである。70年前に日本中を焼き払ったB-29にちょっと似ているところが若干気まずいけれども、緊急事態なのでそこは我慢するし、軍靴などと言う人がいたら、わたしが黙らせてやると思ったのだが、オバマ先生は、口笛ひとつで、日本の危機のために、1機作るのにスカイツリー5本分のコストがかかるあのB-2を3機も連れてきてくださったのだった。念のため書き添えておくと、設定ではアメリカの大統領はオバマ先生ではないのだけれど、絵空事だとはいえ、ありがたいという気持ちになってしまうのが人情ではないだろうか。

しかし、こともあろうにゴジラは、その空気をまったく読まずに3機まとめて瞬殺してしまった。ゴジラのことを、いくらガッジーラと英語のように発音したところで、日本が育ててきた怪獣であることは間違いないので、「うちのゴジラが粗相してオバマ先生に申し訳ない」という気持ちになってしまうのも当然であり、自分の中にあるナショナリティがあまりにも意外な形で姿を現し、自分の心の中に登場したゴジラ状の思念に驚いてしまった。

そうもこうも、この作品が、怪獣映画の範疇をはるかに超える地点でリアリティを実現しているから、ややこしい気持ちになってしまうのである。石原さとみ先生の英語が不自然、キャラクターが浮いていた、などという、批判になっていない批判が出てくるのも、この作品の尋常ならざるリアリティが裏目に出た結果にすぎない。たとえば、石原さとみ先生演じるアメリカ特使の鼻が亀頭のようになっていて、放射能を検知すると割れ目ちゃんから黄緑色の膿を勢いよく噴射するが、そのことをまったく恥じることなく、キェーーッという奇声とともに謎の鼻水を周囲の人物になすりつけるようなお茶目なキャラクターだったら……誰も文句は言わなかったはずである。
また、作品の細部をとりあげて、リアリティがないという意見も多く目にする。ゴジラを停止させる方法が嘘くさいなどという主張である。落ちついて考えてみると、ゴジラのような巨大生物が登場することそのものが圧倒的なリアリティの欠如になるはずなのだが、そこに触れられないのは、ゴジラが登場すること自体にはリアリティが感じられていることの証左であり、これ以上リアリティを追求するとゴジラが存在できなくなってしまうかもしれない地点にまではリアリティが突きつめられているということでもある。仮に、ゴジラが登場すらしなかったとしても、わたしは楽しく『シン・ゴジラ』を見ることができるだろうと思うけれど。

『シン・ゴジラ』のファンタジー

『シン・ゴジラ』はまた、日本人専用の、緻密に作りこまれたファンタジー映画でもある。
決まらない会議。責任者は不明。出る杭は打つ。前例のないことはしない。仕事の半分は忠誠心の確認作業……など、怪獣が出てこなくても、戦闘状態がなくても、日常的に、ああ、この調子だと日本はますます「やりがい満載の国」に……と思ってしまう諸問題が、映画上では紆余曲折がありながらも見事に解決されていたのである。

太平洋戦争で日本は数々の失態をおかし、結果として300万人以上の命を失った。なぜ日本軍が負けたのかを分析する文献は多数あるが、たとえば、陸軍と海軍で意思統一がされなかったことや、兵器の設計において人命よりも攻撃力を重視したため、熟練したパイロットのほとんどを亡くしてしまったこと、兵器以外の技術開発を軽視した結果、レーダーや暗号解析の技術で決定的に遅れをとり、アメリカ軍は作戦の詳細について日本軍の現場よりよく把握されてしまっていた点などが挙げられる。きわめつけは、何のために戦争をするのかの認識合わせができていなかったため、どこで戦争を終えればよいかもわからなかったという点だけれども、話すと長くなるのでここで詳細は述べない。『シン・ゴジラ』は、巨大災害に対する対処の方法であるという言及がよくなされるが、先の大戦の反省の上にも立っていると思う。あの戦争は、しないに越したことはなかったが、戦争をするにしてもあれはなかった。終戦から10年もしないうちに公開された『ゴジラ』は、傑作であることは疑いようがないが、あの戦争での失敗をなぞるかのようなストーリー展開がされてしまう点で衝撃的でもある。

突如現れたゴジラに、なすすべはあったのになすすべがないように人々はふるまう。ゴジラがくるとわかっているのに豪華な電車を走らせてしまうし、ゴジラに倒されてしまうとわかっていて鉄塔に登ってレポーターが中継を始める。自衛隊を中心に作戦を立てるが、まったく刃が立たず、なすすべがなさすぎて、ついには少女たちが平和を祈る歌を歌い始めたりする始末。天才科学者が発明した「オキシジェン・デストロイヤー」という、大味な兵器により、なんとかゴジラ討伐はできたのだが、その発明者が科学者をこじらせていて、この技術を広めてはいけないと、設計書を焼き、首尾よくゴジラを骨にしたあと、harakiriしてしまう。正確には、海底で、酸素を送るホースを自ら切断するのだが、最後に、生物学者が、これが最後のゴジラとは思えない的なつぶやきをして、じゃあオキシジェンなんとかを葬ったらアカンかったやないの……と不安になってしまったのだけれど、危機に対して再現性のない方法で対処して、何も引き継がれない点や、非合理的な祈りで問題を解決しようとする点、命と引き換えに問題を解決しようとしつつ、実は問題解決にはあまり関心を持っていないという点などの精神が戦中のそれと大差なく、そういう時代―反戦を誓いつつも、反戦とは具体的に何をすることなのかが未解明であった時代―の映画なのだが、その問題についても、『シン・ゴジラ』の随所に回答が用意されている。

『シン・ゴジラ』において、たとえば、ゴジラを停止させる作戦の遂行を支えたのは、日本の無人在来線爆弾や、アメリカの無人機MQ-9である。無人兵器へのこだわりが涙を誘う。現実の日本なら、あるいは日本の映画なら、コントロールするためには人間が運転する必要があるなどと言って、当初は無人の予定だったのに、運転手が静止を振りきって有人で特攻をかける……という展開で涙を誘ったはずだ。作品中、避難計画の進捗の共有にも時間が割かれていて不思議に思うが、それはどうしても必要な時間なのだ。『ゴジラ』では、話を面白くするために、国民が一丸となってゴジラに殺されようとしており、残念なことに、その生命の無駄遣いぶりが太平洋戦争に似てしまってもいたのだが、ようやくここまできたかと思う。
また、ゴジラが多少暴れた結果として政権機能がまるごと吹っ飛んでしまうのだが、翌日から何の問題もなく引き継がれる点にも感激する。東日本大震災のときに、会社の機能が麻痺しかけていたときに、自分が何をしていたかを思い出した人も多かったと思う。量産型の政権が、属人的でない、再現性をもって問題の処理にあたり、目的を成し遂げた。組織の細部の描写がご都合主義だったのかもしれないが、そう感じられることの異常さに気づかなくてはならない。つまりそれは、サラリーマンの日常生活がリアリティの比較対象となってしまう、恐るべき怪獣映画である、ということでもある。

言うまでもなく、実際の日本国は今なお、このようにはふるまえないし、おそらくそのまま朽ちていくだけだ。この映画のよしあしをめぐる議論ですら小競り合いがおきているほどなのだから、意思統一をして危機にあたることなどできるはずもないのだが、ただ、いままで理想を描くことすらできなかったのに、こういう対処の仕方ができたら最高だよね、という2時間の映像を見せてもらったというだけで幸せだった。


ただ、問題がひとつある。この映画は作品そのものが、パニック映画などのフィクションに対しての批評になっている点で、これから素直に映画を楽しめるのか、大いに不安になってしまう。最近、『パシフィック・リム』を見たのだが、見たのが『シン・ゴジラ』の前でよかった。ヒーローとヒロインが抱き合うラストシーンを、「こういうベタベタなのって、ベタベタなところを楽しむのが……いいんだよね」と戸惑いながら見ていたのだが、「ベタベタがあえていいっていう時代でもないでしょ」と今なら素直に思ってしまうだろうし、製作中であるところの『パシフィック・リム2』や、『シン・ゴジラ』から数週間遅れで公開されている『ゴーストバスターズ』を厳しい目で鑑賞するか、あるいは厳しくなりすぎて鑑賞することもしないかもしれないと思うと、寂しい気もするのである。


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