ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

誰が「不謹慎」と言っていたのか

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(写真は大久野島です。何か貼らないとと思って)


九州の大地震からまだ一週間ちょっとしか経っていない。
いまとなっては前震に数えられている、熊本を震源とする最初の地震のときは、会社で仕事をしていたのだが、早く帰りたいと思って集中していたため、周囲の声が聞こえていなかったようで、また、家に帰ってすぐ寝てしまったので把握しきれていなかった。
翌日の朝起きたら、わたしのiPadは、「こういうときに不謹慎とか言ってあれこれ自粛させようとする人がいるが、それはよくない」という趣旨の有名人無名人のツイートにあふれていて、もしかしたら、端末がよくなかったのかな、アップル製品は直感的に使えると一般的には言われているが、わたしの直感にはそぐわない挙動が多いからなぁ……などと思いながら、Xperia Z4 タブレットでも確認したが、やはり同じだった。なお、似たような大きさのタブレットを2台持つことに何の意味があるのかと思った方もいらっしゃるかもしれないが、部屋が散らかっていて、どちらかのタブレットが埋もれていることが多いので、実質的には1台しか持っていないのと同じなのだった。

そしてわたしは、朝に見た夢についてツイートするのを控えることにした。水道の蛇口がパンパンに膨らんでいて、必死で蛇口を塞いでいる夢なのだが、夢の中で「努力の方向性が間違っているような気がする。この夢の中で蛇口を塞ぎ続けていたらオネショしてしまうのではないか?」と思ってガバリと起きたのだ。わたしの無意識の構造があまりにも単純であったことを可及的すみやかにご報告差し上げたいと思っていたので残念に思う。

あえて深夜や早朝に「不謹慎とかいう人はよくない」云々とツイートする人がいるくらいだから、不謹慎狩りが好きな人はそれなりにいるのかもしれない。たとえば、若い女の人が犯罪に巻きこまれたら、発言している人の20人に1人くらいは、「犯罪はよくないが、夜道をこの時間に歩いているのはいかがなものか」という趣旨の犯罪ファンの発言を見かけるし、似たようなメンタリティの不謹慎叩きがそのくらいいても不自然ではない。しょうもない夢についてツイートするのはリスキーかもしれないなと思ったのだった。

しかし、目覚めてしばらくしてから、念のため、「不謹慎」で検索してみたら、「不謹慎とか言う人って何なの?」という意味の発言しか見つけることができなかった。ようやくここ数日で、タレントに言いがかりをつける特殊な人達を新聞が話題にしはじめたのだが、マスコミが血眼になって日本中の悪意をかき集めてもその程度。「不謹慎だ!」などと口走って自粛を強要する人材の不足が目立った。
これから、日本はいくつもの不幸に襲われることは明らかなのに、不謹慎マニアはこのままいけばウナギよりも早く枯渇してしまうのかもしれない。

東日本大震災のときですら、不謹慎であることを責める人はさほどいなかったけれど、今回はいっそう少なかったので、事実を針小棒大にして遊ぶだけでは物足りなくなった人たちが、ついに「中年男性が不謹慎だからと救援物資の生理用品を突き返した」という、事実確認ができていない話を広めるに至ってしまった。夢にまで見た不謹慎の狩人、しかも女性蔑視がミックスされているのだから、大ヒットは確実。ふだん冷静なはずの人でも、わざわざ事実確認をして、思う存分叩ける藁人形を自分から手放すのはmottainaiと思ってしまったのだろう。

いまや、不謹慎だから自粛しろという(一言でまとめると「粛清」にすぎないのだが)自粛ムードは、自粛を要求する人だけの力では非力すぎて到底醸成できなくなってきており、自粛ムード反対派の支援がないと、たちまち消えてしまう、はかない存在になってしまった。

自由を望んでいる人たちによって窮屈な気分に追いこまれてしまうというのはなんとも皮肉な話だけれど、不自由と戦うのが趣味の人にとっては、自分を抑圧する存在は人生のスパイスのようなものだろう。自分にもそういう不自由をエンジョイしたい気持ちがないとは言いきれないので、エンジョイするのもほどほどにしておかないとと思ったのだった。



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クジラの死体に振られた日

クジラの死骸ハンターことココロ社です。

土曜日は仕事で22時まで働いた。翌日起きたのは8時で、まだ雨が降っていたので、11時くらいには晴れているかなと思って長めの二度寝をキメようとしたが眠れない。二度寝が寝苦しいという意味不明な状況の中で、iPadでTwitterをベロベロにスクロールしていたら、誰かが、小田原にクジラの死骸が漂着しているニュースについてコメントしていて、2時間後には小田原のひとつ手前の鴨宮という駅にいた。

日曜だけ休みであるという事象だけを取り出すと、ぼくはややかわいそうなサラリーマンなのだが、職場で人間関係にトラブルがあるわけでもなし、しかも今週は木曜が祝日だったはずだ。おへそのあたりに意識を集中させ、土曜日に出社したときの記憶と、木曜日に休んだときの記憶を置きかえれば、ふだんの週末と変わりないはずなのだが、疲労が蓄積されており、それもままならない。日曜だけしか休みがなかったらとしたら、クジラのなきがらを間近で見て匂いを嗅いだり、死を悼むふりをしてクジラを撫で回し、クジラの感触をこの手で味わったり、そういうレベルのことをしないと、人生がペイしないだろう。

なぜ鴫宮で降りたかというと、どこかの新聞で「小田原市の酒匂(さかわ)4丁目付近」と書いてあり、調べてみると、鴫宮で降りて30分ほど歩けばクジラの亡骸とご対面できそうだったからなのだけれど、酒匂とは変わった地名である。近くに酒匂川という川があり、「逆川」が訛ったという説や、神酒を川に注いでも匂いがしばらく消えなかったという説があるが、昔の住人が酒臭かったなどの身も蓋もない語源を想像してしまった。
駅の南口から南下し、左に曲がればクジラの亡骸である。

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隣の小田原と違って、高い建物がないので開放感がある。

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駅前ビルも家庭的でよい。

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有害図書を入れる箱が小さいというのも、この地域が無害なコンテンツであふれている安全CITYであることを雄弁に物語っている。
ところで今の有害図書ってなんだろう。教育勅語とかかな?

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嵐のあとだったので、自転車が倒れていた。

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庄やの看板が倒れていると、反射的に「一揆?」と思ってしまう。

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ラー○ンショップ。このチェーン店、ほかでも見た気がするのだが、まだ行ってないのでいつか行きたいと思っている。ただ「うまい」と書いてあって、正面から挑まれている気がしてしまい、つい気後れしてしまう。

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街路樹の上部がもれなく切断されており、組織的な犯罪の可能性を感じる。

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日本語と英語とポルトガル語で住人以外のゴミ捨てを拒絶中。

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この簡素な旅館は4000円以内で泊まれるので、なんとなく泊まってしまいたい気持ちになる。
金曜の夜に会社から直行して土日をここで過ごしてみたい。

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ほどなくして海に着いたが、波が荒い。この程度で「波が荒い」などと表現すると日本海側の人に鼻で笑われてしまいそうだけど……。
この時、すでに、クジラは流されているのではないかと思っていたので、クジラの亡骸に会えなくても楽しいと思えるようにがんばろうと奮起していたのである!
そして、にわか雨が降りそうな気配だったのだけれど、まったく降らなかったので、そこもまたラッキーであり、クジラの亡骸に出会えないという結果に終わったとしても、落胆すべきではないのである。

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防波堤にはストリート的なアートが描かれている。

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これは21世紀の人類が当時の叫びを綴ったもので、解読すると「新卒で就職活動に失敗し、ブラック企業に入ってしまったが、社会人経験がないのに、どうやってブラック企業を見分けろというのか!」という訴えが書かれていて、至極もっともである。「志望企業+ブラック」で検索するとか……といっても、ホワイト企業のブラック部門などもあるので、気が抜けないのは新卒採用も中途採用も変わらないのかもしれない。

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テトラポッドもすっかり風景になじんでしまっていて、少し寂しいので、往年のテトラポッドに匹敵する自然を破壊している感じの防波オブジェの開発が期待される。

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なんとなくこの防潮扉の防潮性が心配になってしまうカットである。

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「→ORENOKOTOMITEYO←」と書いてあったが、どこの言葉かわからなかったのでついに解読できず。

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このアートにはスプレーをするネズミが描かれていて、メタフィクション風味。
これを描いたとき、アーティストは自我というものに目覚めたのかもしれない。

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海岸漂着物でよく見かけるのがクロックスの靴とペットボトルで、だいたいセットで見つかるのだが、結婚でもしているのだろうかと思ってしまう。

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この海岸で戸惑ったのは、ゆるい立ち入り禁止である。立ち入り禁止されているように見えないのだが、想定の最大限禁止されていると仮定すると、わたしはここで撮影することが望ましいようだ。

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波しぶきがあがりすぎて、雲と同じように見えてしまい、かえって迫力が感じられなくて残念である。



しかし、人も少なく、クジラが漂着していたはずの場所にいっても何もない。
反対側からやってきた人に「クジラいました?」と聞かれて、クジラ目当てでここに来たと思われたのが心外だったが、どう考えてもクジラ目当てでここに来ているので仕方ない。「青く変色したエロ本見ました?」などと聞かれるよりずっと幸せなはずだ。しかし、「クジラいました?」と聞いてくるということで、この先歩いてもNo Kujira,No Lifeであることが決まってしまった。


そしてわたしは「こんなに波が荒いんだったらクジラの死骸が流されてしまうのも無理はないよね!」と自分を納得させるために、荒々しい波画像の撮影にいそしむのだった……。
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この波の残りの泡、よく見ると気持ち悪くて、たぶんクジラの死骸もこんな感じだろうと思うことにした。
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海岸線上に横浜方面へとずんずん東進してくと、いつしか出口がなくなっているように思って不安になるかもしれないが、奥の方にテレビゲームのダンジョンの出口のようなあしらいの出口があり、ホッとする。
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出た先は荒れ放題の公園で、机はあるが椅子がないというブラックな公園であるが、いい味。
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ちょっといい歴史的建造物やワンルームなどを見ながら歩くと、ほどなくして国府津駅に到着。国鉄ライクな見かけに感激した。
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このあとは上野東京ラインに乗れば都内に帰還できる。クジラを見られなかったのは残念だが、人間に傷つけられて死んだあと、さらに人間により解剖されるより、オオグソクムシのディナーになった方がクジラ的にもましじゃないかなと思った。あるいは海に戻ったショックで息を吹き返すなどして、地獄から戻ってきたクジラとしてクジラ界で一目置かれたらいいなと思う。

建国記念日をバレンタインデーにしてほしい

ココロ社の正論大爆発コーナー、今回は建国記念日の話。


もうすぐ建国記念日である。祝日のわりには、待ちに待ったという気分にならないところが愛くるしい祝日。
この寒さのなかに祝日があっても、家で着る毛布にくるまっているうちに終わるだけだしなァ……でも休みがないよりはまあいいや……程度に思われている、祝日の中でも最底辺の存在(なお、お子様や学生にとっては、夏休みと重なっている海の日が最底辺である)。およそ一ヶ月前、正月休み明けの厭世的な気分を和らげるため、自在に日付を変えて三連休を創造してくれた成人の日のことを思い出して、思わず「ママァ……」と呟きたくなってしまうのも無理はない。


この祝日はつっこみどころ満載なのだが、祝日に文句を言っても平日になるだけなので、皆でつっこまないように我慢しなければならないのがつらいところ。そもそも、2000年以上グレゴリオ暦以外の暦を使っていた国の建国記念日が、グレゴリオ暦の毎年2月11日にあるということが怪しい。昔ながらのラーメン屋のタンメンに添えてあるゆで卵のスライスが、何度頼んでも必ず卵の中心部のスライスであることと同じくらいの怪しさである。どちらの怪しさにも正解があるのだが、今回は建国記念日の話に絞ることにするけれど、建国記念日は、神武天皇が即位した日、つまり紀元前660年の1月1日にあたるのだけれど、その1月1日を秘伝のレシピで換算すると、グレゴリオ暦の2月11日と算出されたのだった。


しかし、神武天皇が実在していたと仮定し、その神武天皇が即位したタイミングに西洋列強諸国に負けないほど正確な暦が広く使われていたと仮定し、その暦における大晦日までに神武天皇による諸国平定がキリよく終わって元旦に天皇として即位したと仮定し、そのグレゴリオ暦への読み替えをした1873年については秘密のレシピによる2月11日説が正しかったと仮定したとしても、グレゴリオ暦1974年以降の毎年2月11日が神武天皇即位の日になるはずは絶対にない。つまり、少なくとも、1874年以降の建国記念日は実際とは異なるのである。この日が正しくないことについて文句を言う人がほとんどいないのは、神武天皇の存在そのものを信じている人がほとんどいないからだと思われる。実際、橿原神宮にある神武天皇陵は、19世紀に整備され、宮内庁が管轄しているのだけれど、何を管轄しているのだろうか。


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もちろんそういう怪しさも含めて神武天皇陵は好きで、この写真を撮るために天皇陛下のことが好きすぎる人が通りすぎるのをじっと待っていたりもしたのだけれど、それはともかく、本題に入らなくてはいけない。


建国記念日を実際の日付ではない日付に設定しているのであれば、来年からでいいので、建国記念日を2月11日から2月14日にちょこっとスライドしておいていただきたいのである。
理由は簡単で、バレンタインデーのチョコ(レート)をもらったら返さなくてはいけないのが非常に面倒だから。毎年必ず祝日にバレンタインデーがあれば、初年度には勇ましくその前日にチョコ(レート)をくださった方におかれましても、毎年毎年バレンタインデーが祝日になっていたら、徐々に心が折れてチョコ(レート)を贈ることを断念するだろう。
贈られる方が面倒と思っているのだから、贈る方はもっと面倒だと思っているに違いない。つまりこのバレンタインデーとは、双方が嫌々ながら互いへの忠誠心を誓い合うという、関係性の奴隷記念日であり、日本社会のダークサイドが濃縮された日に他ならない。しかも、このイベントに労力を割いたとしても、朝の挨拶の声が小さかったり、始業時間に一秒でも遅れたりしたら、たちまち「忠誠心なし」とみなされ、バレンタインデーの贈り物やホワイトデーのお返しが帳消しになってしまう。日常的に忠誠を誓い合わねばならないと決まっているのだから、それに加えて忠誠心を誓い合うイベントを開催する意味がどこにあるのだろうか……(いや、ない)。


いやいや、それはいわゆる一つの「義理チョコ(レート)」についての話かと思われるかもしれないが、いわんや本気チョコ(レート)をや、である。本気チョコ(レート)の何が問題かというと、チョコ(レート)そのものである。
女性から男性へのDVが語りづらいことと同じくいままであまり語られてこなかったが、女性はチョコ(レート)が好きな人は多いいっぽう、男性はチョコ(レート)に興味がない人が多く、好きだという人はむしろ少数。嫌いな人さえいるほどである。つまり女性に置きかえてみると、「好きでもない男性から鶏皮せんべいを贈られた」に等しい行為であり、「同僚から鶏皮せんべい が配られる事例が発生」と、警察から防犯メールが発信されても不思議ではないが、女性が男性にチョコ(レート)を贈っても、警察から防犯メールはなぜか一通たりとも送信されないのである。サーバーが落ちているのではないだろうか。


なお、今年のバレンタインデーは日曜なので、上記のような心配は不要なのだが、この1年を準備期間として、早めに超党派の有志議員たちで、建国記念の日を2月14日にする法案を提案してほしい。
建国記念日様におかれましては、ジメジメした関係性大国から脱却する意味もこめて、バレンタインデーに体当たりし、バレンタインデーを祝日化することで、奴隷的イベントに終止符を打ち、英霊となっていただきたい。新しい日本のはじまりとして、建国記念日は2月14日に鎮座していただきたいのである。


あるいは、バレンタインデーが2月11日になってくださっても一向に構わない。バレタインの発祥は、ルペルカリア祭という、くじ引きで男女がペアを結んで過ごす濃密な祭りであると言われており、そこまでするのなら存続してもいいかと思うのだが、日本では製菓会社のマーケティングで、一般的に男性の好きな食べものではないはずのチョコレートを贈る日へと超解釈がなされているのだから、超解釈のついでに、バレンタインデーとは、神武天皇が即位の記念に蘇(古代の味わい深い乳製品。現代では飛鳥寺の前の売店などで入手可能)を二上山のてっぺんから撒き散らした日である……などという故事をでっちあげて、2月11日、としてくださっても一向に構わないのだ。


いずれにせよ、建国記念日の直後に「このまえ建国記念日を迎えたことでお馴染みのこの国、日本はつくづくダメな国だなぁ……」などと思ってしまうようなイベントがあると、暗い気分になってしまう。ダメなものはすぐには直せないにしても、百害あって一利なしのこのイベントについて、そろそろご配慮くださってもいいのではないかと思うのだ。


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5000曲以上から選んだ、2015年に最高だと思った曲10選

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ココロ社です。2016年になったので、2015年によく聴いた曲10選について書こうと思います。

2015年は2016年になってから振り返りたい

こういうのはなぜか2015年中に載せるならわしになっているけれど、読むたび、12月はどうしたの?という気持ちになる。1ヶ月分飛ばしたら記事の価値が8.45%くらい損なわれると思うのだけれど……。12月をないがしろにしてまで2015年中に伝えようとしなくてもいいのかなと思って、年が明けてから書き始めた。

2015年のリリースに限定しても、「2015年的である」とはいえない

また、2015年以前にリリースされた音楽が、2015年にリリースされた音楽より2015年的なこともあるので、「2015年にリリースされた」という縛りは、2015年を振り返るにあたっても意味がなくなってきている―たとえば79年リリースの、Harry Thumann"UnderWater"
を聴いても、再発見されて一部のクラブでかかりまくっていた2005年あたりを想起する人の方が多いだろう―こともあり、「2015年によく聴いた曲」を選ぼうと思う。

Underwater Original Version 1979

Underwater Original Version 1979

  • Harry Thumann
  • ダンス
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

アルバム単位で選ぶこと自体が反2015年なのかもしれない

言うまでもないが、アルバム単位で振り返るのも無意味―ダンスミュージックでは30年以上はそうだけれど―なので、「曲」で語ることにした。アルバム単位で2015年を語ることもまた、2015年から遠ざかることになるだろう。もしかすると、音楽が音楽でなくなり、ライブやDJミックスの付属物となってしまうなら、アルバム単位か、ライブ単位で語る日もくるのかもしれない。


~~~~~~~~~

前置きが長くなってしまった。
今年も試聴したのも含めて5000曲以上は耳にしていると思うけれど、本当にこの10曲は大好きなので最高しか言わないと思う。
いちおう試聴できるようにしておいたけど、30秒だとどうもわからんね……。


Fox"The Juggler"(GTO)
2013年から、 PsychemagikのMagikなんとかシリーズがリリースされはじめ、いわゆる普通のダンス・クラシックスなどはまったく含まれておらず戸惑いつつも新しい扉が開かれることがうれしくもある。まだまだ聴きすすめてはいないのだけれど、いつのまにか、この曲ばかり聞いていた。しゃれたアシッド・フォークで、ボーカルを聴いて、てっきりピッチをあげてかけているのかと思ったら、Foxはいつもこの歌い方。ひととおりアルバムを買い揃えてみて、ふつうのポップスで、たまたまこの曲だけがdopeだったものの、どのアルバムもポップスとして大変重宝している。
しかし、DJのセットリストで気に入った曲があるからといっていちいち掘り下げていては身がもたないので、必要最小限にとどめておこうとも誓ったのだった。

The Juggler

The Juggler

  • Fox & Fox
  • ポップ
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes


Tzusing"4 Floors of Whores"(Long Island Electrical Systems)
創立5年、昨年も順調にリリースを重ねた長島電気設備。シカゴの初期アンダーグラウンドハウスを再現したり拡大解釈したり、あるいは考えすぎてインダストリアル状になってしまったりなど、どれを聞いても面白い。他にも好きなものはあるのだけど、特筆すべきだったのはこれ。
Liaisons Dangereusesを思わせるファシズム臭いシンセに、ボディ・ミュージック崩れのようなモッサリしたドラムだけでも十分満足なのだが、その上にパワーエレクトロニクスのような、ペシャンコにされて何を言ってるんだかさっぱりわからないボイスサンプルが乗っかっていて稀有な一曲だと思う。パワーエレクトロニクス的なものをダンスミュージックに乗せるのは意外に難しく、数少ない成功事例として大変貴重なので、聴き飽きないようちびちび聴きたい。

4 Floors of Whores

4 Floors of Whores

  • Tzusing
  • テクノ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


George Theodorakis"The Rules Of The Game"(Into The Light Records)
前衛コーナーに置いてあり、わりと前衛は間に合ってるんだけどまあ買っておくか、と思って聞いたら大変ユニークなコズミック・ポップで慌てて襟を正して聴きいった。冒頭のシンセのフレーズが否応なくギリシャを想起させてオリエンタリズムが大爆発、頼りない歌が始まるころには完全に出来上がっているという寸法。
これが収録されているアルバム"The Rules Of The Game: Original Studio Recordings (1978-1996)"はベスト盤で、Vangelisなどと比べてもダンスフロアを意識していて、前衛コーナーに隠れていないで、もっと知られていいように思う。

The Rules of the Game

The Rules of the Game

  • George Theodorakis
  • アンビエント
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


Steve Winwood "Higher Love"(Island Records)
86年の都会派ソウル傑作。全米チャートでもトップになったので、聞いたことのある人も多いと思う。
スターバックスかどこか、アメリカ感のするコーヒーチェーン店で、そろそろ席を立とうと思ったときにこの曲が流れて、久しぶりに聞いたけどこれは聞きたいときに聞ける状態にしておくべきでは、という気持ちになり、家に帰って大昔に買ったレコードを引っ張り出して録音してウォークマンにおさめ、それ以来、狂ったように聞いている。マジョリティーの人って喫茶店などで自分の好きな曲がこんな風に毎日毎日かかってるんだなと思うと羨ましい。

Higher Love

Higher Love

  • スティーブ・ウィンウッド
  • ロック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


Kathy McCord "Rainbow Ride"(CTI)
アシッド・フォークを聞こうと思ったのだけれど、 吐痙唾舐汰伽藍沙箱の『あんまり深すぎて』しか知らず、勝手もわからないので、「アシッドフォーク 女性」という非常にザックリした検索をしたらすばらしい音楽を見つけた。
フォーク好きにとっては言わずとしれたマスタピースらしく、まったくフォークに詳しくない自分でも、始まって5秒もしないうちに大作だとわかるほどの大作感がある。70年リリースで、邦題は『虹の架け橋』。後半が全然関係ない感じで演奏が持て余して思わず四次元に旅立って突然正気に戻るところも含めて傑作だと思う。もしご存じない方がいらしたら必聴。

Rainbow Ride

Rainbow Ride

  • Kathy McCord
  • ポップ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes


Jose Padilla "Day One"(International Feel)
イビサの重鎮が、バレアリックが再興してからは無言だったのに、突然アルバム"So Many Colors"をリリース。これは先行シングル。個人的には90年代はイビサのことなんてどうでもよかたんだけどね……。
冒頭からつっこんでくるFM音源臭いファットなベースが古のNu Grooveを想起させる。バレアリックのプロトタイプだったLB Badの"New Age Of Faith"がNu Grooveから出ていたことを思い出して納得してしまった。生まれたてのバレアリックを堪能した。なお、アルバムも、コンセプトアルバムというより、一曲一曲ダンスミュージックとしての機能性を重視しているので、買ってもいいかもしれない。

Day One

Day One

  • ホセ・パディーヤ
  • ダンス
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


Ge-Ology Featuring Mark De Clive-Lowe "Moon Circuitry"(Sound Siganeture Sounds)
00年代は、Sound Siganeture Soundsの新譜が出て、ピンと来なかった場合、「ぼくのセンスに問題があったのではないか」と自問させてしまうほどの勢いがあったのだけれど、今は気づくこともなくなってしまった。しかしたまたまBeatPortで見つけたこれは、久しぶりに耳にするデトロイト・テクノ保守本流系で、見つけてよかったと思った。いかにもデトロイト的な金属的なトラックの上にフリーなシンセリードが乗っかっていて大好物だった。
わりかし寡作な人で、クリエイター生命を縮めてしまいそうな完成度だけれど、次も早く聴きたい。

Moon Circuitry

Moon Circuitry

  • Ge-Ology
  • エレクトロニック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes



The Orb "God's Mirrorball"(Kompakt)
近年、90年代から活動しているビッグネームのアルバムもちょこちょこ出ているものの、また聴きたいと思えるのが少なくて大変残念だった。そのなかで、念のために買ったThe Orbの6年ぶりの新譜は最も輝いていた時期よりも輝きを増していて驚いた。
高音質のSEやパーカッションが飛び交ってさんざん焦らされ、満を持して太いベースとゆったりした重いドラムが始まる。昔のThe Orbは焦らされているうちに聴く気が失せてしまうこともあったが、今回はすべての瞬間が傾聴に値する。メカニックという感じでもなく、宇宙人にとっての民族音楽はこんなのだろうなと思わせる。聞き終えるたびに「もう終わりなん……」と思って連続再生してしまう。
iTunesの試聴の30秒を聞いた限りではまったく聞きたくならないかもしれないけれど、この後の14分間は最高。

かつて40分に及ぼうかというシングル"Blue Room"を全英ヒットチャートに叩きこんだ(買い支えた90年代のイギリス人、先進的でやばすぎる……)ときの輝きを今なお持っていると思うのだけれど、全英が正気にかえってしまったらしく、そこまで売れていないようでとても残念。

God's Mirrorball

God's Mirrorball

  • The Orb
  • エレクトロニック
  • provided courtesy of iTunes


Insanlar "Kime Ne" (Ricardo Villalobos Mix 1)( Honest Jon's Records )
Ricardo Villalobosは昨年、ハードハウス初期の傑作"What is house Muzik"をリミックスするなどの活躍もしていて、それも好きなのだけど、こちらは露骨な呪術感がたまらない。抽象的な音楽だからお咎めなしだが、ポリティカル的にコレクトなのかどうなのかとさえ思ってしまう。
この催眠効果は80年代末に、Psychick Warriors ov Gaiaという、サイキックユース寺院の下部組織的なユニットが先駆けている。その後、PWOGという略称でやばい出自を抹消して渋めのNYハウスに転身していたが、彼らが同じ路線を続けていても果たしてここまで来られたか謎である……。
これはiTunesなし。Discogで2000円代で買える。


Private Agenda"Deja Vu"(International Feel)
International Feelは新譜を聴いてないと時代に乗り遅れてしまうような気がするのでまず聞くことにしているが、もう最先端が何だかわからなくなってしまう1曲だった。
ここまで律儀にイタロディスコを再現しているものも珍しい。誰かに脅迫でもされてるんかいな。イントロが噴いてしまうくらいダサくて、露悪的だとも思うが、あの時代特有のエモーションを表現していてはからずも夢中で聞き入ってしまう……。

Deja Vu

Deja Vu

  • Private Agenda
  • ダンス
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


去年の後半あたりから新譜の多くをダウンロード購入に切り替えたのだけど、趣味が変わったりするのか自分の変化が楽しみである。


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その昔、『一杯のかけそば』というマッドな童話があった

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ココロ社です。
今回は、元号が昭和から平成に変わったころの話。
あのとき、『一杯のかけそば』という童話が空前のブームになっていた。
話のあらすじはこうだ。

ある年の大晦日、子供二人連れの母親がそば屋を訪れ、お金がないがどうしても食べたいと、一杯だけかけそばを注文し、三人で分けあって食べた。
その年からしばらく、大晦日には三人で来て、一杯のかけそばを注文して食べていたが、ある年からぱったりと来なくなった。そば屋は、三人がまたいつか来てくれると思って何年も待っていた。
来なくなってから10年以上経ったある年の大晦日に、あのときの三人がやってきた。子どもたちは立派に成長していた。聞くと、それぞれ銀行員と医者になり、この蕎麦屋でかけそばを食べるためにわざわざ集まったという。三人は三杯のかけそばを頼んでおいしく食べたのだった。


若い人には信じられないかもしれないが、平成になりたてのころには、この作り話が「本当にあった泣ける話」として日本全国に感動を呼んでいたのである。もしかしたらそば粉に脳波を乱す成分が含まれているのかもしれないが、当時10代だったわたしは「国民がこんなしょうもない話に熱狂するような知的水準で、このあと国家を維持できるのだろうか」と本気で心配していた。
あれから27年経ったいま、自衛隊が多少ワイルドになったり、二度ほど巨大地震を経験して原子力発電所から放射能が少々漏れたりしたとはいえ、いまも日本国は少なくとも国家としての形態をとどめている。「世も末」と思っていても、本当の「末」はそうそうやってこないもののようだ。


とはいえ、日本については、少しずつ「末」に近づいていることも間違いない。
いま、『一杯のかけそば』を読めば、あらゆる角度からの非難が予想できる。

・そんな特別な話だろうか。うちもかけそばではないが、食べたいものを思いきり食べられるのは年1回くらいだ。
・ここまでではないにせよ、うちも決して生活は楽ではないので、「いい話」として消費されているのを見ると、なんだか馬鹿にされているように感じる。
・外でかけそばを頼むより、家で作って食べたほうが豪華になるはず。やはり収入の低い人は生活スキル全体に問題があるんだな……。
・最後の銀行員になったり医者になることがハッピーエンドのような扱いを受けていることに違和感。結局金持ちが偉いということなのか。貧乏でも、一杯のかけそばを仲良く分け合えられれば幸せだと思う。
・店の名前「北海亭」をGoogleで検索しても出てこない。名前を変えていたとしても、この店を知っているという人が何人かいてもいいはず。作り話なのでは?
・かけそばを食べるのがあざとい。一杯の牛丼にすれば同じような値段で味噌汁もついてくるのに、あえて具なしのかけそばを食べるなんて、貧しさを強調しているようで不快。

……など。


あのころと比べて、生活保護の受給者はおよそ倍になっている。身の振り方によっては、一杯のかけそばを三人で分けあうというシチュエーションが必ずしも異次元の話であるともいえなくなってきた。この話では、貧乏生活から脱して、銀行員や医者になったというのだから、平均年収の3倍は貰えて定年までずっと働けるはずだが、現実では多くの企業では終身雇用のムードはなくなってきている。

当時、『一杯のかけそば』などに感動している人は単純に頭が悪いと思っていたのだが、あの話に感動できるということは、前提として、あの話が他人事だと思える程度にはみんな豊かだったし、豊かでなくとも、このあと豊かになるはずだという確信をもっていた……ということだったのだなとしんみり思う。

現在は、いまは大丈夫だとしてもこのあと何が起こるのか予想がつかないし、いつか、大晦日に一杯のかけそばを分けあって食べることがあるかもしれないと思ってしまい、そばを等分に分ける方法について想いを巡らすばかりなのである。



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事実上のストロベリー・スイッチブレイドのセカンドアルバムが今になってリリースされておりました……の巻

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ストロベリー・スイッチブレイドの最初にして最後のアルバムが出たのは1985年のことで、あれから30年も経つ。
イギリスや日本のヒット・チャートを席巻した"Since Yesterday"(邦題は『ふたりのイエスタディ』)に代表されるように、ネオ・アコースティックのメロディに、まったく不似合いなノイジーな電子ドラムの音が混ざっているところが画期的だった。これはプロデューサーのDavid Motionのオーバープロデュースによるもの。本人たちにとってはこのアレンジは本意ではなかったようで、そのことは、最初にストロベリー・スイッチブレイド としてリリースした"Since Yesterday" と、Current 93のライブで演奏していた"Since Yesterday"を聴き比べてみたらすぐわかる。

Since Yesterday

Since Yesterday

  • ストロベリー・スウィッチブレイド
  • ポップ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
Since Yesterday

Since Yesterday

  • Current 93
  • オルタナティブ
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

どんだけ我慢してたのかと。
王道のネオ・アコースティックがやりたかったのかと思うけれども、このままリリースしていたら、ストロベリー・スイッチブレイド の名前をいま知っている人はほとんどいなかったかもしれない。(そう言いつつも、何回も聴いていて、これはこれで好きだけれども……)

恥ずかしながら、ぼくはこのアルバムを30年間にわたって、少なくとも週に1回は聴いている。
あまりにも後ろ向きなので、20年くらい前から聞くのをやめたいと思っているのだけれど、やめられなくて困っている。

ぼくにとってストリベリースイッチブレイドは悩ましい存在なのだが、去年、ふと検索してみて、片割れであるRose Mcdowallが、2004年にひっそりと" Cut With the Cake Knife”というアルバムを出していたことに気づいた。
録音は86年~88年。彼女がのちにSorrowやSpellといったユニットからリリースしていたものと違い、ストロベリー・スイッチブレイドの最初のアルバムが出た直後から録りためていたもののようだった。

しかし、サイン入りかつ500枚限定ということもあって、つい先日までは2万円という結構なお値段がついていたのだった。
いや待てよ、このアルバムを2000回聞くとしたら、1回あたりわずか10円であり、それを考えるとまったく高くないと言えるのではないだろうか、ただ、このあと、このアルバムを2000回聞くような人生を送りたいかというと何とも言えない……などと逡巡しながら、ときどきDiscogsのページを見ていたのだけれど、あるとき価格が値下がりしていたのである。
おかしいと思って念のためAmazonを検索してみると、なんと再発されていたのだった。ただちに購入し、Amazonの配送状況を何度も何度も見に行ってしまった。

実際に聞いてみると、あのころのストロベリー・スイッチブレイドの音が真空パックされていたようで、こんな素晴らしいものがお蔵入りになっていたのかと驚くばかりである。


Tibet

Tibet

  • Rose McDowall
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Cut With the Cake Knife

Cut With the Cake Knife

  • Rose McDowall
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes


産業的なアレンジに可愛らしい歌声。そして、ジャケットのデザインと音楽がますます乖離しており、持て余している感がすばらしい。目のところが黒くなっているけど何を考えているんだ……。
本人は、ライナーノーツのインタビューで、もっとギターを使って作りたかったという意味のことを述べていらしたのだけれども、むしろこれでいいのだと思う。録り貯めていた曲の一部は、ストロベリー・スイッチブレイドのセカンドアルバムに収録されるはずだったのだが、方向性プロブレムでユニットは解散してしまったし、そのあともリリースする気になれなかったとのこと。親友が電車に飛びこんで自殺etc.いろいろあったようなのだけれど、聴くことができてよかった。
長生きしてみるものだと思ったのだが、ただ、このアルバムを2000回聞くような生き方もそれはそれで問題だとも思っているし、ご本人も2000回聴いたファンがいると知ったら笑顔がひきつるだろう。

Cut With the Cake Knife

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秋芳洞&秋吉台が、今もなお国内屈指の奇景であることを、多めの写真と面倒なエッセイでお知らせしたい

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ココロ社です。
今回はちょっと前に行ってきた秋芳洞featuring秋吉台(本当は逆だろうけれど)の話です。

平均的な人間が一生のうちに見る鍾乳洞の数は1.2パイくらいだと思うのだけれど、すでに奥多摩や石垣島の鍾乳洞を見、岩屋観音窟のような小粒なアイテムを寄せ集めて1パイとすると、合計3パイほど見たことになり、わたしは普通の人の倍以上の鍾乳洞経験を経ていることになる。鍾乳洞経験中級者としての高度な自覚をもって筆をすすめていきたいと思う。

なお、ここで仮に鍾乳洞の単位を「パイ」としてみたけれど、語感が気に入っているのでそう呼ぶことにしている。
少し前の話になるが、「たとえ何パイ見たところで、日本を代表する鍾乳洞であらせられますところの秋芳洞を見なかったら鍾乳洞を見たことにはならないのでは?」という、希死念慮にも似た妄想にとりつかれてしまったため、新山口まで足を運んだのだった。

地味な土産物屋に挟まれ呼びこまれるという通過儀礼

駅からバスに揺られて40分ほどすると秋吉台に到着する。

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洞窟の入り口まで地味な土産物屋が続くのだが、眺めながら歩いていると、わたしだけ、「兄ちゃん、化石もいろいろあるよ」と声をかけられた。心外ではなかった。「一人で秋吉台に来るオッサン=化石好き」という読みはそれなりの妥当性があるような気もするし、少なくとも「血液型がO型=おおらか」よりは妥当だと思う。
昔、血液型B型でしょと言われてO型だと言ったら「ごめん」と言われたことがあるが、B型の人はこの事実に怒っていいと思う。


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そして、石になんでも書いてくれる店があったのだが、美しい字でどうでもいいことが書いてあると、かえって内容の空疎さが際立つことを発見した。このことは、相田みつを先生のビジネスモデルがいかに秀逸であるかという話と関係するのだけれど、その話はまた回を改めることにする。(先日、研究のために相田みつを先生の本を買ってみたのだ)

川だけで満足してしまう哀れな都会人

洞窟からは大量の湧き水が流れ出ている。
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仮にわたしが超ド級のうっかり者だったら、このエメラルドグリーンの川を日がな一日見て過ごし、そのまま帰って「秋芳洞よかったわ~エメラルドグリーンで宝石みたい~まあ宝石は個体で水は液体だからだいぶ違うけれども色的に……」などとツイートしてしまうところだった。

広さだけで満足してしまう哀れな都会人

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秋芳洞の中は、一般的な洞窟のイメージ、正確に言うと、テレビの探検隊などで見るイメージとは異なり、開放感すら感じられるほど広い。岩肌が見えるだけなのだけれど、秋芳洞はここで終わりと言われたとしても、先ほどのエメラルドグリーンの川と同様、「秋芳洞よかったわ~特に何もなかったけど開放感があって、鬱屈した日々を一瞬でも忘れることができた!」などと満足して帰ることができただろう。

百枚皿のシズル感に夢中になる

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この棚田のような光景は「百枚皿」と呼ばれている。「千年杉」「八百屋」などと比べると数が少ないし、「皿」と言われても困惑してしまう。名前を聞いただけでは見たいとは思えない名前だ。
この棚田風の風景、棚の中は水だけで、もうちょっとマリモか何かを入れておいて賑やかにしてほしいという気持ちもなくはないが、ただ皿だけでも、ナメクジの背中のような模様がついていて、濡れ具合もナメクジのようでかっこいい。
この棚は水たまりが時間をかけて石灰化し、縁状になったもので、たしかどこかに、これが1センチ伸びるのに、70年やら80年がかかるといった説明があったと思う。多幸感に襲われて、うっかりこの皿にダイブしてこれを割ってしまったら気まずいだろうなとは思うものの、「1センチ伸びるのに○○年」の話をし始めたら、たとえばこの文を書いているパソコンを駆動させている電気のもとは、数億年前の生物の死骸が長い時間をかけて黒い汁になったことでおなじみの石油であり、あらゆるものから悠久の時を感じられて、「自分のちっぽけさを感じる」飽和状態になる。

魚眼レンズは人が写ってこそ楽しい

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このように魚眼レンズを使用すると見物人も写ってしまうのだけれど、大きさの比較ができて臨場感が醸し出される。ここに写っている見知らぬ誰かは、この写真においてはものさしにすぎないのだけれども、ぼくもまた誰かの写真でものさしの役をしているはずで、わたしも誰かがカメラを構えたら「ワオ」と吹き出しを入れたくなるような表情ができるようにしておきたいと思う。
なお、使っているレンズの限界のF値2.8で撮ったが、もうちょっと明るいレンズか、暗所に強いカメラがあると、よりくっきりと撮れると思う。

乾き気味の鍾乳石たち

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鍾乳洞というと、上から石が垂れているのを想像するけれど、秋芳洞では天井近くで地味に垂れているばかりで汁気も足りない。
垂れているものに圧迫されたければ、ほかの鍾乳洞をあたるべきなのかもしれない。



360度の黄金柱

秋芳洞の奇景のなかでも、「百枚皿」と並び称される「黄金柱」。
素麺の集合体のような巨大な柱を見たり触れたりできる。表面が濡れていて、絶賛製造中であることが感じられる。
ここはとくに魚眼レンズで撮ると天井と柱が同時に見えて、臨場感が楽しめる。
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天井部分はトムとジェリーに出てくるチーズのような形になっているが、夜はここにコウモリなどが帰ってくると思われる。

ここにもあった富士山

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円錐形のものはなんでも富士と呼んでしまう感性の貧しさはいかがなものかと思ったのだが、富士に喩えないと、「入り口から6割くらい歩いたところにある円錐形のもの」などという呼び方をせねばならない。そう考えると富士は必要悪だという気がしてきた。

名もない鍾乳石にも味がある

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特に名づけられていない鍾乳石もじっくり見ていると霊長類などの生き物に見えて楽しい気持ちになる。これは長渕剛を聞くことを覚えたチンパンジーに似ている。人類に比べてはるかに小さな彼の脳のうち8割が長渕剛の楽曲で満たされている。彼は一生をかけて長渕剛のすべての楽曲を覚えるのだ。

なお、土産物屋では、よりユーモラスな鍾乳石が置いてあったことも報告させていただきたい。
天然のセクシャルハラスメントである。
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しかしこれ、入り口に置いてあるから、こういうのが苦手な人は来なくなるので奥の方に置いた方がよいのでは、と思った。

クラゲの滝昇りか滝下り

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クラゲ状になっているところもあり、水族館に行きたいと思っていたが、秋芳洞に連れてこられてしまった人はここで溜飲を下げることができるかもしれない。クラゲの滝昇りに見えるか、クラゲの滝下りに見えるかによって、その人の精神状態を占える気もするが、精神状態を知りたいのであれば、単純に「調子どう?」と聞けば事足りるのかもしれない。

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この抽象的な形状の岩、マリア像でもいいし、観音像でもいいはずだけれど、海外の観光客と国内の観光客の両方にアピールするためか、「マリア観音」と称してある。これらの名づけは総じて雑である。

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名付けに困っているというのであれば、素直にわたしのところに連絡してきてほしい。


時間がない人はここで引き返すというのも手だけれど、お勧めしたいのは、バス停→秋芳洞→秋吉台→秋芳洞→バス停のルートで、秋芳洞を2回見て帰るコース。秋吉台を満喫したあと、暗くて湿った秋芳洞が恋しくなるので、最後にアンコール、という寸法である。

出口のタイムトンネルに合わせて歩く

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秋芳洞の入り口の反対側の出口の前は、時間のトンネルになっていて、まわりの絵が、生命誕生から、出口側に進めばすすむほど現代になってくる。
絵に合わせて徐々に文明化した方がよいのかなというプレッシャーを感じ、最初は背中を丸め、たどたどしく二足歩行をしながら、歩くごとにだんだん背筋が伸びてくるのだった。


そして現代に戻ったわれわれ……のはずだが、十分に現代に戻っていないように見える。
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休日なのに閉店しているということは、毎日閉店なのかもしれない。


秋吉台も地味ながら奇景

出口は湿度調整のため、内側の扉が閉まってから外側の扉が開くようになっている。

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ここから秋吉台までは500メートル程度で、途中の道中でキノコなどを無駄に発見しない限りはスムーズに歩ける。
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秋吉台は「カルスト地形」の代表として記憶させられるが、岩が雨水などに溶食されてできた地形を指し、このように、緑の中に、虫歯になった歯のような形をした岩たちが点在している。

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秋吉洞を見てから見ると感動が少ないのだけれど、その分、人もいないのが利点。


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展望台から秋吉台を一望できるし、近くには小さな博物館があり、そこでお茶を濁してもいいのだが、せっかくだから足が棒になるまで歩こうと思ったのだった。


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祝日でもこの程度の人出で、やや不安になる。実際、秋吉台は「使える国定公園」として、用途のひとつとして「走れる」を挙げている。高尾山で走られたら困ってしまうが、秋吉台だとちょうどよいかもしれない。
実際、人がほとんどいないという点だけでも、一人になるのが好きな人にとっては絶好の観光地で、草と岩しかないところをぶらぶら歩いているだけでも幸せな気分になれる。


初秋に行ったのだけど、トノサマバッタが往来のど真ん中で産卵中だった。
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土はわりと硬いはずだけど、バッタの性器も負けず劣らず硬いのだろうか。女性器が硬いというのは「女性=しなやかな感性」などの通俗的イメージとはずいぶん異なる。

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「外人=犬にメガネをかけた写真をInstagramにアップロードする」という偏見を持っている。

展望台の近くには秋吉台科学博物館がある。秋芳洞にかつていた生き物や現在住んでいる生き物の標本を展示している。
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どさくさに紛れて秋芳洞にいない生体も展示されており、いかがなものかと思ったのだが、原点に立ち返ると、この世にいなくてもいい生き物なんてないので、この目が退化したケイブ・フィッシュ(語感がKate Bushを思わせる)もありがたいと思うべきだと思った。

「秋芳洞冒険コース」は本当に冒険なので覚悟が必要

帰りの秋芳洞は、行きにみたときと違う角度から楽しむことができる。
知り合いに度を越して嫁好きの人がいたのだけど、奥様が前を歩いているところを見かけて、「あ~後ろ姿もいいねぇ~」と言っていて、まあ結構なことだ、と思っていたのだけれど、今ならその感覚がわかる。

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また、追加料金を払うことで、より厳しい「冒険コース」を回ることができる。
狭い道を歩くことができて、洞窟らしさが足りないと思ったのであれば、最後に補充することができる仕組みになっている。
両手をあけた状態で臨んだ方がよいと思うけれど、ハイヒールで最後までたどり着けていけた人もいたので、さほど大変でないのかもしれない。そのハイヒールのオーナーは、ムキムキな男といっしょにキャーキャー言いながら険しい道を登り降りしていたのだが、あんたもけっこうムキムキやでと思った。


ひとまず秋芳洞に行けたことで、数年分の洞窟分は満たされた。
とくに仕事で疲れている人にとっては大規模に胎内回帰ができるので、たとえば「金曜日に博多出張」という魅惑的な状況になった場合には選択肢に入れてもいいと思う。