ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

世界共通製品に日本語の説明がないと、日本はもうダメだと思ってしまう症候群

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先日、PC用のグラフィックボードを買った。先日発売になった、"Battlefield 1"を遊びたい、いや、体験したい、という気持ちになったのと、"Fallout 4"のPC版がお手頃価格になっていたからだった。前者は、第一次世界大戦をモチーフにした一人称のシューティングゲームで、第一次大戦といえば、戦車や航空機などの、安全かつ効率のよい殺戮兵器が初めて導入された戦争であり、それらと初めて対峙したときの兵士の絶望を追体験できるかもしれない……と期待したからで、後者は、リリース直後には、全米のアダルトサイトのアクセス数が減ったと言われていることから、女体のイメージよりもエキサイティングなゲームであることが確実だったからだ。


Battlefield 1 とFallout 4が遊びたくなったとして、ノーマルな感性の持ち主ならば、そこでPS4を買うだろう。しかし残念ながらわたしは、ゲーム機を買おうと思ったときに、「パソコンかゲーム機か」という二択で考えてしまう哀れなオッサンである。しかも、「パソコンかゲーム機か」の二択の歴史でいえば、わたしはかなりのベテランであると自負していて、誰に命令されるでもなく、ファミリーコンピュータのときからその二択に常に悩まされてきたのだった。「ファミリーコンピュータはいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいだし、プログラミングの勉強にもなるんじゃない?」と思って、パソコンを手にし、「プレイステーションはいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいだし、プログラミングの勉強にもなるんじゃない?」と思って、常にパソコンを手にしてきた。そして、しばらくして、「ゲームはやっぱり専用機の方がいいね」と思って、ゲーム機を手にすることになってしまうのだった。


今回も同じかもしれないが、今回こそは違うのではないかとも思っている。「PS4はいいけど、パソコンなら、よりグラフィックがきれいじゃない?」と思った。いつもの自分への殺し文句、「プログラムの勉強にもなるんじゃない?」は、40歳をとうに過ぎてようやく現実の一角が見えてきたこともあって脳裏をかすめることがなくなってしまったが、PS4は秒間のコマ数が30コマ止まりのものが多いのに比べ、同程度の価格のPCで、同じくらいの価格のグラフィックボードを買うと、常に60コマがキープできるとのことである。
秒間30コマといえば、1秒間に30枚の絵が再生されるので、数字だけを見たら十分ではないかと思ってしまうかもしれない。わたしが30年前、その滑らかさに度肝を抜かれた、初期スクウェアの『ウィル~ザ・デス・トラップ2~』のアニメーションが、たしか秒間8コマだったはずで、30コマならありがたく拝受せねばならないはずなのだが、先日、アダルトサイトで、秒間60コマの映像を見たときに、秒間30コマとはまったく違う臨場感というか、特に3D になったりVRだったり4Kでもないのだけれど、そこにいる感じがして、わたしは女性の人権の大切さとともに、秒間コマ数の大切さについても知ることとなった。因果な話で、たいしてコストのかからないハイレゾ音源を聞き分ける能力はない。しかし、オッサンにとって1年があっという間なのだから、1秒なんて検知できもしないはずなのに、1秒に30枚の絵が再生されるのと60枚の絵が再生されるのはすぐわかってしまうのである。なんと贅沢な体だろうか……この体を支えるには年功序列制度という後ろ盾が必要なはずだが、それも風前の灯火である……。


すっかり本題とはそれてしまったが、このような面倒な紆余曲折の末、わたしはグラフィックボードを買ったのだが、説明書が世界共通だったので緊張した。というのも、最近、別の製品で、各国語の説明が載っているが日本語の説明がない、というものを見かけて絶望したことがあったからだ。単純に使い方を知るだけなら英語版を読めばよいのだが、分厚い各国語マニュアルの中に日本語がなかったら、ああ、もう日本は市場であるとも思われてはいないのだな、もう日本は終わりだ、という気持ちになってしまう。昔は、英語とフランス語とドイツ語などの組み合わせで、これなら単純に数として少ない日本語が優遇されていなくて、まあ英語版があるからいいじゃないと考えているのだろうと思うのだが、10ヶ国語以上をサポートしている説明書で日本語なしは非常にこたえる。「あなたの国はもうダメですが、それはそれとして、お買上げありがとうございます」とグローバル社会に言い渡されたような気がしてしまう。

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幸い、今回購入したグラフィックボードは、1分ほど探したら、日本語で説明が書いてあるのを見かけた。重要な説明が抜けていたが、それは英語版でも同じだったので安心した。
しかし、次にわたしがなんとかボードみたいなのを買い求めるときは、いっそう緊張して説明書に日本語がないか探すに違いない。





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『シン・ゴジラ』のどこが抜群に面白かったか、わたしの脳内の動きを検証する

※今回に限らず、このブログはいわゆる「ネタバレ」の宝庫です。このブログは、ネタバレに負けない強靭な精神の育成のための専門サイトですので、ご了承のうえ、ともに切磋琢磨できればと思っております。

『シン・ゴジラ』のリアリティ

『シン・ゴジラ』の何が抜群に面白かったかというと、まず、オバマ先生に対して心からゴメンと思ってしまうほどのリアリティである。
わたしは今まで映画を見ているとき、アメリカの大統領に対して切実な申し訳なさを感じたことはなかったし、これからもずっとないと思っていた。なぜなら映画というのは絵空事なので、誰かに対して切実にゴメンと思うことはほとんどないし、ましてやアメリカの大統領に対して映画館の中で小声ですみませんと呟いてしまうというのは、もはや病的な状態であり通院が望ましいが、多忙のためそれは避けたく、オバマ先生へのゴメンについて丁寧に説明をさせていただきたい。

ゴジラが出てきてしばらくし、アメリカの支援が来たときにこの感情がおのずから発生する。わたしたちは現実に、2011年のアメリカのTomodachi Oprationに感激し、今回のゴジラのときも、若干図々しいが、何かのoperationをしてくださると期待しながら見ていたのだが、今回のoperationにオバマ先生が寄越したのは、なんとB-2だったのだ。しかも3機。日本のTomodachiの話をするのにmoneyの話をするのは大変恐縮だけれども、2000億円✕3機である。われわれとしては、使い古したB-52でも十分ありがたかったはずである。70年前に日本中を焼き払ったB-29にちょっと似ているところが若干気まずいけれども、緊急事態なのでそこは我慢するし、軍靴などと言う人がいたら、わたしが黙らせてやると思ったのだが、オバマ先生は、口笛ひとつで、日本の危機のために、1機作るのにスカイツリー5本分のコストがかかるあのB-2を3機も連れてきてくださったのだった。念のため書き添えておくと、設定ではアメリカの大統領はオバマ先生ではないのだけれど、絵空事だとはいえ、ありがたいという気持ちになってしまうのが人情ではないだろうか。

しかし、こともあろうにゴジラは、その空気をまったく読まずに3機まとめて瞬殺してしまった。ゴジラのことを、いくらガッジーラと英語のように発音したところで、日本が育ててきた怪獣であることは間違いないので、「うちのゴジラが粗相してオバマ先生に申し訳ない」という気持ちになってしまうのも当然であり、自分の中にあるナショナリティがあまりにも意外な形で姿を現し、自分の心の中に登場したゴジラ状の思念に驚いてしまった。

そうもこうも、この作品が、怪獣映画の範疇をはるかに超える地点でリアリティを実現しているから、ややこしい気持ちになってしまうのである。石原さとみ先生の英語が不自然、キャラクターが浮いていた、などという、批判になっていない批判が出てくるのも、この作品の尋常ならざるリアリティが裏目に出た結果にすぎない。たとえば、石原さとみ先生演じるアメリカ特使の鼻が亀頭のようになっていて、放射能を検知すると割れ目ちゃんから黄緑色の膿を勢いよく噴射するが、そのことをまったく恥じることなく、キェーーッという奇声とともに謎の鼻水を周囲の人物になすりつけるようなお茶目なキャラクターだったら……誰も文句は言わなかったはずである。
また、作品の細部をとりあげて、リアリティがないという意見も多く目にする。ゴジラを停止させる方法が嘘くさいなどという主張である。落ちついて考えてみると、ゴジラのような巨大生物が登場することそのものが圧倒的なリアリティの欠如になるはずなのだが、そこに触れられないのは、ゴジラが登場すること自体にはリアリティが感じられていることの証左であり、これ以上リアリティを追求するとゴジラが存在できなくなってしまうかもしれない地点にまではリアリティが突きつめられているということでもある。仮に、ゴジラが登場すらしなかったとしても、わたしは楽しく『シン・ゴジラ』を見ることができるだろうと思うけれど。

『シン・ゴジラ』のファンタジー

『シン・ゴジラ』はまた、日本人専用の、緻密に作りこまれたファンタジー映画でもある。
決まらない会議。責任者は不明。出る杭は打つ。前例のないことはしない。仕事の半分は忠誠心の確認作業……など、怪獣が出てこなくても、戦闘状態がなくても、日常的に、ああ、この調子だと日本はますます「やりがい満載の国」に……と思ってしまう諸問題が、映画上では紆余曲折がありながらも見事に解決されていたのである。

太平洋戦争で日本は数々の失態をおかし、結果として300万人以上の命を失った。なぜ日本軍が負けたのかを分析する文献は多数あるが、たとえば、陸軍と海軍で意思統一がされなかったことや、兵器の設計において人命よりも攻撃力を重視したため、熟練したパイロットのほとんどを亡くしてしまったこと、兵器以外の技術開発を軽視した結果、レーダーや暗号解析の技術で決定的に遅れをとり、アメリカ軍は作戦の詳細について日本軍の現場よりよく把握されてしまっていた点などが挙げられる。きわめつけは、何のために戦争をするのかの認識合わせができていなかったため、どこで戦争を終えればよいかもわからなかったという点だけれども、話すと長くなるのでここで詳細は述べない。『シン・ゴジラ』は、巨大災害に対する対処の方法であるという言及がよくなされるが、先の大戦の反省の上にも立っていると思う。あの戦争は、しないに越したことはなかったが、戦争をするにしてもあれはなかった。終戦から10年もしないうちに公開された『ゴジラ』は、傑作であることは疑いようがないが、あの戦争での失敗をなぞるかのようなストーリー展開がされてしまう点で衝撃的でもある。

突如現れたゴジラに、なすすべはあったのになすすべがないように人々はふるまう。ゴジラがくるとわかっているのに豪華な電車を走らせてしまうし、ゴジラに倒されてしまうとわかっていて鉄塔に登ってレポーターが中継を始める。自衛隊を中心に作戦を立てるが、まったく刃が立たず、なすすべがなさすぎて、ついには少女たちが平和を祈る歌を歌い始めたりする始末。天才科学者が発明した「オキシジェン・デストロイヤー」という、大味な兵器により、なんとかゴジラ討伐はできたのだが、その発明者が科学者をこじらせていて、この技術を広めてはいけないと、設計書を焼き、首尾よくゴジラを骨にしたあと、harakiriしてしまう。正確には、海底で、酸素を送るホースを自ら切断するのだが、最後に、生物学者が、これが最後のゴジラとは思えない的なつぶやきをして、じゃあオキシジェンなんとかを葬ったらアカンかったやないの……と不安になってしまったのだけれど、危機に対して再現性のない方法で対処して、何も引き継がれない点や、非合理的な祈りで問題を解決しようとする点、命と引き換えに問題を解決しようとしつつ、実は問題解決にはあまり関心を持っていないという点などの精神が戦中のそれと大差なく、そういう時代―反戦を誓いつつも、反戦とは具体的に何をすることなのかが未解明であった時代―の映画なのだが、その問題についても、『シン・ゴジラ』の随所に回答が用意されている。

『シン・ゴジラ』において、たとえば、ゴジラを停止させる作戦の遂行を支えたのは、日本の無人在来線爆弾や、アメリカの無人機MQ-9である。無人兵器へのこだわりが涙を誘う。現実の日本なら、あるいは日本の映画なら、コントロールするためには人間が運転する必要があるなどと言って、当初は無人の予定だったのに、運転手が静止を振りきって有人で特攻をかける……という展開で涙を誘ったはずだ。作品中、避難計画の進捗の共有にも時間が割かれていて不思議に思うが、それはどうしても必要な時間なのだ。『ゴジラ』では、話を面白くするために、国民が一丸となってゴジラに殺されようとしており、残念なことに、その生命の無駄遣いぶりが太平洋戦争に似てしまってもいたのだが、ようやくここまできたかと思う。
また、ゴジラが多少暴れた結果として政権機能がまるごと吹っ飛んでしまうのだが、翌日から何の問題もなく引き継がれる点にも感激する。東日本大震災のときに、会社の機能が麻痺しかけていたときに、自分が何をしていたかを思い出した人も多かったと思う。量産型の政権が、属人的でない、再現性をもって問題の処理にあたり、目的を成し遂げた。組織の細部の描写がご都合主義だったのかもしれないが、そう感じられることの異常さに気づかなくてはならない。つまりそれは、サラリーマンの日常生活がリアリティの比較対象となってしまう、恐るべき怪獣映画である、ということでもある。

言うまでもなく、実際の日本国は今なお、このようにはふるまえないし、おそらくそのまま朽ちていくだけだ。この映画のよしあしをめぐる議論ですら小競り合いがおきているほどなのだから、意思統一をして危機にあたることなどできるはずもないのだが、ただ、いままで理想を描くことすらできなかったのに、こういう対処の仕方ができたら最高だよね、という2時間の映像を見せてもらったというだけで幸せだった。


ただ、問題がひとつある。この映画は作品そのものが、パニック映画などのフィクションに対しての批評になっている点で、これから素直に映画を楽しめるのか、大いに不安になってしまう。最近、『パシフィック・リム』を見たのだが、見たのが『シン・ゴジラ』の前でよかった。ヒーローとヒロインが抱き合うラストシーンを、「こういうベタベタなのって、ベタベタなところを楽しむのが……いいんだよね」と戸惑いながら見ていたのだが、「ベタベタがあえていいっていう時代でもないでしょ」と今なら素直に思ってしまうだろうし、製作中であるところの『パシフィック・リム2』や、『シン・ゴジラ』から数週間遅れで公開されている『ゴーストバスターズ』を厳しい目で鑑賞するか、あるいは厳しくなりすぎて鑑賞することもしないかもしれないと思うと、寂しい気もするのである。


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上にぎり寿司と小ラーメンを同時に食べた私の脳内に何が起こったか

東京のはずれの何もなさそうなところを歩いて自分なりに楽しめる場所を探すのが好きだ。
地味なので誰も誘えず、記事にすることもできないことが多いのだけど。
先日も、郊外の街道沿いに歩いていておもしろそうな店を見つけた。いつもは発見と入店がほぼ同時なのだが、たまたまそのときは満腹だったし、先を急いでいたので諦めてしまった。しかし、帰ってから、寝ても覚めてもその店のことが気になって仕方なくなってきたので、改めて行ってきた。


その店は、地方だと当たり前なのかもしれない、クロスオーバーな店だった。ハウス+ヒップホップ=ヒップハウスというジャンルをご存知だろうか。ご存知でなくて一向に構わないけれど、クロスオーバーな店とは、たとえば、ラーメンとカレーの店や、焼肉とお寿司の店のことを指す。
地方は店の数が少ないから、渋谷にありそうな、スリランカ料理専門店やお茶漬けの店など、ジャンルを絞った店は歓迎されない。家族で行って、各々が好きなものを頼めるような店が好まれる。
しかし、その店は、ちょっと違った。ラーメンとお寿司の店だったのだ。東京も端になってくると、クロスオーバーな店くらいはあるだろうと思ったが、ラーメンとお寿司の組み合わせはいかがなものかと思う。この「いかがなものかと思う」の気持ちの源泉は、おそらくお寿司への畏敬の念にあるのだろう。


その店の看板を目にしてから、あの店は、ラーメンとお寿司、どちらがよりおすすめなのだろうか、とか、ラーメンの担当とお寿司の担当は別なのだろうか、などが気になったのだが、それよりも何よりも、「ラーメンとお寿司を同時に食べたら自分はどうなってしまうのだろう」ということが気になってきたのである。何も起きないかもしれないし、翌日に出社したときに勢い余って退職届を出し、そのまま装備らしい装備も持たずにスズメバチの巣に特攻を仕掛けてしまうかもしれない。


わたしもネンネではないので、お寿司とラーメンに近い経験をしたことはある。フレンチのコースをいただいたあと、家の最寄駅の前のコンビニエンスストアで、プリングルスなどを求めたりしたことはあった。いっしょに食事した人と、LINEで「今日はおいしかったねー」などと言いあうのだけれど、野暮だと思われると恥ずかしいので、「いまプリングルス食べてる」とは、指の水かきみたいなところが裂けたとしても書けない。ただ、フォアグラと穴子の焼いたん、りんごソースのせを食べた数時間後に食べているわけだから、焼いたんの余韻は短期記憶から長期記憶へと華麗に転送されているはずであって、必ずしも野暮とは言えないと思っている。
しかし、お寿司とラーメンをしかも同時となると事情は違ってくる。すでに短期記憶の段階で、いくらの軍艦巻きの上を、スープで薄茶色に染まった麺がとぐろを巻いている有様であり、長期記憶の側としても、そのような食べ物を本体が食したという記録を留めざるを得ない。これを野暮と言わずになんと表現すればよいのだろう。


その店は奥深かった。比喩的な意味ではなく、物理的に奥深かった。京都だとうなぎの寝床と評されそうだ。手前が中華ゾーン、奥がお寿司ゾーンに分かれていて、お寿司を上座に置いていたのだった。わたしは手前の席に腰掛けて、上握り寿司と小ラーメンのセット2600イェンを頼んだら、奥を案内された。上にぎり寿司と小ラーメンの組み合わせは「お寿司の人」なのである。ラーメン大盛りに鉄火巻という組み合わせでオーダーしたら、おそらく「中華の人」の扱いを受けたに違いない。
わたしはそのとき、この店で唯一無二の「お寿司の人」になったのだった。はやる気持ちを抑えなくてはならなかった。そもそも、スーパーの半額のお寿司意外のお寿司を食べるのが久しぶりなのに、このような形で「上」のお寿司とご対面するとは思ってもみなかった。
しばらく待っていると、最初に上にぎり寿し、最後に食べる位置づけのような風情で小ラーメンがやってきた。写真のお寿司の右側が少し空いているように見えるかもしれないが、その感覚は正しい。そこにはかつて、ハマチがあった。どうにも我慢できなかったのである。

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完全にお寿司を食べ終わってからラーメンを食べてしまうと、あまりお寿司とラーメンをいっしょに食べた感じがしないと思ったし、麺が伸びてしまうのも麺に対して申し訳ない気がしたので、お寿司の合間に、味噌汁をすするように、ラーメンを啜った。しかしラーメン界ではあっさりした部類に入るこのしょうゆラーメンも、お寿司と比べると味が濃いため、食べたものが即座にラーメンの味に染まってしまう。トロ以外はラーメンの味の濃さに勝てない。
結局、2600円の上寿し小ラーメンセットは、2600円のラーメンを食べた、という記憶に置き換わった。小ラーメンのはずなのに記憶上では特大のラーメンである。


食べた経験が食べながら崩壊していくという貴重な経験をした。
もしあなたが、お寿司とラーメンの店の看板を目にしたら、どんなに満腹でもぜひ立ち寄り、なるべく豪華なお寿司にラーメンをつけてほしい。


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性格の暗い人には除湿機がおすすめ

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気づいたら生まれてずいぶん時が経っていた。物心ついたときから性格が暗かったが、きっと大人になると明るくなるだろうと楽観していた。しかし、「性格の明るい人物を装う術」や「暗いなりに人生を楽しく過ごす術」に長けただけで、もとからの性格の暗さは一切変わらなかった。仕方ないのでそのまま生きている。
きょうはそんな薄暗いオッサンからの四次元経由のアドバイスに耳を傾けてほしい。「除湿機はいいぞ」という話である。申し訳ない。先輩風を吹かせてしまった。「除湿機はいいですよ」という話である。

加湿器は持っていても除湿機は持っていない、という人は多い。加湿器はもともと値段が安いし、ないと風邪をひきやすくなるが、除湿機は安いものでも1万円以上するし、夏は湿って当たり前だと思うなら、特段不自由はない。除湿機のよさは除湿機を手に入れてからではないとわからないのが、すすめる側としても歯がゆいところである。しかし、とくに性格の暗い人間にとって、除湿機から得られるものは多い。なぜ性格の暗い人間にとって、除湿機が福音となるのかを説明していこう。


部屋が清潔になり、ネガティブな雑念が生じにくくなる

性格の暗い人間は、部屋の壁にカビやシミができたりすると、それを凝視し、いままで出会ってきた嫌な人の姿をそこに見出してしまう。なんとも暗いロールシャッハテストである。あのカビは、機嫌が悪くなると、「なぜわたしが怒ってるかわかる?」という珍妙なクイズを出してくる元恋人。その隣のカビは、同意する趣旨のコメントをするときですら、「いやいや、それは」と口を開く元友人。向かいのシミは、仕事のメールの同送を忘れると、仲間はずれにされたと勘違いして逆上する元同僚……。
それだけではない。湿度が高いと害虫が発生する危険性が高まる。特にダニは、発生したらみじめな気持ちになる害虫ナンバーワンだし、布団を天日干ししたくらいでは死なない。某社の、刑事のような名前のダニを吸いこむというのが売り文句だった掃除機も、効果が大してないことを製造元が告白していた。ダニの根絶は難しいが、少なくとも、湿度が低ければ、繁殖しないことはたしかなのである。この「根絶できないが、増加を食い止めることができる」という言い回しは、いかにも性格の暗い人が好きそうなフレーズだし、実際わたしも大好きだ。

サラサラで心地よく、悪夢にうなされる確率が減る

徐々に寝苦しくなってくるこの季節。気温だけでなく、じっとりと汗をかいてしまうとより寝苦しくなる。汗だくで寝ているときに見る夢はろくなものではない。「地味なドッキリ」というコンセプトの番組にはめられて、目覚ましの時間を30分ずらされて遅刻してしまい、しかも視聴者もあまり笑ってくれていないという夢、伝票締め日の翌日に引き出しの奥からアリの大群が請求書を担いで現れる夢、ヒトラーの家に牛乳を配達していたことを理由に戦争責任を問われる夢、公園でちびっことミニカーで遊んでいたら、ミニカーのドアを壊してしまったので、そっと取り付けてごまかしてしまった夢など、ひどい悪夢ばかりである。
いっぽう、除湿機を使っているときにベッドに横たわるのは大変心地よい。ふとんのすみずみまでサラサラ。エアコンと併用するとさらなる快眠が待っている。このときに見る悪夢はせいぜい、「南国のビーチサイドで食べているマンゴーかき氷のマンゴーの量がやや少なかった」という程度の夢なのである。

日々除湿の成果が現れ、不確実な人生のなかで確実に前進しているものがあることで安心できる

長々と除湿機の長所について語ってきたが、ここからが本題である。除湿機を回していると、確実にタンクに水が溜まっていく。しかもそれは、思っているよりもはるかに大量の水で、部屋に帰ってきて、タンクにたまった水を捨てるときには、ちょっとした達成感がある。
たとえばTwitterで攻撃的なコメントをくださった方のプロフィールを見に行ったら「ミサンドリー強め」と書いてあって、「自覚してるなら直してからツイートしてくれよ」と思ったその瞬間も除湿機のタンクには着実に水が溜まりつづけているし、電車で柔軟剤ファミリーに取り囲まれて頭痛がしたその瞬間も、除湿機のタンクには着実に水が溜まりつづけているし、市販のヨーグルトを買って、おいしかったので蓋をなめようとしたらそれを見越したかのようなコメントが蓋の裏に書いてあることを見つけたその瞬間も、除湿機のタンクには着実に水が溜まり続けている。これはまごうことなき事実であり、わたしたちは生きているだけで前進していて、そのことは水の量という形で常に可視化されるのである。


積み上げてきたことが一瞬にして台無しになってしまうことも多い今の世の中。学力やスキルを磨いても、まったく役立たなくなることもざらだし、就職活動や転職活動に一度失敗したら、這い上がるのは困難。除湿機を入手したところで、その現実はまったく変化しないが、そんな世の中を生きていくお守りとして、自分が確実に前進していることが感じられるという、その一点において、除湿機の導入をおすすめする。


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キーボード掃除に使う、キーを引き抜く器具の中毒性について

キーボード掃除の研究家のココロ社です。

いま家で使っているキーボードはダイヤテック社のFILCOというブランドのもので、エンジニアの人がよく使っていて、さすがエンジニアの人が使っているキーボードは、見た目はかっこよさ控えめでも打ちやすさと頑丈さは格別だなぁと自分に言い聞かせながら使っている。もう5年以上は使っていると思うが、おかしな動作をしたことが一度もなく、デザインに飽きても買い替える言い訳ができなくて残念なほどである。

最近の電子機器は、中途半端に洗練されていて魅力が感じられない。キーボードなどは、あれだけキーが並んでいてスタイリッシュになれるはずもなく、その道を選んでもあまりいいところに行けるはずがなくて、昔そうだったように、無骨さで突き抜ける方向しかないと思う。
デザインという概念に乏しかったころのデザインの方が美しく感じられるというのは皮肉なもので、PC9801のキーボードなどは最高にすてきだし、Dos/V機用なら、いまもオークションで高値で取引されているIBMのものは、買うのを我慢するのが大変である。現役のキーボードなら、東プレが作っているもののいくつかのデザインは魅力的だけれど、2万円くらいする。これはデザイン料ではなく、その機能に見合った金額なのだが、わたしはFILCOのキーボードの打ちやすさには満足しているし、もっと言うと、東プレのお世話になるほどにはキーボードを使っていないのだった。
そうなってくると、ますます、キーボードが壊れてもいないのに、2万円のものを買うことに、超人的なこじつけ力を要するようになる。

このように買い替える理由を奪われ、わたしの命令どおりに時折珍妙な文字列を入力しつづけるキーボードだが、5年も使っていると、底にゴミが溜まってくる。気のせいかもしれないが、ホコリがクッション状になってふんわりした感触が指を伝ってくることもあり、そんなときは背中がゾクゾクして不快なので、掃除をしてみたいという気がしてきたのだった。汚れたキーボードの中は便座より菌が多いという話もある。「便座より汚い」という比較は、これに限らずあらゆるところでされていて、むしろ便座のイメージアップになっているように思うが、それはともかく、実際、掃除にチャレンジしてみるとわかるのだが、キーをうまく抜くことができない。台形のものを上からつまんでも指が虚しく滑るだけである。文章だけではわからないかもしれないと不安になり、図解してみたので、適宜ご参照いただきたい。

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しかたないので、キーの隙間に紙を挟んでホコリを取り除いたりしていたのだが、より徹底して掃除したいと思い、調べていたら、キーボードのキーを抜くための器具が、ほかでもないFILCOブランドから出ていて、さっそく取り寄せた。(なお、メカニカルキーボード用のようなので、ノートパソコンなどによく使われているパンタグラフ型には向かないようなのでご注意くださいませ)

わたしはインターネットをよく見ていて、さまざまなビフォーアフターの記事と、その反応を見てきたが、ほとんどの場合、アフターの美しさよりも、ビフォーの汚らしさに人は注目してしまうという法則を発見した。例外なのが洋服で、ビフォーとアフターの差がほとんどなかったり、アフターの方がビフォーよりも醜くなっていたりするのだが、この事象はおそらく、ビフォーでもあまりけなされると心が折れてしまうと思って、ついついそれなりによい身なりにしてしまうからこのようなことになるのだと推察するが、それはともかく、汚いキーボードの写真を載せても何もいいことはないので、どのようにキーを引き抜くかについて示すにとどめたい。

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この器具、何もしていないときは嫌がるハムスターなどに強制的に薬を飲ませるための器具のように見える。実際そういう目的で使えるかもしれないが、ハムスターに薬を飲ませるために口をこじ開けるというシチュエーションが実際に発生するかどうかは知らない。
キーを、この輪で挟んで、軽く捻って引き上げれば、簡単にキーが抜けるのである。

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スペースキーなど、面積の広いキーについては、別に針金を仕込んであるものもある。軽く引っ張ってから、長辺にあたる部分をずらすことで外すので注意が必要になる。抜いたキーは石鹸でもみ洗いをして、タオルの上に置いて乾し、その間に、丸裸になったキーボードを綿棒や掃除機で丹念に掃除すればよい。

問題なのは、抜くときに絶妙な清涼感が発生することである。歯磨きをしているときに、「おお神よ……歯の仕様はおかしくないと思われませんか。まったく痛みがなくて抜き差しできる仕様だったら一気に抜いてジャブジャブ洗えてよかったのに……」と祈ったことがある人にはたまらない作業なのだ。歯磨きではできないことが、キーボード掃除ではできる。わたしも、100個以上のキーを抜いた感触が手に残り、いまやキーボードが汚れていないか粗探してしまう有様なので、キーボードの掃除をしたいと思っている方は、それなりの覚悟をもって取り掛かるべきだと思う。特に安いキーボードを使っている方は、掃除する時間をコストに直すと、新品を買い直した方がよいこともあるだろうし、なるべくならこの気持ちよい器具からは遠ざかった方が身のためである。

博多近くの猫の島「相島」は、猫以外もすばらしい穴場アイランドだった

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離島研究家のココロ社です。

博多といえば大都会で、旅行者にとってみると観光というよりもターミナルのイメージが強いけれど、すぐ近くに海の果てを思わせる人の少ない離島にアクセスできてしまうことは意外に知られていないようだ。

昨年の話だが、相島(あいのしま)に行ってきた。
大阪湾に浮かぶのは友が島。相模湾に浮かぶのは猿島。これら、都市の近くにある魅力爆発アイランズの中に仲間入りしてもいいのではないかと思う。



博多から1時間程度で行ける離島

西鉄新宮駅から頻繁に出ているバスに乗って15分で新宮港に着く。接続がうまくいけば、博多から1時間程度で相島に行くことができる。
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船の名は忘れたが、写真を見ると「~ぐう」って書いてるから「しんぐう」だろうと思う。「ぐぐう」などの方がいいと思うのだが。



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このような、水しぶきをアップにした写真を見たいと思っている人は一人もいないことは自覚しているが、それでもなお撮ってしまう。



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島に泊まりたいと思って事前にいくつかの民宿に電話したが、1つは満員、1つは不通だった。最後の望みをかけて電話した3つめの民宿は、電話に出てくれて、これで夜露をしのぐことができると思ったのだが、「すみません。やめました」と言われてしまった。民宿としての営業を終了して民宿から民家になったのだろう。正式にやめると決める前は民宿でありながら、ほとんど民家に近い形で営業していて、家族と客の区別がつきづらかったのかもしれない。語尾に「ですます」をつけてにこやかに話しかけてくるのが客、無表情で身体的特徴について罵ってくるのが家族なので、そこで見分けることができるはずだ。

実際に行ってみたら、3時間程度予定をとっておけばノーマルな人種なら満足できる程度の規模の島で、宿が取れなかったからといってまったく悲観することはなかった。


猫の話は個人的には飽きているが一応しておくことにする

相島は、公式にも「猫の島」として売り出しているようで、そう呼んだ方が人が来そうな気がするし、実際わたしが行ったときも、猫のいる地区のみを散歩し、満足して帰っている人も多かった。なぜそう言えるのかというと、わたしが島をくまなく歩き回ったが、島の奥でほとんど誰とも出会うことがなかったからである。おそらくこれを読んでくださっている方も、猫の島がどの程度猫の島であるのかを確認し、無水鍋でアスパラを蒸し焼きにしたりしたいと思っていらっしゃるに違いないので、先に猫の話を済ませておこう。

「猫の島」と名乗るだけあって、猫はみな人慣れしている。
わたしは人間も猫も、ありのままよりもスレてしまっている方が好きだ。ありのままだと怒るタイミングなどがよくわからないので戸惑ってしまう。スレていると、少なくとも体面を繕おうとしてくれるから楽だ。わたしの前でいい感じにしてくれていたら裏で何を考えてくれても構わない。

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島の氏神である若宮神社で写真を撮っていると、さっそく、隣の家の窓から「なでマシーン発見!」と思ったかキジトラがやってきた。実際わたしはなでマシーンなので間違ってはいない。字を書いたり発話する機能などはおまけにすぎない。
やはり耳の後ろを掻くのは定番。そんなに気持ちいいのかと思って、わたしも自分の耳の後ろを揉んでみたら、たしかに気持ちよかった。



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こんな感じで刑務所で猫を放し飼いにしておけば更生するスピードがニャンとあがるのではないだろうか。


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ここまで伸びてしまうと、蛇との見分けが困難である。


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この島の猫の島である度合いを、自身の体を巡るアドレナリン濃度から推計すると、西日暮里にある谷中墓地をやや上回る程度だった。

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ただし、この島では、廃棄物と猫という、スイカに塩的な―スイカに塩をかけるとスイカの甘さが際立つのと同様、猫を廃棄物のそばで観察すると猫のかわいらしさが際立つ―組み合わせが楽しめるのである。ブラウン管のテレビも今見るとなかなかどうして、かわいらしいけど。


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店を閉めようと旗を降ろしたら、攻撃されると勘違いして警戒しているところ。


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これと似たシーンを知人がやっていた猫集めのゲームで見た気がする。



いい歳をして乳を吸っている猫を凝視していたら「おまえ何じろじろ見てるんや!」という顔をされた。
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甘えん坊ほど外部の人間に対して凶悪なのは人間も猫も同じ。この島では猫が優遇されているため、モラトリアムは長めなのかもしれない。たしかに、「甘い乳と苦いセミ、どちらがいい?」と聞かれたら答えは明らかだろう。

いつも思うのだが、親子で柄が違いすぎてほんまにキミのとこの子供かと思ってしまう。

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この猫は次の命を宿している風味で悠然と歩いていた。

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博多近辺の方なら、猫だけを目当てに行ってもおつりがくるかもしれないが、この他もすばらしいので、東京から来てもおつりがくるのである。
この島の楽しさが本領を発揮するのはここからである。


崖にひっそりと鎮座する穴観音

島の北部には「穴観音」と呼ばれる観音がある。崖の途中にちんまりと鎮座していて、かわいらしい。

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この風景を見ても、ああ、ここに観音様がいらっしゃると感動してしまったのだが、実はこの観音はダミー。たしかに最近作られた風に見える。
本体はここを降りて海岸付近にある洞窟に安置してある。危険なので立ち入りが禁止されていて、実際草が生えすぎていて足元がまったく見えず、わたしは断念した。

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「この島ではウニやアワビやサザエがたくさん取れますよ」という警告風自慢なのかなと穿った見方をしてしまう。


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トンボがクモの巣にかかっていて、助けようとも思ったが、羽をちぎってしまうだろうと思って、トンボが死に、クモが飢えるより、せめてクモが長生きできれば……と思って自然の摂理に任せた。


歴史の皮肉を見つめる岩宮神社

この島は、秀吉が朝鮮出兵をしたときに足がかりにした島であり、また、その出兵の戦後の処理でも使われた島でもある。武運を祈った島で敗戦処理を行うとは最高の皮肉である。



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岩宮神社には、立ち寄った軍が成功を祈って石を積んだ。

石はそこら中に積んであり、草木に巻き取られていて、全体像がよく見えなかったが、おそらくこれらもその石のひとつである。


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この石は、「太閤潮井石」と呼ばれていて、記念碑もあるのだが、「太閤」の字が消えていて、なんとも不穏。戦後処理のときに、「いやもう太閤とか全然思ってませんから!あれは猿です!」とアピールする意味で消していたりして。


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ここは 有待邸跡。朝鮮通信使のための宿泊施設で、江戸時代までは存在していたらしいので、草をかき分けたら礎石くらいは出てきそうである。今回はそこまで気持ちが高まっていなかったので断念した。


元寇の戦没者の遺体がmixされてどこかにあるらしい

さらにさかのぼって、モンゴル帝国が攻めてきた文永・弘安の役での遺体がここに漂着したとされ、当時は国籍に関係なくまとめて供養が行われた。日本国が終了になるかもしれなかったというのに、わりといい人たちだなぁと思う。あのときのこの島の人たちは、現代におけるナショナリティのような概念とは異なる区分で蒙古人を見ていたのかもしれないし、あの頃から人間として進歩しているのかどうか、よくわからない。


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供養塔ができたのは、つい50年前の話。10万人を超える兵を元は失ったらしいが、実際にはどこに埋まっているのかは不明である。


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人はともかく、モンキアゲハもハイテンションで蜜を舐め中。


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人はともかく、イトトンボについてはこの日だけで一年分を見た気がする。


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これはちゃんと立てておかないとあかんやつやないのかな。

日本最大規模の石の古墳群が壮観である

島の北東部の海辺には、「相島積石塚群」と呼ばれる石塚がある。この石塚が発見されたのは、平成に入ってかららしいのだが、それまでは単に石が積んであると思われていたのだろう。200基以上の石塚がびっしりと並んでいる。ここまで密集していると、かえって墓だと気付かないのかもしれない。

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奥に石が積んであるのが見え、脳内にアドレナリンが放出される音が聞こえる……。

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海岸線にずっと石が敷き詰められていて、厳かな雰囲気で、豪族たちがここで眠りたいと思うのもうなずける。

とくに有力者と思われる人物の墓は大きく、いまは石室の位置もよくわかるように整備されている。


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近くには、江戸時代の朝鮮通信使の墓もあり、古代から近世までの霊が入り乱れゾーンである。しかも石碑の字が読めなくなっていて何がどれかよくわからなかった。この一字目が「享」だったので、享保時代のことだろう。「享楽的なオッサン、ここに眠る」とかそういうのではない。


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本題とは関係ないが、スーパーカップを極限まで日に照らすとどうなるかを知ることができてよかった。


あまりにもrawなヤブサブロウ様の御姿

船が来る時間が迫ってきたのだが、最後に気になる表示を見つけてしまった。

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ヤブサブロウ様がどなたかは存じていないが、謁見を果たさず帰京するわけにはいかないと直感的に思ったので、「ヤブサブロウさまァァ~~ヤブサブロウさまァァ~~」と呻きながら奥に分け入って何分かしたら、そこにヤブサブロウ様が鎮座していた。


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ヤブサブロウ様は、天候の神様らしいのだが、あまりにも石……な佇まいなので、信仰できる自信がない。塩をつまみに酒を飲むとこういう気持ちになるのかもしれない。アニミズム大爆発である。



こんなたたずまいの古墳群は、いままで見たことがなかったので、ぜひまた行きたい。こんな素敵な島の存在があまり知られていないのはもったいない話だと思う。この島を単に「猫の島」と呼ばなくてはならないのは、マジョリティの嗜好を考えると仕方ないことかもしれないが、悲しいことだと思う。
去年行ってきたのだが、ふと「また行きたいなぁ……」と思ってしまう素敵な島である。


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やめられないエターナル合法ドラッグ、その名は仁丹

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くだらない思いつきによって常に意識が混濁している。たとえば、ストックホルムの在住の人々はストックホルム症候群のことをどう思っているのかに想いを馳せてしまう。馳せられた人たちもいい迷惑だが、わたしがもし、"I'm come from Stockholm."と言われたら、いちばんに思い出すのはストックホルム症候群のことであり、しかも一般論としてのストックホルム症候群的な心理状況について聞きかじっただけで、籠城中に加害者と被害者が仲良くなってしまう現象であるという程度の認識しかなく、ストックホルムで何が起きたのかを詳しくは知らないし、そもそも事件が起きていないときのストックホルムがどのような都市であるのかもわからない。たとえば、悪質なバイラルメディアで「ストックホルムは、ストックホルム症候群と名付けられた事件が起きていないときは、ストックホルム症候群的な状態に至ることすらないほどの凶悪事件多発都市だった!」という趣旨の作り話がばらまかれていても信じてしまうかもしれない。しかし、これらの困惑がストックホルムから来た人に伝わってしまっては失礼にあたるので、口角は常に上げ、眉間はツルッツルにしておかねばならない。

ストックホルムの人たちは、ストックホルム症候群のことを好きでも嫌いでもないのかもしれないが、「ストックホルムといえば症候群」と思う人が多く、ストックホルムの自然や文化について関心を持つ人が少ないことをちょっぴり残念に思っている……というのがわたしの仮説であるが、ストックホルム症候群が現在のストックホルムの人たちの暮らしにさしたる濃さの影を落としていないと仮定したとしても、人間性の限界を示した残念な事件について、誰かが安易な名付けをしてしまったことはたしかだし、もしわたしが、何らかのネガティブな事象の命名権を得ることになったら、都市や人の名前をつけるようなことは控えたい、あるいはわたしの名をつけることで十字架を背負いたいと強く思うのだが、実際のところ、このように意識の混濁した人間に命名権が与えられるほど世の中は甘くないのであり、ここまでの思考や決意は、ひとことでまとめると「無駄」なのである。

―このような、意識に横たわるツイストドーナツ状の思念のうねりを一掃したくて、ミントタブレットの一番スッキリ感のあるものを日常的に服用していた。口に含んだ瞬間は痛みにも近い清涼感ですべてを忘れることができるのだが、いや待てよ、ここまで清涼感のあるものは体に悪いのではないか、いやいや、人工のものが体に悪いというのであればほとんどの薬品は体に悪いということになってしまうし、いっぽうで天然なら体によいかというとまったくそんなことはない。友だちが天然のものは体によいみたいなコメントをすると、そのたびに、ではフグの毒はどうなのかと詰め寄っていたが、調教および選別が完了してしまったため、わたしの友人でそんな不用意な発言をする人はいなくなってしまい、それはそれで一抹の寂しさを感じないわけでもない……などと、たちまち不要な思念のうねりに飲まれてしまい、またしてもミントタブレットを口にせざるを得ないのだ。服用を始めたころは、代表格であるフリスクを服用していたが、ミンティアに鞍替えした。ミンティアだとおよそ半額になるのだが、値段を下げてでも清涼剤をさらに大量に服用したいと思っている自分自身に失望して、そのことがさらにミントタブレットの乱用に拍車をかける。重度のアルコール中毒患者はヘアトニックを飲むという話を耳にしたことがあるが、同じくらい必死なのかもしれない。



そんな(どんな?)ある日、フミコフミオ先生の仁丹服用の報を目にし、「仁丹」の二文字がわたしの脳内を駆け巡った。そう、仁丹があることをすっかり忘れていた。仁丹といえば祖父が服用していて、わたしも口にしたことがあったが、「薬みたいでまずいという記憶しかなかったのだが、あのころ「まずい」と思っていたものの多くは、むしろ今は「特別おいしい」に変わっている。たとえばみょうが、アボカド、菜の花、春菊……これらは「まずい」と文句を言い続けても定期的に母親が食卓にあげ、執念深いプロモーション戦略の結果として、いつしか好きになっていたのだが、仁丹にその機会はなかった。仁丹を定期的に勧めてくれる存在がいればと思うのだが、祖父はわたしが小学校2年のときに突然の心臓発作で他界してしまったのだった。

前置きが長くなったが、ポスト・フリスクの清涼剤として、仁丹が非常によい、というか、やめられなくなったという話をしたい。
ミントタブレットに代わって仁丹を服用すべきである理由は以下の4つの点においてである。



健康によい、というか、少なくとも悪くない
仁丹の成分が体によいかどうかはわからないが、おもに丁子の強烈な苦味で気分が爽快になる。丁子といえば胃腸の消化によいようだが、実際何グラム服用すればよくなるのかまではわからない。ただ、少なくとも、ミントタブレットを何グラム服用しても胃腸の消化がよくなることは決してないと考えれば、微量だとはいえ、いくつかのアドバンテージがあるといえる。

価格が安い
マツモトキヨシなどで売られている仁丹はしばしば大型の瓶なのだが、3250粒入り。約と書いていないところが日本のプロダクトだなと思わせる。計算上、1回10粒、1日10回までなので、およそ1ヶ月、休みなく服用しても1150円である。なお、小さなケースだと、かなり高くつくので、お試し用と考えるか、ケース代も払うつもりで買うときのみおすすめ。

コンパクトである
ミントタブレット中毒になってしまうと、2日に1個使いきってしまうこともザラで、ゴミがたまるし、そのゴミを見た自分自身についてもゴミなのではないかと思ってしまうのだが、その点、仁丹は1か月に1回でよい。

かっこいい
写真を撮ったのでご覧いただきたいのであるが、とにかくかっこいいのである。
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また、こんなカッチョエエものを口の中に入れている自分は最高にカッチョエエ存在である、と思え、それだけでもずいぶんな清涼感である。
瓶を傾けると、口が大きく、俺も俺もと銀の粒が登場して収拾がつかなくなるので、携帯用ケースつきのものも合わせて購入するとよい。現行で販売されている金あるいは銀のケースは、バネが効いていて、無駄に出ないようになっている。

また、さらなる高みにと思っている方には、ヤフーオークションで「仁丹」で検索したら、戦前のものから出てくる。一部、当時の仁丹がそのまま入っているものもあって、一粒くらいなら口に入れても死にはしないのでは?などの出来心がわいてきてしまう。こけし型の仁丹入れをオークションで発見し、大日本国防婦人会のメンバーが乱用している妄想を膨らませながら使いたいと思ったのだが、競り負けてしまった。



初心者は少なめのサイズから始めた方がよいと思うけれど、中華料理やインド料理などのスパイシーな料理が好きな人にとっては、ミントタブレットよりもおいしいと感じられるかもしれないので、仁丹は老人のものであるという偏見を捨てていただき、チャレンジしていただきたいと思う。



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