ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

通称「日本一美しい橋」の角島大橋を、あえて徒歩で渡って島を一周した


ココロ社です。久しぶりの更新で緊張しちゃう……。

7月の話。山口近辺に行くことがあって、話題の角島大橋に行ってみるのはどうだろうと思って調べてみると、おなじ山口の人が「沖縄みたい!」という感想を書いているのを見かけた。そんな近いところに喩えてうれしいのだろうか、どうしても喩えたいというなら、外国に喩えればもっと楽しかろうと思ったのだが、では具体的にどこに喩えたらよいのか、わたしにもわからない。
調べてみたら、羽田空港から那覇空港に行くのと、山口宇部空港から那覇空港に行くのでは、30分程度しか変わらない。東京の人がもつ沖縄ファンタジーと山口の人がもつ沖縄ファンタジーは案外同質のものかもしれない。


道路や橋のように、単に必要に応じて作っただけの建造物でも、お、これはいわゆるひとつの文化系かも、これはエグザイルが好きな人が好きそうだな、など、文化圏の違いのようなものを感じることがある。角島大橋は、青い海、本州最長ランクの橋と、どことなくエグザイルが好きそうな人が好きそうな風景であって、給水塔などに心をときめかせてしまうマイナー文化系のわたしにとっては、単に風景と向き合うというだけでなく、異文化に触れることでもあると思う。

角島大橋という、BGMとしてはエグザイルがふさわしい橋に対して、わたしは、駅から歩くという誤ったアプローチをあえてすることにした。

特牛(こっとい)駅からバスを借りるか、あるいは下関でレンタカーを借りて回るのが常識であることは知っているが、わたしが降りた駅は山陰本線の阿川駅。
運賃は、決済方式において電車がバス状になっているので、車中で払う仕組みになっている。

ここから歩いておよそ90分。山を突っ切る最短距離だともう少し早く着くのだろうけれど、 退屈そうなので、海沿いの道を歩くことにした。

阿川八幡宮は誰もいなくて、ついついゆっくりしたくなる


ほどよく寂れた寺社を挟んでいかないと歩けない病気にかかっているため、ちょっと寄り道をして、鎌倉時代に建立されたという、阿川八幡宮を訪れた。

本来ならもっと南にあるはずのイヌマキが群生していて、ここが北限となっているようだ。

前言撤回で申し訳ないが、「沖縄みたい!」で愉快な気持ちになる。宮崎の青島神社を思いだした。

イヌマキは、鼻の濡れた従順な生き物とは姿かたちはほど遠い。
『犬菟玖波集』の「犬」と同じく、英語で言うならtinyの意味。
「マキ」は杉の古名で、つまりは「ショボい杉」である。
ショボくてもぼくは好きやで……。


念のため金次郎も撮っておいた。
この金次郎は、衣服の柔らかさや端正な顔だちなど、かなりできがよい。
「二宮金次郎」で検索をしてみると、よりこの像のよさが実感できると思う。
この出来栄えなら、金次郎を目指そうと思った人も多かろう。


何もない道こそ、イマジネーションの発揮しどころである



とくに名所らしい名所のない人気のない県道をひたすら歩くのだが、好奇心さえあれば、どこでも名所なのである。


たとえばこの廃工場のようなところはアウトサイダーアートの趣がある。


かなり精力的に立ち入り禁止を禁止しておられる工房があり、かえって入ってみたいという好奇心をそそられてしまったが、やはり入ってはいけないのである。



ここは養鶏場。調べてみると、ここで生産された卵は、直営店で、食べログ3.5点のスイーツへと変化を遂げている模様である。
鳥インフルエンザにかかってしまったら廃業になりかねないので、外部の訪問者にはかなり気を遣っているようだ。誰もいなかったが、咳をしないよう気をつけて通過した。



かつては無粋の象徴だったかもしれないトタン屋根も、いまや風情が感じられる。




海に出ると、元食料品店と思しき店の壁に、「原発絶対反対」と書いてあった。
反対運動が成功をおさめたから消したのか、成功も失敗も関係なく、ただ書いたものが色褪せたのかはわからないが、原子力発電所が建設されなかったことはたしかである。


原発のない港。
(あるかないかについて述べただけであって、ここでよしあしについて価値判断はしない)


海沿いに歩いていくと、島と橋が見えてきた。これがあの角島大橋である。



角島大橋は、観光ガイドの写真のことを忘れて楽しみたい





観光サイトなどで見る写真は、青い空、エメラルドグリーンの海で、よい条件で撮影されたか、撮影のあと加工しているかに違いなく、実物と対峙したときにがっかりする可能性が高い。だから、あまり期待しすぎないように……と言い聞かせながら歩いてきたので、ちょうどよい大きさの感動が得られたのだった。




なお、この橋はノーマルな感性の方は自動車で通過するが、わたしは駅から橋までを歩いたので、橋そのものも当然ながら歩いて渡りたいと思った。
橋の全長は1780メートルあって、この橋を渡れば、その満足感で、しばらく橋なしで暮らしていけそうである。


観光サイトでは、長い橋とエメラルドグリーンの海に目を奪われるが、歩いてみてわかったのが、角島に近い側がかなり急な坂になっていて、非常にスリリングであるということ。

特に上り坂のピークからは先が見えなくて足が震える。そして足が震えると轢かれてペシャンコになる確率が上がる。



この小島は鳩島と呼ばれているが、たとえ事実として鳩が集まることがあったとしても、鳩はたいていのところに集まるので、他の名前を検討していただきたかった。

戦時遺跡はあるものの、歴史は控えめな島である

橋を渡り切ったあとも道は続くので、メインストリートと思しき道を歩いていく。



途中、戦時中に作られた砲台跡があるが、とくに誰も気に掛ける様子はないし、草が生え放題である。 
向かいに弾薬庫として使われていたらしい穴がある。ここで遊んではいけませんと書いてあるので厳守しなければならない。
わたしは中に入って調査をするだけであって、決して遊んでいるわけではない。
中は活用法が不明だが、平和的なアイテムが置かれていた。
ジャパニーズリーサルウエポンのTAKE=YARIの可能性もなくはないけれど……。
関係ないが、TERIYAKIとTAKEYARIは似ている。

ほどなくすると、また海岸を通ることになる。

波が高かったので、7月の休日だったのに、遊泳禁止になっていた。
エグザイルが好きな人はこの島には泳ぎに来るのだろうから残念に思っていたのかもしれないが、遊泳禁止になっていたので写真は撮りやすかった。

しかしながら、はからずも遊泳禁止のフォントが泳ぐことの楽しさを全身で表現しており、もっと禁欲的なフォントでないとフラストレーションがたまってしまうのではないかと思われた。


とくに注意書きがないわりに気合の入った縄で飾られた道祖神的なサムシング。


大規模に立ち小便を禁止しているなぁと思って見たら、不法投棄禁止と書いてあった。
鳥居を描くとせいぜい立小便しか禁止できないが、木で鳥居を組み立てるとそれはもう神社であり、不法投棄をも防止できるのだ。


青空に赤いトタン屋根。コントラストが最高!


青空に青いバケツ。同系色で最高!

住んでいる人にとってはどうでもよい風景なのだろうけれども、見とれてしまう。



博物館があったので入ってみた。

地理的には、朝鮮との通信で栄えたことを示す遺跡が出てきてもよいように思うが、展示してあったのが、大陸から漂着した木の仏像くらい。
そしこれらを返さなくても怒られないのだろうか。
「返さなくてもいいですよね」と念のため聞いたら、「じゃあ返して」と言われそうな気がするので、わたしが担当だったら絶対に聞かないが……。

島の近くで見つかった新種のクジラ「ツノシマクジラ」の骨格標本が吊り下げてあるが、これはレプリカ。
本物は東京国立科学博物館にあるようで、都民としてなんとなくゴメンという気持ちになった。
この種のゴメンは旅行すると2回に1回くらいのペースで感じるゴメンである。

しかしこのクジラ、見つかったのが15年ほど前。
おそらくそれまでも何度も見つかっていたが、ちょっと個性的やねぇくらいにしか思わない人が多かったに違いない。
何か見たら「新種」と思うくらい無鉄砲な方が、新種を見つけやすいのかもしれない。


お!
これは教会でございますね。

この地にもキリスト教が伝来し、島民に愛されてきたのだろうか……牧師が島のちびっこにパンケーキを焼いたりして「キリスト教=幸福」のイメージを流布したりしたのだろうか……などと思ったが、なんのことはない。
映画の撮影で使ったセットを残しているらしく、中はトイレである。
一言でまとめると、トイレの神様である。

朝鮮からの特使がワンクッション置くには最高に島だと思うのに、ここまで歴史が見えないとは、実は何か隠しているのでは……とう疑念すら生まれてきたが、何かあるなら糸電話か何かでご教示くだされば幸いである。

海岸に降りて、念のため海岸漂着物を確認した。

大体こんな感じで、韓国からやってきたアイテムが多くて、日本海側やなぁとしみじみする。


なかで怪しい物体を発見。

不発弾か何かに見える。外側は朽ち果てているのに中の銅線はきのうにでも引かれたように見える。
外はカリカリでもなかはしっとりしていて、銀だこのたこ焼きのことを思いだしてしまった。

日本に2つしかない、無塗装の灯台

なお、近代になってから、この島に灯台ができた。
お雇い外国人のリチャード・ヘンリー・ブラントンによる設計。和歌山の友ヶ島のこじんまりした灯台も彼が設計している。
そんな彼も今はシロアリの親分みたいにツルツルのテカテカである。




色がついていなくて完成途上のようにも見えるが、もともと無塗装で、このような灯台は国内で2例しかなく、珍しい灯台なのである。
白く塗られた灯台よりも威厳が感じられる。煉瓦の規則的な継ぎ目が蛇のようで不気味なかっこよさがある。
お小遣いが足りなくて塗料なしで組み立てたガンダムのプラモデルもこんな感じだったかも。



灯台の中に入り、展望することもできるが、このブログの筆者は高所恐怖症であり、高所にて十分な写真が撮れないという欠点をもっていることをご了承いただきたい。



帰りはバスに乗り、橋を渡って、特牛(こっとい)駅で降りる。

バスから見て、坂のところで歩行者がヌッと出てきたら驚くだろうなと思ったが、わたしはスマートなので、ヌッと出てくる感じにはならないと確信している。






特牛駅は一見、廃駅に見えて、電車が来ないのではないかと思ってしまうが大丈夫。
駅員はおらず、駅員室も空になっていて、招き猫が虚しいが、決済方式がバスと同じなので無人でも問題ないのだった。

しかし、いい風情の駅で、バスを降りてから電車が来るまでの間に空き時間が確保できれば、待合室などでぼんやりできてよい。
歩き回った疲れが古びた木の椅子を伝って抜け落ちていくようだ。



車体のデザインは無骨だけれど、色がオレンジ色だと可愛らしい。
なんだか懐かしい色と形だなと思って調べてみたら、わたしの家の沿線だった片町線でも使っていたらしい。
木津とかそこらへんでこれに乗ったかな。


角島大橋、エグザイルを聞きながら、バスや車で行くのが常識的かもしれない。
しかし、ゆっくり歩きまわるとさらに楽しめるので、まる一日歩く予定で行くとよいのではないかと思う。


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仏様がダンスする。毎年4月14日に奈良・当麻寺で行われる奇祭「練供養」の一部始終

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せっかく春になったのだから、仏像が歩いているところを見たい―人間として、ごく自然な気持ちである。
仏像は立っているだけではなんだか物足りない気がするし、漠然と物足りなさを感じているうちに、それが、立ちつくしているだけで、この人は本当にわたしを救う気があるのだろうかという不信感へと変化しはじめたころ、カルト宗教の勧誘が心の隙間を狙ってやってきて、断り切れず入信してしまうかもしれない。信者の多いカルト宗教ならまだ救いがあるが、ケーキなどの甘いものは汚れた食べ物なので食べるときは必ず酢をかけて清めなさい、などといった教義を掲げる宗教に入信することになってしまったらそこで人生は終わりだし、しかも酢をかけることは来世への輝かしいステップにすぎないと思いこんだりしているのかもしれず、つまり、「動く仏を見る」という行為は、観光というよりも危機管理に近いのかもしれない。

―とはいえ、わたしは特に仏教を信じていたりはしないのだが、毎年5月14日(2019年からは4月14日)に、奈良の當麻寺で行われる「練供養」の様子をお伝えしていきたいと思う。写真は2014年のものだが、今年ももうすぐなので、休みが取れそうな人や、あるいはずっと休みの人のために見どころを紹介したい。


練供養とは、25菩薩のお迎えを受けて、生身のまま極楽浄土へ旅立つさまを表した、西暦1005年から続いているとされる儀式。極楽浄土シミュレーターとして知られる平等院鳳凰堂は1053年だから、極楽浄土の表現としては半世紀近く先駆けていることになる。
この儀式の主役であるところの中将姫は、26歳のときに一晩で曼荼羅を描いたとされており、それがこの寺の本尊となっている。享年29歳で、775年没。当時の平均寿命は30歳そこそこなので、7世代ほどを経て気持ちの高まりや伝説のミックスを経て、極楽浄土を具現化する格好の人物として抜擢されたのかもしれない。
なお、津村順天堂の創業者の実家には、中将姫直伝とされる薬湯の製法があったことから、ご家庭でバスクリンに浸かりながら「中将姫……」と想いを馳せるとクナイプよりも安価に同様の効果が得られるのではないかと思う。


16時開始だからといって16時に行ってはならない

練供養は16時に始まるのだが、14時半には到着し、場所を確保しておくことが望ましい。當麻寺には見どころがたくさんあるが、それは別の機会にするか、午前中に済ませておくなどするのがよいと思う。
練供養の迫力のある写真が撮りたいのであれば、来迎橋のそばに陣取ることになる。いちおう、舞台には手を触れてはならないとの放送が流れているが、その放送が耳に届いていないか、届いていても実行に移すのが困難な人もいる。
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高齢の方が多いため、気温が上がりすぎるとお客様の中で入滅される方がいらっしゃるかもしれないと思って妙なスリルを感じる。
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アニマルを持参している場合は、来迎橋の下の日蔭で休ませるのが安全なようだ。
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練供養は當麻寺以外でも行われているが、ここの練供養がオリジナルだと言われていて、およそ千年の伝統を誇る。
しかし細部の演出などに重々しい伝統を感じさせないところが面白いのだ。

冒頭でさりげなく現世に戻ってくる中将姫

中将姫が25菩薩に迎えられて入滅するシーンを再現するためには、いったん現世に戻ってくる必要があるため、冒頭で籠に揺られて来迎橋を渡ることになる。
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中将姫は、練供養の登場人物の中で唯一、生身の人間が演じていない。中将姫のお面をかぶって歩くのはちょっと面白すぎるから駄目だということなのかもしれない。そのせいか注目度も高くなくて、主役はダンスする菩薩たちに移ってしまったかのようである。

現世に戻って来るやいなやお迎えがくるというせわしない設定が好きなのだが、これは最近始まったのか、昔からそうだったのだろうか。

そのあと、何らかのご利益があるとされる紙片が撒かれる。
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当然、奪い合うことになるのだが、「図々しくしたもの勝ち」みたいなのって宗教的に大丈夫なの?といつも思ってしまう。
弱肉強食の世界に嫌気が差して宗教に入信したとしても、競争から逃れることはできないのだろうか……。

お待ちかねの25菩薩の登場

そんな寂しい気分を一掃するかのように、イカ状の烏帽子を身につけたDJがブースに入る。
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「YoYo中将姫は滅茶苦茶皺くちゃ継母のいじめを耐え抜き修行に励んだから生きたまま入滅お前らも修行したら生きたまま入滅も夢じゃないmake your dreams come true」的な意味と推測されるお経を唱え始めると、菩薩たちがそろそろと迎えにくる。


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ポロリも見逃せない

わたしが小学生のとき、スター水泳大会という謎のテレビ番組があり、時々水着が脱げてしまうタレントがいたのだが、これがいわゆる「やらせ」であることを知ったのはずっとあとの話である。
それはそうと、練供養でポロリが発生することがある。急遽メンテナンスが発生する。
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こういうときの菩薩の顔はもちろん固定のはずなのだけど、なんとなく困惑しているように見えてしまう。
これこそ仏像の造形の面白さで、どんなポーズをとっていてもその表情がふさわしいように見えてしまうのだった。
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祭りのハイライト、観世音菩薩と大勢至菩薩の共演

最後に観世音菩薩と大勢至菩薩がダンスしながら登場。観世音菩薩は蓮華座で、大勢至菩薩はガッチリと合掌して、中将姫を救済する。こんな頼もしいダンスなんて他にあるだろうか?
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お迎えのメンバーがすべてこの世に着いてしばらくしたら、今度は中将姫が入滅するために、来迎橋を渡って本堂(曼荼羅堂)に向かう。

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そして25菩薩も後に続く。
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一部の悪質な撮り鉄的なマインドの主がここにも……


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よく剃れた髭である。


……などと思ったら、
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菩薩の一人が謎のポーズ……
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またしてもポロリが発生していたのだった。

エンディングに一抹の不安を覚えてしまうところも含めて必見の行事である

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最後に、おそらく中将姫グッドラック&シーユーネクストイヤーという趣旨のお経を唱えるなか、中将姫はおとなしく帰っていくのだが、このときに流れる音楽は喜多郎先生の『絲綢之路』。
NHKのドキュメンタリー、シルクロードのテーマソングとして知られるが、千年続く中で最も長くても三十五年はこの音楽で中将姫が見送られていることを考えると、その三十倍以上の時の流れをさかのぼるとどんな行事だったのだろうかと思うと胸がときめく。

9年前に撮っていたものを再掲する。


練供養エンディング


若いころは、伝統行事が現代風に超解釈されているのを見かけると嫌な気持ちになっていたものだけれど、最近はそれを楽しめるようになってきた。


練供養が終わるのはだいたい17時半くらい。
1時間半の極楽浄土ショーだが、あっという間に終わってしまうし、写真を見ているとまた行きたくなってしまうのだった。

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ムービー広告には、あらかじめ失敗する仕組みが内蔵されている

今回は広告の話。とあるショートムービーが非難囂々だったことも記憶に新しいが、仮に、ポリティカリーにコレクトだったとしても、ネットのムービー広告には、失敗する仕組みが内蔵されているので、儲かりすぎて困るので損をしたいと悩んでいる企業におすすめである……という話をしたい。


「新しい広告媒体」について考えたとき、あの会社でもこの会社でも、以下のような会話が繰り広げられているに違いない。

A「テレビや雑誌広告以外の広告媒体も開発していかないとねー」
B「そうですね、開発は大事ですよね、わたしも昔はいじられてもくすぐったいとしか思わなかったのですが、開発されるうち、第二の悦び……といいますか、大変頼もしい存在になりました」
A「歳をとってくるとね、第三第四もね、開発されていくよ。それがどこかは人によるね。楽しみにしておきたまえ……それはそうと、新しい媒体といったらネットだよね」
B「そうですね。ツイッターとかで拡散されて売り上げがビンビンですね」
A「ビンビンか……しかし、何を拡散したらビンビンになるかね」
B「映画を作って流すんですよ。無料で映画が見られるなんてユーザーにとってはいい時代ですよね」
A「なるほど……たしかにネットならではの表現だな。TVCMは1回15秒で数百万かかるけど、ネットはより長時間の映像を安価で流すことができる!」
B「時間があるから商品名連呼みたいな下品なのじゃなくて、じっくり見られるものがいいんじゃないですかねー」
A「そうだね、顧客が成長していくような、見ごたえのあるものが……」
B「うん、トライアルでやるものだから、特定の商品を売るのではなくて、イメージ広告として作ってみようよ」

この世には神も仏もない……AにもBにもこれから胃の痛くなる日々が待ち受けているとは気づく由もない。これなら、仕事そっちのけで下品なネタの応酬でもしていた方が会社に利益をもたらすことはなくても、少なくとも損失を与えることはないのでいいのかも……と思うのだが、「新しい広告」→「ネット」→「ショートムービー」という三段論法は自滅する可能性が極めて高い。盛大につけ火されるか無視されるかのどちらか好きな方を選ぶ状況だと言っていいだろう。
前置きが長くなったが、今回はショートムービーの広告が失敗する4つのメカニズムについて考察していきたい。なお、わたしにまったく集中力がないため、メカニズムひとつについて説明するたび、先日撮影したカエルの産卵シーンの写真を貼り、意味不明なキャプションを挿入させていただくことになってしまうのだが、どうかご容赦いただきたい。


(1)物語の冒頭はたいてい心地よくないものである

ノーマルな人間向けに作られた物語は「何らかの困難が生じる→努力したりヒーローが現れたりして解決」という流れで構成されることが多い。「退屈な日常→すてきなハプニング」という流れもあるが、これらのフレームの外で万人にイエスと言わしめる物語を作るのはなかなか難しい。
桃太郎も、おじいさんもおばあさんも金持ちで筋肉ムキムキであったら、桃が流れていても、なんだか尻みたいで笑えるよねと思ったところで話が終わってしまうし、シンデレラが最初からピカピカのオベベを着ていたら、いじめっこたちもたちまち退散し、多くの読者はよかったと安堵するものの、どことなく物足りなさを感じてしまうはずだ。
物語の冒頭は、心地よくないシーンから始め、その不快感を原資にして物語を駆動させるのだが、ムービーの冒頭もまた、心地よくないシーンから始めるしかないのである。

【カエル休憩その1】
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ヒキガエルの雄が雌を刺激して卵を産ませ、そこに精子をかけ、有精卵になる。
同じ体外受精でも、鮭の産卵は、雄も雌もボロボロになりながら川をさかのぼり、雌が生んだ無精卵に白い汁をかける。傍から見ていても何が楽しいのかわからず、つらい気持ちになるだけだが、カエルは見かけ上、愛し合っているかのように見えるのでまだ救いがある。


(2)ユーザーの問題解決ストーリーは、ユーザーが課題を抱えているシーンから始まる

商品を作るときや売るときは、ターゲットとなる顧客の問題解決のストーリーを立てるもので、「顧客の抱える問題が、弊社の商品を手にして解決する」という流れをとる。
これは先ほどの物語の枠組みとまったく同じ構造なのだが、それをそのままムービーに落としこんでしまうと、顧客が問題を抱えて苦しんでいる様子から始まる陰惨なムービーが自動的に出来上がってしまうことになる。「顧客の実感に寄り添うムービーにしよう」などと思ってしまったら、なおひどい。リアリティ満載の地獄絵図から始めることになる。
たとえば、バナー広告で有名な「わたしの年収低すぎ」をムービーにしたものを見たら、おそらく多くの人はつらい気持ちになってしまうだけだろう。

【カエル休憩その2】
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雌がやたらと動き回って他の夫婦の産んだ卵を踏み越えていたのだが、雄が、こっちにもかけておくかと別の雌の産んだ卵に精子をかけたりすることはないのか、非常に心配であるし、ぼくがカエルの雄なら絶対にそうするだろう。



(3)顧客は広告を見るのが嫌いである

ここまでの話なら、「冒頭が不快でも、それはこのあとの展開でハッピーエンドになるのだから問題ないではないか」と思うかもしれない。もちろん、映画ならまったく問題はないのだけれど、これは企業の広告なのであり、顧客にとっては、見たいどころか、できれば見ずに済ませたいコンテンツなのである。
たとえ1分のムービーであったとしても、残念ながら、冒頭から見る人の数は減る一方。ムービーの出来がよければ減少の度合いがゆるやかになるかもしれないが、それでも何割かは冒頭の陰惨な描写を見て見るのをやめる。先ほどのセオリーに従って作ったムービーなら、離脱した顧客にとっては、企業のネガティブキャンペーン広告を見たのと同じ効果になる。
1分の映像でそうなのだから、毎週5分ずつ連載していき、徐々にハッピーエンドに近づいていくようなムービーについては言わずもがなである。
そもそも、ムービーのターゲットは誰なのだろうか。
15秒のCMで好感度が上がらなかった顧客が、毎週5分ずつチャンスをくれるはずもなく、最後まで見た顧客はもともとムービーがなくても好感を持ってくれている顧客にすぎない。つまり、優良顧客に火を飛び越えさせてやけどの度合いを確認するという、世にも奇妙なスペシャルコンテンツを作っているのである。


……などと文字だけで語ってもわかりづらいので、顧客の数と時間、印象の関係の概略がわかるグラフを作った。
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―つまり、作品として3話作ったとしても、視聴者の総数で考えると、「ひどいムービー」と思う人の方が多数派になる仕組みなのである。
1話にまとめたとしても、最初から見て、徐々に見るのをやめていくという構図は変わらない。
ここで「最後まで見て作品のよしあしを評価してほしい」とお願いすることはできなくはないが、そのお願いを聞いてもらえるかは非常に怪しい。
視聴者には企業が倫理的でないことを糾弾する権利があるが、企業には、視聴者が倫理的でないことを糾弾する権利は事実上ないのである。


【カエル休憩その3】
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上を向いて産卵中。このように撮ると、次の世代へ思いを馳せながら産卵しているように見える。
わたしは日本カエル組合(略称日カ組。日教組と並んでミスターアベの二大お気に入り組合である)からイナゴ三匹で買収され、イメージアップに努めているのである。


(4)「ツイートしやすさ=燃えやすさ」でしかない

これらの困難を乗り越えることができたとしても、最後に待っているのは、ガソリンまみれになったツイートボタンである。ムービーの評判がよくても、見て「まあいいんじゃないの」とそのまま別のコンテンツを見るだけでいっこうに広まらない。なぜなら、「いい話」よりも「いやな話」に人は注目するからで、それを一番よく知っているのは、ほかでもないムービーの製作者のはずである。なぜなら、冒頭で「いやな話=ユーザーが課題をもって悩んでいる状態」を描くことによって注意を引こうとしたのだから。

【カエル休憩その4】
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かくして、産卵が終わり、受精卵ができあがった。哺乳類の出産シーンならそこそこ感動するのだが、カエルの産卵については、「この小さな身体からこれだけの卵を出すなんて、頑張り屋さんやなー」と感心はするものの、感動はない。
ウミガメだと涙を出したりすることで人間になぞらえることができるため、カエルにも、ウミガメの出産時の涙に匹敵するキラーコンテンツをお願いしたいところである。


以上、ムービー広告に内蔵されている失敗のメカニズムについて説明したが、もし運悪く、ムービー係に任命されてしまった場合、そこでできる努力は、せいぜい「誰にも着目されない」起伏のない物語を作ってつけ火されぬようにすることくらいで、仮にアクセス数が自分のブログより少なくなってしまっても、燃やされて社内事例集に入れられ語られ居づらくなって退職届をしたためたりするのに比べれば、ずっと幸せ……と思うしかないのである。


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渋谷駅から徒歩10分。買い物帰りに行ける熱帯ジャングル「渋谷区ふれあい植物センター」で、季節外れの夏休みを満喫する

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あと一か月ほど寝たり起きたりしたら春がやってくることは確実だが、実際のところ、寝たり起きたり以外のこともしなければならない。
そう思うと、さっと南の島にでも行きたいと思ったりもするが、南の島に行く旅を準備する気力は、もうすこし日照時間が増えないことには養えず、暖かくなってきたらきたで、東京も南国で、自然も少なくないし、なかなかのものだと思い、ついに南の島に行くことはない。
この季節、休日はさっさと買い物を済ませて家に帰ることが多いのだが、渋谷駅から10分ほど歩いたところにジャングルがあるのを発見し、わたしの暗黒の買い物生活に光が差したのだった。


渋谷の歩道橋まわりもよく見ると楽しい

渋谷の東口を出て、歩道橋をのぼる。
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JR渋谷駅、山手線内回りのホームと同じ高さになっていて、電車を待つ人たちと向き合える場所がある。ただそれだけなのだが、ここでしばらくぼんやりして、電車を待っている人に想いを馳せるのも楽しい。
内回りといえば目黒方面で、目黒といえば寄生虫館。行ったら数週間はお刺身を凝視したりすることになるので、それなりの覚悟が必要である。

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渋谷川が見える方向に向かう。
この渋谷川こそが、渋谷をかつて谷たらしめていた川なのだが、渋谷を谷にしている川が渋谷川と呼ばれているのはなんともウロボロス的である。

この川の先には常に一定の行列がある。「牛かつ もと村」の行列。
牛カツはわたしの頭の中では、マグロステーキと同じ引き出しに入っている。「牛肉をカツにするなんてもったない」という謎の背徳感があるので、本格的な牛カツを食べたことがない。


明治通りを恵比寿方向に向かって歩く。
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東急線の高架の撤去が進められているが、つい先日までこの上を電車が走っていたとは思えないほど寂れている。
定年を迎えたとたん老けこんでしまった元会社役員のような風情である。


10分ほど歩くと「ふれあい植物センター」に着く

交番の前の橋を渡ると、目的の「ふれあい植物センター」がある。
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冬なので、悪趣味の王様である花キャベツによるお出迎えである。

外からも、温室の様子はよくわかる。
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「出して~~~~!!!」とせがんでいるように見える。


館内に入ると、突然の来客に驚いた空気が漂うこともあるが、すぐ体制を立て直してくるので、入場料100円を笑顔で支払えばよい。
コインロッカーなどはないが、中にベンチ状のものがあり、そこにコートなどを置いて身を軽くし、イマジネーションを働かせることができれば、もうそこは熱帯のジャングルそのものである。

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温室の入り口で、「鍋島松濤公園かいぼりコーナー」による歓迎を受ける。
鍋島松濤公園は、渋谷駅を挟んで文化村の向こうにある、池つきの公園。「かいぼり」とは、池の浄化のために、いったん水抜きをして干すことを指し、「コーナー」とは、一区画の意味である。


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ピラニアがあると、「え?渋谷にピラニアが?」と、うれしさ半分恐ろしさ半分の気持ちになるが、関係ないようで、半分ほっとして半分残念な気持ちになる。
「意外に憶病」という解説での擁護も虚しく、5匹いたが共食いで2匹に減ったとのこと。
なお、かいぼりでワニガメが見つかったらしく、ここで公開予定とのことで、カメファンとワニファンは注目。


また、しぶやホタルの郷というコーナーもあり、冬は単に草がちな水たまりだが、夏はちびっこで大盛況のようである。
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いまはヌマエビ的な生き物が地味に集合している。彼らも共食いが好きだから要注意。


運がよいと、スプリンクラーから水が出るところを拝むことができる。
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雄の鮭が卵に精子をかけているところに似ている。

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中央にはバオバブが植えてある。
バオバブらしさがまだ感じられないところが残念である。
バオバブらしくなるまでこの植物センターが存続することを祈念し、わたしが実際に旅行で見てきたバオバブの写真を貼っておく。
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あかんあかん……ここは渋谷なんや。

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中央には水槽を囲むようにして椅子が置いてあり、ここに座るとたちまちジャングルにいる気分になれる。
10分前は渋谷駅で人ごみに揉まれていたというのに、ワープしたかのようだ。



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よくバナナの実は男性器に喩えられるが、バナナの花も負けてはいない。


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ラフレシアは当然ながら模型での登場となるが、「模型でもいいから大きさを知らしめてやろう」という気迫十分である。
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頭がよくなるサボテンとのことだが、育てると頭がよくなるのか、見ると頭がよくなるのか、食べると頭がよくなるのか、詳細は不明。
見て頭がよくなるのであれば、この写真を凝視すれば事足りるだろう。


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このシダ植物は、見ての通りの名前で、クロコダイルファーン。


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とくに珍しくはないが、アンスリウム。
やはり角度が芳しくないと虫も寄ってこなかったりするのだろうか。


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若者と老人。


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紹介する植物がやや偏っているような気がするので、調整のために、ナミブ砂漠のみに自生している「奇想天外」という希少植物を紹介しておく。
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2枚の葉しか持たず、1000年以上生きるという、その名のとおり不思議な植物だが、それだけではなくて、根元が非常によい感じで、棒のようなものが目立つ熱帯植物園で穴のようなものを見せ、気を吐いている。
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二階ではだいたいちびっこがDSで遊んでいる

階段をのぼる。

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二階では、無料で入場できる子供たちがDSで遊んでいることが多く、じゃまに思うかもしれないが、彼らが二人で老人ひとりを養わねばならない未来に想いを馳せると、せめていまだけではせいぜいゲームでもして楽しんでよ、と思え、若くない者たちは、階段の上からぼんやりと全景を眺めるのがよいのだろう。なお、わたしは角度を工夫して撮ったので、自然に子供のプライバシーを保護できているという点にも着目してほしい。


奥には、図書コーナーや、オカンアート的なコーナーがあり、座れる場所があり、休憩することも可能である。
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どんぐりの実の果皮を頭髪に見立てたくなる気持ちは理解できる。

屋外のおさわり自由のハーブ園も見逃せない

3階の奥の扉を開けると、屋外のハーブ園がある。屋外といってもベランダ感しかないが、ハーブが触り放題なのがうれしい。
かつて「スーパーでは魚が切り身で売られているので魚を知らない子が増えている」という説を唱える人がいたが、タメを張って、「スーパーでは細切れになって調味料のビンに入った状態で売られているので、生えているハーブの姿を知らない子が増えている」という説を唱えたいが、よく考えてみれば、子供はあまりハーブを好まない生き物だ。


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これはオレガノ。


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これはレモンバーベナ。ほかにもレモングラスなどの、「そんなにレモンが好きならレモンの果汁を使えばいいのでは」系のハーブも充実。
わたしはレモンよりもレモンN(Nは任意の文字列)の方が好きだけれど。

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屋外はビルが並んでいて、ああ、やはりここは渋谷であるということに気づく。
そのあと、また温室に戻ると、サウナ→水風呂→サウナ的な気分になれるのだ。


この「ふれあい植物センター」の素晴らしいところは、比較的遅くまで開いているところで、最終入館は17時半。
温室といえば、神代植物公園の温室が工事中である今、代替温室としても注目である。


植物センターを出て帰途につく。
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交差点の向かいにはコンパクト稲荷がある。鳥居の左に社があり、コンパクトすぎてユーモアが漂う。
面積が取れないが豪華な神社を作りたいと考えている神主様に参考になるレイアウト例かもしれない。

30分もいれば満足してしまう、こじんまりとした施設だけれど、渋谷駅から歩いて行ける距離に植物センターがあることは覚えておいてもよいだろう。

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宗派が乱立する半熟ゆで卵の製法を統一。簡単&短時間&失敗なく半熟卵を作る方法と、ゆで時間と仕上がりの比較写真

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ココロ社のクッキングコーナーを始めようと思うが、まず半熟ゆで卵の作り方について書きたいと思う。
たかが半熟ゆで卵といえども、その製法にはいくつかの宗派がある。たっぷりのお湯でゆでる宗派もあれば、少量のお湯で蒸す宗派もあり、後者が最近のトレンドのように見える。
それぞれの製法の妥当性を卵20個以上をゆでて検証し、短時間ででき、手間もかからず、安定して作る方法を確立したので報告させていただきたい。
失敗作も含めてスタッフ(=自分)がおいしくいただいたため、正直言って、しばらく卵を見たくない気持ちになってしまったのだが……。
最初に試行錯誤の末の結論としてのレシピを記しておき、なぜこの結論に至ったかについては、それぞれの宗派の言い分と合わせてその後に記しておく。

【準備するもの】

たまご…1~5個(常温ではなく、冷蔵庫にあるもの)
水…100cc


【製法】

(1)鍋に100ccの水を入れて強火で沸騰させる
(2)沸騰したら火を止めて、可能な限り静かに鍋の底にたまごを置く
(3)鍋に蓋をして中火にし、7分間ゆでる(何分ゆでるとどうなるかの比較は本文を参照)
(4)鍋にそのまま水を入れて1分間水を流し続ける
(5)水の中で剥く


・熱が回せればお湯は少なくても問題ない
「1リットルの水に卵4つ」と「5リットルの水に卵1つ」と「100ccの水に卵1つで蓋はしない」と「100ccの水に卵4つで蓋をする」で比較した。結果は「5リットルの水に卵1つ」がやや柔らかく、「100ccの水に卵1つで蓋はしない」は、一部に熱が回らず白身が固まらない状態になった。水の量が多いと、強めに加熱しないと、かえって水の量が少ないときより水温が下がってしまうので、たっぷりのお湯でゆでるのは得策ではないと思われる。また、水の量が少ないときは蓋をしていないと、鍋の中の温度を保つことができない。


・水を100ccより減らすのはハイリスクローリターンである
蓋をして蒸す流派では、極端に水の量を少なくしているものもある。たしかに、水の量は少ないほど、調理時間が短縮できるのだが、最低限のリスク回避策は講じておきたい。卵ができるまでに水が蒸発してしまったら惨事が起きてしまうので、保険として100cc用意した。この量なら、沸かすまで1分もかからない。
なお、中火で100ccの水を温めて、完全に蒸発するのがおよそ10分である。


・ゆで時間を計測しやすいよう、お湯から卵をゆでる
理論的には、急激に熱するよりも徐々に熱した方が殻が割れにくいのかもしれないが、水からゆでる場合、もとの水温の温度差が夏と冬で20度近く異なり、夏と冬で別のゆで時間を設定しなくてはいけないので面倒である。また、常に冷蔵庫から出した卵をゆでるのも同じ理由である。夏と冬の常温にはやはり20度近くの開きがあるからだ。


・割れた卵のリカバリーは困難。割れていない卵を割れないよう扱うしかない
蒸すのではなくゆでる宗派では、割れた場合のリスク回避として塩を入れることが多い。
塩分濃度を高くしておけば、塩がタンパク質の凝固を促進するため、殻から外部に白身が露出しないからである。実際、かなり大きな割れ目を作ってみたが、被害はこの程度でおさまる。
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では、ひびの入った卵を、ゆでるのではなく蒸したときはどうなるかというと、どんなに塩を入れてもこの有様。
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「黄身ってこんなに自由な形で固まれるんだな」と感動した。

―つまり、割れた卵をどうしてもゆで卵にしないといけない必然性のある人に限っては「塩水でゆでる」という道を選択すればよく、割れていない卵を使えるのであれば、やはり蒸す方が時間短縮になる。
また、お湯が沸いているところに卵を置くとき、やけどをしたくないからと、乱暴に置いてしまいがちである。卵を落ち着いて鍋に置くために、いったん火を止める工程を入れている。


・1円節約したいなら余熱を使う手があるが、手間と時間がかかる
蒸す派は、途中で火を止めて、余熱で調理し、ガス代の節約することをすすめるのだが、余熱だから温度がさがり、加熱し続けたよりも数分時間がかかる。これで節約できるガス代は1円前後。
また、加熱する→余熱で蒸らす→水をかけるの3ステップの手間を取るよりも、加熱する→水をかけるの2ステップの方が楽でもあるので、余熱を入れないことにする。


・エッグパンチと、「水の中で剥く」はおよそ同じ効果
卵の殻を楽に剥くためにエッグパンチという文明の利器がある。
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寂しいので、愛用中の無印のキッチンタイマーにも友情出演していただいた。
ダイソーなどで売っていて、裏に磁石がついていてホスピタリティ満載のスグレモノ……なのであるが、このエッグパンチでなぜ剥きやすくなるのかというと、小さな穴を通じて中の二酸化炭素を逃がすことができ、殻と卵の間に空洞ができる……という仕掛けらしいのだけれど、水の中で卵を剥いたときの剥きやすさとさほど変わりはないように思われた。卵の内側にある膜の剥きやすさについては、水の中で剥くかどうかの方が剥きやすさに大きく関与しているのではないかと感じたので、結局使っていない。


・時間とゆで度合いの比較
ネットでよく見かけるゆで時間の比較写真だが、断面を上から撮影しているので、黄身がどれくらいの硬さなのかが想像しづらい。それだけではない。真上から撮ったヌード写真を見て満足する人間はどれくらいいるのだろうか……。
そこで、皿に載せて切った直後の様子を写真に撮った。なお、熱を十分に回せるという前提なら、水の量や卵の量の多寡を問わず、この結果になる。


【5分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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黄身がほぼ液体だが決して生ではなく(「粗にして野だが卑ではない」に似た言い方)、加熱した黄身のうまみは感じられる。



【6分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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黄身の外周が少し固まってきて、中心部も少しとろりとしてきたが、黄身のこってり感がもうちょっとあったら最高だなと思った。


【7分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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これは袈裟を着ているラーメン屋の半熟たまごくらいで、袈裟を着るメンタリティは好きではないものの、コスチュームがない(≒プロモーションに無頓着である)店と比較すると、平均値としてはおいしいのではないかと思っている。


【8分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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これは袈裟を着ていないラーメン屋の半熟卵。黄身は最低限固まっていてほしいと思う人はこの時間がよいと思うが、個人的には黄身の周辺が若干パサついているところが不満。


【9分ゆでた(蒸した)卵先生、生涯最初で最後の晴れ舞台】
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ここまでくると、黄身が固まってくるばかりでなく、白身が固すぎるように思うのだが、昔はこれくらいを「半熟」と呼んでいたような気がする。



わたしはここで「7分」を選択したが、この写真を目安にしてお好みのゆで加減を発見していただければ幸甚である。


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「ダサピンク現象」は、男女の問題ではなく文化的差異の問題である


はてな界隈でのみ話題になっている話はなるべく扱わないというのがこのブログの方針である。はてなユーザー以外の人にも読んでもらいたいからで、はてな界隈で話題になっている話を扱いたい場合は、より一般論として読めるようにテーマを変えて書くようにしている。
ただ先日、ピンク色のプロダクトが多く見当たるという一般的な事象について記事を書いたときに、あくまでもその一部として「ダサピンク現象」について言及しただけで、もう書かない方がいいなどというご意見を頂戴した。つまり、もっと書いてほしいと思っているのに、それが素直に言えないのである。
今回は、そんな愛くるしい方々の熱いリクエストにお答えし、心をこめて「ダサピンク現象」についての考察をしていきたい。

「ダサピンク現象」の定義とその具体的な事例

はてな界隈で話題になっている「ダサピンク現象」は、どのように定義されているかをまとめておこう。
「ダサピンク現象」とは

「女性ってピンクが好きなんでしょ?」「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」「女性って恋愛要素入ってるのが好きなんでしょ?」など、男性の、女性蔑視的な思いこみから作られた「女性向け」プロダクトが世にあふれている現象

としておくと適切だろうか。「ピンク」というのは象徴的な事例にすぎず、ピンク色でなくても、男性の女性蔑視を含んだ思いこみから作られているかどうかが最大のポイントである。男性の思いこみから作られていないものや、男性向けの黒ずくめのプロダクトについても「ダサピンク現象」に含むのであれば、そもそも男女の話は関係なく、マーケティング一般の話でしかない。単純に「ダサ現象」と呼べばよい現象になる。「ダサ現象」については、「たしかに、マーケティングをしないと的外れなものができるよね」と思うだけで、それ以上の感想はない。それをわざわざ、「ダサピンク現象」と名づけるのはミスリードにすぎないので、ここでは扱わない。

定義を確認したところで、「ダサピンク現象」の事例を挙げてみよう。
下記のような、「女性ってピンクが好きなんでしょ?」「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」「女性って恋愛要素入ってるのが好きなんでしょ?」的なバイアスによるものがあげられる。

・自動車:女性に受け入れやすい、丸い、かわいいフォルム
・ノートパソコン:商品名が「○○キッス」
・ノートパソコン:女性が好きそうな、星占いのソフトがインストールされている
・体温計:機能だけでなく、デザインも女性向けにピンク色をあしらってパッケージも花柄に
・美容家電:ふつうの家電は角張っているが、女性向けに丸みを帯びたデザインを採用

念のため書き添えておくが、わたしはこれらを「ダサ」いと思っているわけではない。一部の人が使う「ダサピンク現象」の定義を具現化したものが、これらのプロダクトだろうと言っているのである。
これらのプロダクトが、実際どのように作られていくのか、実態に沿って考えていこう。

プロダクトを「ダサピンク」にしている人が仮にいるとすれば、社員やデザイナーである

プロダクトを作る際、さまざまな色がある中で、どの色にするかを絞らなくてはならない。ピンク色のものを作るとしても、ピンク色にも好みがあるからと5色のピンク色のプロダクトを出すわけにはいかず、ボリュームゾーンにあるピンク色1つを選択せざるを得ない。デザインについても同様である。その選択の結果が気に入らない人は、なぜこの色(あるいはデザイン)を選んだのかと疑問に思うかもしれないが、それは単純に、「マーケティングの結果として一番売れそうだから」である。プロダクトについて決定権を持つ人たちは「ここで俺の女性への偏見を十分に反映させたダサいプロダクトを作って会社を潰したるで!」などとは決して思っておらず、マーケティングが雑なときもなくはないにせよ、「多数派の女性に受け入れられたい」と思っているはずである。

プロダクトについての決定権を持つ管理職はプロダクトの細部にまで指示を出す暇もスキルも持ちあわせていない。「ダサピンク現象」の存在を主張する人は、管理職がどの色のプロダクトを作るか、CMYKの値をあーでもないこーでもないと考えて、「どっちがCでどっちがMだったかすぐ忘れちゃうんだよなー」などと独りごちたり、DICのカラーチャートを指に唾をべったりつけながらめくったりしているとでも思っているのだろうか。実際、プロダクトの色やデザインについての管理職の関与の度合いは、「女性向けの企画を持ってきて」と命じ、それが女性向けかどうかをデータを見て決める程度で、細かく言う管理職でも、せいぜい「ピンク色にしてほしい」と指定するくらいだろう。「CMYKは0/70/6/0にしなさい」などと細かい色指定をするはずもない。ピンク色にしていれば管理職が満足するのだから、社員やデザイナーは、より多くの女性に好まれるピンク色を調べてプロダクトに反映させることで帳尻を合わせることができるし、上司も顧客も満足するはずなのである。上司が、わざわざ「ダサくして」と依頼しない限り、現場がデザインの溝を埋めにいくものだ。
「ダサピンク現象」の実際にあった例として、『「ピンク=女性向け」?』というツイートのまとめ記事がよく参照される。ここで語られている事例については、「そのおっさん(デザイン業)」と書かれていているところから考えると、自分の得意分野だと張り切って細かく的外れな指図をしてしまったのだろうし、そもそも、発端となった人も、自分が推すデザインを「ニッチでも確実に需要があるとこは攻めるべき」と言っているのだから、ニッチであることは自覚しているようである。単に、ニッチな市場を狙うのは仮にローリスクであったとしてもローリターンだから事業としてはやる意義が薄いと考えていたのかもしれない。

プロダクトにセンスが感じられるか否かは、細部の色やデザインをどうするかに大きく依存するが、そこには外注先のデザイナーや、それをチェックする社員の関与度が大きい。「ダサピンク」は会議室ではなく、現場で起きているのである。「ダサピンク」なプロダクトがあるとしたら、その主犯は社員やデザイナーであり、そこに若い女性が一定数含まれていることは言うまでもない。

「ダサピンク現象」は、実は男女の話とはあまり関係がない

「ダサピンクと感じられるプロダクトの背景には常に、男性管理職の女性蔑視を含んだバイアスが反映されている」という説について、誰にでもわかる反証を挙げるなら、ただ単に「女性が開発したプロダクトにもダサピンクと感じられるものがある」ことを示せばよいはずである。
実はこの記事内ですでに反証を示している。今回「ダサピンク現象」の事例としてわたしが挙げたプロダクトは、すべて、女性チームが開発した事例である。また、冒頭の写真も同様である。男性管理職が云々というのが、偏見にすぎないことがおわかりいただけたのではないかと思うし、それでもなお、男性管理職のみが「ダサピンク」なプロダクト作りに邁進していると言いたいのであれば、個別に「ダサピンク」だと思う事例について、どのようなプロセスで開発されたのか、すべてが男性管理職によるゴリ押しで作られたのかを調べてみるとよい。また、そのプロダクトの売れ行きを確認してみるとよい。
「まさかこんなに自分の気分にフィットしないものを同じ性別である女性が作るわけがないし、女性に売れるわけがない」と思う女の人もいるかもしれないが、文化的差異はときに性差よりも広がりを持つことがあることは周知の通りである。

「女性ってかわいいのが好きなんでしょ?」という偏見を批判するのであれば、「男性って女性の意見を聞かずにゴリ押しするんでしょ?」という判断が偏見でないかどうか、十分に検討すべきだったはずだ。的外れな子供向けのプロダクトがあったとして「きっとこれは子供のいない管理職が決裁したのだろう」などと書いたら問題になるはずだ。いかに的外れであるかの話に集中すればよいのであって、その管理職の性別などのバックグラウンドについて言及するべきではないのは言うまでもない。

「ダサピンク」が目につくのは、それが人気だからである

先ほど挙げた、女性チームが作ったプロダクトは、実際のところ、市場に受け入れられているものもある。そもそも、「ダサピンク=女性に売れない」のであれば、「ダサピンク」なプロダクトは市場原理によってあっさりと駆逐されているはずだし、もし女性のニーズにアンマッチなものが一時的に目につくことがあっても、市場原理に任せておけば、その発案者もろとも消えていくはずなのだ。もし、「ダサピンク」なプロダクトが頻繁に目につくのであれば、それらはセールス的に成功をおさめているということになるはずだ。まさか、オッサンのファンタジーのために、赤字覚悟で売れないデザインのものを無理に作り続けていたり、的を得ないデザインの製作費のために、「オッサン慰労費」という、特別な勘定科目があったりするとでも言うのだろうか。
つまり「ダサピンク」なプロダクトが街にあふれているのはなぜかというと、それが「ダサ」くないからか、あるいは、多数派が「ダサ」いかのどちらかである。

「ダサピンク」=女性の最大公約数の具現化だから、一部の人には「ダサ」に見えてしまう

長々と書いてきたが、「ダサピンク」と言われているものの実態は何なのかというと、「女性の嗜好の最大公約数を具現化したもの」なのである。それは大量生産のプロダクトの宿命であり、平均的な女性の感性から(優劣ではなく、単純に距離が)遠くにいる人にとっては「ダサ」く見えてしまうのは当然のことなのだ。以前も書いたが、自分のタイムラインに「ダサピンク」が好きな人が見当たらないのは、自分のタイムラインにEXILEのファンが見当たらないのと同じ現象にすぎない。
女性の好みが細分化される傾向があるというなら、いっそう「ダサ」いと思う人も多くなってしまうだろう。選ばれた1つのピンク色について、「このピンクは薄すぎる」という人がいたかと思えば、「このピンクは濃すぎる」という人もいて、「いやいやピンクは好きじゃないから」という人もいて、「わたしは別にデザイン性は気にしないし…」という人も出てくる……という状況が起きているのである。


以上、「ダサピンク現象」を語るにあたって、男性/女性という対立軸が適切ではないことを示してきた。「ダサピンク現象」が問題であるとするなら、文化的差異を軸に話をすすめなくてはならない。その詳細について語るには、いわゆる「マイルドヤンキー」論なども参照せねばならないが、また回を改めて書こうと思う。


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衰退しつつある産業がやりがちな「お説教広告」について

テクノロジーの進化が、かつて栄華を極めていた巨大企業のビジネスモデルを成り立たなくさせてしまうことがある。たとえば郵便。物流はなくてはならないが、信書について考えてみると、手紙を出すメリットはほとんどない。手書きだと温かみがあるような気がするが、別にLINEで暖かいメッセージをクリエイトすることは可能であるし、手書きの手紙をもらったら手書きで返さなくてはいけないような気がして、むしろありがた迷惑という気もしなくもない。手書きで手紙を書くのなら、往復ハガキで、返事も書いておいてほしいし、それが本当の礼儀というものではないだろうか……などと妄言を吐きたくなってしまうほどに信書の電子化は不可避であり、ドル箱であったところの年賀状もまた、衰退の一途を辿っている。


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先月の話だが、電車を降りたら不意打ちに遭った。
つまりこれは、「年賀状を出して、ちゃんとした大人になりなさい」という意味である。しかも、高齢のタレントさんに言われるならスケールの小さな遺言だなと思うだけだが、若いタレントさんに言われていて、「若者でも年賀状を出すのにあなたときたら……」と言われたような気持ちになってしまった。たしかにわたしは「あなたときたら……」と言われるようなオッサンなのかもしれない。ジャケットはかろうじて持っているが肩パッドが入っていない。「Tポイントカードお持ちですか?」と聞かれても、Tポイントカードが丸出しになっている財布を見せながら「大丈夫です」と答えてしまう。しかし、電車を降りるときくらいお説教プレイは控えていただかないと、電車とホームの間に足がはさまってしまい、そのショックで失禁して「助けて!やっぱり助けに来ないで!」というアンビバレントな気持ちになってしまう危険性があるのだ。


また、撤収してしまった某書店の女性向け文庫本フェア、「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」が、ソフトな口調ながらお説教プレイじみていて、女性差別の問題でもあるのだが、これもまた、かつて栄華を極めていた文庫本が売れなくなってきたからという背景があるからだった。


いまとなっては顧客にとってメリットが目減りしてしまった商品やサービス。顧客に「これを買うとこんないいことがありますよ」と訴求することができなくなってきたら、道徳や教養や伝統という実態のない概念を持ち出したくなってしまい、ついついお説教じみてしまうのかもしれない。しかもかつては栄華を極め、殿様気分が抜けていなければなおのことであるが、顧客を不快な気持ちにしてしまったら元も子もない。


なお、このあと発生しそうなお説教広告を考えたので、ビジネスモデルに不安を抱えていらっしゃる企業のご担当者様におかれましては参考にしていただきたいと思う。

・書店「ネットを見るより本を読むのが大人だよね」
・電話会社「メールよりやっぱり直接通話するのが礼儀だよね」
・旅行会社「写真を撮るより風景にひたるのが人間らしいよね」
・百貨店「安物買いの銭失いって知ってます?」


今回のようなお説教広告を目にして、わたしはひとりのサラリーマンとして、「お客様は神様ではないにせよ、下僕でもないし、そもそも仕事中に性的な戯れをしてはいけない」という、当たり前の教訓を得、ズボンのチャックが締まっているかを改めて確認したのだった。


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